『花の下にて春死なむ』北森鴻 新装版刊行記念・冒頭無料公開! 3
文字数 2,449文字
新玉川線の三 軒 () 茶 () 屋 () 駅を出て来た頃にはすでに陽は落ちきっており、昼間の温かさが噓のような空気の中で、七緒はひとつ身震いをした。いったんはマンションに向かったがすぐに方向を変え、駅前の商店街のアーケードをくぐって、通りを一本外した細い路地に入った。道の二百メートルほど先は袋小路になっている。街灯の間隔がずっと長くなり、足元のそこここに思いがけなく深い闇が座っている。
道が行き詰まる手前の左側に、白い等身大の光の柱が見えた。ずんぐりと太った人影のようにも見えるのは、縦長の提灯 () である。白い腹に気持ちの良い伸びのある文字で「香 () 菜 () 里 () 屋 () 」とある。
白い大きな提灯以外にはなんの飾り気もない、焼き杉造りの分厚いドアを開けると、カウンターの奥にいた男の笑顔が目に入った。
「申し訳ありませんが、少しお塩を」
七緒の言葉に、一瞬おやっという表情を見せた男は、すぐにうなずいて小皿に塩を盛ってやってきた。
店には十人ほどの客が座れるL字型カウンターと、二人用の小卓が二脚。それらすべてが深い色調の茶で統一されて、店内四ヵ所の間接照明の光の中に浮かび上がっている。
スツールのひとつに腰を下ろすと、我知らずほっと息がこぼれた。
「お疲れでしょう。お飲み物、どうしますか?」
男は熱く蒸したおしぼりを渡しながら聞いた。
「ビールを中ぐらいのグラスで」
「少し度数の強いものがいいでしょうね」
そう言いながら、細いチューリップのようなピルスナーグラスを取り出し、右奥の隅にあるビアサーバーの、金属の口に縁を斜めにあてる。男が「度数の強いものを」と言ったのは、アルコール度が標準より二度ほど高いビールを指している。この店には、度数を変えたビールが四種類おいてある。
「おまたせしました」
男がおいたグラスの縁で、黄金色の泡が乱舞している。しばらくは飲むのをやめて見つめていたいほどだ。
「確か、一年前でしたね。あの方がお店にお見えになったのは」
「えっ!?」
グラスに見とれていた七緒は、驚いて顔を上げた。
「間違えたならすみません。今日は片岡さんのご葬儀ではなかったのですか」
カウンターの中から、この店のマスターである工 () 藤 () 哲 () 也 () が聞いた。ワインレッドのエプロンに精 () 緻 () なヨークシャーテリアの刺 () 繡 () がある。工藤自身はといえばちょうど、ヨークシャーテリアがなにかの間違いで人間になってしまったような風貌。落語の『元 () 犬 () 』ではないが、
──ヘェ、今朝ほど人になりやした。
と真 () 顔 () でいいそうな、人なつこい表情をいつも浮かべている。
「驚いた……でもどうしてそれを?」
「ご存じありませんでしたか。片岡さんの事は、かなり大きく新聞に扱われたのですよ」
新聞で、と聞いて七緒は「ああ」とうなずいた。数日前、身元不明の俳人の死ということで、片岡草魚が文化欄に取り上げられたのだった。
──その記事の中に……。
片岡の同人仲間が葬儀を執 () り行なうことも、載っていたはずである。
「結局、ご遺族はわからなかったのですか」
「片岡という名前も、本当のものかどうか、わからないみたいです」
「不思議ですね。そう聞いてもあの方であれば違和感が、ない」
「故郷を捨て、名前まで捨ててしまわなければならない理由って、なんでしょうか?」
「さァ、よほどの事情があるのでしょう。私などには想像もつかないような……。片岡さん、とても穏やかで良い表情をされていましたね。けれどその胸の奥にあった暗い光はもう、誰の元にも届かないのです」
──私もそう思う。きっと草魚さんは何も知られたくはなかったんだ、だから!
