第5話 漁火が灯る夜は眠らない。

文字数 3,982文字

 (*小説宝石2021年5月号掲載)

 外界からの光を(さえぎ)るために、雑に閉めていたカーテンがエアコンの風に揺れる。(かす)かに(こす)れ合う二枚の布の隙間から漏れる朝の(ささや)きが(まぶた)に落ちてきた。寝室に行きつけず、(たい)()にも一晩中床に転がしていたからだを起こして、まだぼんやりとする視界で時計を(とら)える。
 午前六時五十分―。
 木目調のコタツテーブルの上を昨晩の(ざん)(がい)が陣取っている。無造作に置いてあるテレビのリモコンに手をかけて電源を入れた。()(だる)()に生活の柄を反射させていた画面が、少しのラグを要して切り替わり、いつものニュース番組が映る。あと五分でいいから寝たい。私がこうしている間にも、画面に映る新人アナウンサーは少し緊張した(おも)()ちで今日の天気を伝えている。高知県中部の予報は晴れ。一日を通して肌寒いが、日中は気温が上がりコートなどの上着が必要なくなるほどだという。一体化しかけている薄手の毛布を引き()がし、のらりくらりと立ち上がってキッチンへと向かった。フライパンを火にかけ、冷蔵庫から卵をひとつ取り出して銀色の調理台に置く。冷蔵庫の一番下の引き出しを開けてネギを取り出しているうちに、少し雑に置いたせいか、卵は白い肌を調理台に滑らせてコロコロと転がり、いとも簡単に床へと落ちた。パキッという音とともに弾けた卵が、割れた(から)の間から壊れた黄身と白身をとろりと()わせて息絶えてしまった。まな板の上にネギを置いて割れた卵のそばにしゃがみ込む。私がたった数秒目を離しただけで落下して割れてしまったこれは、もう二度と銀色の台には返らない―。

 平成二十八年、私は現七代目館長であり当時はまだ副館長であった彼女と初めて出会った。薄卵色に染めた髪に上向きの長い(まつ)()、整った鼻筋と薄い唇に乗る紅が印象的な女性だと思った。今思えば、あの頃の彼女は今ほど豪快に笑うような印象がなく、底抜けの明るさはあれど、それを(おお)うようにどこか気難しい雰囲気を(まと)っていた。
 ほとんど一日中、二階事務所の窓際のデスクでパソコンを叩き、なにか用事があれば内線を使って一階事務所に電話をかけてきたり、無線を使って業務連絡を入れたりする。ふらりと二階から降りてくるのは、飼育員に用事があったり、生きものたちの様子を見に来たりするときくらいで、私が一日のうちに彼女と接する機会はほとんどなかった。現理事長であり当時館長であった六代目館長のほうが、一階の事務所にデスクを構えていたため接する機会や話す時間は多かった。
 六代目館長は、ひょろりとした(そう)(しん)で、高齢のため言動が(おぼ)(つか)ないことが多々あるが、「生涯現役」という言葉が似合うほどにいつも元気だ。へへへっと目を細めて笑えば、目尻に(しわ)がくっきりと刻まれる。出会った頃も、よく突拍子もないことを言っては若いスタッフを少し困らせていて、どこかそれを楽しんでいるようにも見える「優しいおじいちゃん」という感じだった。しかし今でもそうだが、至極頑固な一面もあり、自分がこうだと思ったことはなかなか曲げず、当時から現理事長と現館長は、意見が合わない時によく口論をしていた。

