『愛されなくても別に』武田綾乃

文字数 21,404文字

祝! 第42回吉川英治文学新人賞受賞!!
「響け! ユーフォニアム」シリーズの著者が、息詰まる「現代」に風穴を開ける会心作――『愛されなくても別に』。
王様のブランチでも取り上げられ話題沸騰、発売即重版、たちまち5刷と大反響!
 それを記念し、本作の冒頭部分を無料公開いたします!



01.愛、或いは裏切り


(春)
 二〇一九年四月二十五日現在、東京都の最低賃金は九百八十五円だ。全国平均は八百七十四円で、最低金額は鹿児島県の七百六十一円。
 東京と鹿児島で同じバイトをしても、一時間あたりの賃金が違う。なんだってそうだ。経済活動なんてなんでもそう。平等だなんて口先だけで、隠す気すらない格差がそこら中に転がっている。
 大学生同士の世間話に、こういうテーマは相応しくないかもしれない。もしも私が社会への不満を声高に訴えたら、きっと明日から友達が減るだろう。いや、今のは噓だ。最初から友達なんていないから、何をしようと減りようがない。
「すみません、前回の講義を欠席していたんですが、その際のプリントを頂いてもいいですか?」
 授業終わり。タイミングを見計らい、私は教壇に立つ教授へと声を掛ける。パソコンを操作していた年配の男は眉根を寄せると、わざとらしく溜息を吐いた。
「悪いけど、欠席者のフォローはしていないから。友達にでも見せてもらってください」
「いやあの、前回は胃腸炎で休みだったんですけど」
「欠席に理由とかないからね? 単位条件は出席率が七割を越えている、かつ試験で六十点以上とる。それ以外はどんな理由があっても認められない。分かった?」
「あ、はい。すみません」
 背中を丸め、殊勝に頷く。その間、脳内では毒を吐くことを止められない。
 友達のいない人間は体調不良で休むことも許されないのか。現代社会に必要なものはやる気よりも学力よりも、コミュニケーション能力なのか!
 ……なんてことを叫びたくなるが、胃腸炎というのは噓だから素直に引き下がるしかない。我ながらクズだと自嘲しながら、私は教室内を見回す。
 私立大学のメイン校舎にある二十三番教室、収容人数は三百人。席は疎らに埋まっていて、大体百八十人ほどの学生が次の授業に向けた支度を始めている。同世代の人間がこんなにも存在しているのに、この中に友達と呼べる人間は一人もいない。
 コミュニケーション能力を求める社会が、今日も私を殺そうとしている。
 教授に背を向け、私は教室を足早に出る。大学生の利点はこういうところだと思う。高校生の時と違って、一人でいても色々と誤魔化せる。
 廊下に出ると、視界に飛び込んでくる人の波。パステルカラーのスカート。シフォン地のフリルブラウス。アイボリーのロングTシャツ。黒のスキニーパンツ。全くの他人なのに同じ服を着た人もいる。先ほどから連続して見掛けた白と紺のボーダーシャツは、ユニクロの今年の新作だ。
 私は自分の服を見下ろす。白のカットソーに、スキニージーンズ。差し色のつもりで履いている水色の靴下、黒のスニーカー。私がパリコレモデルのような体形か、もしくは整っているねと評される顔面を持っていれば、この服装もお洒落だという評価を受けるのかもしれない。しかしながら現実は厳しい。服装について褒められたことは、大学生になってから一度もない。
 私の大学生活を一言で表すなら、クソだ。こんな汚い言葉を使うのはやめた方がいいのかもしれないけれど、それ以外の言葉が見つからないのだから仕方がない。入学したばかりの去年よりも、私の暮らしのクソさは日に日に悪化している。じゃあ逆に、クソじゃない大学生活ってどんなものなのかしらん、なんて考えたりもする。
 素敵な友達を引き連れて、学校に併設されている少し高めのフレンチレストランで千五百円のランチを食べられること? それとも、サークルの友人たちと共に居酒屋で一人三千円の飲み放題付きのコースを頼み、水っぽいカシスオレンジを飲みながら冷めた唐揚げをつつくこと? どっちも典型的なキャンパスライフであり、どっちもクソだ。私は両方好きじゃない。
 これではコミュニケーション能力がないと言われるのも仕方がない。自己分析は百点満点だ、問題なのはそんな自分を直そうとする気が微塵も湧かないことだろう。
 歩く速度と同じテンポで脳内に流れるスケジュール。今日は二十二時から翌日四時まで駅から徒歩七分の場所にあるコンビニエンスストアでアルバイトだ。深夜帯は時給が千百円。今日は六時間だから、大体六千六百円稼げる。普段は、八時間ほど働く。
 掛け持ちで週六のシフトを入れているから、八時間╳六日、一週間で四十八時間。月では二百時間ほど働いている。バイトだけで月に二十万ほど稼げる計算だ。勿論、手取りではない。社会保険料や税金を引くと、大体十六万ほどになる。下手をするとそこらへんの社会人より稼いでいるかもしれない。
 遊ぶ時間? そんなのない。
 遊ぶ金? そんなの、もっとない。
 稼いだ金の内、八万は家に入れる。残りはほとんど学費で消える。文系の場合、私立大学の学費は四年間で大体四百万円。国立大学でも二百五十万ほど掛かる。貸与型の奨学金を借りてはいるが、手を付けてはいない。奨学金はあくまで保険で、卒業と同時に一括返済するつもりだ。なんせ、利子が怖いから。
 何のために私は大学に行くのだろう。ふとした瞬間、足が止まる。立ち止まって、もう歩き出したくなくなる。睡眠時間を削ってまでシフトに入る意味って何だ。こんなに苦しい思いをして、大学で学ぶ意味って何だ。悲鳴が心を押し潰す前に、私は意図的に思考を遮断する。高い志なんていらない。勉学に対する情熱もいらない。
 私が大学に入学した理由はただ一つ、大卒の資格を得て就職するため。それだけだ。


 私の働いているコンビニは、バイト先としてはかなり条件がいい。まず、客が少ない。半径二百メートル以内にコンビニが複数あり、他店に客を取られているせいだ。店長の胃は日に日に痛くなっているようだが、バイトの立場としては接客が少なく済んで助かっている。
 制服に着替え、レジ前に立つ。今日のシフトは同じ大学の先輩である堀口と一緒だった。彼をお洒落だと思ったことはないが、お洒落だと思われたがっていることはひしひしと伝わってくる。明る過ぎる茶髪のせいで、眉毛の黒が浮いていた。
「宮田ちゃんお疲れー」
「お疲れ様です」
