『パラソルでパラシュート』一穂ミチ 試し読み

文字数 12,979文字


 わたしたちの間にあった美しいことといえば、きっと出会いくらい。



 わたしは大阪城ホールのアリーナ最前列で人知れず流血していた。肉眼で確かめてはいないけれど、絶対そう。右足の、かかとのちょっと上。アキレス腱を収納している、乾燥したら地層みたいになるあの部位に名前はあるのだろうか、そこがさっきからずきずき痛む。ストッキングに赤黒く広がるしみを想像しながら目の前の柵に両手をかけて突っ立っていた。ステージ上では、わたしの大好きなバンドがごきげんなナンバーを奏でてくれているのに。

 やっぱり、開演に間に合わなくてもいったん家に寄って靴を履き替えてくるべきだった。まだ馴染んでいない慣らし中のパンプスを履いている日に限ってコンサートのチケットが舞い込んでくるなんて。しかも二階席なら座ってゆっくり観られたのに、ファンクラブ先行で当たったというまさかの一列目、腰を下ろしている場合じゃない。こんな特等席でひとりだけ座っていたらバンドメンバーからも丸見えだし、DVD収録のためと思われるカメラも場内のあちこちでスタンバイしている。最前列着席女として記録と記憶の両方に残るのは恥ずかしいし、チケットを譲ってくれた千冬ちゃんに悪い。座席を特定されて次からブラックリストに載る可能性もなくはない。だから靴擦れの痛みに耐えつつ手を振り、手を叩き、一生懸命リアクションしてきた。もはや音楽を聴きにきたのか、エキストラのひとりとしてこの場を盛り上げにきたのかわからない。

 コンサートは初めてだけどアルバムは全部履修済み、それなりの熱量でバンドを愛しているはずなのに、わたしは正直に言うと開始一時間でうっすらと飽きていた。もちろん、間近で生の音を浴びるとテンションが上がるし、ボーカルの声は機械で調整されたものよりずっとつやっぽくて素敵だった。なのに、前奏長いなと思ったり曲終わりのドラム連打がくどいと思ったり、周りと手拍子のリズムがずれないか気にしたり、ちっとも演奏に入り込めていない。何かしながら、好きな曲だけ好きな順番でつまめるプレイリストに慣れすぎたせいだろうか。それとも、持って生まれたこのぼんやりと散漫な性格のせい?

 そんなことを考えているうちにもセットリストは進行し、テンション高めの曲が続く。会場は中華鍋で煽られるチャーハンみたいに沸き続け、わたしは次のMCでは座ろうと決意する。軽く身体を揺するだけでもかかと上部の地層(仮称)は神経を直接軽石で擦られたようにひりつき、そのたびなぜか耳の裏に小さな稲妻が走って寒気がする。こんな上の空で手を叩くくらいなら、いっそ退出すべきかもしれない。着席よりは空席のほうがましな気がする。でもふんぎりがつかない、わたしのささやかな逸脱が、この大きなホール全体の空気を乱してしまうのでは、という懸念を拭えない。でも足が痛い。合皮のパンプスが地層をごりごり削って骨まで出土してやしないかと思うほどの激痛に、わたしはとうとうリズムを取るふりをしながら右足だけそろりとパンプスを脱ぎ、かかとのところを踏んづけた。バランスが取りにくいし型崩れしてもう履けないかもしれないけれど、このまま皮膚をすり減らすよりまし。ひとまず痛みが和らいだのでほっとして演奏に聴き入ることができた。

 ステージ上の大型モニターに映し出されるメンバーの姿、色やパターンを目まぐるしく変えるスポットライトの演出にもちゃんと目がいく。ようやく集中できそうなのに加えて、わたしがいちばん好きな曲が流れ始めたのでイントロの一秒目でばんざいをしたくなった。十年以上前に出たアルバムの収録曲で、曲調もさほどポップじゃない、はっきり言って地味な歌だったから、まさか数あるレパートリーの中から、二十曲がせいぜいなコンサートのセトリに選抜されるなんて思ってもみなかった。わたしのテンションと裏腹に会場の盛り上がりは今ひとつで「えっと、知らないわけじゃないんだけど……」という戸惑いが超満員の会場に漂うのを感じた。でも、キャリアの長いバンドの、何百とある持ち歌の中でわたしにはこれがトップヒット。何時間も延々とリピートした曲を生で披露してもらえるなんて、この負傷と引き換えのご褒美だろうか、だったら許す。

