最終話  その夕凪にはもう帰れない。

文字数 2,683文字

(*小説宝石2021年8・9月号掲載)

 西日本を中心にしばらく降り続いた激しい雨によって、たくさんの地域や人たちが(じん)(だい)な被害を受けた平成三十年七月豪雨。桂浜も猛烈な雨が降り、海が荒れ、水族館の目の前まで波が押し寄せた。雨が止むと、激しく機嫌を損ねていた空は嘘のように晴れ渡り、澄んだ風が吹いた。しかし数日間の()()の影響で、浜辺には大きな木の枝やプラスチック製品の破片、腐敗したゴミといっしょに、ある日まで誰かが大切にしていたのかもしれない玩具(おもちや)が大量に流れ着いていた。海獣班のリーダーである坊主頭の飼育員に誘われて、ふたりで浜辺を歩く。
「これが全部どこから流れてきたか知れたらな」とソフトビニールのフィギュアをひとつ手にした彼が、苦笑にも似た笑みを浮かべて見せた。ある日まで誰かのものだったものや、誰かがもういらないと捨てたものが、ここにある。宝物だったかもしれないこれらは、本当にゴミなのだろうか。足元にあったガラスの破片を拾って太陽の光に(かざ)してみた。一体どこから来たのだろう。荒波に()まれどこへでも行けたはずなのに、なぜここに来たのだろう。浜辺に散乱するこれらは、やがて作業員によって取り除かれる。すべてゴミとして廃棄され、この浜辺は元の姿を取り戻すだろう。
「キレイやな、それ」
 ひょいと坊主頭が揺れて、私が持っているガラスの破片を覗き込んだ。流れ着いたもので満たされている砂浜を歩きながら、私たちは、ここにある誰かのものを思い、それを抱いて生きた誰かに思いを()せた。

 夕方のミーティングが始まり、一階事務所に飼育員たちが入ってきた。はじめに部屋に入ってきた海獣班のリーダーがソファーに腰を下ろしたのも束の間、「あ」と言った。
「見て。ウロコがついてる」
 こちらに向けられた腕を見れば、薄く白い魚のウロコが一枚貼りついている。バックヤードで生きものたちのエサとなる魚を(さば)いている時についたのだろうそれが、見れば見るほど彼の腕に馴染んでいて、貼りついているというよりは、皮膚の一部のように感じた。そうして人間としての皮膚が日に日にウロコに変わっていき、気づいたら彼は完全に魚になっているのではないかと思うと、それもまた愛おしく感じる。この水族館にいる生きものたちも、実はもともと人間で、人間が次第に魚や動物の姿に変わっていき今ここにいるのではないかと思うと、摩訶不思議な気持ちになった。リーダーの腕についているウロコを見た飼育員の(ねこ)(まち)が、数テンポ遅れて「ほんとですね。水族館の飼育員あるあるじゃないですか」と言うと、リーダーは笑いながら猫町の頭を指さした。
「お前も頭についてるしな。いや、なんで頭についてんの」
「え? ほんとですか? わあ、ほんとだ。なにこれ。なんでこんなところについてるの?」
 事務所の壁に取り付けられている鏡を覗き込んだ猫町が、髪の毛についているウロコを指で()がして笑う。ふたりの他愛もないやりとりが愛らしくて、私も小さく笑った。




 令和三年四月一日、桂浜水族館はついに創業九十周年を迎えた。開館と同時に常連のお客さんが花束を持って来館し、宅配便でも祝いの花が届いた。エントランスに机を設置して、(もら)った花を並べる。中には日本酒を持って来た人もいた。普段から私がツイッターで酒絡みの投稿をしているせいもあるだろうが、酒文化が根付いたなんとも高知らしい祝いの品だと思った。せっかくだからと貰った酒を花といっしょに机の上に並べると、一際目立って見える。
「九十周年おめでとう」
 お客さんに改めて言われると、(しおり)(はさ)むような言葉にこそばゆい感覚がした。
 桂浜水族館が創業九十周年を迎えたこの日、海獣班のリーダーと広報担当の@海月(くらげ)は、互いに髪の毛を()り合う約束をしていて、ふたりは朝の七時半におみやげショップ「マリンストア」にやってきた。床に新聞紙を()き、はじめに海獣班のリーダーの頭に海月がバリカンを入れる。ジーという音とともに、一センチほど伸びていた短い髪がほろほろと新聞紙の上に落ちた。ここ二年ほど、元旦には海月が彼の頭にバリカンを入れて伸びた髪を剃るのが、ふたりの間で謹賀新年の恒例イベントとなっている。正月だけでなく、剃ってほしいと言われた時にも、海月は彼の頭を丸めていた。昨年の秋、「アシカになりたい」と言い、カリフォルニアアシカの「ケイタ」を真似て、前髪を三角に残している彼の坊主頭は、その日も海月の手により前髪だけを残して丸く剃り上げられた。海月はアシカになった彼にバリカンを手渡すと、肩まで伸びている自分の髪の毛を適当に切り、バリカンで剃りやすい長さにして新聞紙の上に座った。彼女が床に両手をついて頭を下げると同時に、リーダーがバリカンの電源を入れる。彼女の頭から次々と髪の毛の束が剃り落とされ、五分も経たないうちに完全な坊主頭となった。
「私、こんな頭の形してたのか!」
 自身の後頭部を(こす)りながら海月が笑う。坊主にしたら毎日違うウィッグを(かぶ)っていろんな髪型を生きると言っていた彼女だったが、生まれて初めてしたというこのヘアスタイルがよほど気に入ったのだろう。ウィッグを被ったのははじめの一日程度で、「いろんなウィッグを買ったけど、結局坊主が一番おしゃれね」と言って、その日から彼女が買ったそれらは、部屋のクローゼットの奥で眠ることとなった。ふたりは互いの髪の毛を剃り合い坊主頭となる様子を、公式YouTubeチャンネルで生配信していたため、その動画を見た人たちが来館して海月を見つけると、皆口を揃えて「本当に坊主にしたんだ!」と、見慣れないその姿に少しの驚きと新鮮味を感じていた。
「おとどちゃん、おそろいだね」
 自身の丸い頭を指さした海月が笑う。アシカになった彼と、私になった彼女。
「なんかいいなあ。あたしも坊主にしたくなってきた」
 (あご)に手を当てまじまじと海月の頭を見つめた後、口を(つぐ)んで(うな)る館長に、私と海月は顔を見合わせて笑った。

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続きはぜひ「小説宝石」8・9月号本誌でお楽しみください!
単行本『桂浜水族館ダイアリー』(仮)2021年10月発売決定!!
お楽しみに!

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