 深夜シフトでは、堀口とよく一緒になる。少しでも時給の高い条件で働きたい私と、客が少ない深夜帯を好む堀口とで、ニーズが重なっていることが理由だ。
 堀口は華奢な男だった。身長は百七十のところを、厚底のスニーカーを履くことで盛っている。今のご時世では珍しく、タバコとギャンブルを好んでいる。彼の吐息から漂う布団乾燥機みたいな匂いは電子タバコが原因だ。二年留年し、現在は大学六年生。ろくでなし大学生のイメージを具現化したような男だった。
 二人きりのコンビニで、彼はよくテレビやネットで仕入れた小さな怒りを私に見せびらかしてきた。彼は女が好きな癖に、フェミニストを嫌っている。
「この前さ、テレビで特集やってたよ。無人コンビニだって。完全に自動精算で買い物できるようになったら、俺らクビになっちゃうかもね」
「はぁ、そうですか」
「高校の授業の時にさ、産業革命って習ったじゃん? その時に、クビになった従業員が工場の機械を破壊したってエピソードがあったと思うんだけど、俺、アレを思い出しちゃったね。俺らも革命時代に突入じゃんって。AIに仕事取られちゃう」
「だとしても、どうしようもないですけどね」
「接客の仕事が全部機械に取られたら寂しくない? 俺は人間に接客して欲しい。機械にはない温もりがあると思うんだよね」
「スマホですらずっと使ってたら熱くなりますよ」
 私の言葉に、堀口が微かに眉を上げる。彼とのくだらない世間話は、暇つぶしにはちょうどいい。私は堀口のことは嫌いだが、彼との会話は嫌いではない。どんな会話をしようとも次に結びつかないことが互いに分かっているから。
「そういう意味じゃないって。もー、分かってて言ってるでしょ? 宮田ちゃんってそういうとこあるよね、ひねくれてるというか」
「そうですか?」
 私なら、人間よりも機械に接客してもらいたい。自分が接客業をしているせいか、買い物をする時はいつも店員の目が気になってしまう。その点、機械相手なら楽だ。小銭を出すのに手間取ろうと、同じ商品を手に取って長く眺めていようと、嫌な顔一つされない。
「もし自分が年を取った時に、全自動おむつ取り換えマシーンがあったらどんなにいいかって思いますよ。生身の人間にやってもらうより気が楽です」
「ええ……そこで介護の発想に飛ぶ? 老後とか、まだまだ先の話じゃん?」
「先ってわけでも──いらっしゃいませー」
 入ってくる客の姿をいち早く見つけ、私は挨拶を口にする。部屋着のような格好をした男は棚を見ることなく、真っ直ぐにレジへと向かってくる。その脇に挟まれた茶封筒と、赤い伝票。宅配の依頼、しかも着払いだ。私は胸ポケットからボールペンをさりげなく取り出す。
 私が接客している間、雑誌を立ち読みしていた男が酒のつまみをカゴに入れてレジへと移動してきた。堀口がすかさず「お待ちのお客様はこちらへ」と誘導する。
 深夜のコンビニは、静かに生きている貝みたいだ。貝殻の隙間から酸素が出入りするように、人間たちが入って出てを繰り返す。不思議なもので、客足というのは連動する。一気に押し寄せたと思ったら、ぱったりと途絶える。
 空っぽになった店内では、繰り返し同じ放送が流れている。ネットでは知名度を誇るアイドルが元気いっぱいに商品を紹介していた。時刻は深夜零時、はしゃぐような笑い声を聞くのが辛い時間帯だった。
 私はダストクロスを手に、店内の清掃を始める。ダストクロスとは床清掃用の器具で、この後に濡らしたモップで床を拭き、最後にポリッシャーを使って床の光沢を維持する。大体、一セットで一時間ほど掛かる。
 作業している私を横目に、堀口はぼんやりと時計を眺めていた。口寂しいのだろう、先ほどから何度も胸ポケットに手が伸びている。店内は禁煙だった。
「宮田ちゃんはさ、生きてて楽しい?」
「は?」
 唐突に投げかけられた哲学的な問いに、私は眉を顰める。そんなことを聞いている暇があるならば、さっさと販売期限切れの商品の廃棄処理を行って欲しい。
「いや、バイトしまくってるからさ。俺みたいに金使いまくってる生活だったら理解できるんだけど、宮田ちゃんってあんまり浪費癖があるようにも見えないし、意味なく貯金してるのかなって。せっかくの大学生活だよ? もっと楽しめば?」
「堀口さんみたいに留年してまで楽しむべきですか?」
「そうそう、ってなんでやねーん!」
 明るく笑いながら、堀口が宙を叩く。彼の急に似非関西弁になるところが、私は純粋に嫌いだ。
「マジのところ、なんでそんなにバイト入ってんの? 服とか化粧品に金掛けてる感じもしないし、なにか凄い趣味があるとか? アイドルのおっかけとか、ゲームの課金とか」
「趣味なんてありませんよ」
 レジ近くにあるカードの陳列に乱れがないかも確認する。オンラインコンテンツ用のプリペイドカードは、千五百円、三千円、五千円、一万円と種類がある。これを大量に買う人の目的は、大抵がゲームのガチャだ。ゲーム内で一回数百円のくじを、お目当てのキャラが出るまで引き続ける。クレジットカードの上限になっても出ない場合は、プリペイドカードを使って課金する。
 射幸心を煽るのが上手い娯楽は、人を破滅させることがある。この世界の仕組みがそうだ。依存させたら勝ちなのだ。
「使うものがないのに過労死寸前みたいな生き方してるの? ま、女の子って生きてるだけで金掛かるもんね。俺の彼女もさ、全身脱毛したくて貯金してんだって。あれ、すげー金掛かるんだね」
「知らないですけど」
「俺も脱毛しようかなー。上も下もツルツルの男ってどうなんだろ、モテんのかな」
「どうでもいいですけど」
「でもすげー痛いらしいじゃん? 俺さ、女に生まれなくてラッキーって思うよ。剃刀で毎日足の毛剃るとかやってらんないだろうな」
「別に、毎日剃ってないですし。冬とかタイツ穿いてたら分かんないでしょうし」
「そんじゃあ寝るときどうすんの。彼氏にそんな姿見られたくなくない?」
「別に、彼氏いないので困らないです」
「もしかして宮田ちゃん、処女?」
 カッと顔が熱くなる。恥ずかしいと思う自分が恥ずかしい。恋愛経験がないことが、私の抱える最大のコンプレックスだ。
「だったら何ですか。っていうか、セクハラですよ」
「ごめんごめん。もし宮田ちゃんが希望するなら貰ってあげるよ、処女」
「気持ち悪い。堀口さんは冗談のつもりで言っているんでしょうけど、率直に言って不快です。勝手に私を抱く抱かないの対象にしないでください」