 わたしがひとり頷いている間にも聴衆は曲調を把握して手拍子をしたりゆるく拳を振り上げたりしていたが、この曲に関しては空気を読んで合わせるのがいやで、両手を柵に預けたままステージを見上げていた。平日の会社帰りに急いで来てよかった、と素直に思えた。真っ白い照明が舞台上の主役を照らし、そこに浮遊するかすかなちりのようなものや、メンバーの髪の毛が光に透けて銀色に見えるのもここからだとよく判る。さっきまで全然乗り気じゃなかったくせに、急に神々しいものを拝んでいる気分になり、何だか畏れ多くて目線を下げた。昔の言い伝えで、神さまを見たら目がつぶれる、というのは、きっとこんな気持ちだろう。自分の眼差しがこの完璧な光景を損なうんじゃないかと思ってしまう。

 ステージと柵の間のスペースには、メンバーの動きや表情を逐一押さえるべく五、六台のカメラが設置され、カメラマンと、アシスタントみたいな人たちが止まったり動いたりを繰り返していた。わたしのちょうど目の前にもツアーTシャツを着た男の人がひとりいて、照明のおこぼれを浴びた横顔がはっきり見えた。

唇が、小さく動いている。

 今、ステージで流れている歌を口ずさんでいる。わたしの頭の中の歌詞と完全に一致した唇の動きに気づいた瞬間、わたしは、この人の歌が聴きたいと思った。ホールの隅々にまで甘いビブラートを響かせるプロの声ではなく、この知らない人の声が。十秒でいい。すべての音を止めて、その内緒話みたいな歌を聴かせて。

 薄い唇だった。やや鷲鼻だった。長い前髪でよく見えないけど、たぶん二重まぶただった。黒いTシャツはぶかぶかで、特に袖口なんか余裕がありすぎてわたしの腕を突っ込んでも問題なさそうだった。何のためにそこにいるのかわからなかった。わたしが存在に気づく前は何らかの作業をしていたのだろうか。唇が「ハニー」と動いた。サビのフレーズだ。普通に生きていて「ハニー」と口に出す日本人男性はそうそういないと思うけれど、メロディに乗った途端、何の違和感も無くなるのがふしぎだった。

 どんな気持ちで「ハニー」なんて言うんだろう、と勝手に面白がっていると、横顔が唐突にわたしのほうを向いた。一メートル足らずの距離でがっつり目が合う。あっ、と焦ったが、すぐさま逸らすのも却ってわざとらしいから何の反応もできなかった。薄い唇がすうっと引き結ばれる。逆光で真っ黒く見える瞳は訝しげというわけでもなく、その冷静さで、偶然こっちを向いたわけじゃないのがわかった。ステージそっちのけで見ていたのを、この人は知っている。足の痛みも忘れるくらい恥ずかしかった。指一本動かせず立ち尽くすわたしの目の前で、その人は口を開いた。ゆっくり、大きく。

 ふ、ん、す、い。

 歌詞とは違う言葉が、音もなく、でも確かにわたしに向けられていた。思わず身を乗り出すとその人はくるっと背を向け、床にうねうね這うカメラのケーブルを持ち上げて魚の仕分けでもするようにびたんびたんと捌いていく。それが今、本当に必要な挙動なのか、わたしにはやっぱりわからないでいるうちに、また次の曲へと、コンサートは終わらない。


