「走れ茜色」全文公開(2/3)
文字数 8,736文字
秋津は一年の頃、女子にもてていた。まだ幼さの残る同級生たちの中で、秋津は背も高く大人びていて、異性の目を惹くには充分だった。
告白された、と聞くたび、内臓が重くなるような感覚に襲われた。でも断った、と聞くたび、胸のすくような思いがした。常に不安に苛まれていた。いつか秋津が誰かを選んで、そしてその誰かが秋津の隣を歩く姿を想像すると、気が狂いそうだった。
ある日、決定的なことが起きた。バレンタインデーだった。
その頃既に秋津の評判はあまり良くなかった。最初は丁重だった断り文句は、告白されるたびどんどんと口汚くなっていった。悪いけど俺あんたのこと何とも思ってないし、なんなら今この瞬間嫌いになったから。あんたさ、知らない女に好きだって言われて、喜ぶ奴がいると思う? そのことが広まり、だんだんと女子は秋津を避けるようになっていった。
けれど二月十四日。色めき立つ女子たちの中で、一人の女子生徒が秋津にチョコを渡した。義理だから、と言いつつ顔のいい男子にしか渡していなかったそのチョコを、秋津は受け取るやいなや、教室の隅のゴミ箱に投げ入れた。
渡した本人は、わっと大声を上げて泣き出した。周りの女子たちはその子の背をさすり、そして秋津を罵った。それでも秋津は平然としていた。そのことがあって、秋津の評判は地に落ちる結果となった。
新藤は一年のときは別のクラスだったが、そのことを知らないわけではないだろう。あんな男やめとけと言う友人の中には、おそらくその話を知っている者もいるはずだ。それでもなお、新藤は秋津のことが好きだという。ただラインを交換したというだけで、あんなにもはしゃぎ喜んでいる。
あの日の帰り道、俺は秋津に言った。
「今日のは、さすがにやりすぎなんじゃない」
秋津が唇を尖らせて、不貞腐れたような表情になる。
「だって、きもちわりいんだもん」
「でも、手作りとかじゃなかったじゃん」
「あー、いや。そういう気持ち悪いじゃなくて」
ポケットに手を突っ込みながら、はあ、と息を吐く。濁った白い空気が秋津の顔の前に浮かんで、すぐ消える。
「なんでみんなさあ、好きですとかあんな簡単に言えるわけ? だって俺のことなんも知んねえじゃん。何を見て好きだとか言ってんのか、まじで分かんない。分かんなすぎてきもちわりいし、めっちゃ怖い。それなのに告白とかしてきてさ、断ったらさ、さも俺が悪者みたいに泣いたり喚いたりするわけじゃん。もうそんなら俺、悪者でいいやってなっちゃうじゃん?」
その言葉は本心のように思えた。俺は心の中で呟く。
じゃあ、秋津のこと知ってる人ならいいの? 俺、秋津のことよく知ってるよ。野球は得意だけどその他の球技は全然ダメなのも知ってるし、餃子が好きでブロッコリーが嫌いなのも知ってる。ペン回しが苦手なことも知ってる。耳たぶを搔くのが癖なのも知ってる。だったら、俺でいいじゃん。
もちろん、言えるわけなんてない。言葉を飲み込んで笑う。
「モテんのも大変なわけね」
そういうわけじゃないけどさー、と秋津が耳たぶを搔く。
「あ」と秋津が急に声を上げた。「ファミマ寄りたい」
いいよ、と返して、俺たちはコンビニへ入る。秋津が何やら買う中、俺は本のコーナーで雑誌をぱらぱらと立ち読みしていた。するとレジの方から、「あー、晃人ぉ」と呼ぶ声がする。雑誌を戻し、秋津のところへ向かう。
「晃人さあ、十円持ってない? ちょうど足んなくて」
「あ、あるよ、たぶん」
鞄から財布を取り出し、十円を置く。さんきゅ、と秋津が礼を言う。店員が会計を済ませ、肉まんを袋に入れて渡してきた。ありがとうございましたーという店員の言葉を背に、店の外へ出る。
秋津が袋から肉まんを取り出す。つんとした冷たい空気の中に、柔らかく湯気が漂う。それを半分に割ると、片方を俺の方に差し出してきた。
「ん。十円分」
えっ、と俺は思わず声を上げる。
「いや、多すぎでしょ」
「いやいいよ。あんま食い過ぎると夕飯食べらんなくて、母ちゃんに怒られるんだもん」
少し子供っぽいその発言に口元が緩みそうになるのを堪えながら、じゃあもらう、と肉まんを受け取って、頰張る。
「冬の肉まんってさー、なんでこんなに美味く感じるんだろうなー」
