第4話 遣らずの雨に燻れば、哀。

文字数 2,315文字

 (*小説宝石2021年4月号掲載)

 ジー……カタカタカタカタ……。
 桂浜水族館で生まれてからずっと脳の奥で映写機の音が鳴っている。
 この映画の監督は私で、主演は飼育員たち。どのシーンを切り取っても、微睡(まどろ)んでしまうほど愛おしい。

 制服を着た学生たちが波打ち際ではしゃいでいる。ひと昔前に()()った携帯小説にありがちな青春の型。飛沫(しぶき)を散らしながら寄せてきた波に足を(すく)われないように()けたかと思えば、返す波を追いかけてを繰り返している。どうせ避けるのならば追いかけなければいいのに。近づかなければ飛沫を浴びることも足を掬われることもないのだから。
 ある映画のワンシーンに「水滴がすばらしいのは最も抵抗の少ない経路をたどること。人間はまったくもって、その逆だ」というセリフがある。あの学生たちも何かに(あらが)っているのだろうか。一見無駄に見えるあの行為にもなにか意味があるのかもしれない。

「おとどちゃん、おはよう」
 鋭利に上がった眉に大きな瞳、肩で風を切りながら歩いてきた(こわ)(もて)のベテラン飼育員は、私を見つけると頬を(ゆる)ませた。桂浜水族館でアシカやトド、ペンギンの世話をしている彼は「おんちゃん」の愛称で(した)われている。(いか)つい(ふう)(ぼう)とペンギンに噛まれたのだろう腕の生傷が相まって、黙っているとヤクザのようだが、生きものに話しかける時はいつも猫撫で声で、そのギャップがまた面白い。彼は北海道出身で、冬でも便所スリッパのようなボロボロのサンダルを履いている。彼が歩いているとペタペタとサンダルが地面を叩く音がするからすぐにわかる。おんちゃんはいつも煙草(たばこ)の匂いと(けもの)(まと)う甘臭い独特な香りを身に着けていて、私はそれが今でも好きだ。
 おんちゃんは誰よりも早く出勤する。自営業でペットシッターの仕事もしていて、早朝に預かっている犬の散歩をし、彼らの世話をしたらすぐに家を出ているようで、いつも就業開始時間の二時間程前には水族館にいる。桂浜水族館は個人経営の小さな水族館で、家も兼ねているため、二階に現理事長(六代目館長)が住んでいる。二階事務所には、飼育員たちのデスクが並んでいるすぐ横に簡単な仕切りがあり、仕切りの向こうに台所と食卓がある。パーテーションと(ふすま)(へだ)てて理事長の寝室もある。おんちゃんは二階の事務所で本を読んだり理事長と話をしたりして朝の時間を過ごしているらしい。そうして就業開始時間である八時半くらいになると、二階から降りてきてペンギン舎へと向かう。
「リサ、おはよう」
 おんちゃんがペンギン舎に向かう途中にあるアシカプールの前で立ち止まって、お気に入りの岩のベッドで寝ている「リサ」に声をかけると、リサは顔を上げておんちゃんを見つめ、大きな欠伸(あくび)をひとつ(こぼ)した。どこか愛想なく返された挨拶もおんちゃんにとっては愛の限りのようで、「かわいいやつめ」と口元を緩ませ、鼻を鳴らしてペンギン舎へと向かった。おんちゃんがペンギン舎の前に立つと同時に、ペタペタと鳴る彼の足音を聞いてか、フンボルトペンギンの「リオ」が前の方に小走りで駆け寄ってくる。おんちゃんはリオの育ての親だ。リオは生まれて間もない頃に親に見離されたため、おんちゃんが親となり(じん)(こう)(いく)(すう)をすることになった。おんちゃんは毎日リオを家に連れて帰り、いっしょに出勤してきた。リオもおんちゃんのことをちゃんと親だと思っているようで、おんちゃんがペンギン舎の方に行くと、彼女はどこにいても柵の方に寄ってきて彼のそばを離れようとしなかった。
「リオちゃん、リオちゃん」
 我が子というよりは孫を愛しむようにリオの名を連呼する。リオも彼の声に合わせ顔を左右交互に傾けて返事をしているようだった。



 おんちゃんが出勤の日は「ペンギンタイム」というイベントを開催し、おんちゃんとお客さんで円になってその場にしゃがみ、円の真ん中にリオを立たせて、手招きをしたり名前を呼んでリオが誰のところに来るかというゲームをしていた。もちろんリオにとって育ての親であるおんちゃんは圧倒的に強い。ハンデとしておんちゃんはリオを自分から少し遠いところに立たせたり、彼女の背後に座ったりした。ゲームが始まるとリオはいつもキョロキョロし、そしてすぐにおんちゃんを見つけると、とことことおんちゃんの元に駆け寄り、腕の中に納まった。おんちゃんはリオを抱えると「はーい、私の勝ちです」とゲームに負けて落胆するお客さんたちにしたり顔をする。はじめのうちこそリオは迷いなくおんちゃんの元に駆けて行っていたが、おんちゃんの手から離れペンギン舎で過ごす時間が増えてくると、多感なお年頃なのか、人間の女の子のようにリオはおんちゃんに少し反抗的な素振りをみせるようになった。
 ペンギンタイムを終えたおんちゃんが事務所に入ってきて「ちくしょう、負けた」と、ズボンのポケットに手を入れ()()(くさ)れる姿を何度も見た。
「リオちゃんはもう俺のことが嫌いになっちまったのかなあ」
 ぽつりと(つぶや)き事務所を後にする彼の背中には(あい)(しゆう)(ただよ)っていた。
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続きはぜひ「小説宝石」4月号本誌でお楽しみください!

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