Day to Day〈5月1日〉〜〈5月10日〉 #まとめ読み

文字数 12,222文字

2020年の春、ここtreeで、100人のクリエーターによる100日連続更新の掌編企画『Day to Day』がスタートし大きな注目を集めました。この2021年3月25日、その書籍版が発売されます。


>通常版

>豪華版


treeでは、それを記念し、『Day to Day』の原稿を10本分ごと(10日分ごと)にまとめて、一挙に読みやすくお送りいたします。それでは……珠玉の掌編をお楽しみください!

〈5月1日〉巣ごもり


 コロナの話ではない。
 ある朝、郵便受を開けてみたら小鳥のになっていた。
 夏の仕事場は深い森の中にある。数年前に増築した折、大工の棟梁が余芸で郵便受をこしらえてくれた。しかし常住しているわけではないから、郵便物はめったに届かない。つまり、それをよいことに小鳥が巣をかけてしまったのである。
 横開きの扉を開ければ、冬の間に積み重ねられた素材が、たとえばベッドの断面のように一目瞭然であった。
 最下層の数センチは小枝のスプリング。その上にクッションのよい苔が厚く重ねられ、表層にはていねいにタンポポの綿毛が敷きつめられていた。まさしく一個の芸術品を見るようであった。
 どうやら物件は完成しているようだが、施主は不在である。だからと言って私が勝手に排除できるものでもあるまい。
 数日後、ときめきながらそっと扉を開けてみると、シジュウカラが卵を温めていた。覗きこむ人間を全身で威嚇する姿が愛らしく、思わず「ごめんねー」と詫びた。
 私が子供の時分には、どこの家でも小鳥を飼っていた。ジュウシマツや文鳥やシジュウカラを、手なずけたり繁殖させたりすることが少年たちのたしなみであったと言ってよい。中には趣味が昂じて物干台に鳩小屋を作り、伝書鳩の調教に血道を上げるつわものもいた。そうした時代に育った私たちの、鳥に対する愛着はひとしおである。
 つい今しがた、ふたたびときめきながら覗いてみると親鳥たちの姿はなくて、豆粒のような卵が九つ、タンポポの綿毛の上に整然と並んでいた。暖かな昼間に父母は腹ごしらえをして、夕方になればかわりばんこに卵を抱く。
 書斎にこもって原稿を書きながらふと、小説家は人間よりも鳥に近いのではないかと思った。小説を書くという行為は表現とも創造とも言い切れぬが、卵を温めてすと言えばまこと当を得ている。
 そして、おのれの本分に忠実である限り、世間の騒ぎとは無縁である。ありがたいことに。
浅田次郎(あさだ・じろう)
1951年生まれ。1995年『地下鉄に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞、その後も『鉄道員』で第117回直木賞、『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、『帰郷』で第43回大佛次郎賞など受賞多数。当代きってのストーリテラーとして人気を博し、著作も小説からエッセイまで多岐にわたる。近刊は『大名倒産』(上・下)、『流人道中記』(上・下)。