 ふんすい、噴水。

 心当たりはひとつしかない。城ホールを出て、石垣を横目に階段を降りたらすぐそこにある。アンコール二曲を含めた公演が終わると、わたしは物販のテントもスルーし、環状線の駅に向かって流れていく人並みから離脱して丸い噴水のへりに腰を下ろした。信じられないことに、足の出血はほんのすこしだった。皮がずるっと剥けてはいたけれど、量にすると一ccくらいのものだろう。靴の中が真っ赤になっていてもおかしくないと思ったのに。そして皮膚が傷ついたのにストッキングが無傷なのはどういうこと。釈然としないまま座り込むわたしに見向きもせず、人々はコンサートの感想を熱っぽく語り合い、あるいはこの噴水を目印に落ち合い、それぞれの場所に散っていく。さっきまで、同じ箱の中で同じ歌を聴いていたのに、何て呆気ないんだろう。じょばじょばと細い水の柱が上がると風向きによってはしぶきがかかって寒かった。三月末の夜はまだまだ凍えるし、お尻の下は硬い石だからどんどん冷えてくる。わたしはコートの前をかき合わせて腕組みし、身を縮めた。あの人がツアースタッフだとしたら、作業が終わって身体が空くのは何時ごろだろう。公演はあしたもあるから、そんなに大掛かりな撤収はなさそうだけど。

「お姉さん飲みに行かへん?」とコンサート帰りの何人かから声をかけられたが「人を待っているので」と断った。「マッチングアプリの子?」とコンサートとは関係なさそうなスーツのおじさんに尋ねられたが「違います」と答えた。

「あの、ドSのご主人さま募集っていう……」

「違います」

 最初の段階で否定しているのに、なぜさらに過激な質問を重ねるのだろう。おかしいなあ、と首を捻りながらおじさんは大阪城公園のほうに消えていった。

 おかしいですよねえ、と返したかった。あの人の名前も知らないのに、本当にわたしに向けて「噴水」と言ったのか、それがここにいろという意味なのか、ひとつも確かなことはないのに、あしたも仕事なのに、わたしはもう一時間以上待っている。目と鼻の先にあるコンビニに走ってばんそうこうを買うことも、自販機で温かい飲み物を買うこともしなかった。自分がちょっとでもこの場を離れ、その間にあの人が来たら、探しも待ちもせずすぐどこかへ行ってしまう、そんな気がしたから。背中にツアーロゴとスケジュールがプリントされた、黒いTシャツのまま。あれ、わたしも欲しかったな。物販もとうに片づけられてしまった。噴水の中心には塔みたいな高い照明が立っていて、十二角形(暇だから数えた)の傘の中では十二個のライトがまばゆく夜の広場を照らしていた。その下にいるのはわたしだけなので、わたしのためのステージと言えないこともない、かもしれない。すぐ側の川べりでは桜が早々に満開近くなっていて、ここに来る時乗った環状線からも大川に沿って続く桜を見たのを思い出した。ほんの数時間前なのに、すごく昔の出来事みたい。電車が天満を過ぎて大川を渡ると、雑多な下町の景色が急にぱあっとひらけて垢抜ける。窓越しに帝国ホテルを眺め、アフタヌーンティーがしたいね、と千冬ちゃんとしょっちゅう言い合っているのにまだ行けていないなと思った。おやつにするには量が多すぎ、ごはんにするには甘味が勝ちすぎているあれを、いったい何時に食べればいいのかわからない。でも今ならお腹がぺこぺこだから完食できそうだった。

 わたしは座ったまま大きく伸びをし、仰いて照明を見上げる。光の花みたいだった。空腹のせいかすこしくらっとする。せめて何時まで粘るか決めておかなければ、わたしのことだから寒さにふるえつつぼんやりと夜明かししかねない。

 あくびを宙に放って姿勢を戻すと、あの人がゆっくり階段を降りてくるところだった。Tシャツの上に、これもツアーグッズのウインドブレーカーを羽織って両手をぶらぶらさせながら、ちょっと散歩に出ただけ、とでもいうように目的を感じさせないだらっとした足取りだった。

 来た、と思ったそばからわたしは不安になる。待ち合わせしたつもりはなく、本当にぶらついているだけなのかも。「噴水」なんて言わなかったのかも。ひとりでそわそわするわたしのところに、その人はじれったいほどのんびりと歩み寄ってきた、かと思うと一メートル手前でふいっと斜めに逸れ、噴水のへりに誰かが忘れていった(のか置いていった)眼鏡を拾い上げた。きちんと折りたたまれた真っ赤なフレームの眼鏡でやけに存在感があり、わたしも若干気にはなっていた。その人はおもむろに眼鏡のつるを広げ、装着して「きっつ」と顔をしかめた。度が強かったらしい。そしてようやく存在に気づいたようにぐりっと首を捻ってわたしに話しかけてきた。

