第2話 水曜日
文字数 2,171文字
幸せなはずなのに悲しくて、苦しいけれどかけがえが無い。
そんな私たちの日々が、もしもフィクションだったら、どんな物語として描かれるでしょうか。
ごめん(https://instagram.com/gomendayo0?igshid=1rh9l0sv9qtd2)
さんが、
あなたの体験をもとに、掌編小説・イラストにしていく隔週連載。
この物語の主人公は、「あなたによく似た誰か」です。
さよなら、またどこかで。
五年前、私は塾の先生のことが好きだった。
太ももに張り付くプリーツスカートが鬱陶しい。入学した頃はあんなにきれいだった指定のバッグも、三年も経てば色褪せ、やわらかくくたびれてしまった。つま先が擦れたローファーがやけに重たくて、まるでどこにも行けないみたいだ。18 歳の私は、きっともう無敵じゃなかった。
ホワイトボードの文字が、まだ消えないよう祈っている。
そんな私の想いなど露知らず、江藤先生の骨ばった手は大きな弧を描きながらするするとクリーナーを滑らせていった。私は教卓に一番近い席から、あっけなく消えていく文字を眺めることしかできない。
「そうか、今日で最後かあ」
消し終えると、先生はようやくこちらを振り返った。無自覚で真っ直ぐな視線に、私はいつも戸惑ってしまう。私は今まで、そんな風に目を合わせてくれる大人を知らなかった。
「今日で最後」。
反芻しながら顔をあげると、先生はいつものように目を細めて笑った。
週三回の面倒な塾も最後。先生と話せるのも、これが最後だ。
毎週水曜日、塾の授業が終わると教室に残って、江藤先生と喋ることがいつしか恒例になっていた。といっても、毎回私がわざとゆっくり帰る準備をして、ふたりきりになれる機会を狙っていただけなのだけれど。
江藤先生は私の話をいつも真剣に聞いてくれるひとだった。くだらない話も誰にも言えなかった話も、全部全部ちゃんと聞いてくれた。大人は嫌いだったけど、江藤先生だけは何故か信頼できた。
「全然想像つかないです、卒業した自分も、大人になった自分も」
まるでタイムリミットを知らせるようにチャイムが聞こえて、私は席を立った。この音はずっと嫌いだった。
「想像したってその通りにはいかないもんだよ。俺だって今の仕事やるつもりじゃなかったし」
俯いた先生の顔はよく見えなかった。
「私、先生が先生でいてくれてよかったです」
そう言うと、先生は一瞬泣きそうな顔をして、笑った。
その数ヵ月後、卒業式の何日か前に、江藤先生が塾講師を辞めたことを噂で知った。
思えば、私は彼のことを何一つ知らなかった。いつも私が一方的に話を聞いてもらっていただけだったから。先生がどんな夢を持っていたのかも、どうしてあの塾で働いていたのかも、結婚していたのかも、年齢も、下の名前さえも、私は知らなかった。
「学校で普通に話してた子たちともさあ、もう会わないのかもなーとか思っちゃったよね」
ぼやく藍子の横顔を、小さなミラーボールが照らしている。
涙もなく終わった卒業式の後、私たちはいつものグループでいつものカラオケに行った。
「卒業式に歌う曲ってなんか微妙じゃない?」とかなんとか言いながら。こんな日常も今日で最後だなんて嘘みたいだ。
「え、なにそれ悲しっ」
美咲が胸ポケットの造花をいじりながら笑っている。
「だって会う約束しないと会えないじゃんこれからは。そしてしない人が大半じゃん多分。」
大きなモニターの画面が切り替わり、誰かが入れたスピッツの曲のイントロが流れ始めた。あ、この曲知ってる。
「そんな風にさ、」
先生が大学生の頃聴いてたって言ってた。
「忘れたり忘れられたりしながら大人になるのかなあ」
藍子がぽつりと言った言葉を聞き取れたのは、隣にいた私だけだったと思う。
「えっなんで泣いてんの!!」
マイクを持った美咲が、私の方を指差して叫んだ。私にも、何故だかよくわからなかった。
あれから五年経った今でも、たまに先生に似た人を目で追ってしまう。彼が今どこで何をしているのか、私は知らないし、これからもきっと知ることはないだろう。けれど、あのとき、あの最後の水曜日。ほんの少しだけ、先生の心のはしっこに触れることができた気がした。それだけ。それだけ覚えていれば、それで十分だ。
ごめんさんが、あなたの体験をもとに、掌編小説・イラストにしていきます。
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