『傷モノの花嫁』第1話の試し読み(2/4)

文字数 2,538文字

 ちょうど今くらいの季節だっただろうか。

 十五歳になる直前、私は若様に貰った大切な簪を失くしてしまった。

 大事に使い、大切に保管していたはずなのに、気がつけば仕舞ったはずの場所から失くなっていたのだ。

「ねえ、暁美姉さん。私の簪を知らない? どこを探しても見つからないの」

「さあ。おっちょこちょいな菜々緒だもの。山菜を探している時に落としたんじゃない」

 近所に住む従姉の暁美姉さんに助けを求め、一緒に探していると、なぜか簪は、里を囲む結界の、注連縄の向こうにあった。

「あ……っ」

 結界の向こうは禍々しい空気で満ちており、私は簪を取りに行くのを躊躇った。

 どうしよう。どうしよう。

 白蓮寺家の娘は、幼い頃より何度も何度も言い聞かせられている話がある。


 注連縄の外に出てはいけない。

 霊力の高い娘は、あやかしに攫われて、花嫁にされてしまうから──


「あらあら。光りものだから、烏が咥えて結界の外に持っていっちゃったのかしら」

「…………」

「どうするの、菜々緒。取りに行かなくていいの?」

 暁美姉さんが耳元で囁く。

「お誕生日に、若様から貰った大事な簪なんでしょう? すぐに取って戻ってくれば大丈夫よ……さあ」

 焦りの気持ちに負け、私はその言葉に促されるがまま注連縄の外に出て、簪を拾う。

 しかし、ほっとしたのも束の間。

 結界の中に戻ろうと振り向いた、その時だった。

 突然背後に現れた、猩猩──全身毛むくじゃらで巨大な猿のあやかしに抱きかかえられ、私は山の奥へ奥へと連れ攫われてしまったのだった。


 攫われていた間の記憶はほとんどない。

 何をされたのかもわからない。

 だけど、とてつもない恐怖と、額の痛みだけは覚えている。


 気がつけば猩猩の巣穴にいて、私を捜索に来た白蓮寺家の人間たちに囲まれていた。

 私を攫った猩猩はすでにいなくなっていたようなのだが、額がズキズキと痛くて、里の人間たちは皆、瞬くことなく私の額を見ていた。

「なんということだ。すでに妖印が刻まれておるぞ……っ」

「菜々緒が傷モノにされてしまった!」

 妖印……?

 それを聞いて、私は一気に血の気が引いた。妖印とは、あやかしが自分の所有物に刻む印だと聞いたことがあったからだ。

 一族の人間たちは私の額に刻まれた【×】の傷を見て、口々にこう言った。

「おお。むごい、むごい」

「こんなに高い霊力を持つ娘はそうそう生まれないのに、もったいない」

「いっそ猩猩の嫁になるか、殺してやった方がこの子のためだ」

「一生の生き地獄を味わうことになるぞ……」

 その言葉の意味が、今ならばわかる。

 清廉潔白──心身の清らかさを何より重んじる白蓮寺家の人間にとって、あやかしの妖印を刻まれた娘など〝穢れた存在〟以外の何者でもなかったからだ。

 額の傷から生々しい猩猩の妖力を垂れ流す。

 そんな私を見て、若様は鼻を押さえて「猿臭い」と言った。

 その後、若様と私の婚約は破棄され、私の代わりに若様に嫁いだのは白蓮寺の娘で二番目に霊力の高い、従姉の暁美姉さんだった。


「ねえ菜々緒。私、若様の子を身籠ったわよ」

「…………」

 美しい着物を纏った、本家の若奥様である暁美姉さんが、一度だけ、私の住むボロ小屋にやってきたことがある。

 猿面で顔を隠し、ツギハギだらけの着物を纏い、藁を編む。そんな惨めな姿の私を見下しながら、暁美姉さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべてこう言った。


「ねえ。菜々緒はどうして生きていられるの? あやかしに辱められた女に、生きている価値なんてないのよ? 私だったら、自分で命を絶つわね」



 寒い夜を越すため薪割りをし、自分が食べる山菜やキノコを探した後、泉でまた沐浴をする。

 梅の花は咲き始めたが、雪解け水はまだ冷たい。

 ガタガタと震えながら水に入り、肌から血が滲み出るまでゴシゴシ擦り、いつも必死になって体を洗う。体の穢れや猿臭さは、それでも落ちることはない。

 私だって「消えてしまいたい」といつも思う。

 この穢れた体を清めることができるなら、いっそ死んで、生まれ変わりたい、と。

 邪魔な髪をまとめていた簪を外し、それを、喉元に当てる。

 ああ、そうだ。

 いっそのこと、今ここで。この簪で……

「おいおい。何をしている」

「…………」

「血の匂いがすると思ったら……猿面の女とは珍しい」

 知らない男の声がして、私は振り返る。そこには黒髪で着流し姿の男が、私の着物をかけた木の幹にもたれて、煙管をふかして佇んでいた。

 赤い瞳──

 その瞳の色がこの世の者とは思えず、私は身を強張らせてしまった。

 ハッと、自分が裸でいることに気がついて、慌てて首まで泉の水に浸かる。擦りすぎた肌に冷水が沁みて、ピリピリと痛い。

「その猿面。知っているぞ。お前が猩猩に攫われたという、白蓮寺家の娘か」

「…………」

 私は何も答えなかった。というか答えられなかった。

 私は自分から声を出すことを、本家によって固く禁じられているから。

「だんまりか。つまらん」

「…………」

「お前、ここの人間に〝穢らわしい〟だの〝猿臭い〟だの言われて、追い立てられていたな。確かにお前からは、猩猩の匂いがする」

「…………」

「おい。震えているじゃないか。水はまだ冷たいだろう」

「…………」

「だんまりか。つまらん」

 男は煙管の煙を吐いて、やれやれと首を振った。

 そして今度は、木の枝にかけていた私の着物をまじまじと見る。

「しかし白蓮寺家の娘ともあろう者が、酷い着物を着ているな。ボロボロでツギハギだらけじゃないか」

「触らないで!」

 私の着物に触れようとする男を見て、私はとっさに叫んだ。

「わ、私のものに触ったら、あなたも、穢れてしまう……っ」

「…………」

 私はハッとして、猿面の上から口元を押さえた。

 喋ったことがバレたら本家のご当主や奥様に、また折檻を受けてしまう。

 私は裸のままザブザブと泉の水をかき分け、木にかけていた着物をバッと取ると、それで体を隠しながら、髪を振り乱して走って逃げた。

 あの人のせいだ。あの人が喋りかけてくるから。

 いったい、誰?

 白蓮寺の人間じゃない。

 そういえば、紅椿家の人間が訪ねてくる、と槙乃が言ってたっけ。

 とても恐ろしい……だけど心搔き乱される、綺麗な、赤い瞳をしていた。

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