〈5月2日〉


 「祇園・櫻井チャンネル」を毎日観ている。祇園というお笑いコンビの櫻井健一朗さんのYouTubeチャンネルである。
 なぜ知ったのかは覚えていないが、元を辿ればゴミ屋敷の片付け動画になるはずだ。わたしはゴミ屋敷がどんどんきれいになっていく動画が大好きで、いくつかの業者のチャンネルを登録している。すると「おすすめ」にミニマルライフを送る人たちの動画があがってきて、そのなかに祇園・櫻井チャンネルの「35歳・独身・芸人」シリーズがあったのだと思う。櫻井さんはちょっとしたミニマリストなのだ。
 六畳のワンルームにお住まいである。彼の居室にありますものはベッドと、加湿器と、赤のYogibo Miniと、白のちゃぶ台のみである。テレビなどもあるらしいが、動画には出てこない。明るい色目のフローリングはぴかぴかと清潔で、狭い台所もすっきりと片付いている。
 今日は何の日か教えてくれ、おかえりと言ってくれるアレクサ、ベッドの下から出動し文句ひとついわず働くルンバ、お湯を沸かす青いティファールポット、とにかくかわいい洗濯乾燥機キューブルちゃん、材料を入れたら煮込んでくれるホットクック先生を始めとする家電たちと暮らす櫻井さんの日常がごく短い動画に仕上がっている。ほとんどの動画の音声は家電の作動音と櫻井さんの咀嚼音および身動きの音にかぎられる。
 ごはん、洗濯、掃除、五キロのウォーキング。櫻井さんのやっていることは毎日だいたい同じである。もちろんグラデーションはある。湿度が何%だかになったら加湿器は仕舞われるし、豆苗の再生栽培をおこなっていた時期もあったが、もっとも大きいのは櫻井さんの仕事に出かける日がだんだんと少なくなったことだろう。このところはずっと家にいるようだ。
 けれども動画の中の櫻井さんは、平気な顔つきでいつもとおんなじ日常を送っている。餃子を焼き、

おで

を食べ、ルンバを出動させる。
 こういう動画は、こんな折、とても助けになる。少なくともわたしには。「日常」が目視できるからだ。
朝倉かすみ(あさくら・かすみ) 
1960年北海道生まれ。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞受賞。2004年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞を受賞。2009年『田村はまだか』で第30回吉川英治文学新人賞受賞。2019年『平場の月』で第32回山本周五郎賞受賞。その他の著書に『たそがれどきに見つけたもの』『満潮』『ぼくは朝日』など多数。
〈5月3日〉仕切りのある世界で


 あと三日。GW半ばの夜、私は日本赤十字社の「ラブラッド」というサイトで日数を確認していた。つぎに献血できるまでの日数だ。「緊急事態宣言下でも献血は必要です」「献血へのご協力は不要不急の外出にはあたりません」。赤十字社のサイトに書かれているそれらの言葉に許されて、私は二週間おきにメイクをし(顔の下半分はマスクで隠れるのでフェイスパウダーとアイブロウとアイシャドウだけ)、散歩がてら近所の血液センターに向かい、献血スタッフと濃厚接触している。
 ビニールの仕切りなしで家族以外と会話するのは、もはやここだけだ(とはいえこの三日後に行ったら献血コーナー以外は仕切りができていた)。こんな背徳的な接触をしていいんですかと後ろめたさにどきどきしながら受付を済ませ、医師の問診を受け、血液検査をし、献血する。400mlは条件に合わず、200mlは非推奨、血小板は血が薄くて断られ、消去法で漿(あっさり系豚骨スープみたいなルック)の成分献血。腕の血管から血が流れ出ていく感覚は、途中から入ってくる感覚に変わる。赤血球を体内に戻すためだ。
 肉体で感じられるシンプルな犠牲は心地良い。テレビのニュースでは経営難の飲食店オーナーや廃業した旅館オーナーや追い出されたネットカフェ難民が苦境を訴えている。そこまでの影響を受けていないことへの罪悪感を、わずかな痛みと軽い貧血とだれかの役に立つかもしれない可能性がつかのまやわらげてくれる。どかっと寄付できる財力でもあればいいのだが、零細小説家である私が出血大サービスできるのは文字どおり血ぐらいのものだ。
 頻繁に献血するようになったのは三月頭、新型コロナの影響で血液が不足していると報道があって以降だ。その前は高校時代。友人と遊び場代わりにしていた。医師に「一九九六年以来ですね。お変わりはありませんか?」と訊かれ、あのころとは私も世界も大きく変わったことに気が遠くなった。一九九六年、地下鉄サリンの翌年で世間は世紀末ムード、私は十七歳の処女だった。
 とにかく、つぎの濃厚接触まで三日。
 私は「ラブラッド」のサイトを閉じ、会いたくても会えない知人のAmazonほしい物リストを開いて、不要不急の美容ドリンクをギフト購入した。献血以外ではほぼ夫と猫としか接せず、オンライン飲み会もせず、ネットを介して貢ぐコミュニケーションにすがる私は性根がソーシャル・ディスタンシングだなと思いながら。

