第7話  水に燃えたつ蛍になりたい。

文字数 3,700文字

(*小説宝石2021年7月号掲載)

 浴槽に湯を張って()かる。四分の三ほどまで()めた湯の中で、折った膝を抱えるように腕を交差した。(あご)を上げ後頭部を湯に浸し、水面から顔だけを出してバスルームの天井をぼんやりと見上げる。耳を(ふさ)ぐ湯が身体(からだ)のわずかな動きで振動し、鈍い音が反響しながら脳内に響いた。これはいつの記憶だろうか。目を閉じると視界以外の感覚が()ぎ澄まされる。呼吸に合わせて生まれる波紋を全身でなぞった。私がまだこの街で器用に生きられなかった時のこと、この街のなにもかもが愛せなくて、そんな自分を一番許せなかった日のこと―。桂浜水族館で生まれてから飼育員たちと駆け抜けてきた五年間のことが、(まぶた)の裏に映し出される。まるで人が胎児だった頃の記憶を()()り寄せるように。ゆっくりと背面から湯船に落ちてみる。ぶくぶくと漏れた息が水面に浮き上がって弾ける。海の底へ沈んでいくように、浴槽の底に背中をつけた。目を開けて、揺らめく視界の中、水面に向かって泳いでいく(ほう)(まつ)を見送る。次第に身体が酸素を求めだし、呼吸が苦しくなった。上体を起こして水面から顔を出し、短く荒い息を繰り返す。酸素を失っていた身体が肺を主軸にして(きし)む。降りしきる雪の中で、海月(くらげ)のように踊りながら彼女が言った「愛してるよ」という声が、しばらくぼんやりと脳内を()(だま)していた。

「私、昔から自分は二十七歳で死ぬと思ってたのよ。自死とか事故とか病気とか、死ぬ理由はわからなかったけど、なんとなく、なんとなく自分は二十七歳で死ぬと思ってた。その年齢で本当に病気になって、病院のベッドで天井を見つめながら、ほらね、やっぱり死ぬんだって思ったよ」
 一階事務所のデスクで一眼レフカメラの画面に視線を落としながら、事務局スタッフの彼女が肩を揺らす。丸い顔から伸びた(きや)(しや)な身体、ゆらゆらと揺らめく薄い肩と長い腕が、やっぱり海月に似ていると思う。影を落とすほど長い(まつ)()を見つめていると、海月はデスクの上にカメラを置いて、椅子を(ひね)ってこちらに身体を向け、ソファーに座る私に破顔して見せた。
「結局死に損なったけどね」
 揺れる肩口から(ほの)かに香る甘い匂い。先日、海月が(こぼ)した「知りたい」という言葉が「死にたい」と聞こえたのは、彼女が(まと)っているこの香りのせいかもしれない。私が思わず「死にたかったの?」と問うと、「さあ、わからない。生きることにも死ぬことにも、あまり執着はないかな」と答えた。ブラインドを半分まで上げている窓から、淡い陽の光が差し込んでくる。
「よし。ちょっくら恋人たちに会ってくるわ」
 ふわりと立ち上がった海月がデスクの上に置いていたカメラを提げて私の前を通り過ぎた。その背中に「心臓は持った?」と声をかけると「大丈夫、忘れてない。心臓も、愛も」と彼女は事務所を後にした。
 海月と入れ違うように部屋に入ってきたのは、(しら)()交じりのくせ毛に()(しよう)(ひげ)、濃いめの腕毛にぼってりと厚みのある腹が印象的な中年男性だ。彼はよくおんちゃんから揶揄(からか)われていて、いつも()(だん)()を踏むように(ふん)()していた。おんちゃんが身体を壊してからは、医者に止められている煙草(たばこ)を吸っているのを見かけるたびに、声を荒らげて「死にたいんか!」と()()り、ふたりは犬猿の仲ならぬ嫌煙の仲だった。そんな彼自身も重い頭痛に悩まされていて、よく頭を抱えて(うな)っている。今も事務所に入ってくるなり(うめ)き声を溢して、ソファーへと深く沈みこんだ。
 桂浜水族館で主に魚類に(たずさ)わりながら設備の管理をしている彼は、雑学や電子機器に関する知識が豊富で、大抵のことは解決してくれる。無造作に伸びた白髪交じりの髪や髭もさることながら、博士みたいに持ち合わせている知識も、まるでアルベルト・アインシュタインのようだと思った。アインシュタインは、他人の()(せつ)(せい)や病の重さには敏感なくせに、自分の不摂生や病の重さには()(ごく)鈍感なのか、誰がなんと言おうと「もう治った」だとか「大丈夫」だと言って、どうしても病院には行きたがらない。ソファーに沈み込み頭を抱えて唸っているアインシュタインを(なだ)めていると、ガラガラと扉が開き、海月が事務所に帰ってきた。
「いやー。本当に愛おしいね、ここの飼育員たちは。おとどちゃん、『恋』は偉大だね。……あれ? どうしたんですか? また頭痛?」
 ソファーに深く沈み込み体勢を崩して(うな)()れているアインシュタインに気づいた海月が、()(けん)(しわ)を寄せて彼を(うかが)い見る。提げていたカメラをデスクの上に置くと、自身が着ていたフリースの上着を脱いで自然な流れでアインシュタインに(かぶ)せた。その日は、館長も右腕くんも不在で、事務所には電気がついていない。私と海月は似ているのだろう。電気をつける習慣がなく、館長か右腕くんがつけなければ、一階事務所はその日一日、誰かが気分で上げたブラインドと窓の隙間から入ってくる海に反射した淡い光だけが(にじ)んで、光彩が(とぼ)しく薄暗い。海月は基本的にカメラを持って館内を走り回っている為、事務所にいる時間が少ない。私は館長が出社する時間まで、電気がついていない部屋にほとんどひとりでいる。ぼんやりと薄暗い部屋は居心地が良く、なんとなく落ち着くのだ。しかし右腕くんが出勤の日は、「電気くらいつけなさい」と(とが)められる。館長も右腕くんも、たまに入ってくる飼育員たちも皆、部屋の電気をつけたがるが、アインシュタインだけは何も言わなかった。ただじっと私といっしょにいて、時々中身があるようでない、だからこそ愛しい話をして笑って過ごした。
 私がそんな彼に敬愛の念を抱いたのは、おんちゃんが闘病生活の為に退職して初めて迎えた節分イベントだった。おんちゃんと嫌煙の仲であるアインシュタインが「あの人が赤鬼なら、私は青鬼になる」と言った。節分イベントの日、私は彼の顔を青色に塗って鬼のメイクを(ほどこ)し、腹に「病」という字を書いた。アインシュタインは、ワックスで無造作に伸びた髪の毛を固め、(まが)(まが)しさが出るようにくしゃくしゃにして広げた。それからおんちゃんがしていたように頭に角のカチューシャをつけ、刺青(いれずみ)のアームカバーをはめた。午後一時、私はトドショー観覧席の一番後ろに立ってショーが始まるのを待った。カシャンという鍵を開ける音とともに飼育員たちがステージに入ってくる。その音を合図にプールで泳いでいたトド二頭もステージに上がり、いつもの位置についた。春を待つ二月の冷たい風が頬に刺さる。ショーはテンポよく進み、最後には十八番(おはこ)の後方宙返りを見事に決めた。



