第9回 東南アジアの旅からのリハビリステーション・沖縄

文字数 1,240文字

『日本ときどきアジア 古道歩き』(光文社知恵の森文庫)で、鹿児島から那覇の首里までの海古道を旅している。しかしこの古道に辿り着く伏線はかなり長い。

 若い頃から僕の興味は東南アジアに向いていた。その帰り道に沖縄に寄ることがたびたびあった。それは東南アジアから、僕が暮らす東京という街に社会復帰するための訓練のようなものでもあった。

 頭がすっかりアジアになっていた僕は、那覇の街で泡盛をとろとろ飲みながら、意識を東京に向けようとしていた。日本と東南アジアの中間にある沖縄はリハビリの島でもあった。

 そこから沖縄と東南アジアのつながりに分け入っていくことになる。


 沖縄では「かまぼこ」をよく食べる。沖縄そばの載り、泡盛のつまみにもなる。これが本土ではさつま揚げになった。よく似た料理がタイにもあった。トートマンプラーという。魚のすり身を揚げた料理だ。

 泡盛のルーツを求めて、バンコク郊外の家を訪ねたこともあった。泡盛はタイのラオローンという酒が伝わったものだといわれていた。ラオローン……ラオは酒、ローンは工場。つまり発酵したどぶろくを工場で蒸留した酒である。蒸留技術は中国から伝わったという。

 訪ねた家の裏に大きな甕があった。そこで米を発酵させていた。それを工場に売り、わずかな金を得ていた。そこで沖縄から持参した泡盛を飲んでもらった。

「これは高級な酒ですね」

 タイ人は目を丸くした。

泡盛は本土に渡って薩摩焼酎になった。そして全国に広まっていった。

 それは琉球王国が行っていた朝貢貿易の副産物だった。朝貢貿易というのは、中国に従う意思を示すために貢物を送る。中国の王朝は見返り品を渡し、琉球王国はそれを東南アジアに運んで売りさばいた。完全な中継貿易である。

 こうして琉球王国は東南アジアに足場を築いていった。

 当時のタイの王朝はアユタヤにあった。いま、そこに日本人村の跡があり、博物館が建っている。そこの展示を観ると、沖縄のものがかなりある。

「日本人村を発掘していくと、その下から琉球のものがぞろぞろ出てきたんです。日本人村は琉球人村の場所につくられたんです」

 博物館の職員はそう教えてくれた。

 僕は大きく誤解していた。沖縄は日本だから、その方向で眺めてしまうのだが、江戸時代に入る前、琉球王国と日本は別の国だった。いつ頃、どんな経緯で琉球王国は日本にとり込まれていったのか。その道が沖縄古道だった。僕はようやく古道の入口に立ったわけだ。


下川裕治(しもかわ ゆうじ)

1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。


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