「本当ごめんって。代わりに俺の弟の童貞あげるから」
「そういう問題じゃないんですよ。あーあ、コイツどっかで痛い目に遭わないかな」
「心の声が漏れてるよ」
「わざとです」
 澄ました顔でそう言えば、堀口はおどけるように肩を竦めた。
 性の話題は堀口の大好物だ。彼は全人類がそういった話題を愛していると思い込んでいる節があり、非常に迷惑している。
 私は堀口が嫌いだ。だが、嫌いであるからこそ気安くコミュニケーションを取れている部分もある。何を思われても構わないから。そして堀口も多分、それを分かった上で私に軽口を叩いている。私と堀口は互いに互いをどうでもいい存在だと思っていて、それがこの妙な関係性が続く理由になっていたりもする。
 悲しいかな、私が家族以外で最も一緒にいる時間が長いのが堀口だ。ダストクロスを握り締めたまま、私は深く溜息を吐いた。
「私がバイトを入れているのは、生活費の為です」
「え? 宮田ちゃん実家に住んでるんでしょ? 金なんて溜まりまくりじゃん」
「そうでもないです。実家にお金入れてるんで」
「いくら?」
「八万円ですね。母親に言われて」
「はぁ?」
 オーバーな仕草で堀口が身を仰け反らす。
「なにソレ! 大学生なんてむしろ、小遣い貰う方じゃないの」
「それは堀口さんの家が裕福だからですよ」
 咄嗟に反論したが、堀口は納得しないようだった。両腕を組み、不服そうに唇を尖らせる。
「そうは言っても、八万はないわ。宮田ちゃん、苦労してるんだね……。そりゃあ服とかにもお金掛けられないか。今までダサいって思っててゴメンね」
「失礼すぎますよ、さっきから」
「じゃあ宮田ちゃん、成人式とかどうするの? 俺の彼女は着物、レンタルするって言ってたけど。あれも金掛かるでしょ」
「成人式は出るつもりないです。一回きりの行事に大金を払う必要性が分からないです」
 今年、私は二十歳になる。選挙権も十八歳で得られる現代社会で、高い金を払って二十歳のお祝いをする意味とは何なのだろうか。
 自身の髪を軽く引っ張りながら、堀口はへらへらと軽薄に笑った。
「えー、でも着物姿の自分の写真、撮っておきたくない? レンタルするなら今の時期だと遅いぐらいらしいよ。可愛い着物が他の人に取られるって彼女が言ってた。検討するくらい良くない? 親も着物姿の宮田ちゃんを見たら喜ぶでしょ」
 親のことを持ち出されると弱い。私は軽く唇を嚙む。母親は着物姿の私を見て喜ぶだろうか。
「いや、ないと思いますよ。大体、そんなのにお金を使うくらいなら貯金したいですし」
「考え方が苦学生……そんなに貧乏だったらなんで私立大学なんて入ったの」
「私立の方が結果的に安くつくからです。本当は国立大学も受かってたんですけど、母が家から三十分以内の大学以外は許さないって」
「そんなことを理由に大学のランク下げさせる親とか、俺だったら考えらんない。俺なんて、なんとか今の大学入ったけど、二年も留年よ? それでも授業料とかは親が出してる」
「それは堀口さんが恵まれているからですよ」
 堀口は現在、二十四歳だ。四年プラスαの時間を費やし、来年ようやく卒業らしい。将来の夢はユーチューバーだなんて嘯いているが、彼が動画を作っている話なんて聞いたことがない。進路はどうするのだろうか、というのが店長のここ最近の一番の関心事らしい。
「俺が恵まれてる? 宮田ちゃんは俺の事知らないからそう言えるんだって。俺、家ではめちゃくちゃ迫害されてっからね? 出来の良い弟のせいで」
「でも、学費を払ってもらってるんですよね?」
「学費を払ってくれたらいい親? 俺はそうは思わないけどね。金さえ払えば親の義務は果たしたって言えるわけ?」
「私はそう思いますけど」
「それはあかんって。宮田ちゃんは親に対して求めるハードルが低すぎるでー」
 また下手くそな関西弁。私はフンと鼻で笑った。
「あ、俺のこと馬鹿にしたでしょ?」
「馬鹿にしてるワケじゃないですけど。堀口さんはどうして関西弁を喋るんですか、生まれも育ちも東京ですよね」
「関西弁ってカッコ良くない? 俺、方言に憧れるんだよね。実家は東京なんだけど、それって特別感ないじゃん。だから家から出て一人暮らししたいなって思って。本当は関西の大学に行きたかったんだけど、普通に受験失敗してさ」
「だから関東の大学に?」
「そーそー。仕送りもらう貧乏学生だよ、深夜にバイトまでしてさ。ま、宮田ちゃんの苦学生っぷりには負けるけどね」
 堀口が肩を竦める。緑と青のストライプの制服が彼のなで肩の形を美しく縁取っている。
 床を見下ろし、私はダストクロスを動かす手を止めた。等間隔に並んだ白のセラミックタイルは清潔感をアピールするのに相応しい。
「私、バイトは苦じゃないですけどね。働いたらきちんと報酬が出るんで」
「報酬が出ない仕事なんてある?」
「家事とか」
「あんなの楽勝じゃん。俺、一人暮らしになって、母親があんなに偉そうにしてたのってなんだったんだよって思ったよ」
「自分のための家事と他人のための家事は違いますからね」
「宮田ちゃん何人家族なの」
「二人です、母と暮らしてて」
「二人だけ? じゃ、楽でしょ」
「そうでもないですよ。母はすぐに散らかすし」
 家事をやってくれるかもしれないなんて期待は、とっくの昔になくなった。母親は怠惰だからと最初から諦めた方が、余計なストレスを抱えなくて済む。本当は私だって家事なんて全然好きじゃないけれど、好きとか嫌いとかそんな甘えが許されるような環境で育っては来なかった。
 マイナスをゼロにする仕事は辛い。家事を続けていると、自分の内側が蝕まれていくような感覚になる。マイナスが続くと文句を言われるけれど、ゼロを維持したって誰も褒めてくれない。長所が見えにくく、短所が目立ちやすい。それってすごく、疲れる。
「俺、結婚するなら料理上手な人がいいな。家に帰ったら温かい風呂と料理が待っているような家庭がいい」
「そんなの、私もそうですよ。堀口さんが家事の出来る男になればいいんじゃないですか? 未来の奥さんが喜びますよ」
「えー、宮田ちゃんってそういうこと言うんだ。ぶっちゃけさ、俺は男と女の家事負担が平等なのって、生活全体の労働負担的には全然平等じゃないと思う。だって、男の方が社会で仕事してるじゃん。どう考えても」
「脳味噌が旧型ですね」
