一目惚れのあの子へと続く道は、「僕らしさ」を探す旅路だった。
文字数 5,769文字
「ボーイ・ミーツ・ガール・アゲイン」
女の子が、きらめきを落とした。
「あ」
モップを持ったまま、僕は床に落ちたそれに手を伸ばす。
きらきら輝くそれは、透明な宝石がぶら下がった特徴的なデザインのイヤリングだ。宝石にはカットが幾つも入っていて、イヤリングにしては重い。
「あの」
女の子はコンビニの出入り口へ向かう。背格好から大学生だと推測する。後頭部でひとつに結った黒髪とダッフルコートの後ろ姿に、僕は声量を上げた。
「落としましたよ」
女の子が振り返った。
世界が動きを止めたのかと思った。
時間、空間、あらゆるものが停止して、光すら失われて、そのなかで彼女だけが輝いていた。
彼女は僕の手元に視線を移し、大きな茶色の瞳を丸くした。すらりとした指先で自身の右耳に触れ、次いで左耳に触れ、こちらに近づいてくる。
「ありがとうございます」
鈴の鳴るような声で礼を告げ、イヤリングを受け取って、ほのかに赤い頰を上げ、紅の引かれた唇をきゅっと引き、にこりと笑った。無音の爆発を伴った笑みだった。花が咲いた。満開だ。
綺麗な一礼をして、彼女は去っていく。
輝いていた。世界中にきらびやかな花吹雪が舞っていた。軽快なファンファーレが鳴り響く。ファファファファーン、ファファファファーン。メンデルスゾーンの結婚行進曲。音楽鑑賞の趣味がないため、ふさわしい曲がそれしか思い浮かばない。突風が吹き荒れている。花弁が舞い散っている。
何分そこに突っ立っていただろう。
「おい!」
肩を叩かれて振り返ると、強面の店員が凄んでいた。
「ヘルプのくせにサボってんじゃねぇよ」
僕はすくみ上がり、モップの柄をきゅうと握る。すみません、と頭を下げると、「謝る前に手を動かせ」と言われた。初対面相手に容赦ない人だ。もう一度謝って、床掃除を再開する。
『それが、出会い?』
「そう」
LINE通話中のスマホをスリープにして、僕は応えた。電話の相手は、高校からの友人で同じ大学に通っている中井だ。
久々の電話で、近況報告をしていたところだった。
『それ、いつの話?』
「冬休み明けてすぐだから、先々月」
『ほう、つまりおまえは運命的な出会いを経て恋人ができましたって自慢するために電話してきたわけ? 希望の研究室に配属されて研究テーマは最高なのに教授にこき使われるだろう未来を予見して絶望を味わってる俺に惚気を?』
「違うよ」
自慢の早口でまくしたてられると、苦笑するしかない。
「電話をしたのは、ただ、元気かな、って思っただけ。お互い忙しくて遊べなかったし」
『それはそうだが、なんだ、恋人できました報告じゃないのか』
「残念ながら」
『あれ、そもそもコンビニのバイト辞めたんだろ?』
「いや、同じ学部の子に頼まれて」
『あー、前に言ってたやつか。おまえってほんとお人好しだなぁ』
ガザガザ、と電話口から雑音がする。中井も一人暮らしのアパートにいるはずだが、何か作業をしているのだろうか。
「ごめん、忙しいなら切るよ」
『いや気にするな。俺も今日は休日だ。親友からの電話を無下にするわけないだろ。しかも一目惚れの話を』
「おもしろがってるでしょ」
『まさか。俺が他人の恋路を笑うわけがない、なんて言うと思ったか? すげぇおもしろいことになってて最高』
電話越しに、親指を立てた彼の姿が浮かんだ。僕らは気の置けない仲なのだ。
「中井のそういうところは、いっそ清々しい」
『誤魔化されるよりマシだろ?』
「まあね」
『で、どうだった? レモン味だったか?』
「なにそれ」
『恋は甘酸っぱいレモン味って言うから』
「なんだそれ」
甘酸っぱいレモン味。
「味なんて憶えてないよ」
大学三年生の一月、人生初の一目惚れをした。冬季休暇明けに同じ学部の人に声をかけられ、「俺の代わりにバイトのヘルプ入ってくれねぇかな」と頼まれたのが事の始まりだ。
僕に声をかけてきた彼は成績優秀で、登山とキャンプと弾丸旅行が趣味の野生児みたいな人物だった。外向的な彼と内向的な僕は真反対のタイプだが、ひとり行動を好んでいる点は似ていた。
彼曰く、僕が頼まれたコンビニバイトは、友人のヘルプのヘルプのヘルプ、らしい。最初のひとりが体調を崩してヘルプを頼んだが、了承した人物に急用が入り、回りまわって僕のところへ、というわけだ。
「俺も教授に呼び出されちゃって、どうしても行けなくなったんだ。頼む設楽、明日、飯、奢るから!」
心底申し訳なさそうに言われ、僕はふたつ返事で了承した。コンビニバイトの経験があったし、どうせ暇だったし、彼には借りがあった。一度だけ、寝坊で講義を飛ばしてしまった僕に、快くノートを見せてくれたことがあったのだ。二年前の出来事なので、彼は憶えていないだろうが。
