『傷モノの花嫁』第1話の試し読み(3/4)
文字数 2,979文字
翌日も朝早くに目を覚まし、沐浴をして本家の台所に上がり、朝餉を拵えた。
作り終えた後、いつものように握り飯を貰って家に帰ろうとしたが、女中の槙乃によって引き止められる。
「今はお待ち。紅椿家の連中が外をうろついている。お前のような一族の恥を見られたら、あたしが奥様に叱られちまうよ」
「…………」
格子窓から外を見ると、確かに、外には紅椿家の者と思われる黒い袴を纏った人間がウロウロしている。人間だけでなく、顔に紙を貼り付けた式もいる。
「ちっ。嫌だねえ、この白蓮寺の里にあやかしがいるなんて。しかもありゃ、鬼だよ……」
槙乃は嫌悪感でいっぱいの、歪んだ表情をしていた。
白蓮寺家の人間は、あやかし嫌いで潔癖なところがある。
一方、紅椿家は退魔を生業としているから、人と主従の契約をした〝鬼の式〟を引き連れていたり、帯刀していたりして、出で立ちが物騒だ。
纏う空気も緊張感があるというか、ピリピリとしている気がする。
「しっかし紅椿の新しい当主はとんでもない色男だったよ。昨日チラッと見たんだけどさ」
「…………」
「白蓮寺の娘たちがそれはもう大騒ぎだ。あんな色男に嫁いで、都会で華やかな暮らしができるんだから無理もないか。ああ、どの娘が花嫁に選ばれるんだろうねえ。あたしに亭主がいなければ……」
頰を両手で包んで体をくねらせる槙乃をじっと見ていた。
槙乃はハッとして、ゴホンと咳払い。いつもの冷たい目をして私に言った。
「昼には奥殿で嫁選びの宴会が催される。お前はその時お帰り。きっとこの辺に人はいなくなるだろうからね」
私はコクンと頷いて、しばらく土間の隅でうずくまっていた。
女中は客人が来ていて忙しいのか、それとも紅椿家の当主の嫁選びを見に行っているのか、みんな出払っている。
しばらくずっと、とても静かだった。
私も土間の隅でうたた寝をしていた──その時だった。
「きゃああああああああ!」
「!?」
突然女性の悲鳴が響き、思わずビクッと体を震わせ顔をあげた。驚いて固まっていると、オギャアオギャアと、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
「……っ」
ズキン、と強く額の傷が痛んだ。どこからか禍々しい妖気を感じ取ったのだ。
まさか何かが、結界をすり抜けて白蓮寺の里に入り込んだんじゃ……
嫌な予感がする。額の傷がズキズキと疼いて、猩猩に攫われた時の恐怖を思い出していた。心臓は高鳴り、冷や汗をかいていたけれど、一方で赤ん坊の泣き声がとても気になる。
どうしよう。どうしよう……
私は小刻みに震えながらも、ゆっくりと立ち上がり、厨房から屋敷の奥へ、奥へと、赤ん坊の泣き声のする方へと向かった。
屋敷の人間が一人もいない。
みんな紅椿の当主の嫁選びが気になって、奥殿に行ってしまったのだろうか。
「オギャア、オギャア」
泣き声のする部屋を覗くと、畳の上に倒れて気を失っている乳母と女中の姿が目に飛び込む。そして、小さな布団に寝かせられて泣き喚く赤ん坊が。
この子は、若様と、暁美姉さんの赤ん坊──
部屋の中は嫌な妖気で満ちており、ヒラヒラと蛾のような羽虫が飛び交って、キラキラと細かな鱗粉を振り撒いていた。そして無数の羽虫が赤ん坊の体に集まっていた。
ミチミチ……ミチミチ……と妙な音がする。羽虫が赤ん坊の体の肉を齧っている音だ。私はとっさに羽虫を手で振り払い、赤ん坊に覆い被さる。
これは、妖蟲だ。
確か、蟲の姿でありながら、人間の肉を好んで食うあやかしだと本で読んだことがある。特に赤子の柔らかな肉が好物だと。