口いっぱいに詰め込んだまま、もごもごと秋津が喋る。
「分かる。夏とかよりも二割増しで美味いよな」
「いや。三割増しだな」
そう言って笑い合う。
もしも俺が思いを告げることによって、この瞬間が失われてしまうのなら。ならば俺は自分の気持ちに蓋をしたまま、秋津と一緒に帰ろうとこのとき決めたのだ。
けれど最近はこんなやり取りをすることもほとんどなくなった。俺が話を振っても秋津は生返事で、俺ではない誰かと四角い機械の中で会話をしていることが多くなった。夕闇の中のぼんやりとした街灯の下で、俺は秋津の横顔をそっと盗み見ることしかできなくなっていった。
翌日の放課後、新藤は教室に来なかった。少し安堵する。一方的に思いを寄せる相手をただじっと待っている姿は、きっと惨めに違いない。それを間近で眺められるのはやはりいい気分はしない。
けれど数日後、また新藤は放課後、教室へやってきた。スマホをいじる俺の前の席に陣取って、「あれえ、今日は本読んでないんだ」と話しかけてくる。
「さっき読み終わっちゃったんだよ」
そうなんだ、と言いながら机の上に置かれていた小説を開き、ぱらぱらとめくる。黒い髪が夕陽に照らされてつややかに光っている。
「面白かった? これ」
「ん、結構面白かったよ」
「へー。貸してよ」
「別に、いいけど」
一度本を閉じ、一ページからゆっくりと順に読んでいく。うわぁ、字いっぱい、とどこかはしゃいだような声を出して笑っている。
「新藤さんさ、なんで帰んないの?」
先日した問いを、もう一度する。新藤は本の上に視線を滑らせながらぶつぶつと何やら呟くだけで、何も答えない。
「家の人とかから何も言われないわけ? そんな遅く帰ったりして」
「だからぁ、私にだって色々あるんですー」
本を閉じると、今度はスマホを取り出しいじり始めた。人のことはあれこれ詮索してくるくせに、自分のことを話すつもりはないようだ。そして、今日もここで時間を潰すつもりらしい。諦めて深く息を吐く。スマホでゲームをしていると、「ねえねえ」と新藤に声をかけられる。
「最近あきゆーからのラインの返事がめっちゃ遅いんだけど。佐倉くんもそう?」
ぽりぽりと首筋をかいて、画面から目を離さずに答える。いやべつに、そんなことないけど。どこか切実な響きのあるその問いに、胸がちくりと痛む。罪悪感。痛みに名前をつけてしまうと、途端に自分の中で膨れ上がる。
「えーまじかあ。地味に結構気になっちゃうんだよなあ」
「ラインしなきゃいいじゃん」
「えーやだ、だって私これしかあきゆーと繫がる手段ないんだもん。教室で話しかけるのはさすがに勇気いるし。佐倉くんはいいよ、普通にお話ししてるんだから。私はどんなちっちゃなことでもいいから交流を増やしたいんだよ。あー何度も既読になってるかどうかチェックするの無駄に神経すり減らすからやめたい、でもやめられない」
スマホをいじりながら新藤がわざとらしく溜息をつく。確かに、俺と比べれば秋津と新藤の繫がりは薄い。そもそも話している姿を見た記憶がない。それでも俺はまだ足りないと思っている。もっと二人だけの特別な思い出を増やして、どうにか秋津の心に棲みつけないかとずっと考えている。
「でも新藤にはチャンスがあるからいいじゃん」
どういうこと? と指を止め俺を見る。
「今はどんなに繫がりなくても、女の子ってだけで、秋津とのチャンスがあるわけじゃん。俺なんてどんなに親しくしたって、そこの位置には絶対に入り込めないんだよ」
「いいや、それは違うね佐倉くん」
肩をすくめ、やれやれといった動作で両手を上げ首を振る。
「入り込めるチャンスがあるから、逆につらいんだって。選択肢のひとつにあるはずなのに、選ばれないって結構しんどいよ」
おどけたように吐き出したその言葉には、切実な響きがあった。女であるだけでは駄目なのか。だとすれば俺のこの妬ましさは、一体どこへぶつければいいのだろう。
「それなら、選択肢の外にいた方がまだましってこと?」
「それなら、友達として隣にいられる方が私はいいってこと」
ただのないものねだりってやつですかね、と新藤が付け加えて、そうだね、と俺も小さく頷く。
