『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!② 【人獣共通感染症とは】

文字数 4,994文字

第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『()(えき)』。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第2回です。
    *
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。





「駿美ちゃん。ステファンたちは大丈夫?」
 年子の姉の駒子(こまこ)だ。息せき切って、()け寄ってくる。小柄で豊満な姿は「世界一妖艶(ようえん)な馬」と呼ばれるアンダルシアンのようだ。
「ここは立入禁止よ。来ちゃダメ!」
「獣医さんが馬体検査をしてくれないと、貸与馬の審査会が始められないって、オーナーさんたちが困ってるよ」
 駒子が隣に来ると、三宅は露骨に相好(そうごう)を崩した。
「駒子ちゃんは、さすがに、一ノ瀬乗馬苑(じょうばえん)の後継ぎだ。乗馬関係者の気持ちが、よくわかっているね。オリンピック出場も、ほぼ決まりだろう? 有望だった一ノ瀬先生が、資格取りに失敗したから、駒子ちゃんは頑張らないとね。『小淵沢の星』だから」
「総合馬術の最終選考は六月ですから」
 駒子は遠慮がちに応える。
 駿美は、ムカムカする気持ちを懸命に抑えた。
(私がオリンピックに行けなくなった事情を知っているくせに。嫌味(いやみ)な人)
 駒子は話を逸らすためか、病気の馬に話し掛ける。
「あっ、ステファン。(つら)そうね。早く良くなってね」
 駿美は駒子の言葉を聞いて、首を愛撫(あいぶ)した馬が、実家の一ノ瀬乗馬苑の所有馬であると知った。
 栗毛に大きな(さく)の入った、少しとぼけた顔のステファンを、今更ながら念入りに観察する。さっき熱を測ったら、四十℃だった。急な発熱、発咳(はつがい)、洟水。感染力の強さ。どう見ても、馬インフルエンザだ。
 駒子は「可愛くて(たま)らない」とアピールするように、駿美の目の前で、わざわざマスクをはずしてステファンの鼻筋に接吻(せっぷん)した。
 駿美は思わず大声を上げた。
「駒子がやると、乗馬クラブの会員さんも真似(まね)するから、()めて! 鳥インフルとか、コロナとか、人獣(じんじゅう)共通感染症って聞いたことあるでしょ。動物と濃厚接触はダメだよ」
「ごめん、ごめん、つい癖で」
 駒子は悪びれずに応えた。駿美は(こわ)い顔を作ってみせる。
「それに、その馬、十中八九、馬インフルだよ。コロナと同じ、感染症だよ」
 利根と三宅が、ギョッとした顔をする。駒子が小首を(かし)げる。
「馬インフルって、人には感染(うつ)らないよね。駿美ちゃんが教えてくれたよ」
「確かに、馬インフルは感染(うつ)らない。だけど、馬から人に感染(うつ)る病気だって、あるよ」
「たとえば?」
 駿美は咄嗟(とっさ)に答えた。
「変異型のベネズエラ馬脳炎とか」
「……ここは日本だよ」
「人間から馬に感染(うつ)るものもあるよ。ええと……虫歯とか」
 駿美がしどろもどろになると、駒子は「ウンウン」と(うなず)いた。
「私は駿美ちゃんと違って、難しいことはわからない。でも、駿美ちゃんが懸命に馬の病気と戦っているのは知ってる。可愛がるにしても線引きが大事なのはわかったから、気をつけるね」
「うん、ありがとう。できれば、駒子から会員さんに説明してあげて」
 利根が横入りする。
「でも、実際のところ、乗馬クラブではお客さんの濃厚接触は止められないよ。日本の乗馬業界は立場が弱い。乗馬愛好者を何とか増やして、盛り立てないと」
 日本では、競馬業界が圧倒的に力を持っている。乗馬業界は、競馬の収益から補助金を(もら)っているし、オリンピックを取り仕切るのも、競馬関係者ばかりだ。
