第6回/運動神経に関しての格差期間は意外と短い

文字数 2,227文字

稀代にして奇態、現代を生きる伝説の漫画家・カレー沢薫の tree 新連載がスタート!

ひきこもり、そして金(カネ)と語り倒したジェダイ・マスターの新しいテーマは…


格差!


熱くなりがちなこのテーマに、戦など起こさず、肩の力をぬいてゆるりと冷静に挑む──!

前回書いた通り、運動神経にも埋めがたい格差がある。


しかし、その差の影響を受ける期間は他の格差に比べて短いような気もする。


貧富の差は、我が国が気合の入った共産主義国として生まれ変わるか、通貨制度自体が崩壊しない限り、永遠に存在するだろう。


さらに「コミュ力」の差についても、幼稚園から老人ホームまで、文字通り死ぬまで感じ続けるだろうし、死んでからも「自分だけ血の池地獄に誘われず針の山でボッチ飯」みたいな現象に悩まされそうなので、死後の世界は無であってほしい。


それに対して、容姿格差などは、加齢とともに気にならなくなる傾向にあり、最終的に、ジジイなのかババアなのかさえ不明という、ルッキズムはもちろんジェンダーさえ超越した、誰よりも多様化した存在になっていく。


だが、そこに至るまでの若年期に、見た目のことで死ぬほど悩み、一生ものの病(ビョウ)を患ってしまう若も少なくないので、今悩んでいる若者に軽々しく「顔なんてあればいいんだよ」と、ない方がマシの顔で言うことはできない。


悩みというのは、それ自体も辛いが、それを周囲に軽視されるのも辛いのだ。


「肛門が臭い」という、むしろ臭くない方がおかしく思えるような一見バカバカしい悩みでさえ、10人中8人はただの気にしすぎだが、2人は何らかの原因があり、治療により改善することがあるらしい。


悩みを「考えすぎ」で片づけることで、重大な疾患を見逃すこともある。それで取り返しのつかないことになったら、良かれと思って考えすぎだと諭した方も、後悔することになるだろう。


「運動神経」に関しては、容姿よりもさらに格差の影響を受ける期間が短く、正直「体育」という公開処刑制度が実施されている間だけなのではないかとさえ思う。


実際、コミュ力や社会性の差については、未だに同年代と比べて劣等感を感じることは多く、むしろ「こんな40歳児が他にいるだろうか」と不安が増す一方だが、足の速さを比べて落ち込むということはないし、そもそも足の速さを比べる機会がない。


よって、運動神経の差に関しては学生時代だけの辛抱で済むような気もするのだが、私の運動神経は所詮、中の下レベルなのだ。


運動で脚光を浴びることはもちろんなかったが、運動神経が死に過ぎて、バッターボックスに立つと守備が3歩前に出る、特殊フォーメーションがご用意されるほどでもなかった。


注目を集めるレベルで運動ができないと、それがトラウマとなり、大人になってからも影響する可能性はある。


大人になって逆上がりができなくて困ることはほとんどないだろう。逆上がり査定があるような会社は辞めた方がいい。


しかし子供時代の「成功体験」や「失敗体験」が後の人格形成に影響を与えるのは確かだ。


運動ができない人間は、小中学の体育の時間だけで、東京ドーム3個分の失敗を得てしまい、自己肯定感が低い大人になりがち、というのはあり得るかもしれない。


だが、才能は早い段階から伸ばした方が有利なのと同様に、才能のなさも早く気付いた方が有利とも言える。


今思えば、運動がハイレベルにできなかった人間は、悟りを開くのも早かったような気がする。


むしろ私のような中の下レベルの方が、向いてもないのに何となく中学校ぐらいまで運動部を選び、後輩にレギュラーを早々に奪われたり、体育でできる勢を見て妬ましく思うなど、無駄な劣等感を得ていたような気がする。


対して未就学児の段階で運動能力のなさに気づいている人間は、最初から運動部には入らないし、体育の時間心を消灯して、ただやり過ごす術を身に着けていたりする。


大事なのは才能の有無よりも「才能がないことに拘泥しない」ことなのかもしれない。


せっかく体育の時間から解き放たれたのに、未だにXで30年前の「体育や体育教師から受けた嫌な思い出」を自らこすり続けているようでは、ますます「運動ができないやつは『こう』なる説」を立証することになってしまう。


逆に、運動神経に恵まれた人間は、少なくとも義務教育期間中は成功体験無双できるので自己肯定感溢れる明るい大人になりそうだが、運動神経が目に見えて輝く期間は短い。


その確変タイムが終わったあとのギャップに苦しむこともあるかもしれない。


逆に、体育の時間に特殊フォーメーションを組まれていた奴の方が、同窓会でビルゲイツみたいになって再登場してくるパターンもある。


学生時代の経験が、今後に影響するのは確かだが、それで全てが決まるわけではない。良くても悪くても、昔のことを引きずりすぎなことが重要だ。


だが30年経った今でも私は中学生の体育の時間「走り高跳びのベリーロールがやたらうまい」と教師に褒められたことを覚えているし「見本として飛んでみろ」と言われ、衆目の中バーに激突したことも忘れられない。


「考えすぎ」と同様に「昔のことなんか忘れろ」も、他人が軽々しく言っていいことではないのだ。

カレー沢薫

山口県在住の漫画家・コラムニスト。最新作に『ひとりでしにたい』原作(講談社)など。

Twitterはこちら:@rosia29

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