「手厳しいなぁ。でもさ、思わない? 世の中は女性が優遇されすぎてる気がする。日本社会を見てみ? 総理大臣も男、議員も九割以上が男、社長も九割以上が男。負担の大きい大事な役職は全部男がやらされてる。これって男性差別じゃない?」
「それ、逆に女性が冷遇されてるって根拠じゃないですか?」
「冷遇って言われてもさ、今の時代に本当にそんなのある? 実力があったら女でも活躍できる社会でしょ、言い訳じゃん。むしろさ、レディースデイで安く映画見れて、レディースセットで安くランチ食べられて……男性差別の方が多い気がするんだよね。女は権利を主張しすぎだよ」
 私の言葉が堀口の忌諱に触れたらしい。堀口の言葉に激しさが増す。反論する隙を与えてもらえず、私は悶々としながらも彼の話に相槌を打つ。社会的な話になると、堀口との会話はターン制になる。自分の番が来るまで、私は自分の意見を脳内で構成し続けるしかない。
「俺の父さんも言ってたよ。雇って、育成に時間かけて、ようやく戦力になったってところで寿退社されたらたまんないって。子供が出来た、やれ時短にしろ。子供の熱が出た、やれ早退させろ。そのくせ、出世の評価は男と同じにしてください? そんなムシのいい話がある?」
 拳を握り、堀口は吠えるように叫んだ。制服に包まれた堀口の細い腕が激しく上下に揺れている。あの布を剝いだら、枯れた木の表面にも似た青白い腕が出てくるのだろう。そしてさらにその皮膚を剝ぐと、真っ赤な血が溢れだす。私の血の色と堀口の血の色が同じであることが不思議で堪らない。こんなにも違う人間なのに。
 私の視線の冷たさに気付いたのか、堀口が血走っていた目をぱっと笑みの形に変えた。
「いや、宮田ちゃんみたいに女でもちゃんと頑張ってる子がいるってのは分かってるんだよ? 宮田ちゃんはちゃんとした女だって思ってる。たださ、俺は女だからって自分が優遇されることが当たり前って思ってるやつらが嫌いなの。男だって虐げられてるのに、なんで女ってだけで下駄を履かせなきゃいけないんだって思わない?」
 ちゃんとした女とちゃんとしていない女。彼の中には線引きがあり、私はそこにいるだけで勝手に区分けされる。抱ける女と抱けない女、そうやって値踏みされるのと同じように。
 頰に掛かる黒髪を、私は耳の奥へと押しやった。長い前髪は、こういう時に煩わしい。
「そもそも私は、男と女のどちらが優れているかって考え方自体が変だと思いますけどね。犬と猫のどちらが優れてるかって議論するみたいなものじゃないですか。ただ、マジョリティ側は世界の仕組みの存在に気付きにくい部分はあると思いますよ」
「マジョリティって男? 女?」
「労働市場で言えば男性ですね。今の世界でいう男女平等って、女に男の真似をさせているように思うんですよね。労働の仕組み自体が昔の男性に適応する形で出来ているから、その環境でパワーを発揮できるのは当然男だろうし。でも男性は自分に適応した形になってることに気付かない」
「そうかな。俺的に、全然適応してる感じがないんだけど」
「そうですか? 男性は妊娠しないし、絶対に休まなきゃいけない期間がない。生理もないですし、女性に比べて体力もある。最近は少しずつ改善されてきましたけど、それでも子供の面倒は女が見るものっていう風潮はまだまだありますよね。女はマイノリティですよ。実際は女だけじゃなく、身体が弱い男や介護や子育てをしている男だって、マイノリティとして切り捨てられてるんでしょうけど」
 自身の顎を擦り、堀口は軽く首を捻った。「うーん」とその唇から小さな唸り声が漏れる。
「でも、身体の違いとかを理由に過保護にするのって、結局差別じゃんって俺なんかは思っちゃうけどなぁ。それに、女の意見が強い時だって絶対あるよね?」
「家庭活動の場合は昔の女性に適応する形で作られているから、女がマジョリティ側になってるとは思います。こっちでは逆に、女性側が無自覚に男性を冷遇してますよね。ワイドショーなんかでも、主婦が旦那の家事に文句言ったりするシーンはよく見かけますけど、逆だったら絶対に炎上するじゃないですか。まぁ、そもそも仕事は男、家事は女みたいな考え方自体が勝手な押し付けだとは思いますけど」
「じゃ、結局どうしたらいいわけ? 今の時代はさ、何しても差別差別って言われるじゃん。男は悪者で女は正義の味方みたいな攻撃され続けたらさ、こっちもやんなっちゃうよ。男だって生き辛いのにさ」
「差別ではなく、区別は必要だと思いますよ。更衣室の仕切りを無くすことが男女平等だとは思えませんから。多分、男だろうと女だろうと、自分がマジョリティ側になったら見えないものが増えるんですよ。権力を持つと、もっと色々と見えなくなる。だから虐げられている側の人間が主張することは、最終的にみんなの生活を良くすることに繫がると思います」
「その主張が正当ならね? 無茶苦茶な主張も多いじゃん。自分の主張が通ることで快感を得るクレーマーとか、ネット社会だと多いしさ。もう日本はお先真っ暗だよ。あーあー、この国に未来はない」
 堀口との議論は大抵、この言葉で締めくくられる。堀口は絶対に自分の考えを改めないし、私も私で改めないので、果たして議論と呼んでいいのかも怪しい。生産性がないことは分かっているが、それでも私が毎回律儀に付き合ってしまうのは、私自身も社会への鬱憤のようなものを吐き出したがっているからに他ならない。
 社会的な話は楽しい。語っている間は凄いことをしているような気分になるし、それに何より、家で放置されているであろう洗濯籠の存在を思い浮かべなくて済む。
 あ、と不意に堀口が壁に掛かった時計を見上げた。
「俺、一時に上がるから」
「中途半端な時間ですね」
「今日は十七時から入ってるからねー、八時間労働だよ。はー、本当はバイトなんてさっさと辞めたい」
「辞めたらいいじゃないですか。仕送りがあるんでしょう?」
「それだけじゃ小遣い足りないもん。俺、ファッションにはこだわりあるから」
 見せびらかすように、堀口が腕に嵌めた時計を蛍光灯の光に翳す。知識がないせいで私には判断できないけれど、銀色の時計は恐らく高級ブランドのものなのだろう。
 腕時計をしている割には時間を確認するのは壁掛け時計を使うんだな、と私は先程の彼の行動を思い出す。彼にとって腕時計とは、時間を見るためのものではないのかもしれない。
「今年は友達とマレーシアとインドネシアに旅行行くし、彼女の誕生日もそろそろだし、とにかく出費がやばいんだよ。俺は金を使うために金を稼いでるわけ」