 三宅が、したり顔をして話に加わる。
「だから、乗馬関係者の立場が、これ以上に弱くなるような事態は、避けないとな。乗馬で感染症が発生するとか」
 駿美は三宅の言いたいことはわかったが、否定した。
「でも、馬インフルを隠した事実を知られたら、余計に乗馬業界の立場が悪くなると思いませんか? 真実は隠しちゃダメです。どんなに辛い状況でも真実は貫かないと、後からもっと(ひど)い事態になりますよ」
 場が白けたような気がする。駿美がさらに言葉を重ねようとすると、馬運車(ばうんしゃ)が隔離馬房の()(そば)までやってきた。運転席から転がるように降りてきたのは、佐々木(ささき)哲也(てつや)だ。
「サラ先生、とねっこ先生、うちのが逃げた! 放馬(ほうば)だ! 耐久競技(エンデュランス)のコースを抜けて、競技場の外に出そうだ」
「警察には連絡しましたか? 誰か馬を追っていますか?」
 駿美の質問に、佐々木は二度コクコクと頷いた。
「競技場で手の空いていた何人かが、馬運車で追ってる。捕まえる時に鎮静薬が必要かもしれないから、獣医を連れて行けって言われた」
「逃げた馬の品種は何ですか?」
「サラブレッド」
 佐々木の答えに、駿美は、げんなりとした。
 海外に、こんな(ことわざ)がある。『馬が驚くのは、たった二つのものだ。一つは動くもの。もう一つは動かないもの』。つまり、「何を見ても驚く」と告げている。まさに、サラブレッドの特性だ。
 サラブレッドは、競馬のために生産される。日本では比較的、温厚な性格のサラブレッドが、競馬を引退して乗馬クラブに引き取られる事案が多い。
 海外の乗馬関係者には「日本は、F1レースの車を自動車教習所で使う」と揶揄される。それくらい、サラブレッドを乗馬初心者が乗りこなすのは難しい。そもそも、早く走らせるために三百年間、ピリピリとキレ(やす)い性格になるように育種・育成されてきたのがサラブレッド種だ。
 駿美は念のために(たず)ねた。
「どんな性格の馬ですか?」
「かなり神経質で、臆病だ。馬運車も嫌いで、乗せる時にいつも苦労する。だから、今日は仲の()帯同馬(たいどうば)を連れてきて、先に馬運車に乗せた。だけど、嫌がって逃げた。乗馬クラブと競技場内しか知らないから、外の道に出たら混乱すると思う」
 馬運車が苦手なら、車両で追い詰めるのは逆効果だ。
「周辺の乗馬クラブに連絡して、パトロールの馬を出してもらってください。それから、帯同馬は今、どこにいますか?」
「捕まえる時に仲間を見せて落ち着かせようと思って、この馬運車に積んだままだ」
 馬運車の中から、前搔きの音が聞こえた。窓から(のぞ)くと、腰の部分に特徴的な水玉模様が見える。
「佐々木さんのところのアパルーサなら、トレッキング・ホースですね。良かった。私が騎乗してもいいですか」
 競技会に出る馬を、野外で乗り回して怪我(けが)をさせるわけにはいかない。だが、トレッキング・ホースは、お客さんがのんびりと外乗(がいじょう)(野外騎乗(きじょう))するための馬だ。
「もちろんいいけど、こんな駄馬(だば)で大丈夫? サラ先生の腕前でも、大したスピードは出ないよ」
「逃げた馬の友達が一番ですよ。逃げた馬に近づけたら、鎮静薬を打って、競技場まで引いてきます。余裕があれば佐々木さんに電話します」
 駿美は肩越しに三宅に声を掛けた。
「メデトミジンを持っていきます」
 獣医委員会の薬箱から鎮静薬のメデトミジンの小瓶(こびん)を取り出して、ウエスト・ポーチに入れる。
注射用のシリンダーと針、アルコール綿も準備する。
 唐突(とうとつ)に佐々木が声を上げた。
「大事なことを言うのを忘れてた。うちのサラブレッド、熱が三十九℃から下がらないから、審査会に出さないで帰ろうとしたんだ。馬運車に積もうとしたら、逃げた。道端(みちばた)かどこかで、熱で、へたり込んでいるかもしれない」
 佐々木は、カウボーイ・ハットを脱いで、申し訳なさそうに頭を下げる。