蛭田亜紗子(ひるた・あさこ)
1979年北海道生まれ。2008年「自縄自縛の二乗」で第7回女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。2010年に『自縄自縛の私』として刊行されデビュー。その他の著書に『人肌ショコラリキュール』『愛を振り込む』『フィッターXの異常な愛情』『凜』『エンディングドレス』など。
〈5月4日〉掌編ドラマ☆九十九神さま、さんざめく


カップ爺:仕事部屋の主の辻がテレビ演出家時代に買った。
ロッキン婆:辻はいつもこの揺り椅子でボーッとしている。
網どん:ベランダに面し穴だらけの老いさらばえた網戸。
ジオンちゃん:毎朝の検温用に辻が買った耳温計。

爺「辻はまだ寝とるのか? 仕事がないのか? 売れなくなったのか?」
婆「ゆうべ遅くに『未来少年コナン』を見たせいでしょ、ご主人は」
爺「だらしない。今なお現役で辻にコーヒーを飲ませとるを見い!」
ジオン「シュミじゃなーい、爺さん同士の口づけなんて」
爺「黙れ小娘。かの名優森繁久弥愛用のカップとして大写しされた儂じゃぞ。ミュージカル『オオマイパパ』の主役ゆえに、泣く泣く辻が自前で買った高級品だわい」
ジオン「その話もう5回聞いた。昔の自慢なんかコロナ防疫の役に立つ? ベランダで居眠りしている網どんなんか穴だらけ。コロナどころかムシだって素通しじゃん」
爺「うぬ、これだから今の若いもんは!」
婆「ストレスを抑えないと肌にヒビが走りますよ。おや,ご主人がお目ざめだね」
爺「どうせ起きればジオンを手に、婆さんにれて欠伸するのが関の山だ……や!」
婆「私につまずいた!」
爺「小娘が放り出された!」
ジオン「きゃあ―――――! 壊れちゃうウウウウッ!!!……アレッ」
婆「まあ,網どんにひっかかってる」
網「なんじゃいジオンちゃん、わしの穴にブラ下がりよって」
ジオン「ああ、命拾いした……」
婆「よかったね、ジオンちゃん。さ、ご主人の体温を測ってあげとくれ」
爺「拾った命ならさっさと役に立て。あんたもつくも神の端くれだろうに」
ジオン「ハイ……ごめんなさい……ご主人さま、どうぞ」
辻「(大あくびしながら)見渡す限り熱海は街をあげての自粛中だな。まず検温表にメモしなくては。5月4日、10時10分。体温36度4分。……ええと、今日の仕事は講談社の文芸サイト<tree>だったが、なにを書けばいいんだろう?」
辻真先(つじ・まさき)
1932年愛知県生まれ。名古屋大学文学部卒業。脚本家として『鉄腕アトム』『デビルマン』など多くのアニメ、特撮作品に携わり、日本アニメを黎明期から支えてきた。1972年に『仮題・中学殺人事件』で作家デビュー。1982年に『アリスの国の殺人』で第35回日本推理作家協会賞を受賞。2009年、牧薩次名義で刊行した『完全恋愛』で第9回本格ミステリ大賞小説部門、2019年、日本のミステリー文学の発展に著しく寄与した作家として第23回日本ミステリー文学大賞を受賞した。
〈5月5日〉2020年のせいくらべ


