『さよならが言えるその日まで』高木敦史

文字数 28,612文字



プロローグ 一一月二日 (イオ 〇日目)

 苺の載ったショートケーキは無限に食べられたのに、この日を境に駄目になった。少しずつ味わおうなんて思わずに、とっとと食べてしまえば良かったのだ。でも子守りをしていたから仕方がない。
 その日、知恵子さんの家で勉強を見てもらった後、わたしは詩乃ちゃんにせがまれて絵本を読んであげていた。座卓にケーキと紅茶を残したままソファに移り、詩乃ちゃんを膝の上に載せて、やけに分厚い紙の表紙をめくる。
「むかしむかし、あるところにおじいさんがいました」
 わたしは紙面に見入る詩乃ちゃんの視線を釣り上げるように、両手をすっと上にあげた。
「さて第一問! おじいさんは……どこへ行ったでしょうか?」
「やま!」詩乃ちゃんが声を跳ねさせた。三歳も半ばを過ぎて、最近ようやく言葉の疎通ができるようになった。だからからかい甲斐がある。
「山? それでいいの? 山は高いよ? 暗くて寒いし、熊だって出るかも」
「でも、やまなの! もう、ちゃんとよんで!」
 苛立ち半分、でもどこか嬉しそう。自分で言うのもなんだけれど、わたしは子供に好かれるのだ。
「じゃあ、答えを発表します。でででででで……うわー、残念! おじいさんは海へ行ってしまいました。しかも荒れ狂う冬の日本海です」
「ちがうでしょ! うみはウラシマだもん! もうイオちゃん、なんでそんなことするの?」
 口を尖らす詩乃ちゃんにわたしは苦笑する。なんで、そんなこと、するの。
 答えは一つ。父のせいだ。わたしが詩乃ちゃんくらいの頃、父と読んだ絵本は話通りに進んだことがなかった。
「父さんが読んでくれたときは、海に行ってタコに会ったんだよ。タコ太郎がいてさ」
 父によると、わたしと一緒に作り上げた物語では、桃太郎がNASAに就職して地球に接近する彗星の軌道を逸らすべく奮闘したし、白雪姫は毒リンゴのすり替えトリックで眠りにつくのを回避したという。
 詩乃ちゃんはまだその域には達していないようで、むくれた表情を見せた。
「イオちゃんのパパはへんだから!」
 思わず吹き出した。きっと知恵子さんに聞かされているのだろう。知恵子さんはわたしの従姉妹──母の姉の娘である。だから、そのまた娘の詩乃ちゃんとわたしは、従姉妹違にあたる。ちょっと遠い。でもそんなところにまで父が変わり者だという情報が届いているのは、おかしくて幸福な感じがした。
 十数ページの絵本はかぐや姫の登場までに一五分を要した。さらに数分かけて姫とアメリカ大統領の結婚パーティが盛大に開かれたころ、リビングのドアが大きく開いて小さな頭が入ってきた。
「あ、彩月ちゃん。おかえり」
「イオちゃんだ。こんにちは」彩月ちゃんのお辞儀に併せて、ピンクのリボンで結ばれた髪が揺れた。「お母さんは?」
「エアコンの修理だって。業者さんが来てさ、寝室にいるよ」
「ああ、だから知らない車が駐まってたんだ」彩月ちゃんは一人で納得すると、改めてわたしを見た。「大丈夫? 迷惑じゃない?」彼女は小学五年生で、もうずいぶんと大人びた態度をしている。
「ぜんぜん。楽しく遊んでるよ」
「よかった。詩乃、イオちゃんのことすごく好きだから」
 彩月ちゃんだって、ほんの数年前までは同じくらい好きだったくせに。わたしを好きになる子供の魔法は、一〇歳を過ぎたくらいで解けてしまうらしい。彩月ちゃんはランドセルをハンガーポールに掛けると、わたしをまじまじと見た。
「イオちゃん、もしかして髪伸ばしてる?」
「父さんが、その方が似合うって言うから。変かな?」
「いや、きっと褒めてもらえるよ。かわいいもん」そう笑った彩月ちゃんの顔は、詩乃ちゃんとそっくりだ。「でしょ?」と得意になって、わたしは前髪を撫でる。
 髪を伸ばし始めて二ヵ月ほど経つ。最近では母が「毎日顔を合わせていると小さな変化に気づかない」と父に愚痴る気持ちがわかってきた。なんてことを彩月ちゃんに愚痴っても仕方ないので、同じくらいの笑顔を返す。
 彩月ちゃんは満足げに頷きながらテレビをつけて、画面が映る束の間に冷蔵庫から牛乳を取り出した。無駄のない動きに感心していると、詩乃ちゃんが柔らかくてあたたかい手でわたしの指を二、三本まとめて握りこむ。「イオちゃん、つづき、はやく」
「そうだ、ええと……結婚式だ。結婚式では姫と大統領をみんながお祝いします。最初のお客さんは誰かな?」
「ペンギン!」
「ペンギン? 何で? ペンギン好きなの?」
「すき!」口を横一文字ににいっと広げ、愛らしい表情を浮かべた。かわいくて、思わずさらさらの髪を撫でる。
「今度ぬいぐるみあげるよ。ゲーセンで取ったやつがあるから」
 そんな他愛のないやりとりの向こうで、テレビも何か喋っている。夕方のニュースが始まったところのようだった。詩乃ちゃんの声と平行して聞くに、どこかで事故が起きたらしい。なんとも危険な世の中だ。わたしに関係なくてよかった。なんて、無責任に胸をなで下ろした。
「では詩乃ちゃん。ペンギンさんは、かぐや姫に言いました。ぐわっぐわっぐわっ。でも誰もペンギン語がわかりません。詩乃ちゃん、通訳してあげて」
「つーやくってなに?」
「あ、ごめん、通訳っていうのは──」
 ふいに「うわっ、ぐちゃぐちゃ」と彩月ちゃんが声をあげた。つられて視線をテレビに向けると、画面にはどこかの山道が映し出されていた。上空から撮っている映像で、大破した車がガードレールにめり込んでいる。その画面下部には、見慣れた県名と見慣れた市名がテロップで表示されていた。
「やだ、近くじゃん」思わず声が漏れた。本当に、わたしに関係なくて良かった。強く両手を握りこみ、テレビ画面に釘付けになっているわたしを「つうやくってなあに?」と詩乃ちゃんが急かす。
「詩乃、ちょっと静かにして」彩月ちゃんが止める。ニュースは、この事故で車を運転していた男性が死亡したと告げた。ひどい話だ。でもわたしには関係ない。テレビを見たまま、半ば無意識に答える。
「あ、ごめんね詩乃ちゃん。通訳っていうのは、ペンギンの言葉がわからない人たちに、何て言っているのか教えてあげること。ほら、詩乃ちゃんが教えてあげて?」
 努めて柔らかい声で言った。でも夢の中にいるような気分で、自分の声も詩乃ちゃんの声も、輪郭がぼやけて耳に響く。
「わかんないし。もう、ちゃんとしてよ!」
 苛立った詩乃ちゃんが喚いたとき、やけに乾いた音を立ててリビングのドアが開いた。
「詩乃、こっちにおいで」
 入ってきたのは知恵子さんで、詩乃ちゃんは呼ばれるままに立ち上がり、その手の中に飛び込んだ。ちゃんと絵本を読んでもらえないことを告げ口するつもりなのだ。けれども振り返ってわたしの顔を見るや、ビックリした様子で母親を見上げた。
「ママ。イオちゃん、なんでわらってるのにないてるの? つうやくして?」
 自分の目から涙が零れていることには気づいていた。けれどもわたしはまだそれに抗おうとしていて、知恵子さんに訊ねる。「工事は終わったの?」
 彼女は返事代わりに歩み寄り、自分のスマートフォンを差しだした。「お母さんから」
「あ、スマホをカバンに入れっぱなしだった。うっかり電池切れになっちゃってさあ」
 我ながら茶番じみたことを言って受け取ったけれど、母の滅法喚く声が聞こえてきて、手詰まりだと悟った。
 テレビに映る壊れた車が見覚えのあるものだと気づいたときから、ずっとわたしは祈っていた。わたしに関係ありませんように。でも祈りは届かなかったようだ。座卓にほったらかしにされた食べかけのショートケーキが目にとまる。崩れたケーキの側面に、一口囓った苺が横たわっている。潰れた車によく似ていて、わたしの首筋が冷たくなった。もう二度とそれを視界に入れたくないと思い、テレビに視線を戻す。
 山間の道路にパトカーが何台も駐まっている。テロップで『三津~戸田間・一部通行止め』と表示されている。ニュースキャスターがもう一度、交通事故で一人死亡と前置いて、父の名前を読み上げた。
 場の不穏さに泣き出した詩乃ちゃんを、知恵子さんが胸に抱えてあやす。エアコンの業者さんがリビングをのぞき込み、野太い声で工事の終わりを知らせる。その声に驚いた彩月ちゃんが牛乳をこぼす。そんな大賑わいの中だから、電話の向こうの母の声も全部はわからなかった。ぼんやりと思ったのは、間抜けにもこんなことだった。
 父さんが帰ったら、詳しく話を聞かなくちゃ。


