『傷モノの花嫁』第1話の試し読み(4/4)
文字数 2,385文字
───シャラン。
この時、胸元に秘めていた簪が床に零れ落ちた。
それは十四の誕生日に、若様が贈ってくれた銀製の簪だ。
私はハッとして、慌てて簪を拾い上げ、震えながら胸元で握りしめた。
「お前、その簪は……」
若様が、ますます嫌悪感を滲ませた表情で何か言いかけた。その時だった。
「おいおい。何の騒ぎかと思って来てみれば。清廉潔白な白蓮寺家の方々が、寄ってたかって〝傷モノ〟いじめか?」
襖の開いたところに、いつの間にか黒髪の男が佇んでいた。
私は、前髪の隙間から見たその男の〝赤い瞳〟に覚えがあった。
あの人は、昨日、泉で私に声をかけてきた男の人だ。しかし昨日の和装姿とは違い、この辺ではあまり見ない洋装姿で帯刀している。
知っている。あれは──皇國陰陽寮・退魔部隊の制服だ。
「紅椿のご当主……っ」
若様が少し慌てた様子で、その男に頭を下げる。
「も、申し訳ありません。白蓮寺の人間が……その、不祥事を」
「不祥事?」
紅椿の男はこの部屋を隅々まで見渡している。
「傷モノの娘が、我が子に危害を加えようとしていたところを、妻が発見し……」
「はああ。何を言っておられる、白蓮寺の若君」
紅椿の男は呆れたため息をついた。そして、懐から取り出した長い針のようなものを、天井に向かって投げる。
「!?」
長い針は天井に突き刺さり、数匹の妖蟲が針に貫かれた状態で姿を現した。強制的に擬態を解かれたのだ。
妖蟲はこれ以上隠れるのは無理だと判断したのか、キラキラとした鱗粉を撒き散らしながら、一斉に紅椿の男に襲いかかる。
しかし紅椿の男は余裕の笑みを浮かべ、抜刀──
一瞬にして無数の妖蟲を斬り捨てる。妖蟲は禍々しい模様の羽を、ハラハラと床に散らして死んだ。
若様と暁美姉さんは呆気にとられた顔をして、一連の流れをただただ間近で見ていただけだった。紅椿の男は刀を鞘に収めつつ、暁美姉さんの抱える赤子を横目で見る。
「その赤子、今斬り捨てた妖蟲どもに、皮膚を齧られているぞ」
「妖蟲に!?」
「なぜ妖蟲なんかが白蓮寺の里に……っ」
驚愕する暁美姉さんと若様に対し、紅椿の男は淡々と答えた。
「結界の隙間を見つけたのか、どこかから忍び込んだようだ」
いつの間にかこの場に集っていた里の人間たちは、この話を聞いてざわついた。屋敷の結界や、村を囲む注連縄の様子を確認しに行く者たちもいる。
そんな慌ただしい様子を見送りつつ、紅椿の男は壁際で縮こまった私を指差し、若様と暁美姉さんに告げた。
「そこの娘はいち早く妖蟲に気がつき、あなた方のご息女を庇ったのだろう。その娘にも妖蟲に齧られた跡がたくさんある。まあそれ以外の暴行の傷も凄まじいが……その娘が守らなければ、ご息女は骨になっていたかもしれないぞ」
「…………」
「白蓮寺家の次期当主と、その奥方ともあろうお方が、どうしてそれに気がつかない」
若様と暁美姉さんは、何も言えずに突っ立っていた。
そこに白蓮寺の奥様が険しい顔をしてやってくると、赤ん坊を見るなり暁美姉さんから赤ん坊を奪い取り、慌ててどこかへ連れていく。おそらく手当てをするのだろう。
その一方で、紅椿の男はスタスタと私の方へとやってきた。
「おい、大丈夫か」
項垂れている私に声をかけ、目の前でしゃがみ込む。
側に人が来たことで私は反射的にビクリと体を震わせ、自分の体を抱いて、その人に背を向ける。
これ以上は痛い思いをしたくなくて、ガタガタと体を震わせていた。
「怯えるな、何もしない」
「…………」
「傷を見せろ。あちこち血が出ているぞ」
紅椿の男は怯えてばかりの私の腕を、グイと強く引く。
「あ……っ」
その反動で前髪がなびき、私はここ三年ほど猿面で隠し続けた素顔を、面前で見られることになった。
「…………」
紅椿の男は、しばらく目を見開いて、驚いたような表情をしていた。
私はというと、涙で濡れて怯えきった顔のまま、ただただ震えている。
こめかみから流れる血が、ツー……と頰を伝い、紅椿の男の手に零れた。
しまった、と青ざめたが、紅椿の男は何を思ったかその血を自分の口元に運びペロッと舐める。
「!?」
穢れている傷モノの血を、あろうことか舐めてしまったこの男に対し、私も若様も暁美姉さんも、ただただ驚愕していた。しかし男は、じわじわと口角を上げ、
「あっははははははは」
なぜか、大笑い。
その笑い声に私はビクッと肩を震わせる。この場にいた白蓮寺の一同も、びっくり。
「なるほど。いい血だ。そういうことか。今朝の朝餉を作ったのはお前だな」
「え……」
「血に含まれた霊力でわかる。さすがは白蓮寺家、実に美味い朝餉だ……と思っていた。そこの奥方が拵えたと聞いていたが、少々霊力の質が違うのではと疑問に思っていたところだ」
「んな……っ」
暁美姉さんが顔を真っ赤にさせていた。
その隣で若様が「え」という顔をしている。
若様はきっと、本家の朝餉はずっと暁美姉さんが拵えていると思っていたのだろう。
しかし、若様や暁美姉さんの反応には興味がなさそうな紅椿の男は、
「お前、名は?」
ぐいと私の方に迫り、問いかける。
私は目を泳がせ、今もまだじんじん痛む体を竦ませながら、掠れ声で答えた。
「な……なお……」
「あ? 声が小さい。泉ではもっとデカい声を聞いたが?」
「な、菜々緒……です……っ」
「……そうか。菜々緒か。愛らしい名だ」
男は赤い瞳を細め、不敵に笑う。
「俺は紅椿夜行。紅椿家の当主だ」
そして、何を思ったのか。
紅椿夜行と名乗ったその男は両手で私を抱き上げ、白蓮寺の人間たちがいる前で、こう告げたのだった。
「いいだろう。菜々緒。───今日からお前が、我が妻だ」
だが、夜行には一族代々伝わるある呪いがかけられており――。
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