「似合う?」

 そんな都市伝説があったような、と考えながら「何とも言えないです」と答えた。

「何でや」

「それ、女物じゃないのかなって」

「そんなんどうでもええやろ」

 言われてみれば眼鏡にまで性差をつけるのは意味がなさそう、時代の流れにも逆らっている。わたしはフラットな目線でもう一度考え、改めて「さほど」と結論づけた。

「似合てへんのかい」

 その人は眼鏡を外し、ウインドブレーカーの袖でレンズを拭いてからまた折りたたんで元の場所に戻した。

「ほいで、お嬢はんはどないしましてん、その足」

 わざとらしいほどこてこての大阪弁なのに、なぜかとても自然に聞こえる。

「新品の靴で来ちゃって、靴ずれがひどくて」

「ほお」

 しゃがみ込み、パンプスの上に投げ出した右足をしげしげ眺めるものだから、恥ずかしくなって左足の後ろに隠した。

「靴って、どんだけ店頭でええ感じでも、いざ本番で履くと絶対どっか痛いよな」

「そうですね」

「何やろ、車の教習所と路上みたいな。いつもとちゃうとこでどんだけリハしてもリハはリハでしかないんよなあ」

「わかります」

 試し履きどころか、ZOZOTOWNのセールで買いました、とは言えなかった。

「免許取るの、苦労しましたか」

「教習所行ったこともないわ」

「そうなんですか」

 今のしみじみとした語りは何だったんだろう。

「最初の痛みを我慢して無事一軍に昇格できるか、靴箱で死蔵されるか……けど、ええ感じにこなれてきたなって思った時点で、もう新品とちゃうんよな、買うた時のときめきはないねんな。俺の足に合うてきたっていうんは靴が己を諦めてくたびれてきたいうことやからね、諸行無常、栄枯盛衰」

「ああ……」

 この人、こんな話をしに来たんだろうか。そしてわたしはこんな話を聞くために待っていたんだろうか。腑に落ちないものの、話の内容自体は納得いくものだったので頷くと、その人は満足そうににかっと笑った。わたしと同じ三十歳前後だと思うけれど、笑うと途端に子どもっぽく見え、お行儀よく整った歯並びは却って似合わなかった。もうすこし乱れていたほうが「らしい」のに、と、名前も知らない男の人に思った。

「ほな行きまひょか」とその人は立ち上がる。

「えっ」

「うちにええ薬がありまんねんわ」

 グレーゾーンのな、と今度はさっきよりすこし悪い顔でひひっと笑った。薬どうこうより、こんな時間に怪しい人間の家にのこのことついていくという選択が完全にブラックなのは、鈍いわたしにもわかった。でも理解と行動はまた別の問題、とその晩身をもって知ってしまった。この変な人についていってみたい、という好奇心に勝てなかった。ううん、そんな能動的な動機ではなく、あの会場で聴こえない歌に耳を澄ませた時からふらふら心が吸い寄せられて抗えないだけなのかもしれない。誰かのことを知りたい、と思ったのはたぶん生まれて初めてだった。人間に興味がないわけじゃなく、相手が自分に見せようと思って見せてくれている面だけでわたしには十分だから。

 わたしの反応も確かめずに歩き出す背中を、ひょこひょこ右足を引きずりながら追いかけた。大阪ビジネスパークへとつながる橋の欄干の手前には「水上バスのりば」と書かれた看板が立っていた。川の駅、というのが近いらしい。どこへ行けるのだろう。雲が一部だけほんのり明るく、その向こうに月があることを教えてくれる。わたしに気を遣っているわけでもなさそうなてれてれした歩みの足元は固い新品の時代をはるか昔に通り過ぎたと思しきコンバースのスニーカーだった。「己を諦めて」というフレーズを思い出してちょっとおかしくなる。