自分でも、秋津の友達でいられる今が幸せなのかどうかが分からない。静かに生きたいと願うくせに、このままじゃ嫌だと叫びたくなる自分もいる。矛盾した感情がもう長いことどろどろと体の中で渦を巻いている。
あれ、と新藤が急に声を上げた。グラウンドを見下ろしている。俺も窓を覗き込んだ。いつの間にか校庭からは野球部の姿が消えていた。
「今日終わるの早いね。連絡来てた?」
スマホを取り出し、通知を確認する。秋津悠馬の名前の欄に、新しい文字はない。
「先帰ったんだと思う、多分」
「え、うそ、そうなの。佐倉くんが待ってるのに?」
「よくあるよ。野球部の連中とどっか行っちゃうんだ」
「連絡もなしで?」
「うん」
新藤が眉をひそめ、ぽかんと口を開けて俺の顔をまじまじと見てくる。馬鹿な奴だなと思われているんだろう、きっと。
「馬鹿だなこいつ、って思ってるんだろ」
「うん、まあ、正直。連絡くらいよこせって言えばいいのにとは思う」
「まあ、そもそも毎日部活終わるの待つなんて、気持ち悪いよな」
いや、そんなことはないけど、ともごもごと言い淀んだ返事。
「いいよ、自分でも分かってるから。みっともないんだよ、俺。連絡しろって、そんなこと言うだけで怖くて、そんで帰れなくて。ほんとすげえ、みっともない」
まるで何かの言い訳のように言葉が口をついて出る。新藤がじっと見つめてくる。その眼差しは憐憫を帯びているように見えて、急に居た堪れなくなる。やはり、自分の惨めな姿を晒すのは、いい気分ではない。
「帰るわ」
本を鞄に入れ、立ち上がった。新藤が見上げてくる。思わず視線を逸らす。帰ろうとしたとき、「私も同じ」と新藤が口を開いた。
「同じだよ、私も。みっともないのも、帰れないのも、同じ。私ね、家に帰りたくないの」
その言葉に新藤を見下ろす。彼女は既に俺から視線を外していて、顔はこちらに向けたまま窓の外を眺めていた。夕暮れはゆっくりと闇に近付く色をしている。窓際に座る新藤の顔の右半分が夜に、左半分が蛍光灯に染まっていて、二つに分かれているみたいだと思った。
「なんつーかさー、もう家にいづらくて。友達が部活ないときとかは一緒に帰って寄り道してーってできるけど、毎日毎日そうもいかないじゃん? だから普段は図書室で、スマホいじったり居眠りしたりして時間潰してたの」
新藤が椅子に座ったままのけぞる。ぎしり、と木が軋む音がする。その先を促す言葉をどうしてか言えなくて、ただじっと待つ。
「うちね、病気のお姉ちゃんがいるの。生まれたときからずーっと病気。でね、今年に入ってから一気にそれが悪くなって。今自宅で療養してるの」
新藤がまた俺を見上げてくる。その表情はいつもと何ら変わりがない。
「最初はさぁ、私もお姉ちゃんのお世話する! とかって思ってたわけよ。仲はすごく良かったし、やっぱりお姉ちゃんのこと好きだから。だから部活もやめて、毎日まっすぐ家に帰るようにしてたの。でもねえ、やっぱだめだね。やつれてくお姉ちゃん見てると、もう、だめ。なんやかんや家に帰らない理由つけてくうちに、どんどん帰りづらくなっちゃって。いつの間にか、毎日どこかしらでぎりぎりまで外にいるようになってた。お父さんもお母さんも、たぶん分かってるんだろうね、何も言ってこないの。だから別に、誰かに帰るなって言われてるわけじゃない。帰れって言われてるわけでもない。自分の意思で、帰らないようにしてるのに。でも毎日後悔してるの。今日くらいは早く帰ればよかった。お姉ちゃんと話をすればよかった。でも次の日になると、やっぱり帰れなくなるの」
ふと想像してしまう。誰とも帰れない放課後、どんな気持ちで新藤は学校にいたのか。早く時間が過ぎればいいのに、と思っていたのか。それとも、まだ陽が沈まないでくれ、と願っていたのか。
新藤の突然の告白に、俺は何も言葉を返せなかった。かろうじて、「どうして」と呟く。
「どうして、急にそんなこと、話してくれたの」
新藤がじっと俺の目を見つめてくる。視線を逸らしたくなるのを堪える。
「佐倉くんも、秘密教えてくれたから。だからお返しかな」
そして、またにっこりと笑う。秘密。その言葉を俺は頭の中で反芻する。
「一緒に帰る?」
思わず、口にしていた。新藤が驚いたように少し目を見開いて、そして小さく笑って首を横に振った。
