第3回 熊野古道という参詣路をプロデュースした山伏たちの能力に感服

文字数 1,303文字

 熊野古道の中辺路(なかへち)歩きは2日目になった。熊野古道にはさまざな道があるが、大辺路(おおへち)、中辺路、小辺路(こへち)が知られている。そのなかでは中辺路の滝尻王子~熊野本宮大社を歩く人が多い。距離もそれほど長くないことがその理由だろうか。とはいえ約38キロもある。

 僕も中辺路に挑んだ。1日目は約8時間ほど歩いた。2日目は10時間の古道歩きが待っていた。

 野中という集落にある民宿を7時すぎに出発した。2時間ほど歩くと、「熊野古道迂回路」という表示が出てきた。2011年の台風で地すべりが発生し、本来の熊野古道の一部を歩くことができなくなってしまった。そこで迂回路がつくられた。

 この道がきつかった。水害に遭いにくいルートを選んだのだろうが、沢筋から離れた道は急登がつづいた。周囲の木々の背は低く、古道というより登山路に近かった。

 平安時代につくられた道より、現代になって刻まれた道のほうが険しくなってしまう……。

 古道を歩きながら、この道をつくった山伏たちの能力に感服していた。熊野の山を熟知していたということだろう。平安時代から鎌倉時代にかけ、天皇や貴族はこぞって熊野詣にでかけた。ガイドは山伏だった。山伏たちは王子と呼ばれた施設をつくり、そこで休憩し、食事をとった。その世話をしたのも山伏だったという。

 そもそも熊野詣という参詣の旅をプロデュースしたのは山伏だった。彼らは熊野古道という参詣路をつくり、その旅に意味を加えていく。京都から熊野を往復した天皇や貴族たちは1ヵ以上も公務を離れることになる。政変や疫病に揺れる京都に残された貴族からは不満も出る。人々も、「こんなに大変なときに……」といった思いを抱くだろう。

 そこで山伏たちは、浄土というコンセプトを熊野詣に加えていく。熊野詣は単なる旅ではなく、死後に浄土へ行くための修行だとしていくのだ。そうすることで熊野詣を正当化し、人々も、「熊野詣だからしかたない」という意識を植えつけていった。

 実に巧みなツアーづくりという側面が見えてくる。実際の熊野詣はそれほどの苦行ではなく、むしろ楽しいものだったようにも思う。そうでなければ、後白河天皇が34回も熊野詣に出向かない気がする。

 天皇や貴族もそれがわかっているから、熊野詣はいかに大変かという和歌をつくる。こうして熊野への旅を守ろうとした気もしないではない。

 それに比べれば、中辺路を2日で歩き切る現代の旅のほうがつらい。むしろいまのほうが修行かもしれない。

 そんな思いを抱きながら、熊野古道を延々と歩く。目的地の熊野本宮大社はまだまだ先だ。



下川裕治(しもかわ ゆうじ)

1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。


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