 橋を渡りきる直前で振り返ると、対岸の桜と、平たい昆虫みたいな城ホールと、それからもっと遠くに大阪城の天守閣が見えた。今ならまだ間に合う、とわたしの中の何かがささやく。理性よりもっと淡い予感というかお告げというか、そんな感じのもの。でもわたしは川を越え、あっさり向こう岸に到達した。前を行く背中は信号を渡り、ホテルニューオータニの前に停まっていたタクシーに乗り込み、わたしもそれに続いた。

「汐見橋線の木津川のあたりまで」

 うっすら聞き覚えはあるけどよく知らない地名を告げ、運転手さんは「はい」とぶっきらぼうに答えて車を発進させる。後部座席のシートベルトがうまくはめられずにまごついていると、右側からさっと伸びてきた手が金具をかちりと挿し込んでくれた。

「ありがとうございます」

 男の人にしてはしっとり冷えた指先は、桜の花びらを連想させた。触り心地がいい、なじむようなよそよそしいような、あのつめたさ。

「さっきのスイッチャー、あかんかったな」

 不意にその人が言う。

「スイッチャー?」

「あの、ステージの後ろのモニターに映像出とったやろ。アリーナ前のカメラがいろんな画押さえとるんやけど、どれを抜くか決めるんがスイッチャー」

 こう、と宙でボタンを押す仕草をしてみせた。スイッチャー、ときょう新しく仕入れた単語をつぶやいてみる。

「ボイジャーみたいでかっこいいですね」

「そんなん何でもありやないかい。チャレンジャーでもゴレンジャーでも炊飯ジャーでも」

「そういえばそうですね」

 そこで会話が途切れたが、肝心の、何があかんかったのかを聞けていなかったので「失敗したんですか?」と尋ねた。

「失敗いうか、ださかったやろ。何で寄りの顔の後にまた寄りの横顔抜くねん。緩急がないわ、風情がない」

「難しいんですね」

「せや」

 そんなことより名前くらい教えてもらわないと。でも、どうでもいい話を挟んだ後で何となく訊きづらい。そしていったいどこへ向かっているのだろう。ふだん車に乗らないし、この辺りの土地勘もないので窓の外に目を凝らしてみても見当もつかなかった。

「あ」

 信号待ちの停車中、細い脇道の奥に桜の木を見つけた。ちいさな公園があるようだ。

「どないしましてん」

「あそこに、桜が」

 ぽつんと白く光って見える木を指差すと、覗き込んで「しょぼ」と顔をしかめた。顔を寄せてきた拍子に、たばこと、どこか懐かしい匂いがふわりと漂う。おばあちゃんの家みたいな、と思った。

「桜やったら、城公園になんぼでも咲いとったがな」

 遠いほうがいいんです、とわたしは言った。

「遠くにあるのを、あ、あんなところに、って気づくのが好き。桜って圧が強いからそのくらいでちょうどいい」

「嫌いなん」

「満開のたび、きれいだなあって思います。でも、毎年毎年、同じ感じできれいだなあって思うの、怖くないですか。飽きなさが。桜に記憶消されてるんじゃないかってほど新鮮で、ずっと見てると全部忘れそうだから、遠くのをそっと見るのが安全です」

「けったいな女」

 その人はわたしの持論を持て余すように口元を軽くゆがめて笑った。いろんな笑顔がある人だと感心した。わたしなんて、仕事中とそれ以外の二パターン、しかも大差なさそう。お花見が好きじゃない、と打ち明けると、大抵の人から「変わってる」と言われた。好きじゃない理由を自分なりに論理だてて説明しても「へえ……?」と半笑いで流され、最悪のケースだと「みんながいいと思うものにケチをつけたい目立ちたがり屋」か「ふしぎちゃん」のレッテルを貼られてしまう。わたしは常に集団に溶け込んでいたいタイプの人間なのに。だから、言わなきゃよかったと軽く後悔しているところへ「名前つけよか」と言われたので面食らった。

「何ですか?」

「せやからその、遠くの桜を見つけて愛でる、ちゅう行為に。それは『花見』とちゃうやろ」

「うーん……『花見つけ?』『花探し?』ですか?」

「まんまやないか」

「花見もまんまですし」

「それやと花見に負けてまう、もっと何かあるやろ」

 何の勝ち負けかさっぱりわからない。わたしはしばらく考え「遠花見」と提案した。

「まだまんまやけど、まあええわ。ちなみに俺は『稚ガニ』やと思う」

 スイッチャーより耳慣れない言葉だった。

「ち……何ですか?」

「稚ガニや、ちっさいカニ」

「何で海のものが出てくるんですか?」

 猿カニ合戦? 花咲かじいさん?

