特別編 メロウ、メロウ、メロウ

文字数 2,764文字

「私なんて」
彼女がよく使う呪いの言葉だ。本気でそう言う時もあれば、照れ隠しに使う時もある。

 平成二十八年の春、私は彼女と出会った。()(だる)げに結ばれた長い黒髪は精彩を欠いていて、(つや)はあったが生気がなかった。猫のような目。(あご)を引いてこちらを見上げてくる(そう)(ぼう)は警戒心を(はら)んでいて、見ているというよりは(にら)んでいると表現した方が的確なのではないかと思うほどだった。
 暗い女だ。直感的にそう思った。
 あれから六年経ち、このエッセイを書くにあたって、彼女に「自分はどんな性格だと思う?」と()くと、「深海のように暗い性格だと思う」と返って来た。まったくもって暗い女だ。
 平成二十七年、彼女は桂浜水族館に事務局スタッフとして入社し、おみやげショップ「マリンストア」の店員となった。接客業は嫌いではなさそうだが、人間はあまり好きではないのだろう、館長から「お客様にちゃんと声をかけなさい」と言われているのを何度も見た。しかし何度アドバイスをしても、彼女にはそれがなかなかに難しい。どんな声も、深海の底に届く前に(ほう)(まつ)となって溶けてしまう。およそ一般的に社会で平然を(よそお)って生きられる人の「当たり前」が、彼女にとっては「当たり前」ではないのだ。それは決して悪いことではないが、実に暗い女らしい悩みだと思った。今でも時どき見かけるが、私が出会ったばかりの頃の彼女は、館長や食堂のおばちゃんたちからアドバイスを受けてもうまく立ち振る舞えず、いつもめそめそと部屋の隅やトイレで泣いていた。CRY女、ひな。



 そんな「ひな」は、芸術大学で美術を学び、卒業後に自身の趣味でもあるイラストを描く仕事を探している中で、ひょんなことからこの水族館と出合ったそうだ。日中は、チケット販売やおみやげ販売をしながら、マリンストアのレジカウンターでイラストを描いている。集中するとのめり込んでしまうのだろう、接客が(おろそ)かになるために今でも時どき館長に注意されているが、以前よりはうまく仕事をこなせるようになっている。ひなが描くキャラクターはとても可愛らしく、まるで毒がない。彼女のイラストは、館内の掲示物にも描かれていて、来館者にも人気だ。すっかりファンもできた頃、館長が彼女にオリジナルのグッズを作って商品化しようと持ち掛けた。
「私のイラストなんて人様からお金をとれるようなものじゃないし、私なんて、そんな……」
 案の定、呪いを唱え出す彼女を館長は(しつ)()(げき)(れい)し、力強くその背中を押した。そうしてポストカードやシールなどのグッズを販売し始めると、彼女の(じゆ)(ごん)はファンたちによって(はら)われ、グッズは飛ぶように売れた。ハマスイ一の人気イラストレーターの誕生だ。週一ほどのペースで、新作のポストカードや自身が一番好きだという深海生物「メンダコ」を描いた小さな色紙を制作しだすと、いざ尋常に作家とファンの勝負が始まった。しかし日々さまざまなことが起こるこの水族館で、「当たり前」を当たり前にこなす努力をしなければならない彼女は、しばしばファンの期待に応えることができない時があった。
「おとどちゃん、ひなちゃんの新作はまだですか?」と、熱烈なファンから何度も訊かれた。
「ひな、ファンの方が新作を心待ちにしているよ」と、彼女を()()するためにファンの思いを伝えると、暗い女は「私なんて」とまた呪いの言葉を口にした。
「私なんて待ち望まれるような人間じゃないし、私の()なんて心待ちにするようなものじゃないですよ」
 つまるところ、この女はとても面倒くさい人間なのだ。
 いつだっただろう。ひなが長く伸ばしていた黒髪をバッサリと切ったことがあった。ちょうどこの時、髪型を変えたスタッフが多かったせいもあり、自分が思っていたほど髪を切ったことについてみんなが何も言ってくれなかったと()()(くさ)れていた。「私なんて」と自分を()()する女が、誰も私を見てくれないと言う。彼女と出会ってから何度も呪言を耳にしてきたからわかる。この六年で本気と照れ隠しの比率が変わったのだ。最近妙に照れている。
 つまるところ、この女はとても可愛い人間なのだ。



 二年程前、以前から公式ホームページのブログで彼女が描いていた四コマ漫画を繋ぎ合わせて作った一冊の絵本「アカメとすごしたグレ坊」を本館大水槽前のベンチに設置した。ひなが館長にこの話を絵本にしたいと言ったそうだ。絵本は、プリントしたイラストをラミネート加工してクリップで繋いでいるだけの簡素なもので、他にも二冊、彼女が手がけたオリジナルの絵本を並べているが、中でも「アカメとすごしたグレ坊」は、子どもだけでなく大人にも人気の作品だ。
 ある日の朝、私は、まだ照明をつけたばかりの薄暗い大水槽前のベンチに座り、三冊の絵本のうち一冊を手に取って(めく)った。アカメの水槽に(えさ)として入れられた魚の話――。ふと誰かが私に問うた「いのちは平等だと思いますか」という言葉を思い出した。ひなはなんと答えるだろう。「私なんて」と言うだろうか。どこまでも暗い女だ。絵本をそっと閉じて、足早に事務所へと向かう。この海には、正解も不正解もない。ただ、それぞれの答えを探して私たちは生きる。冷たい風に涙が(おど)り、愛おしい思いに鼻の奥がツンと痛んだ。
「ひな! おはよう!」
 事務所の扉を力任せに開けて、その先にいた彼女を抱き締める。
「おおお、おはようございます! どうしたんですか!? おとどちゃん!」
 ごきげんよう。あなたのせいで、私もCRY女です。





■『アカメとすごしたグレ坊』
税込1980円
*2022年3月24日発売

ぼくは、たべられてしまうの? 高知県の景勝地・桂浜にある小さな「桂浜水族館」。あるとき、巨大怪魚・アカメの水槽に生き餌として入れられた小さなグレたちは……
桂浜水族館で本当に起きた不思議な出来事を描く、命の不思議の物語。


■スタッフ・ひな
桂浜水族館勤務7年目。芸術大学で美術を学ぶ。おみやげショップ「マリンストア」を中心に、館内のイラストや、POP、ポストカードを制作。

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