「そうですか」
「宮田ちゃんも自分のためにお金使いなよ。ほら、美容院に行って髪の毛染めちゃえば? ずっと黒髪って飽きるでしょ」
「別に飽きないですけど」
「ふーん。宮田ちゃんって、俺の周りに全然いないタイプの女子だわ。付き合っても金掛からなそう」
「どうですかね、付き合ったことがないので分からないです」
「アクセサリーとか絶対ねだらないタイプじゃん。俺の前の彼女なんかさ──」
 そこで不自然に堀口の言葉が途切れたのは、自動ドアが開いたからだ。鳴り響く入店音に、反射的に「いらっしゃいませ」と挨拶が口を衝いて出る。
 視界に入る、綺麗に色の抜けた金髪。髪の隙間から覗く耳たぶには、シンプルな黒のピアスがぶら下がっている。色素のない眉の端を僅かに持ち上げ、彼女は「ども」と唸るような挨拶を口にした。私は「お疲れ様です」と言い、堀口は「お疲れー」と砕けた口調で言った。その気安い態度こそが、彼のなけなしのプライドのようにも見えた。
 江永雅。先週からここでバイトを始めた女で、私とは同じ大学、同じ学科、さらには同じ学年だ。
 江永はスキニーに黒シャツというシンプルな格好のまま、バックヤードへと消えていった。「そろそろ交代の時間か」と堀口が白々しい口調で言う。
「宮田ちゃん的に、江永さんとはどう? 仲良くなれそう?」
「あまり。無口な人なので」
「だよねぇ。俺ともあんま喋ってくれないし」
 私と堀口は揃ってバックヤードの入口を見遣る。初対面の時から私のことを馴れ馴れしく『宮田ちゃん』と呼んでいた堀口だが、江永にはさん付けだ。意気地なしと罵ってやりたいところだが、堀口が江永に怖気づいてしまう気持ちも分かる。
 江永雅からはむせ返るような噓の香りがする。思わず鼻を押さえたくなるような、安っぽい香水の匂いだ。瞼の縁を隙間なく塗りつぶすアイラインも、コーティングされた長い睫毛も、他者を威嚇する装備品のように私には見える。
 彼女とは関わり合いにならない方がいい。威圧的な金髪、威圧的なメイク。社会への反抗心を大袈裟に見せびらかす、甘ったれた子供みたいに見える。
 制服に着替えた江永がレジへと出てくる。その耳の穴をふさぐ、ワイヤレスイヤホン。彼女はいつも、音楽を聴きながら仕事をする。
「じゃ、俺はそろそろあがるわ」
 そう言って堀口は逃げるようにバックヤードへと引っ込んだ。私も逃げたいところだが、仕事だから仕方がない。
「よろしくお願いします」
 軽く会釈した私に、江永はちらりと一瞥をくれただけだった。店長が来る朝四時まで、しばらく二人っきりだ。
「あの、私これから品出しするんで、レジ番お願いします」
 声を掛けると、江永は右耳のイヤホンだけを抜き取り、「え?」とハスキーな声で聞き返した。
「レジ番お願いします!」
「あー、はいはい。わかった」
 江永は再びイヤホンを装着し、レジ前で地蔵のように立ち尽くしている。彼女に他の仕事は頼み辛い。出そうになった溜息を吞み込み、隙間が目立つ商品棚を見つめる。
 江永に頼むより、自分でやった方がよっぽど早い。江永と関わることの煩わしさと自分の疲労を天秤に掛け、私はすぐさま後者を選んだ。


 バイトが終わり、家に帰ったのは午前五時前だった。朝日を背負いながら玄関の扉を閉める。脱ぎ散らかされたパンプスを揃えて置き、そこで堪え切れなかった欠伸が漏れた。チュンチュンと響く小鳥の鳴き声。早朝の住宅街は静かだ。眠りの気配がうっすらと残っている。
 今日の授業は三限から六限。開始時刻は十三時で、解放されるのは二十時前になるだろう。そこからまたコンビニでアルバイトだ。
 思考しているうちに、瞼はどんどんと重くなった。背中に張り付く睡魔が、生気をどんどんと吸い取ってしまう。靴下を脱ぎ、カーペットの上で横になる。一つに結っていたヘアゴムを取り、手首に嵌める。化粧を落とさなければ、と思う。だけど、クレンジングシートに手を伸ばすことすら億劫だった。
 硬い床の感触を身体の側面に感じながら、自分は何をやっているのだろうと思う。使い古した靴底みたいに、自分の精神がどんどんとすり減っていくのを感じる。
 マイナスをゼロにする作業は辛い。だけど私の人生は、延々とその繰り返しだ。

「ねえ、ごはん作って」
 身体が揺さぶられる感覚。ヘアスプレーを吹き付けたばかりの甘ったるい匂い。冷えた体温が私の二の腕を摑み、揺らす。込み上げる吐き気。今日もまた、一日が始まってしまう。
 左目だけを開け、光に目を慣らす。デジタル時計に表示されていたのは午前七時、寝始めてからまだ二時間しか経っていない。
「おはよ」
 視界に入り込むように、女がこちらへ微笑み掛ける。日の光に透ける茶色の髪が彼女の白い上半身に掛かっている。バラ柄の刺繡が入ったレースのブラジャー。寄せ上げられた胸の肉が、鎖骨の下にくっきりとした谷間を作っている。着替えの途中なのだろう、藍色のレギンスパンツはオフィスカジュアルな装いなのに、上半身は下着のままだ。最近通い始めたというジムの成果か、腰回りのラインはくびれていた。
 成人間近の娘がいるとは思えない、美しい女だ。彼女が自分の母親であることが、幼い頃は自慢で仕方がなかった。だが、私が子供から大人になったのと同じように、母もまた年を重ねた。皮膚から透ける青い血管や、首に浮き出る皺が、彼女の年齢を感じさせる。
「陽彩ったら、また化粧落としてない。そんなずぼらだからアンタは彼氏ができないのよ」
 母はそう言って、クレンジングシートを自分の指に巻き付けた。そのまま、私の頰を強く擦る。摩擦から生じる痛みに、私の意識はようやく覚醒した。
「お母さん、痛いからやめて」
「ねえ、早くごはん作って。ホットサンドが食べたい」
「はいはい、分かったから」
「ハムとチーズに、キャベツもいれてね。あと、珈琲も飲みたい」
 それぐらい自分でやってよ。喉まで出掛かった言葉を、すんでのところで吞み込む。危ない、面倒なことになるところだった。
 吐き気を押さえようと、蛇口から水を注ぐ。常温の水分が食道を通り、じんわりと胃の中に広がる。大丈夫、今日も頑張れる。
