『アイアムマイヒーロー!』鯨井あめ 試し読み
文字数 5,051文字
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変わりたい、と思い続けている。自分の影を振り切って、過去を捨て去って、新しい姿に生まれ変わって、そうすれば、万事が上手くゆくと思っている。だから敷石和也は、今日の同窓会に乗り気ではなかった。途中で抜け出したのも当然である。
夜の路地。商店街を突っ切る最短ルートを避け、裏道を進む。片田舎のこの街では駅周辺でも電灯がまばらだ。赤提灯の垂れる古民家を横切ると、酔っ払いの喧騒が漏れ聞こえた。大爆笑と湧き上がる拍手に舌打ちをして、ポケットからスマホを取り出した。画面を点ける。時間は午後八時半を回ったところ。ヴァイブレーションと共にLINEの通知が入った。送られてきたメッセージは、「なんかごめん」。枠組みだけの定型文だ。返信せずにスマホを仕舞い、道端に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。カランコロンと乾いた音が跳ねて、凹んだコーラ缶は側溝に消える。
「勝手に落ちてんじゃねーよ」
息が白く躍った。鼻腔に冷気が刺さる。ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、足早に駅へ向かう。
二月中旬の空気は特別冷えていた。
旧友との再会が億劫だった。嫌な予感はあった。それでも同窓会に顔を出したのは、ちょっとした期待があったからだ。ドラマのような劇的な何か、もしくは映画みたいな小さな奇跡──例えば新しい出会いとか、哲学じみた気づきとか──が起こって、自分に革命が起こるんじゃないか、と。
結果は見るも無残だった。
幸先はよかった。あたたかな光の漏れる居酒屋へ入ると、座敷席から青年が「タカちゃん」と顔を覗かせた。幼馴染の正人だった。他にも懐かしい面々が迎え入れてくれた。小学校の卒業式、「最高の六年三組、十年後に集まろう!」の合言葉で別れたあの頃に比べ、肩を組んで語らう友人たちは大人びていた。大学生っぽい風貌、小綺麗な格好、会社帰りに寄っただろうスーツ姿。懐かしいなあ、いまは何やってるんだ、就職先はどこだ、どこに住んでるんだ。誰かの成功話を聞くたびに、和也は居心地の悪さを覚えた。
「デンローは仕事で遅れるって。もう少ししたら来るんじゃないかな」
拓郎のニックネームを恥ずかしげもなく呼び、正人はスマホをテーブルに伏せた。クラスメートのひとりを顎で示す。
「ここ、あいつの親戚の店なんだって。いい店だよね。知ってた?」
「全然」
「タカちゃんは高校卒業して、進学?」
「まあ。正人は?」
「前みたいにサトちゃんでいいのに」彼の笑顔には清潔感がある。「僕は私大。高校からエスカレーター式で。そっちは?」
「地方の、貧乏なとこ」
「理系?」
「文系」浪人の末に流れ着いた第三志望の公立大学だ。おざなりに授業を受け、単位を落とし、成績は低空飛行。ギリギリでどうにかやっている。「ザコだよ」
「ザコなんだ」正人はからりと笑った。「タカちゃんは理系のイメージだったな。古代生物に詳しかったよね」
「詳しくねぇよ」
「名前トリビア知ってたじゃん」
「いやひとつだけだし受け売りだし、それを詳しいとは言わねぇだろ。そっちこそ、ゲーム系は諦めたんだな」
「ゲームはやる専門。来年度はどうするの?」
「俺、浪人だから」
「じゃあ次は四年生か。就職志望?」
「まあ」
「何系? 公務員?」
「知らね」
「決めてないの?」
「決定打がない」からあげを摘まむ。
和也は就活が苦痛だった。エントリーシート、インターンシップ、説明会と準備が多いことも苦だが、最も嫌気がさしているのは、自己分析だ。いざ始めるとプライドが高いだの、自己肯定感が低いだの、自分がないだの、嫌なところばかりが目立ち、自己嫌悪のスパイラルに陥る。自分はどうしようもないやつだと一切を諦観して無理矢理にでも立ち上がった途端、不安の波が押し寄せ、揉まれ、吞み込まれ、膝をつき、また鏡を見る。そして呆れる。その繰り返しだ。
「苦行だよあんなの」