「ううん。私は、もうちょっと残ってる」
じゃあね、と胸の前で手を振る。俺はそれに手を振り返せなくて、うん、とだけ言って新藤に背を向けた。
ねえ、よかったら一緒に帰ろうよ。先にそう声をかけてきたのは秋津の方だったのだ。
高校に入学したばかりの頃だ。まだみんな探り探りの状態で、とりあえず誰か友達を作らなければと、なんとなく躍起になっているような時期だった。俺もその例に漏れず、席の近い男子と休み時間ぽつぽつと喋るようにはなっていた。
けれど彼とは帰り道がばらばらで、俺は一人で帰っていた。そのとき、急に肩を叩かれた。それが秋津だった。
「あっ、急にごめん。佐倉くん、だよね。俺、一緒のクラスの、秋津なんだけど」
「ああうん、分かるよ」
秋津はその頃から目立っていた。俺自身も、やたらかっこいい奴がいるな、と気になってはいたのだ。憧れに近い気持ちで授業中何度も盗み見していたが、まさかその相手に声をかけられるとは思わず、少し驚いていた。
「帰りの電車でよく見かけるからさ。家、一緒の方向なんだなぁって」
「そうなんだ。ごめん、気付かなかった」
「いや、俺こそなんか急にごめん。ねえ、よかったら一緒に帰ろうよ」
「うん。もちろんいいよ」
俺がそう答えたときの、ほっとした秋津の表情が今でも忘れられない。それから俺たちは毎日並んで帰るようになった。
「ねえ、いつまで秋津くんなの」
一緒に帰るようになって何日か経った頃、秋津がぽつりと言った。どういう意味か分からず、俺は首を傾げる。
「だからさぁ、佐倉はいつまで俺のこと、秋津くんって呼ぶんだよって言ってんの」
その不貞腐れた口調に、俺はようやく秋津の言っていることを理解する。この頃俺は、彼を「秋津くん」と呼んでいた。
「あ、ごめん。嫌だった?」
「べつに、嫌とかじゃないけどさぁ」
秋津が唇を尖らせる。
「俺、結構勇気出して佐倉のこと呼び捨てにしたのに、佐倉はいつになったら呼び捨てにしてくれんのかなぁと思ってー」
照れ臭さを隠すように俯いたその横顔に、俺は思わずどきりとする。慌てて秋津の肩を叩く。
「あーごめん、気付かなかった。今日から呼び捨てにする」
「いいよべつに、無理しなくてー」
「無理してない、ごめんごめん」
秋津にはきっと分からないのだ。それが俺にとっては大きな出来事なのだということを。それでもそんなことで拗ねる秋津を見て、俺はとても嬉しかった。どきどきしていた。自分の中に芽生えた感情に、必死で気付かないふりをしていた。
そうやって俺は、だんだんと秋津に惹かれていくようになった。秋津が別のクラスメイトと話しているのを見るだけで嫉妬に駆られる。嫌われるようなことを言わなかっただろうかと、夜布団の中で考え続けてしまう。それがどんな感情なのか、俺は自覚せざるを得なくなってしまっていた。
だから、秋津に言われたとき、俺は断ることができなかったのだ。
「俺さ、入りたい部活あるんだけど、良かったら佐倉も一緒に入らない?」
学校生活にもどうにか馴染んできた頃だった。俺はまだどこの部に入るか決めあぐねていた。そして秋津が入りたいと言ってきた部活が、野球部だったのだ。
野球なんて、やったこともなかった。興味もないし、テレビで試合を見たこともない。そもそも運動が苦手だった。入るなら文化部だな、と思っていたところだった。
けれど、断れなかった。断れるはずがなかった。秋津と同じ部活に入ることができる。そうでなければ、俺の知らない秋津の部分が増えてしまう。こうやって並んで帰れなくなってしまう。色々と理由はあったが、結局のところ、俺は秋津ともっと一緒にいたかったのだ。
頑張った。俺は頑張ったと思う。でも無理だった。毎日の素振りも筋トレも朝練も苦痛でしかなかった。好きでもないものを好きなふりをして過ごす日々に限界が来ないはずがなかった。その間に秋津は部に馴染み、俺以外の誰かと笑うことが多くなった。
「部活、やめようと思う」
秋津にそう伝えたのは今年の六月のことだった。ひたすら筋力と体力作りの一年間を終え、二年になり本格的に試合に参加することが増えた。野球部は初心者大歓迎なんて謳ってはいたけれど俺以外はみんな経験者ばかりで、足を引っ張ることが多くなり、俺は日々居た堪れなさを感じていた。