 ショーが終わると、飼育員が「はーい、みなさん、まだ帰らないでくださいね。二月と言えば何ですか? もうすぐありますよね、あれ」と観客に語り掛けながら足早にこちらへやってきた。
「節分!」観覧席に座っていたひとりの男の子が飼育員の問いかけに答えると、釣られたように「節分!」「節分!」と子どもたちが声を上げた。
「そう、節分! じゃあ、節分といえば?」
「鬼!」
「正解! それでは登場してもらいましょう。鬼さーん!」
 観覧席の脇にある物置の白いカーテンが開き、中から青鬼が飛び出す。右手に持った金属バッドが地面と()れ、カラカラと音が鳴る。「がぁ! はがぁ! がぁ!」と観客に向かって()(かく)しながら、青鬼がプールと観覧席の間の通路の真ん中までやってきた。
「みなさん、こんにちは! 青鬼でやんす。赤鬼のアニキが来られなかったもんで、代わりにオイラがやってきやした」
 普段人前に出て何かをするような人間ではない彼が一晩考えたという独特な言葉遣いとおんちゃんへのオマージュに、目頭がじんと熱を持って痛んだ。込み上げてきたものが喉の奥に詰まる。彼の一挙一動に鼓動が速まって、すべての感覚が繊細になるのがわかった。おそらくここにいる観客のほとんどが、「赤鬼」の登場を期待していただろう。物置から青鬼が登場した瞬間の(ざわ)めきには落胆の色が混ざっていた。しかし彼が(しやべ)り出すとどこからともなく小さな拍手が鳴り、観客皆がそのパフォーマンスに()いた。
「節分というのは―」

*****
続きはぜひ「小説宝石」7月号本誌でお楽しみください!

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