「タケシ、せいくらべするぞ」
 さっきまで二階にいたパパは、リビングに入ってくるなり僕に言った。
「サインペンの、なるべくペン先が細いやつ持ってきてくれよ」
 身長を測るだけでなく、それを『せいくらべ』の歌のように、リビングの壁に書くのだという。
 ママはすぐさま反対した。
「自分のウチにわざわざ落書きしてどうするのよ」
 僕もそう思う。築二年。まだ新しい我が家を、ママはとても大切にしていて、いつも丁寧に掃除をする。特にこの一ヶ月ほど——なかなか外に出かけられなくなってからは、毎日が年末の大掃除みたいだった。
 そんなママにしてみると、パパの思いつきは大ヒンシュクものだろう。わかるわかる。
 しかも、パパはいま、ちょっとお酒に酔っている。今日はこどもの日の休日なので、友だちとオンラインで集まって、昼間からお酒を飲んでいたのだ。
「タケシにとって小学五年生のこどもの日は一生に一度なんだよ」
 パパは言った。あたりまえすぎて返事もできないような理屈だった。
 ママもさらにあきれてしまって、「ちょっと寝れば?」と笑った。
 でも、パパは「こんなこどもの日……こんな新学期、一生に一度だ。二度と味わわせたくないよ」と続けた。
 ママもその言葉には「それはそうよね……」と、しんみりした顔でうなずいた。
 僕は四月からまだ一度も学校に行っていない。目に見えないウイルスのせいだ。新学期でクラス替えをしても、同じ五年二組の友だちとはオンライン授業の画面でしか会っていない。外に遊びにも行けないし、出かけるときにはマスクをしていないと、怖いおじさんに「うつすな!」と怒られるというウワサだ。
 こんなつまらない春、生まれて初めてだ。誰のせいでこうなったんだろう。なにが悪かったんだろう。僕がいけないことをしちゃったわけ? 違うよね……。
「タケシはいま身長いくつだ?」
「わかんないけど、一月の身体測定は百三十四センチだった」
「じゃあ、いまはもっと伸びてるな」
「うん……たぶん」
「来年からも、ずんずん伸びる」
 パパはそう言って、「だから、せいくらべするんだ」と続けた。
「今年のこどもの日の自分の背丈を来年見てみると、あの頃はまだちっちゃかったんだなあ、って思うから……一年間でこんなに背が伸びたんだなあって、絶対に思って、絶対にうれしくなるから」
 力を込めて言ったパパは、「負けてらんねーだろ、こんな春に」と笑った。
 せいくらべ、ママもOKしてくれた。サインペンはエンピツに変わったけれど。
 リビングの壁に背中をつけて「気をつけ」をして、パパに測ってもらった。
 百三十五・五センチ。やっぱり一月から伸びていた。
「大きくなるんだ、子どもは」とパパが言った。「なるわよ、子どもって意外とたくましいんだから」とママも言った。
 二人とも笑顔なのに、涙ぐんでいた。
 それが不思議で、でも、急に僕までうれしくなって、ママとハグした。パパともハグした。パパは照れくさそうに「濃厚接触しちゃったな」と泣き笑いの顔になった。

重松清(しげまつ・きよし)
1963年生まれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経て執筆活動に入る。ライターとして幅広いジャンルで活躍し、91年に『ビフォア・ラン』で作家デビュー。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。
〈5月6日〉ソーシャル・ディスタンス


