「走れ茜色」全文公開(3/3)

文字数 5,808文字

 その日も俺たちは向かい合って、俺は本を読み、新藤はスマホをいじっていた。今日はやけに静かだな、と思い顔を上げると、新藤は窓の外を見ていた。本を開いたまま俺もそれに倣う。校庭には秋津の姿はなかった。

「佐倉くんはさあ、あきゆーのどこが好き?」

 唐突に、新藤が訊いてくる。

「何、急に」

「いや、どこを好きになったのかなあって」

「顔」

 素直に答えると、安直すぎ、と笑われる。

「まあでも、確かにイケメンだもんね」

「っていうか俺、一目惚れだったから」

「おっ、まじか。なんかいいね、そういうの」

 すごい綺麗な顔をした人だなと思ったのだ。目は大きく二重で、でもどことなくいつも眠たげで、鼻筋はすっと通っていて、色も白くて。眉毛を隠す少し長めのさらさらした前髪は、野球部の顧問に丸坊主にしろと怒られてものらりくらりと維持し続けている。飲み物を飲む仕草とか、脚の組み替え方とか、そういった些細な動作に目が奪われるようになった。初めて一緒に帰った日、先に電車を降りた秋津は、俺が見えなくなるまでずっとホームで手を振ってくれた。

 たぶんそのとき、俺の中で秋津という存在に対しての意識が変化した。かっこいいだとか顔が好みだとか、そういった類のものではない、特別な感情を秋津に抱くようになっていった。

「新藤はどうなんだよ。どこが好きなの」

「私? 私はねー、どこなんだろ。その質問困っちゃうね」

「なら訊くなよ」

「いや、ちゃんと好きなんだよ? 好きだし、いいところもいっぱい知ってるんだけどさ。言葉にするのがちょっと難しいっていうか。あ、でもきっかけはあった。聞きたい? 聞きたい?」

「うるせえなあ、いいから話せよ」

 ひどーい、と言いながらも新藤はどこか嬉しそうだ。恋バナがしたかった、と言っていた彼女の言葉を思い出す。困ったことに、俺の方も最近はこんなことを言い合うのが楽しい。堂々と好きだと言えることが、そしてそれを認めてもらえることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。

「二年になってちょっとしたぐらいのときかな。体育の時間で、男子はサッカーの授業してて。で、長見くんがさ、試合のときになんかやらかしちゃったらしくて。結構周りから責められてたの」

 俺自身にその出来事の記憶はないが、光景はありありと想像できた。こいつになら何をしても言ってもいい。そう思われてしまう人物は存在していて、そして同じクラスの長見はその一人だった。長見は運動神経も良くない。そのせいで周りから色々と言われることも多々あった。

「でさ、それが結構な責められ方で。長見くんどうにか笑ってはいたんだけど、すっごい落ち込んでてさ。でも私もなんて声をかけたらいいか分かんなくて。そしたら、あきゆーがね」

 一拍置いて、新藤が身を乗り出す。ここからがいいところだ、と言わんばかりに。

「あきゆーが、長見くんの横に立って、ぽんぽんって肩叩いたの。それで、何か長見くんに耳打ちして。そしたら長見くんが泣きそうな顔であきゆーを見上げてね。それ見てあきゆーが、長見くんを励ますみたいに、にこって笑ったの」