そして何より、僕は、こういった厄介事に慣れていた。
二十一年、設楽学をやってきて気づいたこと。自分がどのような星のもとに生まれたのか。
僕は異常なまでに巻き込まれ体質なのだ。
加えて中井曰く、
『おまえのそのお人好しは、改善の余地ありだと俺は思うね』
らしい。
「僕は中井が思ってるほど善人じゃないよ。今回は借りがあったし、翌日はちゃんとお昼を奢ってもらったし、人並のお人好しです」
『やれやれ、これだからまったく』
わざとらしいため息が挟み込まれた。
『巻き込まれ体質って、苦労人の典型だろ。悪い詐欺に引っかかるなよ。保証人になるなよ。変なグッズ勧められても断れよ』
「そこまで抜けてないって」
『いーや怪しい。自分の欲望より目先の困った人を優先しかねない。確かにその人の好さはおまえらしさだけど……クロダさんを助けたのは天才だし褒めて遣わすけど……』
ぶつぶつ文句を言う彼は、やはり作業片手間のようだ。テレビ番組らしい音声がもれ聞こえる。
「何を見てるの?」
『ワイドショーのにゃんこ特集』
「中井らしい」
同じ大学に通っているが、僕と彼は違う学部に所属している。使う講義棟や学生食堂も異なるので、学内でばったり会う機会はない。交流といえば、休日に一緒にカラオケに行くか、帰省先で居酒屋に行くか、こうやって電話するくらいだ。
『で、その女の子とは、それっきり?』
「うん」
『会えずじまい?』
「うん」
『はー虚しい。失恋でもすれ違いでも倦怠期の悩みでもなく、実りすらしない、芽吹かない種で終わる恋』
「詩的な言い方するよね」
『成就した話を求む』
「僕もできればそうしたいよ」
カーペットに寝転がると、窓から差し込む日光に照らされて、全身がポカポカとあたたかい。さっき食べたばかりのお昼ごはんのうどんが腹に溜まっている。
もうすぐ四月。今日は特別、春めいている。
目を閉じると、振り向いて微笑む彼女が浮かんだ。素敵な人だった。忘れられない。こんな気持ち初めてだ。厚手のロングTシャツの胸元を摑む。今後一生ないくらいの衝撃と甘さと輝きとユーフォリア。
地道な作業が性に合っているコツコツ派の僕は、一目惚れと無縁の人生を送ってきた。それが突然、コンビニの安っぽい床が抜けて、モップごと落ちた先の無重力空間でほわほわして、浮遊状態を保ちながらいまに至る。
「中井は彼女いるでしょ」
『おう』
「高校のときからずっと付き合ってて、どんな感じ?」
『別に、彼女がいるだけ。親友がいるのと変わんないな。人との関係性がひとつ増えるだけだ』
「大人の余裕を感じさせる」
『大人だから』
「加えてロマンチスト」
『うるせーな。実った恋の話を聞かせろ。それともあれか? 俺が実らせるか?』
「ぜひお願いします、先輩」
『よし! そのコンビニを張り込め!』
「明らかにストーカーです!」
『くう、純愛と変態は紙一重。世知辛い』
電話口から、ドンドンとデスクを叩く音がした。
『学の人柄が伝わったら、話は一気に進むと思うんだけどな』
「卵が先か、鶏が先か。話しかけて伝えるのが先か、伝えて話しかけるのが先か」
『わかってもらうためには話しかけるしかねぇじゃん』
「それだと、第一印象がナンパしてきた人になるし、相手に失礼だよ」
『難儀な性格だな』
「難儀な性格なんです」
寝転がったままぐっと伸びをする。七畳のフローリングは、最近掃除をさぼっているせいでちょっとだけ埃っぽい。
あのとき呼び止めればよかった、と思う一方で、呼び止めなくてよかった、とも思う。距離を詰めて相手を怖がらせたり傷つけたりしたくない。
『せっかくの恋を諦めるのか?』
笑って答える。「諦めるよ」
『忘れられないんだろ?』
「忘れられない」
『会いたいんだろ?』
「会いたい」
『藁にも縋る思いなんだろ?』
「うん。けど、一時の感情に身を任せるより、自分らしさを貫いた方が良いと思うことにした」
『もったいない』
「いいんだ」
僕は彼女の顔しか知らない。あのコンビニを使っている、ということは、隣駅の女子大の学生かもしれない、が、確証はない。周囲には私大や短大や専門学校もあるし、学生ではないかもしれないし、たまたまあのコンビニに寄っただけかもしれない。たくさんの可能性があるなかで、彼女ひとりを再び見つけ出すのは、砂漠で宝石の欠片を探し当てるより難しい。猫の手を借りたって無理だ。
運命なんて存在しないんだ、と言いかけたところで、ベランダの手すりにクロダさんが現れた。黒猫のクロダさん(僕命名)。野良猫だ。
身を起こしてクレセント錠を上げ、引き違い窓を開けた。春めいているとはいえ、流れ込んできた空気はひんやりとしている。手すりの上で、クロダさんが「にゃ」と鳴いた。元気そうだ。