 赤、青、黒に白もまじって色鮮やかな布をまとい、男の子が踊っている。公園とは名ばかりの空き地だ。ふだん人の姿を見ることは滅多にない。
 顎におろしていたマスクを私は鼻まで引きあげた。水着用の布地の端布で作られたマスクは、洗う度に汐のにおいが濃くなる。
 無人の所ではマスクは不要だと思うが、民間人の自粛警察なるものが発足したそうで、長いは切りましょう、だの、パーマネントは止めましょう、だの、を斜めにかけた何とか婦人会の小母さんたちが叫んでいた戦争中を思い出す。
 自首強制(ミスタッチ。自粛要請)令──正確には緊急事態宣言──が発せられてから一ヵ月。今日で終了するはずだったのが、延長になった。散歩は禁じられていないので、足がこれ以上弱らないよう、毎日、近間をよろよろ歩いている。
 三メートルは充分に離れた位置に立って眺めた。五つぐらいか。長い領巾のように見えるのは、昨日まで空を泳いでいた三匹の鯉だ。端午の節句を終え、しまわれる前の一遊びなのだろう。リズムが体に伝わる。老いて聴覚を失い、メロディはわからないのだが、リズムだけは感じる。傍らのベンチに、若い女性が腰掛け、ギターを奏でていた。
 ソーシャデダンス。三メートル離れた男の子の私に向けた声が、奇跡的に、明瞭に聞き取れた。
 女性はマスク越しに子供に何か言い、私に会釈して、さらに言い添えた。耳が聴こえないのです、と私もマスク越しに言った。汐の香りが女性に届いただろうか。
 でも、お子さんが何を言い間違えたかはわかります。人と人の距離を遠ざける施策も、子供には楽しいダンスになるのですね。
 コロナ対策として、議員の間で真っ先に論議されたのは、医療関係ではなく、お肉券、旅行券の発行。Go to Eat! まず、利権。感染者の総数を訊かれ、これに書いてない、と逆ギレした行政トップ。PCRの検査数が少ないと言われ、やる気がないわけではまったくないと答弁し、トップはドブへ。病床を削減する政策は、未だに取り下げられていない。
 もう一度、奇跡が起きた。女性が奏でるギターの音を、失せたはずの聴覚がはっきり聴きとった。今はもう秋 誰もいない海、と声に出さずメロディに合わせる。極彩色の布は優雅に波打ち、色と音はひとつになる。
皆川博子(みながわ・ひろこ)
1930年朝鮮京城生まれ。東京女子大学外国語科中退。「アルカディアの夏」で第20回小説現代新人賞を受賞しデビュー。第38回日本推理作家協会賞『壁 旅芝居殺人事件』、第95回直木賞『恋紅』、第3回柴田錬三郎賞『薔薇忌』、第32回吉川英治文学賞『死の泉』、第12回本格ミステリ大賞『開かせていただき光栄です DILATED TO MEET YOU』などの輝かしい受賞歴を持つ。2013年にその功績により第16回日本ミステリー文学大賞を受賞。2015年には文化功労者に選出された。
〈5月7日〉ありがとう、コーヒーをどうぞ


