何事にも夢中になれない僕は、言わば「不燃物」。自分の心は、何に、どうやって動く?
文字数 5,341文字
「燃」
以前「どこまでいっても可燃物は可燃物だから、分別は人間の自己満足だよね」と呟いたら、友人が「そうだけども」と呆れていた。「真顔でボケるなよ」。ボケたわけじゃなかったけど、弁明するのも面倒だったので、「うん」と返した。僕は自分のことを不燃物だと思っている。燃やさないのではなく、燃えない。火が点かない。草木に紛れ込んだ石のようなものだ。熱を持つことすらないのだから、石よりある意味強固かもしれない。そして不燃物は、可燃物にはなれない。
プラスチックや生ごみを一緒くたに詰め込んで、業務用のごみ袋の口をキュッと結んだ。
「静原ごみ行きます」
厨房に声をかけると、店長が寸胴鍋のスープをかき混ぜながら応える。「おう」。振り返らないし、そっけない。
「一緒に行こう、加野さん」
声をかけると、モップを持っていた加野さんが顔を上げた。閑散とした店内の清掃をしていた彼女は、きょろきょろした後でモップを壁に立てかけ、「行きます!」と裏口までやってきた。小柄な体軀に薄いそばかす、髪は黒色のショートカットと、高校生のような見た目だ。大学生活も半年を過ぎて慣れたらしく、今月からバイトに入ってきた。
ふたりで外に出ると、相変わらず、雨がしとしとと降っていた。ごみ捨て場までさほど距離はないし、温かい雨だけど、しっかり降っているので、いちばん大きな傘を傘立てから取って開く。
秋雨だった。早々に夏が追いやられ、まだ九月も半ばだというのに残暑もなく、涼しい日々が続いていた。
「ごみ片方持ちます」
加野さんが言ったので、厚意に任せる。彼女とのごみ捨ては三回目だ。
「バイト、慣れてきた?」
「大変っす」
勤務半月、と言っても、実働は一週間くらいだろう。勤務日が不連続なら業務内容も飛びがちになる。毎日入っている僕と同じように考えてはいけない。
「憶えること多いと思うけど、ゆっくりでいいから。わからなくなったら何回でも訊いて。僕も店長も怒らないから大丈夫」
かつての僕が貰って嬉しかった文言を伝えると、彼女の表情が和らいだ。
「ラーメン屋の店長って、本当にあんな感じなんすね。職人肌というか、寡黙で」
「それ、僕も初日に同じこと思った」
「ですよね。……先輩も、あんまり笑わないから、怖い人なのかと思ってました」
「よく言われる」
「あとBGM」
「ああ、BGM」
「変わってますよね。なんかこう、言葉を選ばず言うと、気持ち悪くなるっていうか、視界がぐにゃあって歪む感じ?」
「三半規管がうねる?」
「そっすね。せっかくラーメンは美味しいのに、もったいないっす」
ふ、と高校生の面影の残る顔が緩む。十八歳の彼女に、二十歳の僕はどんなふうに見えているんだろう。年上の立場だと、二歳差は近く感じる。
小さな雨粒がビニール傘を打っている。時刻は午後十時。繁華街の外れで、あたりは暗い。
こぢんまりとしたごみ捨て場は、路地の中程に設置されている。樹脂塗装された緑色のケースは、ここら周辺の飲食店から運ばれてきたごみ袋でいっぱいになっていた。家庭用ごみを持ち込まれないよう、ふたにダイヤル式の鍵がかかっている。ロックナンバーは53742、ごみなしに。
このバイトを始めてもうすぐ十ヵ月。最初は激務を覚悟して入ったが、思ったより客の入りが少なく、ゆっくり業務内容を憶えることができた。やがて先輩が就職で辞めてひとりになって、後輩が入ってきた。店長も中途半端な人は採らないので、人間関係もすっきりしていて働きやすい。いい社会経験を積ませてもらっていると思う。
ごみ袋を詰めてふたを閉め、ロックをかけたところで、傘を持ってくれていた加野さんが「あれ」と言った。「なんすか」
「どれ?」
「あれ」
ブロック塀とごみ捨て場のケースの間に、黒っぽい箱がねじ込まれている。箱じゃなかった。台形のケースだ。隙間に埋まっていたので、気づかなかった。
「ごみすかね?」
「みたいだけど、袋に入ってないね」
このごみ捨て場を使う飲食店は、どこもロックナンバーを知っているはずだ。専用の袋に入れて捨てなければいけないことも周知のはず。ケースだけでは不法投棄になり、規則に反する。定められたルールの遵守が共有スペースの利用の前提であると、以前に店長が言っていた。