「苦行かぁ。就活って本当に大変そうだよね。サークルの友だちも精神的に参ってた。僕は院進学だからさ」
「そう」
「タカちゃんはあと一年あるんだし、いまからでも希望の職種にチャレンジできるんじゃない?」
「そうかもな」
「なりたいものとかないの? 教師とか。教職課程は取ってる? あ、警察は? 昔はほら、俺はヒーローだ、って言ってたじゃん」
「憶えてねぇよ」和也はグラスの縁に口をつけ、「長続きしねぇんだよ、俺」チューハイをちびちび飲む。
こんな話さっさと終わらせたい、と思うが、話題を変えるあてがない。失敗談を笑い話にする余裕はないし、自分のことを話せば、何かが瓦解してしまう。
昔の自分。俺はヒーローだ、と高らかに宣言していた、明るくてまっすぐで人気者だった自分。いま思い返せば、ただの問題児だった。まるで独裁者のように横柄だった。人気者なんてとんだ勘違いだ。
ビールを一口飲んだ正人が、枝豆に手を伸ばした。
「タカちゃん、変わったね」
「そうか?」と返したが、そうだろうな、と思う。自分は変わった。変わったが、いまの自分も昔の自分も嫌いだ。「自分だとわからないな」
「変わったよ。道に迷ったみたいな顔してる」
「なんだその譬え」
「あの頃のタカちゃん、元気百パーセントだったよ。いい意味でも悪い意味でもね。でもって自信家だった。憶えてない?」
「さあ」
「僕のゲーム好きは憶えてたのに?」
「そういうもんだろ」
「そうかなぁ」
「嫌いなんだよ、そういう話」
「なんで?」
「黒歴史を掘り返して楽しいか?」
「黒歴史」
苦笑した正人はタコのからあげを箸で摘まみ、口に放り込んだ。
「子どもは元気すぎるくらいがいいと思うんだけどなぁ。まあでも過去を封印くらいしたくなるよね。黒歴史って自分にしかわからないし、僕も大概だったし。そういえば憶えてる? 赤い首輪の犬。名前、なんだっけ」
答えようとして、前掛けエプロンにバンダナをした店員が「お待っしゃったー」と酒を持ってきた。正人が空いた皿を重ねてテーブルの端に寄せ、手羽先を追加注文したところで、拓郎が来た。靴を脱いで座敷に上がった彼は、出入り口近くのテーブルのふたりを見てほころび、「久しぶり」とスーツを脱いで腰かけた。
「何かやってる? 背、伸びたよね。ガタイも良くなった」正人が尋ねる。
「週一でラグビー。趣味だけどね」答えた拓郎の左手の薬指には、指輪がはまっている。
「うわ、もしかしてデンロー、まさか」
「いや、まだ婚約」
「ええー! 言ってよ! おめでとう! 高校のときから付き合ってる子?」
「そう。ふたりはどう? 元気にしてた?」
「もちろん」
軽快に答えた正人に対し、和也はチューハイを飲みながら曖昧にうなずいて誤魔化した。
高校進学で散り散りになったと思っていたが、自分が一方的に交流を絶っていただけらしい。次々と出てくる知らない話がちくちくと身体に刺さる。
「デンローは順風満帆だなぁ」
「サトちゃんもすごいじゃん。都市形成、だっけ? の研究してて。昔から好きだったよね、そういうの」
「働いてる方がすごいって。こっちはまだ扶養入ってるし。な、タカちゃん」
「ふたりともすげぇじゃん」和也はグラスを置いた。「俺なんてバイトもしてない授業も行ってない自堕落生活だぜ」
拓郎が瞬く。「バイトもせず、授業にも行かず、どうやって生活してるの?」
「どうって、」質問で返されると思っていなかった。「し、仕送り」
「仕送り? 大丈夫なの、それ。光熱費とか足りてる?」
「親が、払ってる」
「バイトくらいしなよー。飲食いいよ、飲食」正人が笑った。「ほんと、タカちゃんって話を聞けば聞くほどモラトリアム謳歌中の自堕落大学生だよね。そういう、いまを生きてる、ってところは変わってないなぁ」
拓郎も「まあ、たしかに」と笑う。「無鉄砲なところ、タカちゃんらしいか。最初はずいぶん変わったと思ったけど、変わってないや」
「なまけ癖だけ残った感じ?」
仲良し三人組。以前は冗談で罵り合えるくらい、気の置けない仲だった。ふたりはかつてのテンションで、かつてのノリのまま、話しているだけだ。
けれど。