 二階の事務所には、副館長と事務局スタッフ、飼育員たちのデスクが並んでいて、ショーやイベント、(きゆう)()などの飼育業務を終えた飼育員たちが事務所に戻った時や、パソコン作業をする時以外、現館長は事務局スタッフとふたりで過ごすことが多かった。それゆえにパチパチとキーボードを叩く音ばかりが鳴っていて、私がたまに二階の様子を(うかが)いに行ってみても、しんと静まり返る事務所はまるで【普通の会社】のようだった。今でこそ一階にデスクを構えたことで彼女が出勤すればいの一番に挨拶を交わすのだが、まだ二階にデスクがあった頃の彼女は、水族館の横にある職員駐車場に車を()めてバックヤードにある裏口から二階へ上がることが多かったため、業務連絡がなかったり彼女が一階に降りて来たりしない限りは、夕方のミーティング時まで一度も会うことがなかったり、言葉を交わしたりすることも少なかった。
 彼女は、現在桂浜水族館でゼネラルマネージャーとして従事しているスタッフを右腕として育て、ふたりは常に行動をともにしていた。私が生まれた年と同じ平成二十八年に入社した現ゼネラルマネージャーの彼は、爽やかで誠実な見た目をしており、真面目できちきちと仕事をこなしていて、まさに「できる男」といったところだ。その頃私はよく一階の事務所にいて、ふたりと今ほど多くの時間をともにすることがなかったため、副館長と彼に対してどこか苦手意識を持っていた。それは私に限らず、おそらく当時はほとんど皆がふたりに対し苦手意識を持っていたように思う。どちらかが一階の事務所にやってくると、そこにいるスタッフの緊張が手に取るようにわかった。内線が鳴るだけで、それまで緩やかに流れていた空気に緊張感が走る。プルルプルルと鳴る電話のディスプレイに二階事務所の番号が表示されていると、誰がその電話をとるかなんて攻防戦が繰り広げられることもあった。
 彼女の車が浜辺の遊歩道を走り水族館の前を通ると、どこからともなく「来たで!」という声が上がる。その合図とともに皆気を引き締め、彼女は皆にとってまるで「プラダを着た悪魔」のミランダ・プリーストリーのような存在だった。それが少しおかしくて、だけど私もまだその正体を(あば)けない彼女に対して、皆と同じように気を張っていたのを憶えている。
 そんなミランダが、平成二十九年の秋にくれた「おとどちゃん、ツイッターやってよ」という魔法の言葉から私の世界は変わり、ぼんやりしていた日々が足早に動き出した。彼女のその一言で、目に留まるすべてのものが徐々に色彩を纏いだし、はっきりとした輪郭をもって心に映るようになった。だから私もプラダを着て悪魔になることにした。




 平成三十年九月、当時副館長だった彼女は館長に就任する。それからというもの、館長はいつも(ゆう)(もん)しているような表情を貼りつけていた。衰退する桂浜、入館者数の減少に重ねて起きた職員の一斉退職により晴れて嫌われ者となった水族館。この浜辺の小さな水族館を覆った闇はあまりにも深く濃かった。現理事長が館長を任せてからの彼女は今まで以上に必死だった。ギリギリのところを歩いていて、少しでも気を緩めると死んでしまうのではないかというほど神経を張り詰めているように思えた。桂浜水族館の館長となった彼女は、館長である以前に、まだ幼い我が子の母親であり、館長職という重役を(にな)いながら仕事と家庭の両立もしなければならなかった。人が好き、人と集まるのが好きというもともとの性格もあっただろうが、館長であるがゆえに断れない会食の誘いもあって、十分に眠れない日が重なっていたのだろう。いつもひどく疲弊しているようで、これまでもしばしば感情を()き出しにすることがあったが、館長に就任してからはそんなシーンが増えた。その怒りには、思うようにいかないことや自分らしさを手離してしまっている(しよう)(そう)と不安が混ざっていた。手探りで闇を取り払うには、彼女は(もろ)(せん)(さい)すぎていて、それでも強くあろうとしては、よくひとりで(はん)(もん)し泣いているようだった。
 現理事長が館長職から退いたことにより、館長就任から少しして、彼女は二階の事務所から一階の事務所へデスクを移動した。館長の右腕である事務局スタッフの彼が、館長より一足先に一階事務所へデスクを移動していたこともあって、しばらく二階でひとりだった彼女は、移動した一階事務所のデスクに着いて「これで寂しくない。ひとりは寂しいもんで」と言って苦笑にも似た笑みを見せた。
 この二年の間にも桂浜水族館ではスタッフが入れ替わり、飼育員のチーム異動、事務局スタッフの主な担当業務が変わったこともあって、組織図が改められた。館長の右腕は、それまで飼育業務にも携わりながら、実習生の受け入れや営業活動、広報など多岐にわたる仕事をこなしていたが、私がツイッターを任されてからは、当時お土産(みやげ)ショップである「マリンストア」の店員として仕事をしていた彼の同期が広報担当となり、テレビやマスコミ、インターネットなどほぼすべての広報活動を担うようになった。彼女は広報担当として、ツイッターの更新を任された私のアシスタントをすることにもなった。カメラを持って館内を走り回り、ツイッター用の写真を撮ったり、私がイベントに参加する際は同行するようになった。私が桂浜水族館公式ツイッターアカウントの担当となった頃のフォロワー数は二千六百人程だったが、半年以上過ぎた頃には二万三千五百人を超え、その投稿が面白いと、田舎(いなか)の水族館としては一目置かれる存在になった。

「館長が変わったのっていつ頃からやと思う?」
海獣班のリーダーが小首を傾げる。私が少し(うな)って考えるふりをしていると、彼は私の答えを待たずに「俺は、館長になってからやと思う」と言った。それから、なにかを(はん)(すう)するように「館長も変わったけど、俺も変わったよな」と続けた。彼のことも入社した時から見ているからわかる。

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続きはぜひ「小説宝石」5月号本誌でお楽しみください!

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