 冷蔵庫の扉を開けると、整理された保存容器の山。母は二日連続で同じ食事をすることに耐えられないから、小分けにして常備菜を保存している。使いやすいように下ごしらえした野菜の空間を圧迫するように、発泡酒の缶が大量に並べて置かれている。母親の毎晩の晩酌用だ。保存容器を一つ取り出すと、出汁醬油だけとなっていた。母が昨晩のつまみに煮卵を食べ、空になった保存容器を冷蔵庫に戻したのだろう。彼女にはそういうところがある。麦茶の入ったボトルだって一杯にも満たない量しかないのを冷蔵庫に戻すし、そのくせ中身が無くなると癇癪を起こす。流し台に持って行ってくれるだけで随分と楽になるのに。
「ねえ、まだ?」
 すぐ後ろから、母の乾いた声がする。不機嫌になる直前の声だ。
「いま作るから」
「最近、陽彩って色々と手を抜き過ぎじゃない? 私が言う前にごはんくらい準備しておいてよ。大学生だからって調子乗ってるでしょ」
「乗ってない乗ってない」
 八枚切りの食パンを取り出し、ホットサンドメーカーにセットする。パンの表面にはそれぞれマヨネーズを塗っておく。薄いハムを置き、その上にチーズをのせる。千切りにしたキャベツを零れないようにのせ、最後にもう一枚のパンをのせる。
 両面、それぞれ二分ずつ。焦げないようにコンロを中火にセットし、その間にインスタントの珈琲を入れる。珈琲の粉末の入ったボトルを開けた瞬間、香ばしい匂いが立ち上がってきて、私は一瞬息を止めた。パンの焼ける匂いも、珈琲の匂いも、何もかもが私の胃をいじめる。朝は嫌いだ、2DKの家に食べ物の匂いが充満するから。
 私たち親子が住んでいるのは築三十一年の二階建てアパートの一室だ。家賃は諸々込みで六万円。最寄り駅からは徒歩十八分で、四十六平米、風呂トイレは別。ダイニングとキッチンが一体化していて、片方の部屋は母の、もう片方の部屋は私のものになっている。昔は寝室と物置として使っていた。
 ここに住み始めたのは、私が小学一年生の時に両親が離婚してからだ。それから父親は音信不通になり、母親は何度か恋人を替えた。両親が離婚した明確な理由は知らない。ただ、二人が不仲であったのと、揃いも揃って浪費癖があったのは間違いない。二人が喧嘩するところを見る度に、幼い私はさっさと離婚してくれないかなと思っていたから。
 ジュウー、とパンの焼ける音に、私は慌ててホットサンドメーカーから中身を取り出す。布団が取られて単なる机と化しているコタツ机の上に、私は皿とカップを載せた。母親はスマートフォンでゲームをしながら、「ありがと」とだけ言った。いつもの朝の風景だ。
 母親が朝食を食べている間に、脱衣所に散らかされた洗濯物を回収する。傷みやすいものはネットにいれ、タオルなどはそのまま洗濯機へと放り込む。高級ブランドのスカート、三足千円の靴下、高級ブランドのシャツ、近所のスーパーの二階で買ったTシャツ。どちらが母のものでどちらが自分のものか、生地の感触だけで分かる。このシャツは見たことのない品だ、どうせまた新しく買ったのだろう。
 母は「高級な服は手洗いして」と言うが、今のところ洗濯機で洗っているとバレたことは一度もない。ブラジャーは洗濯機にかけると変形してすぐバレてしまうので、洗面台で手洗いする。母にとって下着は戦闘服だ。彼女の身体を最も美しく見せる為の装備品。若い男の手が、母の下着を剝ぎ取る光景が勝手に脳内再生される。
 小学二年生の頃、私は母が恋人とセックスしているところを目撃したことがある。あの時は性行為の存在を知らなかったから、男の下で喘ぐ母を見て恐怖した。乱れた髪、母の身体を這いまわる浅黒い手。嗅ぎ慣れた母親の香水の匂いが、鼻の裏側にこびりつくような性の臭いと混じり合って吐き気がした。
 扉の隙間越しに男がこちらを見る。母は私に気付いていなかった。男は得意げに口端を釣り上げ、笑った。自分の有り余る力を誇示するように。男の下で、母が鼻から抜けるような声を漏らした。
 私は扉の前から逃げ出し、そのままトイレへと駆け込んで泣いた。ただひたすらに恐ろしかった。夜に生まれる獣二人が、私の人生を滅茶苦茶に破壊してしまうところを想像した。芳香剤の安っぽいミントの香りが狭いトイレに充満している。日常を象徴するような、むせかえるほどの爽やかな香り。それを繰り返し嗅ぐことで、私は平穏を取り戻そうとした。翌朝、母も男も恐ろしいくらいに普段通りだった。だから私は何も知らない子供を演じた。母に愛されるために。
 結局、母はその男と一年で別れた。男の浮気が原因だった。
 手の平に触れる、滑らかなポリエステルの質感。洗濯籠の底から出て来た自分の下着に触れた途端、白昼夢のような回想から目が覚めた。思い出したくない、忌まわしい記憶だった。重くなった肺から空気を抜くように、私は強く息を吐き出す。
 私の下着はタンクトップとブラカップが一体となったブラトップばかりなので、そのまま洗濯機に放り込める。このまま洗濯を済ませたいところだが、今の時間だと近所迷惑になってしまう。床に落ちている髪の毛も気になる。掃除機をかけたいが、まだ時間が早すぎる。世間の常識が、私の日常を一つ一つ縛っていく。
「陽彩! 陽彩!」
 名を呼ばれ、私は慌ててダイニングへと向かう。先ほどまで不機嫌そうだった母親は、一転して笑顔になっていた。「見て」と彼女がスマートフォンの画面を向ける。可愛い女の子が描かれたゲーム内カードのイラストだった。キラキラとした背景演出の下に、星が五つ並んでいる。
「期間限定ウルトラレア! これ、持ってないと勝てないのよ」
「そうなんだ」
「もっと感動してよ。一回のウルトラレア排出率は三%で、さらにその中でこのカードが出る確率は〇・七%よ? 凄くない?」
 母がこのスマホゲームにハマったのは去年からだ。交際相手の影響らしい。それまではゲームをしたことすらなかったのに、今ではガチャを引き、期間限定のイベントもこなす。
「俊也に自慢しなきゃ」と母はいそいそとスクリーンショットした画像を彼氏のSNSに送り付けている。十歳年下の新しい彼氏はきっと母の望む反応を寄越すのだろう。
 私は床に置かれた鞄を見る。エルメスのバーキン、の精巧な偽物。本物は百二十万円らしい。私の一年間の学費より高い。
 スマホをいじる母親の隣に、足を崩して座る。クレンジングシートを抜き取り、顔を拭う。そのまま、何でもないような口振りで私は切り出す。
「お母さん、成人式のことなんだけど」
「成人式? まさか行くつもりなの? 着物を借りるつもりじゃないわよね」
 出鼻をくじかれ、私は咄嗟に首を横に振る。
「いや、行かなくてもいいと思ってる。出るとしてもスーツかな。入学式の時に買ったリクルートスーツ」