「なんか、楽器のケースみたいっすね」
僕は息を吞んだ。しゃがんで、ケースを隙間から引っ張り出した。質感から革張りだとわかる。存外に重い。
傘を傾げた加野さんが、ポケットからスマホを取り出してライトを点けた。照らされたケースは、黒色ではなく、深い赤色だった。水を吸って、片面だけ変色している。
「なか、入ってます?」
「入ってる」
つまみを回し、ストロング掛金を上げて、ケースを開ける。加野さんのライトが中身を照らす。
ああやっぱり。
ヴァイオリンだ。
ごみではなさそうっすね、と加野さんが言った。僕もそう思った。決して高価なものではないが、相当使いこまれている。
「なんだろ、落とし物すかね?」
「この大きさで?」
「じゃあ、やっぱり、ごみ?」
「ごみなら」僕は間を空ける。「ごみかもしれない」
「どうします?」
僕はしばし考えて、ケースを閉じた。
「置いていこう」
店に戻ると、仕込みの下準備が済んでいた。小柄で痩軀、禿頭の店長は黙々とカウンターに向かい、冊子に何やら書き込んでいる。経営や売り上げに関することだろう。
加野さんはホール掃除に戻った。僕はキッチンの片付けをしながら、ヴァイオリンのことを考えている。胸がざわついている。
作業が終わったので、奥で私服に着替え、店長に挨拶をして、店を出た。『らーめん古門』の看板の明かりは消えていた。雨はまだ降り続いている。加野さんは先に帰っている。店長の家は店の二階と三階なので、帰りは僕ひとりとなる。
ごみ捨て場へ向かうと、果たして、ケースはまだそこにあった。雨に打たれて濡れそぼっていた。立ったままそれを見下ろす。動悸がするのは、急いでここに来たからではない。
「自分のじゃなくて良かったですか?」
低い声だった。顔を向けると、傘を差した女の子が、電灯の下で、片手をポケットに突っ込んで、むすっとした顔で立っていた。彼女はカツカツカツとローヒールを鳴らしながら寄ってきて、僕を強く睨み上げた。
「自分のじゃ、なくて、良かった、ですか?」
良かったのだろうか。わからない。僕はあまり、自分のことがわからないのだ。
「ほっとしてます? 良かったの?」
良かったのかもしれないし、良くなかったのかもしれない。僕は僕のヴァイオリンをごみだと思ったので、捨てた。ケースに入れたままだったのは良くなかった。たぶん回収されないだろうな、と思った。明日には取りに来ないとなぁ。ごみ収集業者の人にとっては傍迷惑なことだったろうと思った。申し訳ないなぁと呟いてみたけど、心底申し訳なく感じていたのかと問われたら、たぶん、そうではなかった。わざわざ家の近くを避け、このごみ捨て場に捨てたのは、ヴァイオリンを捨てるという行為から目を逸らしたかったのではない。単純に公共のルールを破る後ろめたさからだ。実家の近所に捨てたら即ばれてしまうし、アパートの近くは回収業者の声が聞こえるから、罪悪感が増す。
でも翌朝、ここに僕のヴァイオリンケースは無かった。収集されたのか、誰かが持ち去ったのか。とにかく手元から無くなってくれたので、僕は頭のなかでヴァイオリンのことを、〝終わったこと〟の分類箱へ振り分けて、以来すっかり忘れていた。もう一年ほど前のことだ。
「ねえ、静原さん」
なぜか僕の名前を知っている目の前の女の子は、僕と同い年くらいに見えた。綺麗な茶髪にパステルカラーのメッシュを入れていた。深い赤の唇に意志の強さを感じさせる目元と、メイクもばっちりしている。赤を基調としたファッションは、パンク・ロックっぽい。
彼女は腕を組んだ。「訊いてるんですけど」
怒っているようだ。それくらいは、僕にもわかる。どうやら僕が悪いらしい。謝っておく。「ごめんなさい。君は?」
彼女は答えず、雨に濡れた深い赤色のヴァイオリンケースを持ち上げ、僕に突き付けた。
「どうぞ」
「えっと」
「どうぞ!」
僕は受け取った。把手もびしょびしょだったので、右手がじわりと濡れる。
彼女は不満げだ。鼻の頭にしわを寄せ、いまにも「違う!」と叫びだしそうだった。何が違うのだろう。
「どなたですか?」
改めて尋ねると、「トロ」と刺々しい返答。
「とろさん」聞き馴染みのない名前だ。「どんな字ですか?」
「それ、持って帰ってください」
彼女の視線の先には、もちろんヴァイオリンケースがある。僕は首を振った。
「困ります。これ、僕のじゃない」