「あっそ、分かった」
返ってきたのは、たったそれだけだった。俺は唇を嚙み俯く。別に惜しんで引き留めてもらいたかったわけじゃない。俺だって気付いていた。秋津が、ボールもまともに打てないような奴と友人であることを恥じていることくらい。それでも俺の前でだけは、俺の味方のふりをしてもらいたかった。
「あー、でも」秋津が思い出したかのように声を上げる。「一緒に帰る奴、いなくなっちゃうな。部内で同じ方向で仲良い奴いないからさー」
「あ、じゃあ、俺待ってるよ」
反射的に出た言葉だった。秋津がこちらを向く気配がする。どんな表情を浮かべているのか見るのが怖くて、顔を動かせなかった。
「どうせ俺、家帰っても暇だしさ。やることないから、秋津が部活終わるまで全然待つよ。適当に教室とかで時間潰してるし。まあ、秋津が嫌じゃなければ、だけど」
言い訳めいた文句で舌がべらべらと回る。本当の理由は言えないくせに。
「あー、そう? じゃ、待っててよ」
事も無げに秋津は言う。妙に思われなかったことにほっと胸を撫で下ろす。そして俺は翌日から部活に行かなくなり、教室で秋津を待ち続ける日々が始まった。
連絡が来なくても、どれだけ部活が長引いても、俺は帰らなかった。俺待ってるよ。そう自分で口にした約束に、自分で縛られていた。
新藤はあの日以降も時々教室にやってきた。日中は言葉を交わすことはなく、放課後だけ俺たちは話すようになっていた。新藤は本を読む俺の目の前で、スマホをいじったり、俺が貸した本を読んだりしていた。
新藤は本を読む間もずっとやかましかった。
「えっ、うそうそ、まじで?」
「えーなんでー、なんでそういうこと言っちゃうかなー」
ページをめくるたび、そう言って騒ぐ。伏線が張り巡らされたミステリーなんて渡そうもんなら、それはもう大変だった。「ええっ!」と叫んだかと思うと、「ちょっと待ってちょっと待って」と言いながらページを遡り、「うわ! 書いてるじゃん! ここで書いてるじゃん!」と頭を抱えていた。その様子がおかしくて、俺は新藤に本を貸し続けた。
新藤は読書に飽きると、丁寧にしおりを挟んで本を置き、ネイルを塗っていた。机の上には、どうやら手芸が得意らしい新藤の手作りの、ピンクの化粧ポーチが置かれている。といってもうちの学校はマニキュアは禁止されているので、バレないよう足の爪に塗っていた。ソックスを脱ぎ、真剣な眼差しで色を施している新藤をそっと盗み見る。スカートから白い腿とふくらはぎを惜しげもなく晒す姿は、他の男子が見たらきっとたまらないのだろう。
「佐倉くんにも塗ってあげるー」
いきなりそう言って俺の手を引っ張ってきたこともあった。「いいよ、なんでだよ」と断ったが、「小指だけだから!」と半ば強引に右手の小指の爪に塗られてしまった。
「いいじゃん、可愛いー」
「えぇ、そうかあ?」
右手を大きく開いて目の前に掲げる。無骨な手の端に彩られた濃いピンク色は、あまりに不似合いで不自然だった。まあ、これくらいならバレないか、と思っていたが意外と目立つようで、親には何それと顔をしかめられ、クラスメイトにはからかわれた。
そしてそんなやり取りの隙間に、俺たちは時折窓から校庭を見下ろした。ユニフォームを茜色に染めながら走る秋津を眺め、たまに秋津の話をした。
「今日あきゆー、寝癖ついてなかった?」
「ついてた。どう頑張っても直んなかったってぼやいてた」
「えーなにそれやば、可愛すぎるんですけど!」
「周りにもからかわれて、すげー不機嫌になってたから、本人には言わない方がいいよ」
「言わない言わない、言えないし。でも隠し撮りしとけばよかったかなって後悔してる」
「それはね、しなくて正解だから後悔する必要ないよ」
「えー、なんでよー。あっそうだ、じゃあ佐倉くんさ、帰るときもしまだ寝癖ついてたら写真撮ってきてよー!」
「いやいやいや。無茶言うなよ。俺が殺されるわ」
「佐倉くんが命懸けで撮った写真、私がきちんと守り通すから!」
「寝癖で命懸けたくないよ……」
そんなことを言い合いながら、俺たちは時間を潰していた。
教室を先に出るのはいつも俺の方だった。結局新藤が何時に教室を出ているかは知らない。一緒に帰ろうとは、もう言ってはいけない気がしていた。