吉森大祐『うかれ十郎兵衛』発売記念エッセイ②「美人画の源流」

文字数 1,787文字

幼い頃、出版関連の仕事をしていた父の関係で、家に大量の漫画や小説がありました。漫画については5大誌(マガジン、サンデー、ジャンプ、キング、チャンピオン)が毎週届きましたし、小説に関しては『小説現代』と『オール読物』が郵送されてきました。私はそれらを自由に読んで育ちました。



学生の頃、父の書斎で『別冊太陽』のムック本を発見しました。それは「少女漫画」の特集号で、戦後の作品が網羅的に解説されていました。それまで少年物ばかりで少女向けの漫画を読んだことがなかった私は、思わず惹きこまれました。その本では、日本初の少女漫画は松本かつぢ先生の『くるくるクルミちゃん』(1937年)とされていました。松本先生は、戦前の抒情画の大家です。私はこの事実に驚きました。



抒情画というのは、大正時代から昭和初期に大流行した、少女向けのエキゾチックなイラストレーションです。よく考えると、戦後の少女漫画のルーツが戦前の抒情画にあるというのは、絵柄を見ればなるほど、なのですが、正直言って目から鱗でした。松本かつぢ先生の義理の兄は抒情画の大スター蕗谷虹児、そしてその師匠は、竹久夢二です――。



もともとサブカルの歴史に興味があった私は、抒情画の解説本を漁りはじめました。すると夢二が描いた美人画に大きな影響を与えたものは浮世絵だったということがわかりました。明治大正は、江戸時代に下品な雑絵とされていた浮世絵がヨーロッパを中心に再評価され、葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽などの人気が再燃した時代です。つまり夢二の美人画は浮世絵の美人画に大きく影響を受けていたのです。



そもそも美人画の歴史は、明暦年間、最初の浮世絵師、鈴木春信から始まっています。次世代の鳥居清長をはじめ、さまざまな絵師がそれに続きます。私はそれら美人画の絵師たちを追いかけ始めました。そしてそのなかで最も強く惹かれたのが、喜多川歌麿でした。



歌麿は、寛政年間に、版元である蔦屋重三郎と組んで、美女の極端なクローズアップを用いたり、町の美少女をスカウトしてモデルに使ったり、あの手この手で江戸の町にブームを巻きおこしたヒットメーカーでした。そのアプローチが非常に現代的で驚きました。



そしてもうひとつ、私が惹かれたのは、歌麿が生涯「女性」というテーマを一途に追いかけた絵師だったということです。浮世絵師の多くは、風景画、名所絵、文人画、役者絵など、さまざまな作品を残していますが、歌麿の場合ひたすら「女性」を描いています。歌麿には有名な「春画」があり、その影響でポルノグラフィーのイメージが強いのですが、その経歴から見ても、それだけの人物ではありません。



女性の何が歌麿の心をとらえ、どんなモチベーションで描き続けたのか。短編集『うかれ十郎兵衛』の冒頭の一編『美女礼讃』で、若き歌麿をモチーフとしました。ブレイク前の若き絵師が、葛藤しながら「美人画」に挑む初心を、表現できていたらいいなあと思います。

吉森大祐(よしもり・だいすけ)

1968年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。大学在学中より小説を書き始める。電機メーカーに入社後は執筆を中断するも、2017年「幕末ダウンタウン」で小説現代長編新人賞を受賞し、デビュー。20年『ぴりりと可楽!』で第三回細谷正充賞を受賞。ほかの著書に『逃げろ、手志朗』がある。

蔦重の最高傑作〝東洲斎写楽〟はなぜ一瞬にして消えたのか?

喜多川歌麿、東洲斎写楽、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴……鋭い閃きと大胆な企てで時代を切り開いた、稀代の出版プロデューサー・蔦屋重三郎が世に送り出した戯作者や絵師たちの、人生の栄光と悲哀を描いた連作短編集。


細谷正充さん絶賛!

吉森大祐、長篇だけでなく短篇の名手でもあったのか。

喜びと悲しみ、希望と絶望、令和の日本人と変わらぬ人間の姿がここにある。


寛政六年、奢侈禁止令によって客足が遠退き、破綻の危機に瀕した芝居町。立て直しのために芝居小屋「都座」の座主・都伝内が白羽の矢を立てたのは蔦屋重三郎だった。同じく奢侈禁止令の影響でさびれていた吉原遊郭を、無名の絵師だった喜多川歌麿を起用して花魁の錦絵を描かせ、評判を高めて再興した手腕を買われたのだ。苦慮する蔦重は、都伝内が上方から迎えた人気作者・並木五瓶の話を聞き、書見台に散らばる走り書きに目をつける――。

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