 玄関の鏡でネクタイの角度を整え、行ってくるよと声をかけると、妻は気づかわしげに眉を寄せた。
「気をつけて行ってきて」
「大丈夫、充分に気をつけるよ」
「鍵はわたしが閉めるからね」
 頼むよと言って外に出ると、背後で重い音を立てて錠が下りた。私は自宅を、裏手へとまわりこむ。
 裏庭に面したテラス窓は、あらかじめ鍵が開けてある。靴を脱いで中に入れば、そこはささやかながら一箇の書斎だ。文机のパソコンの電源を入れ、ペットボトルの水とポットで湯を沸かす。淹れたコーヒーを、古道具屋で買った一点物、お気に入りのマグカップに注いで口をつけ、ほうと一息。それで今日の仕事が始まる。
 私の仕事は作家であり、この書斎が、私の本当の仕事場だ。さる複雑な事情があって妻には自分の仕事を打ち明けられなくて、出勤するふりだけをして毎日自宅に忍び込んでいる。妻は私の書斎に入らないので露見する心配はない。今回のことで妻が在宅勤務になってからはトイレだけが厄介だが、妻が仕事をする二階まで、水音は届かないようだ。
 長くなってきた日も暮れかけた頃、雨の音を聞いた。見れば、裏庭に洗濯物が干しっぱなしだ。私は手荒れがひどいので、共稼ぎながら洗い物や洗濯は妻に任せきりにしている。間の悪いことに、妻はさっき出かけてしまった。
 本日三杯目のコーヒーを文机に置いて、脱衣室から大きめのバスタオルを持ってくる。庭に下りてバスタオルを洗濯物にかけ、しばしそのまま、春の小雨がこぼれてくる空を見上げていた。雨はいつでも降るし、どんな時でも季節は巡るものだ。玄関の方からばたばたと足音が聞こえたのでバスタオルを畳んで書斎に戻ると、カーテンの向こうから、「よかった。あんまり濡れてない」という安堵の声が聞こえてきた。
 時刻もちょうどいいのでそのままスーツに着替え、妻が洗濯物を取り込むのを見計らって、裏庭に下りる。玄関のドアを開けてただいまと声をかけると、妻が小走りに迎えてくれる。
「お帰りなさい。雨、大丈夫だった?」
「ありがとう、大丈夫だよ。すぐに晴れそうだ」
 いま着たばかりのスーツを二階の寝室で脱ぎ、部屋着に着替えて一階に戻る。自分の担当の掃除機がけを終えると、妻がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
「今日もお疲れさま。ありがとう」
「お互いにね」
 そう言って私は、お気に入りのマグカップに口をつける。そっと妻の横顔を盗み見るが、私の秘密に気づいた様子はまったくない。妻には多くの美点があるが、少々鈍感でもある。今日、宣言が延長された。一つ屋根の下での奇妙な在宅勤務は、もう少し続きそうだ。
米澤穂信(よねざわ・ほのぶ )
1978年岐阜県生まれ。2001年『氷菓』で第5回角川学園小説大賞奨励賞(ヤングミステリー&ホラー部門)を受賞してデビュー。青春小説としての魅力と謎解きの面白さを兼ね備えた作風で注目され、『春期限定いちごタルト事件』などの作品で人気作家の地位を確立する。2011年『折れた竜骨』で第64回日本推理作家協会賞、2014年『満願』で第27回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『さよなら妖精』『犬はどこだ』『インシテミル』『追想五断章』『リカーシブル』などがある。
〈5月8日〉日日是好日



 さて、五月八日である。あなたは作家なので締め切り日を気にしつつ、書く仕事をきょうもしている。みんなを元気にさせる掌編のアイデアに悩みつつ、いま連載中の次回作も書きあぐねている。そこに担当編集者から『十二日を目処に原稿を送られたし』とのメールが来て、まだ書き出してもいないのにどうすればいいのだと、頭を抱える代わりに膝の上にいた猫を思わず抱きしめている。ああ猫はいいなあ、自分も猫になりたいとあなたは嘆息する。
 ——なかなか筆が進まないようなので、わたしが手助けをしてやろうと思う。
「きみは、だれ?」
 わたしが書き込んだPC画面を見たあなたは、腕の中でジタバタしている猫を思わず放り出し、わたしに向かってそう訊く。
 ——どこって(とわたしは答える)、きょうは世界中が、わたしだよ。
「……それ、意味が通らない文だから」と作家らしくあなたは突っ込みを入れる。「いいかい、ぼくは、きみはだれなのかと訊いているんだ。わかる?」
 ——もちろん、意味はわかってる。わたしは五月八日だ。ちゃんとあなたの疑問に答えている。わかる?
 あなたはわたしが書いた文字列を見つめて考え込み、それからおもむろに訊いてきた。
「それって、きみは〈五月八日〉ということか」
 ——そのとおり。正解です。
「つまりきみは、日にちに人格があると言っているわけだね」
 ——そう。
「ようするに、擬人化だ。日にちの擬人化って、面白いな。きみがだれであれ助かったよ。ヒントになった」
 あなたの頭にアイデアが閃いて、さっそく書き出す。
『昔むかし、カレンダーの数字たちは仲が悪く、てんでに並んでいました。〈一月一日〉は、われこそいちばん偉いと言い、クリスマスイブの〈十二月二十四日〉は自分がいちばん楽しい日だと主張し、ほかの日も自分勝手な言い分を言い立てて譲りません。これに困り果てた人人は、数字たちに順序よく並んでもらうために、猫に助けてもらおうと……』
 猫? なんで猫なんだ、とあなたは自分で書きながら首を捻る。ま、いいかとあなたは思う。とにかく書き出すことができたのだから、なんとかなる、と。そう、わたしが助けてあげたおかげだ。
 わたしは〈五月八日〉だ。〈五月七日〉から生まれた。わたしの役割はただひとつ、〈五月九日〉を生むこと。それだけだ。
 あなたは書き進めながら、〈きょう〉という日に感謝する。わかってもらえてわたしも嬉しい。あなたが幸せでありますように。

