あなたは元寇の実態を知っていますか/帚木蓬生

文字数 1,264文字

7月15日、帚木蓬生さんの小説『襲来』(上・下)が待望の文庫化!

日蓮宗の創始者・日蓮と、彼に仕えた漁師・見助が目にした激動の中世日本を描いた傑作歴史小説です。

それを記念し、帚木さんご自身が、『襲来』をより面白く読めるエッセイを書いてくださいました。

お楽しみください!





日本が初めて外国に侵略されたのが、13世紀の蒙古襲米だった事実は、知らない人はいません。二度にわたる来襲が不首尾に終わり、蒙古の統治下にはいらなかったのは、神風が吹いたおかげだと、まだ信じている人も多いでしょう。


なるほど、2回目の襲来である弘安の役(1281)のときに、蒙古の軍船の大半を沈没させたのは台風でした。しかしその前に、対馬や心岐、鷹島、平戸島の住民は、ほとんど皆殺しされ、若い女性は手に穴をあけられて綱を通され、奴隷として連行されたのです。


その7年前の文永の役でも、前述の四つの島では、大虐殺が行われました。時期が10月であり、風向きと潮目の変化を読んだ蒙古と高麗の軍船900隻は、博多の百道原(ももちばる)から今津にかけてわずかに上陸したのみで、退散したのです。


こうした他国の侵略を、その14年前から予言していたのが、日蓮です。その著『立正安国論』によって、国難の到来を鎌倉幕府の要人たちに警告しました。聞く耳を持たなかった幕府も、度重なる蒙古の使者の来日と、上述の文永の役によって、尻に火がつきます。


博多と大宰府を護るために、急ぎ造営させたのが、博多湾の海岸線20キロを塞ぐ石築地(いしついじ)でした。この防塁は高さが3メートル近くあり、人も馬も越えられません。


弘安の役で攻め寄せた蒙古と高麗の東路軍と江南軍は、軍船は5000隻に達し、軍勢は10万人を超えました。もちろん船中には多くの馬とともに農夫もいて、家畜さえも積み込んでいたのです。鷹島周辺に橋頭堡(きょうとうほ)を造り、機を見て一気に馬で大宰府を占領、そのあと京都と鎌倉に攻め上る算段だったと思われます。しかし7月30日から翌日の閏(うるう)7月1日にかけての暴風雨によって、伊万里湾口に集結していた軍船の大半は壊滅沈没したのです。


今、後世の私たちから眺めれば、鎌倉幕府の念頭にあったのは、博多と大宰府の防禦だったことが分かります。対馬と壱岐の無辜(むこ)の民は全く眼中になく、いわば見捨てられた存在だったのです。為政者に遺棄された人々の悲測に涙を禁じ得なかったのは、鎌倉幕府を見限った日蓮でした。







帯木蓬生( ははきぎ・ほうせい)

1947年、福岡県小郡市生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、TBSに勤務。退職後、九州大学医学部に学び、精神科医に。'93年に『三たびの海峡』(新潮社)で第14回吉川英治文学新人賞、'95年『閉鎖病棟』(新潮社)で第8回山本周五郎賞、'97年『逃亡』(新潮社)で第10回柴田錬三郎賞、2010年『水神』(新潮社)で第29回新田次郎文学賞、'18年『守教』(新潮社)で第52回吉川英治文学賞および第24回中山義秀文学賞など受賞多数。

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