 新藤が頰に両手を当て、はぁ、と感嘆の息を漏らした。

「もうさぁ、それまで仏頂面しか見たことなかったからさぁ。その行動も相まって、その笑顔に私はやられちゃったわけよ。やばい、あきゆーってかっこいい! って」

 その姿を頭に思い浮かべてみる。近頃自分には向けられることが少なくなった秋津の笑顔を。思わず「分かる」と口に出していた。

「分かる!? やっぱ分かるよね!? もうそっから私、顔見るたびドキドキでさぁ」

「あんまり笑顔を見せないところもいいんだよな」

「そう、そうなんです! さっすが佐倉くん、分かってるぅ」

 嬉しそうに俺の肩をばんばんと叩いてくる。痛いよ、とその手を振り払う。

「女子はさぁ、あきゆーのこと色々言うけど、いいとこ結構あるよね。でもまぁ、むかつくところの方がもっといっぱいあるけど。私、二十個は言える」

「俺、三十は言えるな」

「まじか。さすがっすね」

「不機嫌そうに、あー、って言いながら話し始めるのがむかつく」

 俺が言うと、分かるー、と新藤が笑う。

「授業で当てられたときもさ、めっちゃだるそうに言うよね、あー、って」

「あれ、冬木先生とか絶対イラッときてるよな」

「うん、きてるきてる。私はね、私よりも顔がちっちゃいところがむかつく」

「なんだそれ。あとはなんだろ、飲み物を絶対ちょこっとだけ残すのが腹立つ」

「えー、そうなんだ。なんでだろね。うーん、私よりも睫毛が長いのがむかつく」

「だからなんなんだよそれ」

「だってむかつくんだもん。あの長さ、男子にいらないでしょー」

 あとはなんだろう、と呟いて、俺は自分の手に視線を落とす。右手を本から離して、パーの形に広げた。

「これに気付かないところがむかつく」

 小指のマニキュアはところどころ剝げていた。指と指の隙間から、こちらを見つめる新藤の顔が見える。

「やっぱ、全部の指塗っとく?」

「なんでそうなるんだよ」思わず笑ってしまう。「さすがに全部はきついわ」

 絶対かわいいのにー、とわざと不貞腐れてみせている。

「あーあと私は、あれだ。ラインの返事が全然来ないのがむかつく」

 言いながら手の中のスマホをころころと転がす。本を持つ指先が少し強くなったのが自分でも分かった。

「もうずっと返事来てなくてさ。既読にはなるんだけどさあ」

 はーあ、とおどけた様子で溜息をつくふりをする。けれどふざけた感じでごまかしても、その待つことしかできないということがどんなにつらいか、俺にはよく分かる。

「もうラインしなきゃいいじゃん」

「だからさあー、私にはこれしかないんだって。このほそーい電子の糸でしか繫がってないわけよ、愛しの人と」

「意味ないよ。もう返事なんて来ないよ、きっと」

 不意に口をついて出た。ぴた、と新藤のスマホをいじる手が止まる。俯く俺のつむじ辺りにひりひりとした視線を感じる。顔を上げられない。視界に入っているだけの文字の羅列が滲んで見える。ああ、言わなければよかった。既に激しい後悔に襲われていた。でも俺はもう、何も知らない新藤の笑顔を見るのが、これ以上耐えられなかったのだ。

「なんで? あきゆー何か言ってた?」

「いや、そういうんじゃなくて。違くて」

「ねえ、もしそうなら教えて。隠さないで、私大丈夫だから」

「ごめん、違くて。違くて」

 新藤が俺の手首を摑む。本が手から離れてばさりと音を立て机に落ちた。血が通ってないのかと思うくらい冷たい手のひらだった。一体新藤はどんな顔をしているのか、見るのが怖くて、本の表紙をひたすら見つめていた。

「それ、俺なんだよ」

 声がうわずった。たった一言で、一瞬で空気が張り詰めたのが分かった。

「新藤さんがずっとラインしてた相手、秋津じゃなくて、俺なんだ」

 新藤の俺の手首を摑む力が強くなる。俺は恐る恐る顔を上げる。焦点の合わない瞳で、笑っていいのかどうか分からない歪んだ笑みで、俺を見つめていた。

「そういうのさあ、いいって」今初めて気付いたかのように手首をぱっと離すと、手を机の下に隠す。「笑えないからやめよ? ね」

 俺はポケットからスマホを取り出す。ラインを開く。新藤の猫のアイコンをタップして、通話ボタンを押す。ががががが、と歪な音が教室内に響き渡った。新藤のスマホが机の上で振動していた。画面には着信元が表示されている。アキ。新藤がそれを慌ただしく取り上げる。俺が終話のボタンを押すと、振動はやんだ。

「なんで?」

 吐息に混じって消えてしまうような微かな声。歪んだ笑みのまま顔は強張っている。謝らなきゃ、と俺は声を出そうとする。だけど何か硬い固形物が、そこで出口を塞いでいるかのように詰まって出てこない。やっとの思いで出した「ごめん」が、きちんと新藤に聞こえたかどうか分からなかった。

 俺は知っている。ラインの中では、あきゆーなんて呼んでいないことを。秋津くんと呼んでいることを。返事がなくても、おはようおやすみと挨拶を送っていることを。ラインの中の新藤は、卑屈で面倒臭く、そして誰も知らない新藤がそこにはいるということを。

「あいつに。秋津に、頼まれたんだ」

 声が震える。新藤が小さく、え、と言うのが聞こえた。

 俺が部活をやめて少しした頃だった。一緒に帰りながら、秋津が言った。

 同じクラスのさ、新藤っているじゃん。あいつがさ、前からライン交換しろしろうるさくてさ。んで今日、IDよこしてきたんだよね。

 ポケットから畳まれた紙を取り出して、俺に渡してくる。開くとそれはクマやウサギのキャラクターが描かれた可愛らしい便箋で、丁寧に書かれた文字が真ん中に並んでいる。よかったら、連絡ください。新藤梓。そして、ラインのID。

 晃人さ、俺のふりしてラインしてくんない? もう断るのもだるくてさ。ほら、お前の登録名アキでしょ。ごまかせんじゃん。

 俺はそれを了承した。こんな人の気持ちを弄ぶようなことでも、秋津の役に立っているという事実が嬉しかった。そして同時に、ざまあみろとも思った。ラインの相手は文字の中でふんだんに女を振りまき、その女を嫌いになるにつれ最初はあった罪悪感もやがて消えていった。消えていったはずだった。

「俺、新藤を騙すことに、躊躇もしなかった。女だからってだけで秋津の傍にいようとする奴が、ほんとに嫌いで。嫌いで、嫌いだったんだ」

 声がうわずる。視界が濡れる。最低だ。泣きたいのは新藤のほうなのに。すべてを放り出したような表情で、色のない目で俺をただじっと見つめている。目をつむる。熱を帯びた水分が目頭に溜まる。