神林長平(かんばやし・ちょうへい)
一九五三年、新潟県新潟市生まれ。七十九年、短編「狐と踊れ」で作家デビュー。『敵は海賊』『戦闘妖精・雪風』シリーズなどで数多くの星雲賞を受賞し、九十五年、『言壺』で第十六回日本SF大賞を受賞した。『魂の駆動体』『永久帰還装置』『いま集合的無意識を、』『ぼくらは都市を愛していた』『だれの息子でもない』『絞首台の黙示録』『フォマルハウトの三つの燭台<倭篇>』『オーバーロードの街』『先をゆくもの達』『レームダックの村』など多数の著書を発表している。
〈5月9日〉真っ赤な嘘


 玄関を出た瞬間、肺を満たす夜の空気を心地良く感じた。口許に手をやると、になった唇に指先が触れる。どうやら俺はマスクをしていないらしい。
 ――畜生、どうりで呼吸が楽なわけだ!
 自分に腹を立てつつ室内に引き返すと、リビングには仰向けになった叔母の死体。背中を刺されたのがよほど苦痛だったらしい。分厚い化粧に亀裂が入るのでは――と余計な心配をするほどに、その顔面は醜くんでいる。 俺のマスクは彼女の右手に血まみれの状態でまっていた。小競り合いの中、叔母の指先が俺の顔からそれをぎ取ったのだ。「――うっかり証拠の品を残すところだった」
 マスクをみ上げた俺は、それを血に汚れたナイフと同じ袋に入れて鞄にった。だが、それでも問題は残る。マスクを失った俺は素顔丸出しだ。これではマンションから出られない。このご時世ならば、なおさら素顔だと人目に付く。やはり代わりのマスクが必要だ。そう考える俺の視線は、叔母の口許を覆ったマスクに自然と吸い寄せられていった。――とりあえず、これを拝借するか。でも叔母と間接キスは嫌だな。それに万が一、彼女が感染者だったらどうする?
 何かと思い悩む俺の耳に、そのとき突然ピンポーンとチャイムの音。続いて聞こえてきたのは男性の声だ。「――放談社の編集部から参りましたぁ!」
 マズイ、出版社の人間が叔母を訪ねてきたらしい。しかも事前の約束があるのか、男は容易に玄関先から立ち去る気配がない。事ここに至っては、一刻の猶予もない。俺は迷いを振り払って、叔母のマスクを自分の顔に装着。さらに一計を案じると、玄関のにあるトイレの扉を開けて、個室に身を潜めた。
 直後に玄関からガチャリという音。放談社の男は不躾にも扉を開けて、室内の様子をっているのだろう。だとすれば、リビングの死体は確実に男の視界に入るはず。すると案の定、「わあッ」という男の悲鳴。直後には、リビングに駆け込む乱暴な足音、そして「先生ッ、先生ッ」と叔母を呼ぶ声が虚しく響く。
 それを待って俺は静かに個室を出ると、わざと音を立てて玄関扉を開け閉め。それから慌てて靴を脱ぐフリをしながら、「――ど、どうしました!」
 俺は、たったいま悲鳴を聞き付けて現場に駆け込んだ甥っ子として振舞った。
「ああッ、叔母さん! い、いったい誰が、こんなことを!」
「さあ、判りません」男は叔母の死に顔と俺の顔とを交互に見やる。しかし次の瞬間、眉根を寄せると、「ん!? だけど、もしや犯人はあなたなのでは?」
「え!?」こいつ天才か。天才探偵なのか――「な、なぜ、そんなふうに?」
「だって、あなたのマスク、裏返しですよね」
「…………」そうだ。叔母との間接キス、それとウイルスを嫌った俺は、敢えて彼女のマスクを裏返して自分の顔に装着したのだ――それが、どうした?
 首を傾げる俺の顔を指差しながら、放談社の男はいった。
「あなたのマスク、表面に口紅が付いてますよ。先生ご愛用の真っ赤な口紅が」
東川篤哉(ひがしがわ・とくや)
1968年、広島県尾道市生まれ。岡山大学法学部卒業。2002年、カッパ・ノベルスの新人発 掘プロジェクト「KAPPA-ONE登龍門」で第一弾として選ばれた「密室の鍵貸します」で、本格デビュー。2011年、『謎解きはディナーのあとで』で第8回本屋大賞を受賞、大ヒットとなる。「烏賊川市」、「鯉ヶ窪学園探偵部」、「魔法使いマリィ」、「平塚おんな探偵の事件簿」各シリーズほか著書多数。テレビドラマ化された作品も多い。近著に『伊勢佐木町探偵ブルース』など。現在「メフィスト」誌上で「居酒屋『一服亭』の四季」連載中。