(三十九℃の熱? まさか、逃げた馬もインフルエンザ?)
 駿美は、難しい顔をしていたようだ。佐々木は、さらに腰を低くする。
「放馬なんて、乗馬クラブを作ってから初めてだ。獣医さんは審査会で忙しいのに、本当に申し訳ない」
 幼い頃からカウボーイに(あこが)れていたと自慢する佐々木は、定年後に小淵沢町で馬と暮らす生活を始めた。五年前には、ウエスタン乗馬のクラブを作って、今でも毎日、野山を走り回っている。
「無事に捕まえることだけ、考えましょう。駒子、角砂糖か黒糖を持っている?」
「両方あるよ。他に何かやることは、ある?」
 駒子から馬の好物を受け取りながら、駿美は考えた。
「佐々木さんの馬は、私とパトロール隊でどうにかできそう。ここにいる病気の馬たちを何とかしたいの。インフルエンザの検査を、駒子からもお願いして」
「三宅先生、とねっこ先生、お願いします! このとおり!」
 駒子は(うる)んだ目で三宅と利根を見つめ、手を合わせた。三宅と利根は顔を見合わせて苦笑する。
「三宅先生、ここは折れましょう。駒子ちゃんの色仕掛けで折れないと、サラ先生の鍛え抜かれた足でキックされますよ」
 利根の言葉に、三宅が渋々同意する。
 駿美は利根を軽く睨んだ。
「とねっこ先生、遊佐先生に『一ノ瀬が、競技場の馬がインフルエンザ疑いだと言ってる』って、連絡してもらえる?」
「わかった。任せて」
「それから、駒子。検査が終わるまでは、候補馬たちは全頭、競技場から動かしたくないの。熱が三十九℃以上あったり、咳や洟水を出していたりする馬は、隔離馬房まで連れてきてほしい。……オーナーさんたちに伝えたら、従ってくれるかしら」
 駒子は、のんびりとした声で受け答える。
「大丈夫でしょ。放馬でどのみち、審査会どころじゃないし。遊佐先生と、家にいるお父さんにも協力をお願いしておく」
「ありがとう。よろしく。三宅先生、北杜市の保健所に……」
 三宅は最後まで聞かずに、断言した。
「簡易検査キットだろう。わかった。遊佐先生が来る前に、持ってこさせる。その代わり、逃げた馬が子供の頭を()ったりする前に、必ず捕まえてくれよ」
(相変わらず一言多いなあ)
 駿美は気を取り直して、軽くいなした。
「わかっています。とねっこ先生には、逃げた馬の現在地の情報も、お願いしていい?」
「たぶん、大会本部がトランシーバーで、パトロール隊と連絡し合うよね。本部棟で待機して、サラ先生から電話があったら、教えるよ」
 競技場の本部棟二階には、百人の講習会が開ける会議室がある。捜索本部を置くのに相応(ふさわ)しい。
「助かるわ。あとは万が一、馬が怪我をしてた時のサポートを相談しておいてくれると嬉しい」
 駿美は余裕たっぷりに見えるように、全員を見回して会釈(えしゃく)をした。続いて、馬装(ばそう)に取り掛かる。
悪路に備えるため、競技場内で馬場馬術をする時よりも、(こぶし)一つ分くらい鐙革(あぶみかわ)を短くする。
 馬装を終えると、駿美は颯爽(さっそう)と乗った。常歩(なみあし)で準備運動を始める。反応の良い、素直な馬だ。この馬ならきっと、逃げた馬を根気よく探すのを手伝ってくれる。
「佐々木さん。この馬、物見(ものみ)はしますか?」
 佐々木は、駿美の騎乗をじっと見ている。どうやら合格のようだ。佐々木は笑顔で返答した。
「水()まりと動物。サラブレッドじゃないから、葉っぱが落ちてきたくらいじゃ、驚かない」
 駿美は思わず空を見上げた。雲一つない。水溜まりの心配はしなくてよい。
「動物だけ心配ですね。道中で鹿(しか)(いのしし)に会わないように、祈っておいてください」
 駿美は馬の腹に圧を掛けて、歩様(ほよう)速歩(はやあし)にした。皆の前で一周、輪乗りをしてから、逃げた馬の行き先へ向かった。


(つづく)

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