「ちりめんじゃこ食うてたらたまーにおるやろ、ちっさいカニとかエビとか」

 こんくらいの、と親指と人差し指でわずかな隙間を作って示す。

「あいつらがようさんおったらきしょいし食いたないけど、じゃこの中に混ざっとんの見つけたら嬉しいやろ、そういう感じ」

 そういう感じ、なのだろうか。とりあえず「なるほど」と受け止めてみた。

「でも、『遠花見』のほうがいいと思います」

「何やと」

「ちがに、って言いにくいし、わかりにくいです」

「ほな、オーディエンスに決めてもらお。おっちゃんはどっちがええと思う?」

「え、私ですか」

 突然話を振られた運転手さんは驚きつつ「『遠花見』ですかねえ」とあっさり答えた。話を聞いていないようでちゃんと聞いているらしい。

「季語みたいで、情緒があってええやないですか。遠花火、いう言葉ありますよ。遠花見、よろしやん」

「何やパクリかい」

「違います」

 想定以上の変人だと思った。こんな人にけったいな女呼ばわりされる筋合いはない。

「すみません、お名前なんて言うんですか」

「どのタイミングで訊いとんねん」

 ひとしきりけらけら笑ってから、その人はようやく「矢沢亨」と名乗った。

「ありがとうございます」

 人の名前を覚えるのが苦手なので、やざわとおる、やざわとおる、と繰り返し心に刻んでいると「ほんで自分は名乗れへんのかい」とまた笑われた。

「柳生美雨(やないみう)です」

「美しい雨?」

「はい」

「本名?」

「芸名ぽいって言われますけど、本名です」

「芸名ちゅうか」

 亨はフロントガラスを顎でしゃくった。

「今考えた偽名かな、て」

 暗い窓に、ぱらぱらと水滴が落ちてきていた。ワイパーを動かすほどでもない、まばらでいびつな水玉模様が街灯の明かりにふち取られる何ということのない光景が、やけに鮮やかに見えた。青に変わった信号がにじんでガラスに溶け出しそうで、美しい。

「保険証、見ます?」

「いや、ええよ」

 首を横に振る。

「どっちゃでもええ」

 そういえば、さっきのコンサートの歌にも「恋の雨」というフレーズがあった。

「あの歌、好きなんですか」

「うん?」

「仕事中に歌ってたから」

「あれしか知らんねん。誰の歌かも知らんかったから、流れてきた時びっくりしたわ」

 あれ一曲しか知らないなんて、逆に珍しい。でも、いちいち言動がおかしいので嘘かもしれない。二十分ほど走ったところでタクシーが大きな道路から細い道にすっと入ると、亨が「このへんで」と停めた。そして運転手さんが「三千四百円です」と言うと、とても自然な口調で「やて」と請求をパスしてきた。え、と思ったが、あまりにも「払ってもらって当然」みたいな顔をしているのでわたしは何も言わず財布を出して精算した。レシートも「くれ」と言われたので渡した。わたしが足を痛めていなかったら電車で帰ったのかもしれないし、と自分を納得させた。それにしても、最寄り駅は何線のどこになるんだろう。雨は強まりも弱まりもせず、きちんと締めなかった蛇口みたいにぽつ、ぽつ、と一定のペースで滴ってくる。

 亨はせっかく渡したレシートをくしゃっと上着のポケットに突っ込み、侘しい住宅街の中にある一軒家の敷地に入っていった。デニムのポケットから鍵を取り出し、引き戸をがらがらと開ける。家の中も外も真っ暗だった。今度こそ引き返さなければ、タクシー代どころじゃない目に遭うかもしれない。もし事件に発展したとして、誰もわたしに同情しないだろう。行きずりの男についていって被害に遭った考えなしのバカな女、でおしまい。行方不明、監禁、殺人といった物騒な単語が頭の中をちらついたが、わたしの危機感はそれでも発動しなかった。亨という人間の目の中に、わたしへのいかなる欲望も感じられないせいかもしれない。性欲も支配欲も、反面で優しさも温かみも。だから変な人だと思うし、こちらから知りたくなる。なぜ、どうして、と。

