西川美和×六角精児『すばらしき世界』公開記念対談【前編】

文字数 4,943文字

小説『身分帳』から映画『すばらしき世界』へ。

ーー西川美和監督の新作映画『すばらしき世界』が二月十一日から公開されます。本作は西川監督が初めて原案小説をもとに製作された映画ですが、原案となっているのは、「群像」一九九〇年四月号に掲載された佐木隆三さんの長篇小説『身分帳』です。映画化に合わせて復刊された『身分帳』文庫版の「復刊にあたって」で西川監督は、二〇一五年に亡くなった佐木さんの訃報記事で『身分帳』の存在を知ったと書かれていますが、なぜ本作に関心を持たれたのでしょうか。


西川 佐木さんが実在の連続殺人犯・西口彰をモデルに書かれた『復讐するは我にあり』は今村昌平監督の映画を観たあと原作を読んで、初めて佐木作品の魅力に触れました。それから佐木さんの犯罪小説や裁判傍聴記はいくつも読んでいたのですが、『身分帳』という小説も、その言葉の意味も知りませんでした。でも訃報記事の中で作家の古川薫さんが、佐木さんの代表作は『復讐するは我にあり』とされているけれども、自分としては『身分帳』が彼の真骨頂だと思う、と書かれていたんです。当時ちょうど撮影の合間で少し時間があったので、インターネットで調べたらすでに絶版でしたが、中古本を取り寄せて読んでみると、ページをめくる手が止まらない。


 『身分帳』は、過去に殺人を犯した男が刑務所から出てきて社会生活に入っていく、ただ普通の生活を描いただけの地味な話なのですが、ほとんど裏社会と刑務所でしか生きてこなかった主人公が、日常を取り戻すために衝突と挫折を繰り返す。その一つ一つが冒険小説を読むように新鮮で。こんなにも切実な物語があるだろうかと、すっかりのめり込んでしまったんです。この面白い小説が絶版で今は誰も知らない、ならば私がこっそり映画化しよう、映画化すれば本も復刊されて、この面白さにもう一度気付いてもらえるんじゃないかと。それが出発点でした。



ーー六角精児さんは『すばらしき世界』の中で主人公と親しくなるスーパーの店長を演じておられますが、以前から『身分帳』を読まれていたそうですね。


六角 読んだのは一九九〇年代後半だったと思います。佐木さんの『わたしが出会った殺人者たち』という本にも『身分帳』のことが載っていて、主人公の山川一のモデルになった人に自分の話を小説にしてくれと頼まれて、『身分帳』が本になった後、彼が亡くなって佐木さんが喪主を務めるまでの経緯が書かれていました。

僕は映画『復讐するは我にあり』も大好きだったし、なぜか裁判の冒頭陳述を読むのが好きなんですよ。『身分帳』もそういう興味で読んだのですが、たしかにすごく平凡な日常の話ですよね。主人公は殺人を犯しているんですが、殺人者の話というより、普通の中年男の生活をそのまま描いたようなイメージでした。佐木さんは犯罪小説をたくさん書いていますが、こういう切り口はなかったと思う。犯罪小説の中では異色だなと思った覚えがあります。



ーー佐木さんが『身分帳』のモデルの人物と出会ったのは彼が出所後、佐木さんのところに前科十犯の受刑歴や生育歴が詳細に記された「身分帳」の写しを送ってきて、これで小説を書いてほしいと頼まれたのがきっかけでした。「身分帳」は本来、刑務所の内部資料で門外不出なのですが、彼は自分の裁判の際に被告人の権利で全部書き写していたんですね。一般には見られない資料だから佐木さんも興味を持って、そこから付き合いが始まった。小説『身分帳』は出所後の彼の生活を描きながら、随所に「身分帳」の記述が挿入される形になっています。


西川 私は『身分帳』の映画化のために、主人公・山川一の手掛かりを求めて、三年かけていろんな人に会って話を聞いたのですが、関係者以外はこの小説の存在を知っている人がほとんどいなかった。「佐木隆三さんの『身分帳』という小説があってですね」と言って反応があったのは唯一、現金輸送車強盗をして何年間か刑務所にいた人だけでした。刑務所の中には「官本」といわれる、受刑者が自由に読める本があって、その官本で読んだと言うんです。