〈5月10日〉



 夜の駅で、その人と出会った。
 大きなバックパックを背負っていて、明らかに旅をしているように見えた。在来線の駅のベンチに座り、菓子パンを頬張っていた。
 周辺にいた人は、あきらかに、その人を不審そうに見ていた。感染者こそ減りつつあるが、緊急事態宣言は解除されていない。旅をしている人などいない。
 もっとも新幹線も電車も動いている。どうしても、避けられない用で移動する人もいるだろうし、ホテルだってすべてが完全に営業を停止しているわけではない。旅に出たいと思えば、出ることはできる。
 その人が咳き込んだ。一瞬、まわりに緊張が走り、近くに座っていた人がベンチを立った。だが、菓子パンにせただけのようだ。わたしはちょうど未開封だったペットボトルのお茶を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 その人は涙目でペットボトルを受け取った。興味が出て、尋ねた。
「遠くに行かれるのですか?」
 このホームからは夜行列車が出る。たぶん、それに乗るのではないかと思った。
 警戒されるかと思ったが、その人は笑顔で言った。
「人のいないところへ。なるべく人のいないところへ行こうと思いまして」
 そう言った後、言い訳するように付け加える。
「あ、わたしが感染しているというわけではありません……もちろんなにも症状がないところからの推測ですが」
 この病は無症状の人がいるというからやっかいだ。
「母が高齢で、呼吸器を患っているのです。だから家を出ました。収束するまでは戻らないつもりです。一方で移動することによって人に迷惑をかけてしまうのは重々承知です。だから、遠くの人の少ない土地で、家を借りました」
 夜行列車が入ってくる。彼は立ち上がって、お辞儀をした。
「お茶ありがとうございます」
「幸運を祈ります」
 自然に口から出ていた。そう、この人だけでなく、すべての人に。
 その人を乗せた列車は南に向かって走り出した。
近藤史恵(こんどう・ふみえ)
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。1993年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年に『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。その他『私の命はあなたの命より軽い』『ときどき旅に出るカフェ』『シャルロットの憂鬱』『モップの精は旅に出る』『スティグマータ』『スーツケースの半分は』『みかんとひよどり』『歌舞伎座の怪紳士』など著書多数。新刊『夜の向こうの蛹たち』が6月11日に発売予定。
漫画版Day to Dayはこちら

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