 大学生になる前に、バイトで稼いで買ったスーツだ。着る機会がほとんどなく、簞笥の肥やしになっている。
「そうよそうよ。大体ね、今時そういう古いしきたりにこだわるなんてナンセンスよ。アンタ、着物借りたらいくらか分かってんの? 前撮りにヘアセットまで入れたら二十万ぐらい掛かるでしょ、馬鹿らしい。あんなのやるのは着物業界に騙されてる人間だけよ」
 母はスマホを机に置き、立ち上がった。そこにはまだホットサンドが半分以上残されている。
「食べないの?」
「もうお腹いっぱい。残りは陽彩が食べていいわよ」
 食欲はない。それでも、捨てるのは勿体ない。すっかり冷めたホットサンドの隅っこを齧る。私の朝食は大抵、母親の残飯だ。別に、母がそれを強制しているわけじゃない。いつの間にかそういう役割分担になっただけ。母はきっと、私のことを残り物が好きな奴だと認識している。
 母は机の上に鏡を置き、リキッドファンデーションを手の甲で広げている。ブラシで毛穴を隠し、パウダーを叩き、眉を引く。飛んでくる粉がホットサンドに掛かる。母はそれに気付きすらしない。
 ブラウンのペンシルで眉尻を描く。その後、パウダーでふんわりとした眉に仕上げる。アイシャドウは念入りに、口紅は春の新作のブロッサムピンク。化粧を施した母は余所行きの女の顔になる。
「それじゃあ、母さんはそろそろ仕事だから。部屋、片付けといてね」
「うん」
 母は立ち上がろうとし、途中でその動きを止めた。彼女の手がおもむろにこちらへ伸び、乾いた指が私の頰に添えられる。真っ直ぐな眼差しを私に注ぎ、彼女は毎朝の決まり文句を言う。
「愛してるわ、陽彩」
 そうだろうとも。彼女の愛を疑ったことなんて、これまで一度たりともない。
 偽バーキンにスマホを押し込み、母は今度こそ立ち上がる。
「その珈琲、飲んでいいから。それじゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
 玄関の扉が閉まり、施錠される音が聞こえる。私はホットサンドを吞み込み、生ぬるい珈琲を一気に飲み干す。
 食器を洗う、洗濯機を回す、掃除機をかける。仮眠をとって、シャワーを浴びて学校へ行く。脳内で今後の予定を組み立て、それに沿って動き出す。
 ゴム手袋を嵌め、スポンジを使って洗剤を泡立てる。人工的なオレンジの匂いが狭い台所に広がり、それだけでなぜか涙が出そうになった。胃の底で、チクチクとした痛みが波打っている。
 先ほど使った包丁が、泡まみれになっている。このまま腹部を刺したらどうなるんだろうと、ふと思う。そしたら、大学もバイトも休めるのだろうか。もう頑張らなくてもいいのだろうか。
 泡の隙間から、切っ先が見える。使い込んだ鉄の色だ。パンだって、ハムだって、なんだって切れる。買ったばかりの頃に比べて切れ味は悪くなったけれど、それでも私の皮膚ぐらいは簡単に突き破れるだろう。包丁の持ち手を握る。脳内で繰り返される、腹部へと刺すイメージ。溢れだす衝動。発作のような欲望。刺せ! と声高に心臓が叫ぶ。泡が静かに剝がれ落ち、刃が露わになる。悪夢みたいに美しい色。そこに映り込む、ぼんやりとした自分の影。肌色のシルエットしか持たない私が、私を見ている。侮蔑に満ちた目で、私を見ている。
 ハッ、と息が漏れた。全部くだらない妄想だ。子供じみた現実逃避。私は水道の蛇口を捻り、泡まみれの食器に水を掛けた。
 今の状況は、元を辿れば全て私が選んだことだ。
 母は私が大学に行くことに反対していた。高校卒業後にすぐに働けと言われ続けたが、高校時代と同じように月に八万円ずつ入れること、学費は自分の責任で支払うこと、家から三十分以内の大学に通うことの三つを条件に、なんとか説き伏せることができた。
 奨学金を借りることを勧めてきたのは母だ。アルバイトだけで学費を払うと言った私に、病気やケガで働けなくなった時の保険が必要だと、珍しく冷静な声で彼女は言った。奨学金が振り込まれる口座の通帳と印鑑は、母に預けてある。私に何かあった時に備えてだ。
 母は家の中だとダメ人間に見えてしまうが、社会に出るとそれなりの地位を持つ大人だ。会社員として長く働き、女手一つで私を育ててくれた。年収は四百万円程度。父と暮らしていた頃に比べ、決して裕福な家庭ではなかった。それでも母のおかげで現在の私がいることは間違いない。母の浪費癖が無ければもっと生活が楽なのかもしれないと思う時もある。だが、小言を言うと不機嫌になるのは過去の経験で実証済みだ。私はありのままの彼女を受け入れるしかない。
 母が私を愛してくれているように、私も母を愛している。間違いなく、愛しているはずだ。
 洗い終わった食器を乾燥機の中へと並べ、ようやく熱のこもった手袋を外す。私の世界は狭く、その中心にいるのはいつだって彼女だった。


 欠伸というのは、どうして勝手に漏れるのか。頰杖を突いたまま、手の平の位置だけを少しずらす。口を完全に覆い隠し、今度は思う存分欠伸をする。口を大きく開けると、ガクッと顎の骨が動くような感覚があった。歯を食いしばる癖がありますね、と歯医者に言われたことがある。それが原因の病気らしい。治療の方法もあるらしいが、悪化しても死ぬわけじゃないからそのままにしている。
 生活に余裕がないと、たくさんのことをほったらかしにしてしまう。未来に起こるかもしれない悪い可能性の芽を摘むことは、今日のバイトで得られる数千円に負けてしまう。
 口を軽く開け、上の歯と下の歯の隙間を意識的に作る。講義開始十分前だというのに、教室は既に人で溢れていた。『中国語応用Ⅰ』の授業は、大体百人ほどの人間が集まる。第三外国語として選べる言語はたくさんあったが、その中で選んだのが中国語だった。理由は特にない。ただなんとなく、役に立ちそうだったから。
 講義を受ける時は基本的に、私は最前列を選ぶ。話を熱心に聞きたいからではなく、後方列になるほどハズレの学生に当たるからだ。彼らは授業中であっても友達と話したり、スマホゲームをしたり、とにかく騒がしい。それになにより、そういったうるさい学生からは独特の匂いがする。ヘアワックスの香料を一緒くたに混ぜ込んだみたいな、『明るい大学生』の匂いだ。遠くから漂ってくる分には受け入れられるが、間近で嗅いでしまうと吐き気がする。
「あの、ここ座っていいですか」
 隣の席が、がたんと揺れた。椅子に掛かる生白い手は視界に入っていたというのに、考え事をしていたせいで反応が遅れた。