六角 官本で読んだ人がいるんだ。


西川 ええ。やっぱり自分たちの境遇に近いものに興味がいくそうで、「それまで読書なんかしなかった人でも、刑務所のなかではやることがないから、ものすごく読書家になるんですよ」とおっしゃっていた。でもそれ以外は誰も知らなくて、台本を読んだ六角さんに、「これ『身分帳』ですか?」と言われたとき、ああ、うれしい! 読んだ人がいたんだと。それくらい、今はほぼ完全に忘れられている本なのだと、取材の過程で実感したんです。こんなふうに山川一の人生も、佐木さんがこれを書いた思いも全部忘れられてしまっていいのかと、なにか義憤のようなものが湧き上がってきて。


 六角さんがなぜか冒頭陳述を読むのが好きだという、その気持ち、私にもすごく分かるんです。別に自分で誰かを殺したいと思ったわけでもないけれど、何か犯罪を描いたものに惹かれてしまう。


六角 こういう言い方をすると語弊があるかもしれないけど、社会から外れてしまった人の話が、僕はきっと好きなんですよ。何かそういう空気に触れたい気がする。


西川 私もそうです。今回の映画で主役を演じてくれた役所広司さんとずっと仕事をしたいと思っていたのも、十七歳の時に役所さんが西口彰の役を演じた「実録犯罪史シリーズ」というフジテレビのドラマを見たからです。当時私は「実録犯罪史シリーズ」をすごく楽しみにしていて。そんな女子高生なんて奇妙な感じだけど、誰から刷り込まれたわけでもなく、そこに吸い込まれていたんですね。

■社会の見えない部分を描く


ーー『身分帳』では、終戦後の混乱の中で孤児として育ち、裏社会に入って犯罪を重ねた主人公が、通算二十三年間の刑期を終えて昭和六十一年に世の中に出てくるわけですが、映画では舞台を三十五年後の現在に設定されています。


西川 今でも刑務所から出てきた元服役者が社会に適応できなくて、また別の罪を犯して刑務所に戻ってしまう、理由を聞くと「刑務所に戻りたかった」という話をよく聞くから、『身分帳』を読みながら、三十五年前も今も変わらないんだろうなと思いました。

ただ、『身分帳』は戦後史のアウトサイドの一幕として貴重な記録だと思います。戦争孤児のように親のない子どもたちが、戦後の社会でどういうふうに生き凌いで、いわゆる裏社会の構成員になっていったか。ヤクザという存在が今、世の中からものすごいスピードで排除されつつある中で、そういう集団がなぜ日本に生まれて、そこがどういう人たちの生き場所だったのかということが、『身分帳』から垣間見えた気がした。これを一切割愛せずに連続ドラマで映像化すれば非常に見ごたえがあるだろうと思いました。ただ私が作るのは二時間前後の映画ですし、予算的にも時代物を扱う余裕がない。悩みましたが、原案を現代に置き換えて、出所後の人がどうやって生活していくかというところを描く方向に落ち着いたんです。


六角 育った環境の中で、いわゆる裏社会へ行かざるを得ない人たちは今でもいるだろうし、昔はもっといた。そういえば『身分帳』の山川は、しばらくアメリカ人に育てられたりしていますよね。


西川 ジミーと呼ばれて進駐軍のアメリカ人将校の家で暮らして、彼らが帰国したあと養護施設に落ち着かず、非行少年として暴力団の事務所に出入りするようになっていくんです。


六角 西川さんもおっしゃるように、そういう行き場のない人たちにとって、一つの落としどころとしてあったのが反社会的な集団だった。社会からはみ出た人たちの集団として割と成立してた気がするんですよね。でも今は、反社会的勢力の人たちは銀行口座も作れない。そうすると世の中に収まりどころのない人たちは、どうやって生きていくんだろう。今も刑務所から出てくる人はたくさんいるはずだけど、僕らの周りにはあまりいないじゃないですか。彼らはどこにいるんだろう。社会には僕らの目に見えない部分がいっぱいあるんだと感じますね。


