第10話 水槽
文字数 2,593文字
幸せなはずなのに悲しくて、苦しいけれどかけがえが無い。
そんな私たちの日々が、もしもフィクションだったら、どんな物語として描かれるでしょうか。
ごめん(https://instagram.com/gomendayo0?igshid=1rh9l0sv9qtd2)
さんが、
あなたの体験をもとに、掌編小説・イラストにしていく隔週連載。
この物語の主人公は、「あなたによく似た誰か」です。
上手に息ができるように
東京は巨大な水槽のようだと思う。液晶の中で繰り広げられる自己顕示、張り付いた笑顔のモデルが恋を促す広告、目配せが交差する誰かの会話。それらひとつひとつが、泳ぎ方を知らない私をいちいち息苦しくさせる。いや、こんな世界はきっと地元にだってあったはずだ。きっと田舎にいた頃の私が、ただひたすらに無知で子供だっただけなのだ。
<明後日どっか行かない?>
田口くんからのラインに既読をつけたまま、スマホをポケットに閉じ込めて目を瞑る。新宿駅に停車した山手線は、車内のほとんどを吐き出したかと思えば、またすぐに数十人単位の人間を容易く飲み込んでしまった。そこかしこから聞こえる混じり気ない標準語を耳で追いかけながら、自分は同じように話せているだろうかとふと思う。
大学進学を機に青森の田舎から上京して、ようやく4回目の夏を迎えた。あっちに比べて東京は暑いとか、電車ではありえないくらい他人と密着しなければならないとか、戸惑うことも多々あったけれど、それよりも、映画やドラマで観たあの東京で自分が暮らしているという喜びの方が大きかった。友達の真似をして訛りもできるだけ直したし、乗り換えだって上手くなった。馴染めるように、普通でいられるように。そんなふうにして、私は溺れてないふりだけは上手くなっていったのである。
「有紀も早く彼氏つくればいいのに」
運ばれてきたレモンサワーをかき混ぜながら、理沙がこちらをちらりと見る。ああ、またこの話題。私はいつものようにヘラヘラと笑うことしかできない。
「なんかそういうのまだわかんなくてさあ。高校も進学校だったし、そういうの無縁。」
「うちらにはもうないピュアさだわ。眩しくて羨ましいわ。」
隣で涼香が大袈裟に両手で顔を覆う。理沙も同じポーズをして笑う。羨ましいなんて一ミリも思ってないくせに。
私がまだ誰とも付き合ったことがないこと、処女であることを打ち明けた時、2人は想像の倍、驚いた顔をした。そして私は、「これは言うべきことではなかった」とすぐに後悔した。2人の反応により、私は「純粋で、まだ子供で、普通じゃない」というレッテルを貼られたような気がしたのである。それは私が東京に来てから最も避けたかったことだった。
「まじでいい感じの人できたら相談してね!有紀の初めての相手に相応しいか見極める!」
「待って、そういうのまだ早いって!有紀はうちらと違って純粋なんだから」
レッテルを貼られたら、もう自分はそういう人間として生きていくしかないような気がして怖い。2人とも私のことを心配してるふりをしているけれど、本心では優位に立っている自分を再確認したくて仕方ないのだ。
その日、帰りの電車に揺られながら、何もかもどうでもよくなる感覚が私を襲った。お酒を飲み過ぎたのかもしれない。気づけば田口くんに返信をしていた。
<田口くんの家行っていい?>
◇
田口くんと連絡先を交換したのは一ヶ月前のこと。水曜三限の講義で、たまたま隣に座っていた彼にノートを貸したことがきっかけだった。連絡を取り合うようになって、彼は以前から私のことが気になっていたと話した。田口くんのことを好きかと言われたらまだわからないけれど、他人から向けられた好意に悪い気はしていなかった。そして、恋愛に対して受動的である私にとって、処女を捨てるタイミングは今なのかもしれないとも思った。
田口くんの住む部屋は男の子の匂いがする。男の子の部屋なんて初めて上がったけれど、女の子の部屋の甘い香りとは違ったから、これが男の子の匂いなのだろうと思う。多分。
2人で映画を観たりお酒を飲んだりしているうちに終電がなくなり、田口くんが私の手に触れた。
あ。
心臓の音が速くなっていくのを感じながら、やっとの思いで目を合わせる。初めて男の子とキスをした。ときめきも、嬉しさも、特にない。どうしていいかわからず、息を止めた。水の中にいるみたいだ。田口くんの骨張った手が私の体に触れる。上手く泳げているんだろうか、私。何をしているんだろう、私。なんのために、これからこの人とセックスをするんだろう。誰のために?
「ごめん」
田口くんが発した言葉の意味が、暫くわからなかった。そして何秒か経ってようやく、自分の手が震えていることに気づいた。
「俺、したことないんだ」
え、と思わず声が出る。もう目は合わなかった。
「有紀ちゃんのこと大事にしたいと思ってる」
目の前で、正座をしたままの田口くんが下を向いている。私のことが、好きな人。私のことが好きだから、私に触れた人。
「ごめん」
今度は私が言った。自分がこの人の好意を利用しようとしていたことに気づいたとき、私は自分という人間がひどく虚しい存在のように思えた。
それから始発の時間が来るまで、狭いベッドでお互いに背を向けて眠った。彼はきっと、優しいひとなのだと思う。
始発を待つ駅のホームはまだ眠っているように静かだ。線路沿いに連なる屋根を、青白い空がやさしく覆っている。巨大な水槽の中みたいだ。まだ誰もいない水色の世界でひとり、大きく息を吸い込んだ。
ごめんさんが、あなたの体験をもとに、掌編小説・イラストにしていきます。
恋愛や友達関係、自身のコンプレックスなどなど……
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