誰しも武器を持っている。此度は銃だ。彼らは銃口の先を確認しないまま、笑顔で引き金を引いた。引いた本人は悪気がないから性質が悪い。彼らの茶化しは和也の腹を貫いた。カッと頭に血がのぼって「うるせぇな」と吐き捨て、気まずくなったところに手羽先が来た。手を付けずに和也は席を立った。そしていま、暗い路地を歩いている。
「好きで自堕落になったんじゃねぇよ」
駅に到着すると、次の電車まであと十分弱だった。これを逃せば三十分ほど待たなくてはならない。地方の世知辛いところである。
ホームは無人だった。車社会で電車を使う住民は少ない。ガラス張りの待合室に入ると、暖房が効いていた。ベンチに深く腰かけて、背凭れに体重を預け、スマホを取り出した。LINEを開き、正人を未読のままブロック。流れで拓郎もブロックしてTwitterを開くと、しょうもない呟きと勢いだけのツイートがバズっていた。馬鹿だ。全員、単純、馬鹿。鼻で笑い、だらしない姿勢でタイムラインをスクロールしていると、自己啓発的なツイートを見かけた。「自分を好きになろう!」即ブロックする。
勝手に終点を作れたらいいのに、と思う。そうしたら、予定から大幅に外れたガタガタの轍をなかったことにして、また一から出発できるのに。人間関係を断っても、思い出を否定しても、過去はゼロになってくれない。逃げ場はどこにもない。手元に残ったものは、つまらない自分と見栄とプライドだけ。
「誰か助けてくれねーかな」
ホームにアナウンスが響いた。まもなく、二番線に電車が参ります。お乗りのお客様は、危険ですので──。
「くだらね」
大きな欠伸が出た。目をこすり、ぐっと伸びをして、気がついた。
ホームに人がいる。
和也に背を向けて立つ彼女は、明るい茶色のボブカットにファー付きの白いコートを着て、革製の黄色のハンドバッグを右手に提げ、黄色い線の外側で、額を押さえるように俯いていた。
黄色い線の内側でお待ちください、は常識だ。あの子はマナー違反、炎上ものだな、と思いながら、和也はスマホを仕舞った。女性が舟をこぐように傾いた。ふらりとよろけ、重たい頭に振られてよろよろとホームの縁へ近づいた。そのまま、耐えきれなかったように、落ちた。
「は?」
和也は瞬きをして、わずかに腰を浮かせる。改札へ続く階段を見遣るが、誰もいない。女性の立っていた場所にも誰もいない。当然だ。線路に落ちたのだから。
本当に落ちたのか。
和也は酔っている。眠気もある。以前にも、酒を飲んで寝惚けたことがあった。いまだって、一瞬のうちに、夢を見たのかもしれない。いや。だとしても。
緩く曲がった線路の向こうから、豆粒大のライトが覗いた。どんどん大きくなってくる。電車だ。
「おい、おいおい」
和也は立ち上がったり座ったりを繰り返して、キョロキョロとホームを見回した。
「誰か」
誰かいないのか。他の乗客は。駅員は。車掌は。誰もいない。落ちたよな? たぶん落ちた、落ちたんだよな。夢じゃないよな。自殺か? 違う。飛び降りるタイミングが早すぎる。女性は足取りが覚束なかった。そもそも俯いて具合が悪そうだった。倒れたのだ。助けなければ、と思うのに、身体が動かない。動悸が激しい。どうしよう。どうにか、いや、でも、どうしたら。
電車が迫りくる。ガタンゴトンと音が近づいてくる。
「あ、あ、あ」
和也は立ち上がった。待合室のドアを開けて、外に飛び出した。立ちすくんだ。どうすればいいんだっけ。わからない。ボタン。そうだ、緊急時に押すボタンがあったはず。ホーム内を見回した。見当たらない。血の気が引く。足が鉛のようだ。声が出ない。音が遠のく。二点の丸いライトが、減速しながらどんどん大きくなって、和也を照らした。
間に合わない。
思考がぱちんと弾けて、弛緩した。今日の同窓会、小さな奇跡を願って足を運んだ。自分の人生の分岐点になるような、小さくて劇的な奇跡を求めた。その結果がこれだ。ざらついた視界に真っ黒な三文字が落ちてくる。見殺し。無理なものは無理だ。情けねぇ。一生後悔するぞ。
「誰か」
突然、視界の露出度が上がった。一瞬で世界中の万物が発光を始めたようだった。反射的に目を細めたところで、意識の首根っこを摑まれて後ろに引きずり出された。視界が暗転する。
わん!
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