人は「めし」のみにて生くるものにあらず/『めし』

文字数 2,595文字

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「1人前食堂」を運営する、料理・食材愛好家のMaiによる初書評連載。


動画に映り込む本棚、そこに並ぶ数々の本。

Maiによって選び抜かれた1冊1冊に秘めた想いが明かされる。


第7回で取り上げてくださったのは、林芙美子の遺作『めし』。

「毎日お米でも飽きない!」という人、必読の回です。

数年前から、私はふるさと納税制度を利用し始め、ある地方自治体に寄附金を納めた返礼品として、そこの名産品である米を1年間定期便でいただく契約をした。

旅行で訪れた自治体の看板娘だった、その米の「めし」は、今まで味わったことのないモチモチ食感と深い甘みで、これは美味すぎてマズいぞ…とごはん党の胃袋を唸らせた。

この「めし」を毎日食べられたらどんなに幸せだろう。

それからというものあの味が忘れられず、「めし」の生産者が寄付者を募集していることを知った私はすぐさま立候補した。


ところがどっこい人の心は無常なり。

数ヶ月も経つと、晩飯の支度時あれだけ顔を合わせるのが楽しみだった「めし」とも倦怠期つまり慣れが訪れる。

いつものように「めし」が持ち前の粘り強さと柔らかい口当たりでご機嫌をとってくれても、当の私は「めし」が日によってベタっとするところが目につき、腰の弱いナヨナヨとした体つきに不満を募らせる。

たまに外食に行ったりすると甘さこそないがさっぱりしてて、しゃりしゃり歯応えのあるよその「めし」に心が傾く。


——やっぱり契約なんてするもんじゃなかったな…。


「めし」はそんな主人の浮ついた心をおぞましく思いながらも、暗い米びつの中で艶のある白肌を持て余すことしかできず、物憂げな眼差しを浮かべている。


——もっと私が美味しく輝ける場所があるはずだわ…。

林芙美子作『めし』の主人公である妻の三千代と夫の初之輔は戦後には稀な恋愛結婚を果たし、誰よりも幸福な結婚生活を送るはずだった。


だが時が過ぎればふたりを固く結びつけた情熱もどんどん薄れていくのが世の常である。

初之輔は米の心配をしなくちゃならないくらい稼ぎが少ないうえに家では食事のこと以外妻の話には馬耳東風、人から結婚について問われると“結婚は、していいものでもあるし、しないで、済むものなら、しなくてもいいものだね”と妻がきいたら激怒される物言いである。


大船に乗った気持ちで夫の愛情だけを拠り所してきた三千代だったが、それが薄れてゆく今、沈みかかった船に乗っているように生きてる心地がしない。

この感じどこか見覚えがあるな…と思ったら、まさに私と「めし」の関係とそっくりで、普段一人前の食事しか作らない女もうんうんと共感をした。


ついに三千代はひとり働いて生きていきたいと夫にグッドバイし、東京にある実家へと汽車で発ったのが、いざ降り立つと働き口のほうは両手を広げてくれやしない。

そんなとき昔から三千代に好意を寄せている一夫に食事へ誘われ、上等なブドウ酒でもてなされるなり、大阪の長屋に閉じ込められていた雌鳥はレストランの非日常の雰囲気に舞い上がる。

渇いた夫婦関係ではお目にかかれないような心配りや優しい言葉によって、三千代の心は空っぽの竹筒に水が注がれるようにひたひたと満たされてゆく。

ところが水で満杯になった竹筒はすぐ己の体を維持できなくなると、あられもなく水を吐き出し、ビュンと頭を振り上げ鋭い音を放ち、自分の中に侵入してきた獣を追い払う。


さっきまでうっとり頬をほてらしていた三千代は突然、自分の理想の男像としてチト物足りないーー夫の性格や見た目を腹の中で毒づきだし、挙げ句の果てには隣で酒を飲んでいる男が夫の初之輔でないことに我慢ならなくなる。


三千代の心境の変化に自分勝手で理不尽な女だと思ってしまう半面、当の本人も自分のアンコントローラブルな感情に日夜振り回されたり、妥協できずせっかくのチャンスを棒に振ったりと案外泥臭い人生を送っているんではないかと一方的に共感し応援せずにはいられない。

林芙美子は、自身のエッセイ「放浪記」で誰よりも親切でお金の工面してくれるが、どうしても好きになれない男にプロポーズされると“十分も顔を合わせていたら、胸がムカムカして来る”と頑なにはねつける。


そのくせ自分が好きな男には罵詈雑言を浴びせられようが二股をかけられようが、唯一生き甲斐である文筆の間も削ってロクデモナイ男の生活費をカフェー(今でいう水商売)で稼いでみせる。


“まあ何てチグハグな世の中であろう” と彼女たちと一緒に空を仰ぎたくなる。

外国にいくと故国にいるときよりも一層故国を感じるように、三千代は何を見ても初之輔の面影を重ねてしまい、ついには会いたい衝動に駆られる。


美味しいめしを食べるだけが人生ではない、好きな相手と美味しいめしを求めて生きることこそ幸福な人生なのだ。


天も地にも変えがたい夫への妻の自立した愛情だ。年々愛することに臆病になってしまいがちな私は、林芙美子が描く、他人を無条件に愛する人間の健やかな精神に心が揺さぶられる。そんな一生説明がつきそうにない人の心と生涯付き合っていくのも人生の一興であり私が文学に求める最大の楽しみなのかもしれない。

今年になって、1年間の契約期間は終了し、私とめしの生活は幕を閉じた。

めしとの睨めっこぐらしから解放された私は、首輪を外された飼い犬のように、2合使い切りパックという、後腐れのない米袋を通販で買い、全国各地のめしをとっかえひっかえ食べた。


地に足がつかない放蕩にも疲れてきたころ、仕事おわりいつもの癖で米櫃をのぞいたりして、もう居るはずのない「めし」のことを思ったりする。

あれよあれよという間に、またふるさと納税の返礼品の申込期日が近づいてきた。

何万もの特産品情報の洪水に溺れそうになっていると、去年契約した自治体の名前が目に入った。

”令和3年産”と黄金の判を押され、一層磨きのかかった「めし」が私のほうに手を差し伸べていた。

Mai

料理・食材愛好家。Youtubeで料理動画投稿チャンネル「1人前食堂」の運営をしている。

著書に『私の心と体が喜ぶ甘やかしごはん』『心も体もすっきり整う! 1人前食堂のからだリセットごはん』など。


Twitter:@ichininmae_1

Instagram:@mai__matsumoto

Youtube:1人前食堂

次回は12/10(金)公開予定

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