「あの」ともう一度彼女が言葉を繰り返す。気の強そうな声だった。ショートカットの黒髪に、シルバーフレームの丸眼鏡。真面目そうな見た目は、この大学では逆に目立つ。彼女に漠然と見覚えがあったのは、授業で何度も見掛けた顔だからだろう。名前も知らない、性格も知らない、ただ顔だけを知っている人間が大学にはたくさんいる。
「あぁ、どうぞ」
 私の言葉に、彼女は備えつけられた折り畳み式の椅子に浅く腰掛けた。その途端、ふわりと独特の香りが私の鼻腔をくすぐった。珍しい匂いだ。無意識の内に、スンと鼻が鳴った。どこか懐かしく、複雑な香りだった。夏の日差し、靴下越しに感じる床板の感触──脳裏に次々と浮かび上がる記憶の断片は、どれもが盆休みのものだ。どうしてそんなものを思い出したのか。首を捻るより先に、ひらりと閃く。これはお香の匂いだ。
 私の家にお香を置く文化はなかったので、そうしたものを嗅ぐ機会は盆休みに墓参りのついでに寺へ行った時ぐらいだった。目の前の彼女からは、記憶の中のそれと似た匂いがする。わざとらしいくらいに神秘的な匂い。
 そんな私の分析も知らず、隣の彼女はファイルを開いている。プラスチック製の表紙にはシンプルに『木村』とだけ書かれていた。
「ちょっと質問なんだけど、一般教養Ⅲってとってます?」
「とってますけど」
 木村はファイルのページを捲る手を止めて、訝しそうにこちらを見た。誰かに頼るのは嫌だが、背に腹は代えられない。単位の為だ。
 可哀想な学生を演じるように、私は軽く背を丸める。
「実は、先週の授業を用事があって欠席しちゃって。もし良かったらプリント、撮らせてくれません? あの授業に友達がいなくて」
 噓ではない。本当は、どの授業にも友達なんていないってだけだ。
 木村は首を捻り、顔だけをこちらへ向けた。
「それって、私に得なことあります?」
 面と向かって言われるには、なんとも強烈な言葉だった。この子も友達がいなそうだ、と勝手に共感を覚える。
「得なことはないし、ダメもとで聞いてみただけです。ダメならノート屋で買おうと思ってましたし」
「ノート屋?」
 木村の眉間に皺が寄る。ノート屋というのは大学の近くにひっそりとある、講義で使用されたプリントや授業内容を記したノートのコピーを販売している店のことだ。買取条件が意外と厳しく、綺麗なノートでないと買取拒否されるらしい。私も一度は小遣い稼ぎしようかと思ったが、内容に欠けがあると買取してくれないと聞いて諦めた。
「あんなの利用しちゃダメでしょ、不正だよ不正」
 相手の口調が急に砕けたものになったことに驚く。眼鏡のレンズの奥で、木村は鋭く目を細めた。真っ白なシャツの袖口から、ガラス製のブレスレットが覗いている。透き通っていて、キラキラしていて、やましいことなんて全くありませんと主張するみたいな色をしている。
「ああいう存在は許しちゃダメ。転売ヤーと一緒、利用する人がいるからああいう悪い奴らがのさばるの」
「でも、ウィンウィンの関係じゃない? お金を稼ぎたい人と、授業を休んで困ってる人。両方が助かる」
「そうやって自分さえ良ければってズルする人のせいで本当に正しく頑張ってる人が不利になるんだよ。大体、貴方は──えっと、名前は?」
 律義に名前を聞くところに、彼女の生真面目な性格が表れている。好ましいのと煩わしいのが紙一重な気質だなと思いながら、私は「宮田」と端的に答えた。
「宮田さんは、なんで授業を休んだの」
「バイトのシフトを入れられちゃって、休めなかったから」
「そんなの、自己責任でしょ。大学に支障が出るバイトなんて辞めたらいい」
「そしたら別のバイト先を探さなきゃいけなくなるし。今のバイト先は深夜にたくさんシフトを入れられるから助かってるの。お金を稼がないと、何にもできなくなるでしょ?」
「なにそれ。バイトバイトって、そんなのが言い訳になると思ってるの? お金お金って、ホント卑しい。大学生の本分は勉強なのに」
 卑しいという言葉選びに啞然とする。お金を稼ぐことに対して、そのような発想になる意味が分からなかった。
「あー……分かった。木村さんには頼まない。別の人に頼むからさっきの頼みは忘れて」
「頼める人がいないから私に声を掛けたんじゃないの」
 うっ、と思わず声が漏れた。図星だ。
「そうやってなんでもかんでも好き勝手やる人がいるから、真面目な人が迷惑するの。勉強するために高い学費を払っているんでしょう? じゃあ、そうやってズルするのは勿体ないって思わない? 宮田さんが休んでいる分、宮田さんが支払っている学費は垂れ流しにされてるようなもんなんだよ。大体──」
 くどくどくどくど、と木村は最前列で説教を続ける。よくもまあ、初対面の相手にここまで偉そうなことを言えるものだ。同級生の説教を有難く拝聴する義理なんてあるはずもなく、私は早々にかぶりを振った。
「はいはい。とにかく、ノート屋では買わない。本気で知り合いがいないってわけでもないし」
「じゃあ誰が知り合いなの」
「それは、」
 睨みつけられ、私は頰を搔く。記憶の引き出しを漁るも、友達と言える相手はいない。だが、ここで名前を挙げなければ木村の説教は続くだろう。引き攣った唇が、私の理性を裏切った。脳の浅い部分に引っ掛かっていた名前がポロリと口から零れる。
「江永さん」
 バイト先が同じだし、知り合いと言っても噓ではないだろう。私たちの関係は親しいという表現から隔たった場所にあるけれど。
「江永って、江永雅?」
 木村が動揺したように瞳を揺らす。その顔が大仰にしかめられた。
「まさか宮田さん、あの子と友達なの?」
「別に友達ってわけでもないけど」
 私の返答に、木村が安堵の息を吐く。如何にも自分は善人だという顔をして、木村は眼鏡を掛けなおした。
「なんだ良かった。あの子とはあんまり関わらない方がいいよ」
「どうして?」
「知らないの? 有名な話なのに」
 そう言って、木村は急に声量を落とした。伝言ゲームでもしているかのように、表面上は畏まって、しかし実際は興奮を隠し切れない様子で彼女は語った。
「江永さんのお父さん、殺人犯なんだって」




《続きは単行本でお楽しみ下さい!》



『愛されなくても別に』武田綾乃 講談社

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