倒れている女中は鱗粉の妖気に当てられているようだ。本家のお屋敷は何重もの結界で守られているのに、どうして妖蟲のようなあやかしが侵入しているのか。
「い……っ」
痛い。痛い。妖蟲が私の皮膚をも齧っている。急いで助けを呼ばなければ。
「だ、誰か……っ」
叫ぼうとして、ハッとした。
本家のお屋敷で叫んだりしたら、私はきっと酷い折檻を受けるだろう。
でも……この子は本家の、若様の、大事な御子だ。
お叱りを受けてもいい。第一に守るべきはこの赤ん坊なのだ。
そう決意し口を開けた、その時だった。
「きゃああああああああ!」
突然、甲高い悲鳴が部屋中に響いた。
「何やってるの! 私の子に触らないで!」
開け放っていた外廊下側の襖から、本家の若奥様である暁美姉さんがやってきて、赤子に覆い被さる私を思い切り蹴飛ばした。
私は体を壁に打ち付け、ゲホゲホとむせる。
「ち、ちが……っ、私は」
蛾のような姿をした妖蟲は天井に張り付き、スーッと姿を消す。擬態して隠れているのだ。暁美姉さんはそれに気がついていない。
「お前! 菜々緒! 私に何もかも奪われたからって、私と若様の子を殺そうとするなんて……っ!」
「そんな……っ、違うの、暁美姉さ……」
「お黙り! 誰が喋っていいと言った!」
私が何か言おうとすると、暁美姉さんは赤ん坊を抱きかかえたまま、私を何度も何度も蹴りつける。
「猿臭い、猿臭い、猿臭いのよ! 猿のくせに一丁前に私に嫉妬なんかして! それとも何!? 復讐のつもり!? お前は死んだも同然なの! 私に負けたのよ!」
暁美姉さんはわけのわからないことを喚き散らし、赤ん坊はオギャア、オギャアと泣いている。その間、私はひたすら体を縮こめて、蹴りつけられる痛みに耐えていた。
「おい暁美! 何事だ!」
白蓮寺家の若様も、騒ぎを聞きつけてやってきた。
意識が朦朧とする中、私は「助かった」と思っていた。
若様なら天井の妖蟲に気がつくはずだ。そして私のやろうとしたことも理解してくれるに違いない。
暁美姉さんはハッとして、赤子を抱えたまま若様に訴える。
「若様! 菜々緒が、菜々緒が……っ。私に嫉妬して、大切なこの子に怪我を!」
「何!?」
私はふらふらと立ち上がり、何度も首を振り、掠れた声で訴える。
「ち、違います、違います若様。この部屋には、妖蟲が……っ」
妖蟲は一匹いるとどんどん増える。かつて花嫁修業で読んだ本にそう書いてあった。
もしかしたらもっと、敷地内に入り込んでいるかもしれない。大量の妖蟲は、白蓮寺家の人々に甚大な被害をもたらすかもしれない。だが、
「傷モノの分際で、何ということを!」
愛娘が怪我をしているのを見て若様は激昂し、今まで見たこともないような怒りの形相で、私の左耳辺りを思い切り打った。
その勢いで猿面が外れ、私は体勢を崩し、部屋の簞笥に頭をぶつける。ぶつけた頭を押さえながら、私は痛みに震え、その場にしゃがみ込む。
「情けをかけ、お前を白蓮寺に置いてやっているというのに……っ、お前という奴は身も心も穢れきってしまったのか!」
左耳の辺りがジンジンと熱く、ぶつけた頭部の一部がとても痛い。
だけど頭の中は真っ白で、目眩がして、若様の声も遠のいていく。
頭部から血が流れ、こめかみ、頰、顎を伝って、ボタボタと畳の上に零れ落ちた。
「ひっ、傷モノの血」
「そ……っ、その血で本家の屋敷を穢すな! 愚か者!」
暁美姉さんと若様は私から少し距離を取った。傷モノの血は妖気に汚染されていて、触れた者にも穢れが感染る、などと言い伝えられているからだ。
「………わ……わたし……は……」
私はただ、その子を守りたかっただけ。
私はただ、白蓮寺家のみんなを、助けなければと思っただけなのに。