「嫌いだったのに。嫌いじゃなくなっちゃったんだ。嫌いなままでよかったのに」

 俺のもう一度絞り出した「ごめん」が、夕暮れに染まっている教室に浮かんで消えた。しんと痛々しく沈黙が積もる。

 新藤が、がたんと大きな音を立てて突然立ち上がった。その音に驚いて俺は新藤を思わず見上げる。机の上の俺の本を手に取ると、俺の眉間に振り下ろした。

「いって! えっなに、どういうこと」

「もう帰ろう、佐倉くん」

 俺を殴ったその手で、本を渡してくる。俺は反射的にそれを受け取る。

「一緒に帰ろう」

 新藤が鞄を肩にかける。手首を摑まれ、俺は椅子から立ち上がらされる。さっきとは違って手のひらが熱い。ちょっと待って、という俺の言葉がすぐさまなかったことにされる。右手に本を持ったまま、慌てて鞄を摑む。引っ張られるままに廊下に出る。いつものように黒々とした空ではなく、充分に明るかった。まだ闇が迫ってくるような時間じゃない。黒い影が二つ、小さく床に落ちている。俺は新藤の手を振りほどく。

「ちょっと待ってって。無理だよ。俺、秋津待たなきゃ」

 振りほどいたはずの手が今度は俺の腕を摑む。新藤は泣きそうな顔で、唇を強く嚙んでいた。

「待たなくていい。いいよ」

 腕を摑んだまま、新藤がゆっくりと歩く。どうしてかそれを振りほどけなかった。歩くたびに黒い影が揺れる。運動部のものであろう怒声や歓声が、遠くから渦を巻くようにして聞こえてくる。校舎の中で、女子生徒が二人ばたばたと俺たちの横を走って通り過ぎていった。階段では、男子生徒が隅で固まるようにして話している。俺がひとりであの教室にいる間、当たり前だが世界は息づいていて、そして俺はそれにまったく気付いていなかった。

 校舎の出入り口に着く。新藤が下駄箱から俺の靴を持ってきて差し出す。手を出せないままでいると、さらにそれを近付けてくる。俺は本を鞄にしまうと、ゆっくりとそれを受け取る。

「新藤さん」

 俺の言葉を無視して、また下駄箱へ向かい、靴を履き替える。俺はその後について、新藤の横で同じように靴を履き替える。開け放たれたドアからは、夕陽に赤々と照らされた校庭が見える。俺が毎日見下ろしていた校庭が。そして少し離れたところで、野球部が練習をしている姿が目に入った。髪の毛を短く切り揃えた部員の中で、一人耳にかかるくらいまで髪を伸ばした男子の姿もある。茜色に染まったユニフォームで、腕組みをしながら試合を眺めている。

「新藤さん、俺」

 掠れた声が出る。両足がずしりと重く、動かなかった。ここから出てしまえば、もう二度と秋津の隣に並べない気がして、怖かった。

 急に、新藤が俺の背中を叩いた。いって、と呻いて思わずよろめく。

「よし、競走だ佐倉」

 競走? 俺は思わず訊き返す。

「そう、校門まで競走。そんで、秋津の野郎に見せつけてやろう。私たちが走るところを」

 新藤がまっすぐ腕を伸ばして、秋津を指差した。隣の部員と何やら喋っていて、俺たちに気付く様子はない。

「大丈夫だよ。もう帰っていいんだよ、私たち」

 まるで自分に言い聞かせているみたいだった。帰っていいよ。俺はずっと、その言葉を待っていたような気がする。

「分かった」大きく息を吸い込み、そして吐き出す。「競走だ、新藤」

 新藤が、よし、と呟いて走る構えを取る。俺もそれに倣う。たったこれだけのことで、心臓がばくばくしていた。耳の奥で鼓動が鳴る。それじゃあ、いくよ。新藤が声をかける。うん、いいよ。俺は、拳を強く握る。

 よーい、どん。

 どん、を言い終わらないうちに新藤が駆けていく。不意打ちを食らった俺は一瞬呆気に取られた後、慌ててそれを追いかける。

「フライングだぞおい!」

「ハンデだよ、ハンデ!」

 新藤が笑う。俺もつられて笑った。そしてそのまま走る。

 やばい。苦しい。息を吸うと、冷えた空気が肺に落ちていく感覚がする。肩にかけた鞄が落ちそうになって、摑みながら走る。口の中がからからに渇いていく。整えた髪がぐちゃぐちゃに乱れていく。

 それでも、俺と新藤は笑った。何がおかしいのか自分でも分からなかったけれど、笑いながら走り続けた。目の端にちらりと映った秋津が、怪訝そうな顔で俺たちを見ているのが見えた気がした。

 なあ、秋津。今の俺たちはお前にはどう見えているかな。一瞬でいい。ほんの一瞬でいいから、お前の目にも俺たちが、茜色に光って見えてくれていたらいいな。

 新藤が、ゴール、とはしゃいだ声を出して、俺たちは並んで校門を飛び出した。

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