 亨が玄関の電灯をつけると、わたしも中に入って「お邪魔します」と声をかけてみたが静まり返っている。

「今は誰もおらへんみたい」

 玄関には十足近い靴が並んでいて、中には女物もあった。

「実家なんですか?」

「いや」

 二階へ続く階段の先は黒々として見えない。わたしは一階の茶の間に通された。ちゃぶ台とテレビと戸棚と座椅子がある、昔ながらという感じの「いかにも」な空間だった。壁には標語っぽいものが書かれた六曜のカレンダー、隅っこにはどこかの理容室の名前があるので、もらいものだろう。細かい書き込みは、プライバシーに配慮してあまり見ないようにした。わかったのは、亨から感じた懐かしい匂いはこの家からきているということ。

「足、見してみ」

 亨が棚から救急箱を出してきた。ストッキングどうしよう、と束の間ためらったが、もうここまできたのだからと腹を決め、いったん部屋の外に出てストッキングを脱いだ。素足で踏む板張りの廊下はつめたく、ぞくっと身ぶるいを催したけどよく磨かれていて気持ちよかった。でも、この患部をいったいどういう体勢で見せたらいいのか。とりあえず座布団に座って足をまっすぐに投げ出すと、亨は躊躇いなく右のかかとを持ち上げ、引き寄せた。わたしは後ろに転げそうになりながら、ミモレ丈のスカートの裾を必死で押さえる。でも享はわたしの脚やパンツにちらりとも興味を示さず、傷口を無遠慮に覗き込んで「ほう」と洩らした。注射も凝視するタイプかもしれない。

「痛そやな」

「まあまあです」

「今楽にしたろ」

「それは殺す時の台詞です」


「悪いようにはせんから」

「それもアウトです」

「地球語は難しいのう」

 わたしの足を放り出して救急箱から取り出したのは、小指くらいの長さのプラスチック容器だった。

「マーキュロクロム液や」

 聞き覚えのない単語だったけど、赤いキャップの外見には見覚えがある。小学生の時、保健室で見かけたような。

「赤チンじゃないんですか」

「正式名称がマーキュロクロム液やねん」

「グレーゾーンってそれですか」

 そ、と亨は短く答え、ちゃぶ台にあったティッシュ箱から一枚引き抜いて中の液体を染み込ませた。懐かしい、インクみたいに鮮やかな赤。子どもの頃、血だ、とはしゃいだ記憶がよみがえってくる。今はもう、本物の血がもっと濃く深い色だと知っている。

「全然普通の薬だと思いますけど」

「ちゃうねんなあ」

 もう一度わたしのかかとを持ち上げ、赤く染まったティッシュを押しつけた。虫刺されの時のキンカンくらいしみるんじゃないかと一瞬身構えたものの、傷に触れられた以上の痛みはなかった。亨はぽんぽんと軽く患部を叩き「これもう売ってへんねんわ」と言った。

「何でやと思う?」

「効き目がないから」

「ほな塗る意味ないやないか」

「でも、赤チンの意味って考えたことなかったです」

「確かにな、単なる戒めのための赤かもしれんな、目立つもん」

 水銀が出んねんて、と教えてくれた。

「環境に優しないから製造中止になってん。せやからこれは、環境破壊の悪の手先や」

「知りませんでした」

「せやろ」

 地球環境と天秤にかけるほど、赤チンことマーキュロ何とかがすばらしい薬品だとは思えないので、もう造らないというのは賢明な判断だろう。亨はうっすら赤くなったところに、てろんとしたマットなテクスチャーのばんそうこうを貼ってくれた。