「そう、私のです」
そこで僕は初めて、彼女がヴァイオリンケースを背負っていることに気づいた。見たことのあるケースだった。
「それ、僕の」
「いまは私の!」
鋭い返しに口を噤むと、彼女はギリと歯を鳴らして「じゃあまた」と踵を返した。
僕の片手には、雨水を吸って重たくなったヴァイオリンケースが残った。
徒歩十分のアパートのワンルームに帰る。ベッドとローテーブルと冷蔵庫とカラーボックスがひとつだけの、味気のない簡素な部屋だ。カラーボックスのなかの楽譜たちは埃を被っている。
カーペットに腰を下ろし、ケースからヴァイオリンを取り出した。色濃くなった革のケースは、拭き取った程度で間に合いそうになかったので、仕方なく壁に立てかけて陰干しにする。雨水がなかまで浸透していなかったのが幸いだ。
ヴァイオリンは、国内メーカーの安価なものだとすぐにわかった。安価といってもヴァイオリンはピンからキリまであり、僕のなかでの安価なので、このヴァイオリンは、初心者が購入するには少し高い方だろう。ヴァイオリンを扱い慣れてきて、ある程度の技術を身に着け、これからも弾き続けるだろうから良いものにステップアップしていこう、という段階になって買うものである。
つまり、トロさんはヴァイオリンを弾いている。そして僕のヴァイオリンを拾ったので、そちらに鞍替えしたというわけだ。五十万のベルギー製のヴァイオリンに。
あの場では流されてしまったが、ごみを拾って自分のものにするのは、窃盗罪にあたるのだろうか? ごみに出した時点で僕は所有権を放棄したことになるのだろうか? わからない。僕が通っているのは音大で、僕は(いまのところ)弦楽器専攻、ヴァイオリンコース生なので、法律は学ばない。
両親に我儘を言って実家を出て、ひとりで借りたワンルーム。防音室も防音シートもない。薄い壁を隔てて、隣人の大爆笑が時々聞こえる。
僕はそのヴァイオリンをローテーブルに置いた。違和感がある。視線を逸らし、シャワーを浴びて一息つき、ベッドに潜り込む。右手をさする。雨が降り続いている。
さあ、ここからまっすぐ歩いて、あのテープの線の前に立ってね。一回お辞儀をして、それから弾き始めるの。あとは、一緒に練習したとおり。大丈夫だよ。先生が伴奏に入るからね。
背中を優しく押され、幼い僕はライトで煌々と照らされた板張りのステージの上を歩いた。グランドピアノがとても大きく感じた。ステージの中央にバミリがあった。その前に立った。ライトが眩しく、ホールの客席は真っ暗だった。何も見えなかった。たどたどしい僕の礼に、暗闇から微笑ましさへの拍手が起こる。僕対客席。僕対暗闇。ヴァイオリンを構える。
小さな発表会。小学生部門。ここに立つ子は、みんな同じ曲を弾く。課題曲だ。僕もそう。同じ曲を。緊張はまったくなかった。昔からそういうものとは無縁だった。
弾き終わって一礼をすると、拍手が大きく膨らんで僕を襲った。舞台袖で待っていた両親が、戻ってきた僕を丁寧に褒め称えた。上手に弾けたね、と嬉しそうに僕の頭を撫でた。先生が「おつかれさま!」と掌を僕に向けたので、僕はハイタッチをしておいた。そこに知らない女性が上気した顔でやってきた。
彼女は簡単な挨拶をして、興奮した表情で何かを先生と両親にまくし立てた。口調は強かったが、どうやら喜んでいるようだった。「この子は天才です」。後に、彼女が有名なヴァイオリニストであることを僕は知る。「あんな演奏、小学一年生にはできません」。楽譜のまま、聴いたままをヴァイオリンで寸分違わず再現するのは、僕にとって簡単なことだった。
「うちでレッスンしませんか」
両親はびっくりしていた。ふたりは音楽が好きだった。子どもが生まれたらギターかピアノかヴァイオリンを習わせよう、せっかくなら私たちが選ばなかった楽器はどうだろう、いつか家族でセッションしたいね。ふわっとした理由で選ばれたのがヴァイオリンだった。
僕はよくわからなかった。先生と女性が少し揉めていたが、後日決着がついたようで、僕はその女性──新しい先生の教室へ通うことになった。新しい先生は僕に言った。
今日から一緒に頑張りましょうね。
僕は無言でうなずいた。彼女のことは嫌ではなかった。好きでもなかった。この人はきっとずっと燃えているのだろう。僕は昔から燃えていない。火が点かないのだ。