草魚の死の知らせを受け取って間もなく、今度は長峰から電話があった。「もし故郷と思われる所を知っているなら、教えて欲しいのだが」と言われ、喉にまで出かかった言葉を吞み込んだ七緒である。
「私、本当は草魚さんの故郷を知っているんです。でも、それを人に知られるのを、とても嫌がっているように見えたものですから」
工藤の柔らかい笑顔には、人の胸の中にある頑 () なな言葉を、引き出す力があるのかもしれない。
「それを誰にも言われなかった?」
ビールに口をつけ、コクリとうなずいた。工藤はほんのひととき何かを考える仕草を見せ、すぐに小さく首を振りながら、陶器の小鉢を七緒の手元に差し出した。
「今年最後の冬 () 瓜 () を、挽 () 肉 () と煮て葛 () でとろみをひいてみました。コンソメ味ですから、きっとビールに合いますよ」
そう言いながら、カウンターの下で水を切ったグラスに、ふきんをあてはじめた。その手の動きを止めることなく、
「片岡さんの故郷は、山口県ですか」
声の端に確信がのぞいていた。反対に七緒は、あやうくグラスを取り落としそうになった。
「どうして! それを……」
「言葉のイントネーションから、西の方だと見当をつけていました。それに、一年前、お二人でお見えになった時に出した小鉢を覚えておいでですか?」
七緒は、首を横に振る。
「サニーレタスとムール貝を、酢みそで和 () えたものをお出ししたんです。片岡さんずいぶんと懐かしそうに小鉢を眺めて、こう仰 () 言 () いました。『チシャもみ、か』と。『チシャ』はサニーレタスに良く似た野菜だそうです。山口では道端に生えたチシャを摘 () み取り、酢みそで和えて食べるそうです。古い家庭料理のひとつだと聞きましたが」
「そうだったんですか。料理の名前ひとつからでも、その人の足跡がわかってしまうなんて、すごいですね」
ちょうどその時、常連らしい客がやってきたのを機会に、飯島七緒は会計を済ませて店を出た。
道が行き詰まる手前の左側に、白い等身大の光の柱が見えた。ずんぐりと太った人影のようにも見えるのは、縦長の
白い大きな提灯以外にはなんの飾り気もない、焼き杉造りの分厚いドアを開けると、カウンターの奥にいた男の笑顔が目に入った。
「申し訳ありませんが、少しお塩を」
七緒の言葉に、一瞬おやっという表情を見せた男は、すぐにうなずいて小皿に塩を盛ってやってきた。
店には十人ほどの客が座れるL字型カウンターと、二人用の小卓が二脚。それらすべてが深い色調の茶で統一されて、店内四ヵ所の間接照明の光の中に浮かび上がっている。
スツールのひとつに腰を下ろすと、我知らずほっと息がこぼれた。
「お疲れでしょう。お飲み物、どうしますか?」
男は熱く蒸したおしぼりを渡しながら聞いた。
「ビールを中ぐらいのグラスで」
「少し度数の強いものがいいでしょうね」
そう言いながら、細いチューリップのようなピルスナーグラスを取り出し、右奥の隅にあるビアサーバーの、金属の口に縁を斜めにあてる。男が「度数の強いものを」と言ったのは、アルコール度が標準より二度ほど高いビールを指している。この店には、度数を変えたビールが四種類おいてある。
「おまたせしました」
男がおいたグラスの縁で、黄金色の泡が乱舞している。しばらくは飲むのをやめて見つめていたいほどだ。
「確か、一年前でしたね。あの方がお店にお見えになったのは」
「えっ!?」
グラスに見とれていた七緒は、驚いて顔を上げた。
「間違えたならすみません。今日は片岡さんのご葬儀ではなかったのですか」
カウンターの中から、この店のマスターである
──ヘェ、今朝ほど人になりやした。
と
「驚いた……でもどうしてそれを?」
「ご存じありませんでしたか。片岡さんの事は、かなり大きく新聞に扱われたのですよ」
新聞で、と聞いて七緒は「ああ」とうなずいた。数日前、身元不明の俳人の死ということで、片岡草魚が文化欄に取り上げられたのだった。
──その記事の中に……。
片岡の同人仲間が葬儀を
「結局、ご遺族はわからなかったのですか」
「片岡という名前も、本当のものかどうか、わからないみたいです」
「不思議ですね。そう聞いてもあの方であれば違和感が、ない」
「故郷を捨て、名前まで捨ててしまわなければならない理由って、なんでしょうか?」
「さァ、よほどの事情があるのでしょう。私などには想像もつかないような……。片岡さん、とても穏やかで良い表情をされていましたね。けれどその胸の奥にあった暗い光はもう、誰の元にも届かないのです」
──私もそう思う。きっと草魚さんは何も知られたくはなかったんだ、だから!
草魚の死の知らせを受け取って間もなく、今度は長峰から電話があった。「もし故郷と思われる所を知っているなら、教えて欲しいのだが」と言われ、喉にまで出かかった言葉を吞み込んだ七緒である。
「私、本当は草魚さんの故郷を知っているんです。でも、それを人に知られるのを、とても嫌がっているように見えたものですから」
工藤の柔らかい笑顔には、人の胸の中にある
「それを誰にも言われなかった?」
ビールに口をつけ、コクリとうなずいた。工藤はほんのひととき何かを考える仕草を見せ、すぐに小さく首を振りながら、陶器の小鉢を七緒の手元に差し出した。
「今年最後の
そう言いながら、カウンターの下で水を切ったグラスに、ふきんをあてはじめた。その手の動きを止めることなく、
「片岡さんの故郷は、山口県ですか」
声の端に確信がのぞいていた。反対に七緒は、あやうくグラスを取り落としそうになった。
「どうして! それを……」
「言葉のイントネーションから、西の方だと見当をつけていました。それに、一年前、お二人でお見えになった時に出した小鉢を覚えておいでですか?」
七緒は、首を横に振る。
「サニーレタスとムール貝を、酢みそで
「そうだったんですか。料理の名前ひとつからでも、その人の足跡がわかってしまうなんて、すごいですね」
ちょうどその時、常連らしい客がやってきたのを機会に、飯島七緒は会計を済ませて店を出た。