新装版「香菜里屋シリーズ」完結記念! 「もうひとつのあとがき」特別公開
文字数 1,526文字
人生に必要なのは、とびっきりの料理とビール。それから、ひとつまみの謎――。
「短編の名手」と謳われた北森鴻氏による、ビアバーが舞台の連作短編集「香菜里屋シリーズ」。ミステリー史に輝く名作は、著者の早すぎる逝去から10年以上が経ってなお、多くの人々に愛され続けています。
新装版の刊行開始以降、大きな反響を呼んでいる本シリーズは、6月15日(火)発売の『香菜里屋を知っていますか』で完結を迎えました。それを記念し、北森さんが執筆の裏側を明かした貴重なエッセイ「もうひとつのあとがき」を特別公開いたします!
もうひとつのあとがき ――『花の下にて春死なむ』
「IN★POCKET」2007年9月号収録
※本エッセイは、文庫旧版『花の下にて春死なむ』刊行時に執筆されたものです
今回、講談社で文庫化される連作作品集、『花の下にて春死なむ』は、作家・北森鴻にとってあらゆる意味で思い出深い一冊といえる。元本が上梓されたのが三年前。そして翌年、この作品で第五十二回日本推理作家協会賞をいただいたのだから、思い出深いどころの話ではない。が、それだけではない。極めて私的な部分でいくつもの思い出を抱えた作品でもある。
北森が長編ミステリでデビューしたのは、一九九五年のことだ。東京創元社主催のミステリコンテスト――鮎川哲也賞――に応募した作品が、幸いなことに賞を受賞したのである。「花の下にて~」の表題作は、受賞第一作として書かれたものだ。
その当時のことを思い起こすと、今でも脇の下あたりに冷たい汗の感触を、北森は感じずにはいられない。賞を受賞するという報(しら)せを受け、ついては受賞第一作を書くようにと依頼されるとほぼ同時に、所有のワープロが壊れてしまったのである。自らの恥をさらすようだが、その頃の北森には、ワープロを修理に出す資金も、ましてや新たに買い換える資金も持ち合わせてはいなかった。要するに、情けなくて笑ってしまうくらいに貧乏だったのである。かといって編集プロダクションに勤務していたライター当時から、すでに執筆はワープロもしくはコンピュータで行っていた。
自筆原稿など何年も書いたことがない! などというのはお間抜けな言い訳にすらならず、渋々原稿用紙にシャープペンシルを武器に立ち向かったのだが、これがまた難行だった。機械による漢字変換に慣れきった脳髄はすでに漢字を書くという作業のイロハを忘れ果てている。国語事典を片手に、なんでもない単語を手動で漢字に変換しながら、辛いというよりは情けなくなったことを今でも思い出す。冷や汗の思い出というよりは脂汗の思い出だろうか。
九十枚近くの原稿をひと月かけてようやく仕上げたものの、本来ならば作家の自筆原稿であるから「玉稿」と呼んでも差し支えないはずの原稿の束、その字面のあまりの拙さには、涙すら流れそうになってしまった。脂汗の思い出・2ですな。
二度と自筆原稿など書いてはいけない。心に誓ったことはいうまでもない。この作品には、そうした極私的な思い出が詰まっている。また一つ恥をさらしてしまった。
北森鴻『花の下にて春死なむ 香菜里屋シリーズ1〈新装版〉』
(講談社文庫、好評発売中)
三軒茶屋の路地裏にたたずむ、ビアバー「香菜里屋」。
この店には今夜も、大切な思いを胸に秘めた人々が訪れる――。
第52回日本推理作家協会賞 短編および連作短編集部門受賞作
春先のまだ寒い夜。ひとり息を引き取った、俳人・片岡草魚。
俳句仲間でフリーライターの飯島七緒は、孤独な老人の秘密を解き明かすべく、彼の故郷を訪れ――(表題作)。
バー「香菜里屋」のマスター工藤が、客が持ち込む謎を解く連作短編ミステリー。