『にゃんこ』
「うん、クロダさん」
僕の家で飲み明かした際、中井もクロダさんを見かけている。中井家は家族全員が愛猫家で、実家の一軒家を、五匹の飼い猫のためにリフォームしたくらいだ。
「暖かくなって良かったな」
「だね」
真冬の夜のこと、クロダさんがベランダでにゃあにゃあ鳴いていたことがあった。その日は吐いた息が凍るくらい寒い日だった。野良猫にとっても辛い気温だったのだろう、クロダさんはぶるぶる震えていた。僕は慌てて窓を開けてクロダさんを室内に招き入れ、コタツを提供した(これは中井には言っていないけれど、クロダさんが回復してから、人生初の一目惚れ体験を話した。誰かに言いたくてたまらなかった。返事は眠そうな「うにゃ」だった)。あれ以来、クロダさんはいままで以上に僕に懐いている。その代わりに、僕は大家さんにこっぴどく叱られた。ペット厳禁の部屋なのだ。
クロダさんはさらに鳴いて、ベランダに下りてきた。フローリングに腰を下ろす僕の前で座り、頭を振る。
「あれ?」
口に何かが引っかかっている。
「なんだろう」
『どうした。クロダさんに何かあったのか』
中井に口頭で状況を説明しながら、僕はクロダさんの顎の下に手を伸ばした。クロダさんの機嫌を損ねないよう、「ごめんね」と言いながら、柔く摑んで口を開かせた。歯に引っかかったそれを丁寧に外して掌に載せる。
太陽の光を受けてきらきら輝くそれは、いつか見たイヤリングだった。
絶句していた僕を現実に引き戻したのは、中井の『おいっ』という叫びだ。
『クロダさんがどうした。大丈夫か。怪我か。病気か。いますぐ俺が行こうか』
「いや、その」
事情を説明している間、クロダさんは僕の脚に頭を擦りつけていた。たちまち紺色のスウェットが毛だらけになる。
『どういうことだ、それ。つまりあれか? 運命の巡り合わせ的なあれか? 神の思し召しか? そんな馬鹿な』ロマンチスト中井もさすがに疑る。
僕だって信じられないが、このイヤリングを見間違えるはずがない。コンビニで拾ったきらめき、恋に落ちる音、天使の微笑み、祝福のファンファーレ。一コマ一コマを鮮明に思い出せる。
「絶対にあの子のイヤリングだ。これ重いから落ちやすいんだよ」
『量産品だったらどうする』
「……確かに」
高価に見えるが、実際はアクセサリーショップで大量販売されている手頃なものだったら。その場合、彼女の所持品である可能性は低い。
『よし、わかった。写真を撮って送ってくれ』
言われるがまま写真データを送信した。しばらくして、電話口から『ッシャア!』と拳を握りしめたであろう声が聞こえてきた。
『喜べ学! これ一点ものだ』
「え?」
『画像検索してみた』
中井によると、実物にスマホをかざしたり、画像を読み込ませたりするだけで、ファッションアイテムを探し出せるアプリがあるらしい。最近のバージョンアップでアクセサリーの検索も可能になったそうだ。
『そのイヤリングは“宝石シリーズ”の“クリスタル”だ。ネットで販売されてるハンドメイドアクセサリーで、国産の上質な水晶を使用、お値段もお高め、類似品はなし。持ち主はこの世にひとりだけ』
「つまり」
『そういうことだ。よかったな、まだ終わりじゃない。危ねぇ。これが小説なら冒頭数ページで(了)がつくところだった』
「どうしてこれをクロダさんが?」
『さすがの俺にもわからん。しかし、ひとつだけわかることがある』
「何?」
『にゃんこに罪はない』
「もちろんだ」
クロダさんが僕を見上げ、「にゃあ」と鳴く。アンバーの大きな双眸が瞬いた。
「クロダさん、このイヤリング、」
クロダさんはまた「にゃあ」と鳴いて、軽やかにベランダの手すりに飛び乗った。
「ちょっと、どこ行くの」
そのまますいすい歩き出す。
僕は急いで立ち上がり、イヤリングをスウェットのポケットに突っ込んで、テーブルの上のワイヤレスイヤフォンを片耳に挿した。ロングTシャツの胸ポケットにスマホを逆さに入れる。
『どうした』
「クロダさんを追いかける」
玄関へ向かい、ベランダの窓を閉め忘れていたので引き返した。改めてスニーカーに足を突っ込んで部屋を飛び出す。アパートの通路を抜け、ベランダに面した道路へ回った。
塀の上を歩くクロダさんが、ふたつ先の角を曲がって路地に入っていった。僕は駆け出した。
『おい学』通話はつながったままだ。『追いかけるって、イヤリングを持ち主に返すためか? 下心か?』
「訊くなよそんなこと」
もごもごと答えると、『事実は小説より奇なり』と軽快な笑い声が返ってきた。『奇跡だよ。これは奇跡だ。神様が、世界が、にゃんこが、おまえの味方をしてる』
「そうだといいな」