『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!③ 【いざ、外乗へ!】

文字数 3,183文字

第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『()(えき)』。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第3回です。
    *
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。





   

 アパルーサに騎乗した駿美は、森の奥へと進んだ。
 自分で歩く時よりも一m近く高い目線で、風を切って走る。土と下草の香りが混じった(にお)いが、蹄を着くごとに舞い上がる。
 馬は、自分の頭の高さまでの障害物は避ける。だが、騎乗者への配慮はない。だから、外乗では、目の前に現れる枝を(くぐ)ったり払ったりする。競技場では味わえない醍醐味(だいごみ)だ。
 数ヶ月ぶりの外乗の楽しさに(ほお)が緩む。(あわ)てて気を引き締める。
(今は、非常事態よ。馬を捕まえるまで油断大敵!)
 駿美は馬場馬術が専門だ。この競技は、二十m×六十mの競技アリーナ内で、演技の正確さや美しさを競う。馬は、常歩、速歩、駈歩(かけあし)の三種の歩様を使って、様々なステップを踏んだり、図形を描いたりする。
 馬とコミュニケーションを取り、「この合図をしたらこの動作」という約束事を決める。一つ一つの動作が、雄大で美しくなるように、人馬一体で努力する。駿美は、そんな馬場馬術のトレーニングが好きだった。
 とはいえ、馬の見栄(みば)えの良さと、素質次第の競技でもある。調教技術だって、歴戦のオリンピック出場馬を作ってきた、海外の凄腕(すごうで)トレーナーには、とうてい(かな)わない。
 駿美は二年前に、世界選手権で銅メダルを取ったブケパロス号を「凄腕トレーナーの今後二年間の調教付きで、三億円」という破格の安値で打診された。相手の厩舎(きゅうしゃ)は、「今後の日本人顧客への宣伝になれば」と採算度外視で提案したようだ。
 馬術競技は、国際大会にしか出ない有力選手も多い。駿美は自分で調教した「一億円の馬」のフランシスコ号で、全日本チャンピオンになった。オリンピックの最低基準点も突破した。だが、もっと良い馬を持つ日本人選手と、オリンピックへの切符を()けて勝てるかと言えば、かなり際どかった。
 もし、駿美がブケパロス号と調教師を手に入れていれば、オリンピック出場は間違いなかっただろう。あるいはフランシスコ号のままライバルと戦って負けたとしても、納得はできただろう。
(でも、人生では、思いも寄らない事態が起きるわ)
 しんみりとした気分になる。我に返ると、アパルーサの動きが重くなっている。(うわ)の空で騎乗していた駿美に、抗議しているようだ。
 馬上から首筋をポンポンと叩いて、馬を元気づける。(あた)りを見回すと樹木の下には熊笹(くまざさ)が生い茂っている。そろそろ森も抜けそうだ。
 電話をかけるために馬を止める。手綱(たづな)を緩めて、馬の首を自由にしてやる。アパルーサは熊笹を引きちぎって、美味(おい)いしそうに食べ始める。
「とねっこ先生? こちら一ノ瀬。今、森を抜けるところ。逃げた馬の現在地は、わかった?」
 木に(さえぎ)られているせいか、利根の声が途切れ気味に聞こえる。
「一般道に出て、北に向かっている。さっき、小淵沢乗馬クラブさんの前で、道の
(りょうはし)
を馬運車で封鎖した。でも、駈歩ですり抜けられたって」
「品種がサラだから、無理させないで」
 サラブレッドの(あし)は、ガラスのように(もろ)い。他の品種と比べて、すぐに()れたり骨折したりする。
 腕時計を見る。騎乗し始めてから三十分。サラが逃げ出してから一時間近く()っている。熱があるし、これ以上、興奮して全力疾走(しっそう)をさせたら、転倒リスクもある。
「町の人も心配だわ。とねっこ先生は、何か聞いてる? 人に被害は、ない?」
「小淵沢だから、警察も適切に動いてくれてる。年に何回も、公道で耐久競技(エンデデュランス)をしている土地(がら)だから、町の人たちも慣れてる」
 耐久競技は、いわば馬のマラソンだ。長ければ百二十㎞、百六十㎞の距離を競う。山の中だけでなく、街の中も馬が走り回る。
 利根の声が続いて聞こえる。
「ちょっと待って……今、ウエスタン・ランチさんの三百mくらい東を、ウロウロしているって。馬パトロール隊が出会ったけど、逃げられたみたい」
 ウエスタン・ランチは佐々木の乗馬クラブだ。
「本部からパトロール隊に、『ウエスタン・ランチを中心に馬で取り囲んで』って伝えてもらえる? 『決して近づきすぎずに遠巻きに』って。私もすぐに向かうから」
 手綱を引いて、アパルーサの頭を熊笹から離す。馬は、不満そうに鼻を鳴らす。
「仕事よ。捕まえたら、たっぷり食べさせてあげる」
 駿美は相棒を励まして、道を急いだ。



   

 問題の馬は、ウエスタン・ランチから、ほんの五十mほどの道路上で座り込んでいた。体調不良と緊張で、立っていられなくなったようだ。パトロールの馬が、それぞれ百m程度の間合いを取って遠巻きにしている。
(気つけ薬も持ってくれば良かった)
 アパルーサが僚馬を見つけて、(いなな)いた。サラブレッドも返事をしようとする。だが、激しく咳き込む。
(やっぱり、馬インフルエンザみたい。パトロールの馬にも、感染したかも)
 駿美は、アパルーサを連れてサラブレッドに近づくべきか、一瞬、迷った。
 だが、馬が道路に座り込んだままでは、(らち)が明かない。駿美は下馬した。意を決して、アパルーサを引いて向かっていく。
 サラブレッドは、腹を地面にペタリとつけて前肢(まえあし)(たた)んでいる。アパルーサが、さらに長い嘶きをする。応答できないのがもどかしいのか、サラブレッドはますます激しく咳をする。
 二頭が出会って、鼻と鼻を突き合わせて挨拶(あいさつ)する。リラックスした仕草を見て、駿美はサラブレッドに、予備の引き手を注意深く付けた。
 遠巻きに見ているパトロール隊に向かって、呼び掛ける。
「引き手、付きました。立たせるのを手伝ってください。まず、オーナーに電話をかけたいので、どなたか、馬を持っていてもらえませんか」
 名前を知らない若い男が下馬して、引き手を預かりに来た。駿美は会釈して渡した。すぐに佐々木に電話をかける。
「サラ先生、そっちの様子は?」
 ワン・コールも数えないタイミングで、佐々木が電話を取った。
「捕まえました。無事です。ただ、他の馬に感染(うつ)る病気のようなので、隔離したいんです。今、佐々木さんの乗馬クラブの近くです。クラブには、他の馬は、いますか?」
「サラ先生、馬を競技場まで連れてきて! 佐々木さんの馬を探したパトロールの馬も!」
 佐々木の電話から、利根の声が聞こえる。
「とねっこ先生? (あせ)った声でどうしたの? 連れて行くのは了解。でも、今、ウエスタン・ランチだから、病気の馬と一緒なら、小一時間は掛かるよ」
 利根が切羽(せっぱ)詰まった声を出す。
「早く帰ってきて。遊佐先生が、オリンピック馬防疫委員会のメンバーと来るって。サラ先生に事情を聴きたいって言ってる。検査キットは使い始めた。ほぼ全頭、陽性だ」
「急ぎ」と言われたにも(かか)わらず、駿美はその場に立ち尽くした。



(つづく)

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