第8回 琵琶湖の東側、野洲から彦根まで朝鮮人街道をたどる
文字数 1,258文字
韓国の鳥嶺古道と日本の朝鮮人街道である。朝鮮人街道は琵琶湖の東側、野洲(滋賀県近江八幡市)から彦根(同彦根市)までの41・2㎞を指す。
朝鮮人街道は旧中山道の脇道のように映る。整備したのは織田信長だった。信長が築いた安土城は、旧中山道から少しそれていた。岐阜から京都に向かうとき、途中で安土城に寄る。そこから京都に向かうのに便利な道をつくったのだ。その後、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康も通ったことから、縁起のいい道とされた。通行できるのは徳川家のみということになり、大名が参勤交代で使うことは禁じられた。
朝鮮通信使は釜山から船で大阪に入る。伏見(京都市)まで淀川を遡り、そこからは歩いて江戸に向かった。そのとき、幕府は中山道からそれたこの道を通ることを許可する。ある種の優遇策である。朝鮮に恩を売ろうとしたと考えられる。
野洲からその道を歩いた。途中でJRの東海道線を越えてからは、なかなか立派な道が残っていた。沿道の家も立派だ。
しかし朝鮮通信使は、毎年、やってきたわけではない。基本的に幕府の将軍が変わったときの表敬訪問に似た来日である。江戸時代には12回、日本にきているが、それぞれの間隔は十数年開いている。その間、この道は徳川家以外、誰も通らなかったのだろうか。
朝鮮通信使がやってくるときは、橋の整備などに住民が駆り出されている。しかし十数年に1回である。旧中山道は参勤交代の大名行列が通り、人々の往来もあった。しかし朝鮮人街道は……。
ここからは想像力の世界になってしまうが、周辺に住む一般庶民は、かなり活用していたようにも思えるのだ。
ヒントは十王町(滋賀県近江八幡市)だった。野洲から朝鮮人街道を3時間近く歩き、日野川に架かる仁保橋を渡った。その先にあったのが十王町で、そのほぼ中央を朝鮮人街道が通っていた。
道に沿って商店が並んでいた。最寄りのJR東海道線の駅は近江八幡駅である。そこからはかなりの距離がある。
近江八幡市の市役所に訊いてみた。
「琵琶湖の水運なんです。いまでいう草津や大津に行くには、江頭町や十王町あたりから船に乗ったほうが便利だったんです。そこに街が栄えたんです」
この一帯は朝鮮人街道とは関係なく、琵琶湖の水運でつながっていた。それが一帯に住む庶民の暮らしだった。朝鮮人街道はやはり歴史の道ということだろうか。
下川裕治(しもかわ ゆうじ)
1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。