第6話 あの海月には傘がお似合い。

文字数 2,861文字

(*小説宝石2021年6月号掲載)

 花の名前をひとつ覚えると、その日から私の世界にその花が咲き(こぼ)れる。言葉をひとつ覚えると、その日まで足早に通り過ぎていたそれが、私の視界に立ち止まる。昨日まで知らなかった人を知ったその日から、彼らは街に現れる。音も、匂いも、色も、それはもうずっと前からそこにあって、何度も感じていたはずなのに、私が知った瞬間にこの世界に生まれて、やっと存在し始めたかのような不思議な感覚。ある日ふと、空き地になったその場所にあったもののこと、(あし)(しげ)く通い詰めていた場所が、心を離しているうちに知らない何かに変わっていたこと、ずっとなんてないから忘れないでいたいと思う。

 コツメカワウソの「(かえで)」が神様と散歩に出かけてから、連日のように彼女の死を(いた)む人たちから花が届き、初めに設置した机では献花を(そな)えきれなくなった。私は飼育員にお願いしてテーブルとシートを用意してもらい献花台を増設した。設置してから撤去する日まで、私は()()けられた花に水を与え続けた。(じよ)()()から注いだ水が花弁に弾け、(りん)(かく)()って落ちる。如雨露の先で花をかき分け、(くき)がささるオアシスにぼんやりと水を注いでいると、注ぎすぎた水が小さな容器から(あふ)れ机の上に水溜()まりを作った。やがて隣り合った容器から染み出た水が合わさると、大きな水溜まりとなって机を滴り地面を濡らした。そんな私を見かねてかフードストアのスタッフが「楓のこと、そろそろ離してあげないといけないね」と声をかけてきた。ふと我に返ってその言葉を(はん)(すう)してみる。私はここで一体なにに(すが)っているのだろう。頭で理解できることが、同じ器に入っている心にはどうして理解できないのだろう。病理解剖により彼女の死因がわかった時、坊主頭の飼育員は私に一通りの検査結果を話してくれた。聞いたことがないような難しい言葉が、ひっくり返した砂時計の空っぽの方に落ちる砂のように降り注いでくる。彼を見つめていると、それまで所在なさげにしていた湿った(そう)(ぼう)と鉢合った。彼は短く小さな息をひとつ溢して、「(あらが)えない運命やったんかもしれんな」と静かに言葉を継ぎ足した。
(抗えない運命……)
 私がその言葉を()みしめていると、彼は脱いでいた帽子をひょいと頭に(かぶ)って立ち上がった。
「ほな、トドのトレーニング行ってくるわ」
 つばに手をかけ深く被った帽子が落とした影で、一瞬彼の顔が隠れた。私の(あん)(たん)たる気分を見透かしたのか、彼は屈託のない笑みを()って見せた。胸の真ん中で(かす)かにホイッスルが揺れる。(きびす)を返して事務所を後にする(きや)(しや)な背中には寂しさが積もっていて、喉の奥がじわりと痛んだ。立ち止まっていることすら、彼らには許されないのだ。





 楓が天国へ散歩に出かけてから一カ月ほど()って献花台は撤去された。心に開いた穴のようにぽっかりと空いた空間に、観葉植物のパキラを置いてみた。パキラは、桂浜水族館が創業八十八周年を迎えた時に常連のお客さんから(もら)ったもので、楓の献花台の隣で彼女の死を悼む人たちをずっと見守ってくれていた。ふと見てみると木の根元から芽が生えている。いのちの()(つな)がっているのを感じた。今日からはこれに水を与えて(しの)ごう。しかし一日挟んだ休み明けに様子を見に行ってみると、パキラは元の位置に戻されていて、献花台があったスペースには(だいだい)(いろ)のベンチが置いてあった。足繁く通っていた思い入れのある場所が、知らぬ間に姿を変えていて立ち(すく)んでしまった。「いのちは平等だと思いますか」と私に問うた誰かの言葉を思い出した。いのちは平等だと思う。けれど、いのちが向かう「明日」は平等じゃない。きっとこれで良いのだ。どうか、このベンチに座る誰かのいのちが明日へ向かいますように。

「おとどちゃーん、カワウソたちにごはんあげるよぉ!」
 魚とキャットフードが入った赤い小さなバケツを持った飼育員の(ねこ)(まち)がトドプールとアシカプールの間の丁字路から私を呼び、足早にカワウソ舎の方へと向かった。ピィピィと聞こえてくる声の方へ踵を返し、彼を追いかけるように私も生きる方を歩く。進もう。大切な思い出を抱いて、橙が赤く色づく君のいない道を。

 平成二十六年に起きた職員の一斉退職を経て、平成二十八年「なんか変わるで、桂浜水族館」と声を上げ走り出した浜辺の小さな水族館、通称「ハマスイ」。しかし館長にとってこの改革は、私が生まれる前から始まっていたらしい。今思えば、彼女がおんちゃんに助けを求めたのも、改革のひとつだったのかもしれない。この五年の間にも私は、いきものだけでなく、飼育員たちとのさまざまな出会いと別れを経験した。誰かとの縁は、波が運ぶ何かに似ている。波打ち際に押し寄せた白波が足元に貝殻を置いていくみたいに(はかな)い。それがどんなに綺麗でも、誰かは必要ないと見過ごすだろう。それがどんなに(いびつ)でも、誰かは拾って宝物にするかもしれない。手ぶらだと()()がなくて、拾いすぎるとうまく歩けない。波の来ない場所に置いていても、リズムを変えた波に(さら)われて海に帰っていったりする。私よりもずっと多く出会いと別れの中で生きてきた彼女もまた、いのちを運ぶ波が寄せて返すたびに足元を濡らしてきたのだ。
「館長、今まで出会ってきた飼育員で『この子心配だなあ』って思った子って誰?」
 私が何気なく問うと、彼女は視線を少しだけ上に向けて口を(つぐ)み、小さく(うな)って「そうやねえ。みんないろんな意味で心配してきたし、今の子たちも全員心配やけど……」と、アルバムを(めく)るように思い出が詰まった引き出しをひとつゆっくりと開いた。

「あの子かなあ…」

 平成二十七年十月、「あの子」は魚類担当として桂浜水族館に入社した。私があの子と初めて出会ったのは、生まれた日のことで、暗めの茶色い髪に少し重みのある一重瞼(まぶた)、白い肌にふっくらと幼い頬が赤子のようだと思った。ひとつひとつのパーツはあどけなさを残しているのに、その横顔にはどこか大人びた寂しさを(まと)っている。
「へえ、おとどちゃんっていうんだ。あんまり可愛(かわい)くねーなぁ」
 目を細めくしゃりと笑うあの子は、少ししゃがれた声でそう言った。

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続きはぜひ「小説宝石」6月号本誌でお楽しみください!

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