「キズパワーパッドは優秀やで」と言いながら、薄紙をくしゃっと握り込む。

「高級品やからな、十枚で八百円ぐらいしよんねん、末端価格にしたら八十円や。ダイコクドラッグでもそない安ならんからな」

「これはグレーじゃないんですね」

「純白ですわ」

「ありがとうございます」

「いやいや」

軽く手を振って「ほな」と言った。

「え?」

 ほな、ほな、と脳内で何度リピートしても、ほなさいなら、の「ほな」以外には考えられない。これで終わり? わたしは黙りこくり、亨も何も言わなかった。ここにいていい、とも、出て行け、とも。そして何ら気まずそうなようすもなく、犬猫みたいに平然と沈黙している。本当に、何なんだろうこの人は。有言実行、ただ靴ずれの手当てを(特に斬新でもない方法で)するためだけにわざわざ家に連れてきたんだろうか。いっそ襲われたほうが動機としては納得がいく。不可解極まりないけれど、わたしは何を予感、もしくは期待してここに来たんだっけ、と問いかければこれといって明確なビジョンがあったわけでもなく、亨が何をするつもりなのか見届けたかっただけだった。そして今、それは終わった。これ以上はないものねだりというやつかもしれない、と思えてきたので廊下でもそもそストッキングを穿き直して茶の間に声をかけた。

「帰ります」

「はいはい」

 至って軽い返事があった。

「あの、駅ってここから」 

「十分ぐらい歩いたとこにあるけど、めちゃ本数少ないし、もう終電出てもうたと思うで。タクシーのほうが確実やわ」

「わかりました」

 玄関でおそるおそるパンプスに足をお邪魔させると、あの鮮烈な痛覚の悲鳴は上がらず、ほっとした。ぽそぽそした雨音ももう聞こえてこない。

「ちょお待ち」

 亨が近づいてきて、わたしにうすっぺらい茶封筒を差し出した。

「え、そんな」

「ええのや」

 仏さまみたいに慈悲深い表情で頷く。

「とっとき」

「あ、じゃあ……ありがとうございます。お邪魔しました」

 家を出てから、門の前でそっと中身を覗くと、ライブのチケットらしきものが二枚入っているだけだった。タクシー代を返してくれたわけでは、ない。

 わたしは大きな通りに出て、アプリでタクシーを呼んだ。雨はもう上がり、GPSのおかげで現在地が西成区の一画で、目の前の道は国道43号線だということがわかった。タクシーで梅田まで三千円くらいだということも。

 梅田からは阪急京都線に乗って茨木の自宅に帰り着いたのは午前0時過ぎ、両親はもう寝た後だった。物音を立てないようにキッチンの明かりだけをつける。冷蔵庫におかずが残してあったけど、無性にカップヌードルが食べたくて湯を沸かした。深夜、健康と美容の観点からよくないとわかりきっていても、靴ずれをきっかけにおかしな方向へと転がっていった今夜を締めくくるには、お母さんの煮物じゃなくカップヌードルがふさわしい気がした。

 ふやけた麺が好きだから、いつも五分くらい置いてしまう。蓋をめくると、たっぷり湯を吸って膨らんだ麺がもわっと波打っていて胸が高鳴る。猛烈にお腹が空いていたので、コンロの横で立ったまま食べた。箸で湯気をかき分けると顔面にスチームを浴びられるし、ずるる、と豪快に音を立ててすすり込めばカロリー以上の多幸感が得られたので、カップヌードルはむしろヘルシーな食べ物だということにする。ふやふやの細い麺、平べったい海老、噛むと甘みがしみ出すミモザ色の卵、クリスピーなやつに当たると嬉しいあの肉。パーフェクトだ。はふはふとずるずるを交互に繰り返し、鼻水もすすりながら、あの人は、亨は、どんなふうにこれを食べるんだろうと想像してみた。十分以上待つ、逆に一分もしないうちにバリカタで食べる、お湯以外の液体をそそぐ(牛乳、ビール、みそ汁)……あれこれ思い描いてみたけれど、どれもありそうでなさそうで、自分が亨について何も知らない、ということしかわからなかった。残った具が浮いたスープを呷ると一瞬でくたびれた身体の隅々にまで塩気が行き渡り、おいしさで脳が痺れた。

日清の人に見せてあげたいほどきれいに平らげ、ようやくほうっと息をついた。お母さんがきれいに磨いたシンクの光に、タクシーの中から見た雨上がりの路面がつやつや輝いて見えたことを思い出した。



続きは『パラソルでパラシュート』(11月11日発売予定)で!

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