 以前、劇団の旅公演のとき、舞台セットを運ぶトラックの運転手だった人とよく遊んでたんだけど、あるとき一緒に風呂に入ったら、その人の背中に筋彫りが入ってて、「実は若い頃、人を殺めちゃいまして。それで自分にけじめ付けるために入れたんです」って言うんですよ。何のけじめなのか分からないけど。それを聞いた後で、またその人が「六角さんトランプしましょう」って誘いに来たとき、何か遠ざけちゃったんですよね。そんな自分が嫌なんだけど、つい遠ざけちゃったんだ。もう二十年ぐらい前の話だけど。


西川 ああ、分かるなあ。



ーー『すばらしき世界』の中で六角さん演じるスーパーの店長は、最初は主人公の万引きを疑って、その後仲良くなる。主人公の社会との接点として貴重な人物ですね。


六角 そうです。彼は映画でも『身分帳』でも町内会長をやってましたね。


西川 そこはちょっと悩みました。今は地域社会みたいなものが三十五年前よりさらに薄まっているから、スーパーの店長との関わりに果たしてリアリティがあるだろうかと。発表当時、『身分帳』に対して「周囲の人が善人ばかりで不自然だ」という批判があったと佐木さんが書いておられましたが、今はますますもって難しい。たまたま知り合った他人が、家に来たりお金を貸してくれるような人間関係はなくなっているから、映画として夢物語みたいに見えてしまうかもしれない。この人物を切るべきか、生かすべきかと悩んだんです。


六角 なるほどね。


西川 ただ、そういうものが本当に、完全にないのかと言えばそうではないと思うので。善人ばかりと言われながらも、この主人公の周りにいるのは数えるほどの人数じゃないですか。その小さな関わりの中から、社会で生きていくことの難しさを改めて感じたり、それでもそこに救われていったりという物語がある。だから私はこの店長を切れないなと思って、映画でも生かしたんです。


六角 たとえ多少デフォルメがあったとしても、そういう善人的な人が周りにいなかったら、この主人公の存在がちょっとぼやけてしまったかもしれない。この「すばらしき世界」というタイトルは、「まんざら捨てたもんじゃねえ」ってことでしょう。取り立ててベタベタしてるわけじゃないけど、人のことを全く見てないようで見てるし、見てるようで見てないし、世の中ってそういう部分があると思うんです。大したことはねえけど、まんざら捨てたもんじゃないっていう塩梅になっている。僕が演じたスーパーの店長の存在自体がそれじゃないかと。


西川 そうですよね。「すばらしき世界」というタイトルも、本当に悩みました。私は『身分帳』という、まあ何というか、人を引き付けないタイトルも含めて好きだったんですよ。


六角 「身分帳」ってさ、いつの言葉なんだろうね。身分って、すごいよね。


西川 ねえ。


六角 冒頭陳述もそうだけれど、「身分帳」の文体は全く温度のない言葉で淡々と書かれている中に凄みがある。フィクションではなく事実だけを述べていることの凄みみたいなものが、直かに伝わってくる読み物だと思います。


西川 そうですね。この小説の中には、「身分帳」だけじゃなくて、精神鑑定書とか裁判の記録もそのまま挿入されている。六角さんのおっしゃるとおり、飾り気がない言葉の中に、刃渡り何センチとか傷が何ヵ所とか、ぞっとするようなリアリティとか生々しさがあるんですね。


六角 看守の言葉とかにも、リアリティがある。


西川 ありましたね。




→ 西川美和×六角精児『すばらしき世界』公開記念対談【後編】につづく

映画『すばらしき世界』

二月十一日(木・祝)より全国公開

出演:役所広司 仲野太賀 橋爪功 梶芽衣子 六角精児 北村有起哉 白竜 キムラ緑子 長澤まさみ 安田成美

脚本・監督:西川美和

原案:佐木隆三著「身分帳」(講談社文庫刊)

配給:ワーナー・ブラザース映画

https://wwws.warnerbros.co.jp/subarashikisekai/

「群像」2021年3月号より
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