一一月五日~六日(イオ 三日目~四日目)
〈小五男児・依然行方不明〉

 去る一一月二日、静岡県沼津市内で発生した交通事故により森遠謙介(四六)が死亡した。県道を車で走行中に無理な割り込みをして後続の軽トラックが追突。スリップした車はガードレールに勢いよく激突して大破した。
 静岡県警は当初単なる事故として捜査を進めていたが、程なくして思いも寄らぬ事実が発覚した。
 実は事故発生日の未明、三島市に住む小学五年生の男子児童が自宅から消息を絶っていた。失踪したのは恩田六助くん(一一)で、事故発生の数時間前に父親から捜索願が出されたばかりだった。この児童の失踪は、死亡した男性による連れ去りの可能性がある──というのも、大破した車内には児童の私物や指紋が残されていたからである。
 男性と児童の間に何があったのか。県警は男性を被疑者死亡のまま、誘拐事件として捜査を進める見通しだ。
 森遠容疑者は、少年の担任教師だった。小学校教諭として二十余年勤務し、温厚な性格で児童たちからの評判も良かったという。なぜこのような凶行に及んだのか、解明の機会が失われてしまったことは大いに残念である。
 とはいえ、問題はそれだけではない。というよりも、現在進行形でさらに混迷を極めている。
 容疑者の運転していた車やその周囲には、行方不明の児童の姿はなかった。そして現在、児童の消息がわからないまま数日が経過している。現在も県警や有志による捜索が続けられているものの、有力な手がかりは摑めていないという。
 現場付近は市の中心部から十数キロ離れた山あいで、過去には冬眠を前にした熊が住民の生活圏内に現れたこともある。児童の安否を心配する声も多く、一刻も早い発見が望まれる。

 読んでから、読むんじゃなかったと後悔した。
 父の最後の肩書きが交通事故死亡者から誘拐の容疑者に変わるまで、半日とかからなかった。ロビーでグラビア雑誌を握りしめて立ち尽くす。少年犯罪、陰謀論、政治献金、教師が生徒を誘拐して事故死。見たくないニュースばかり載っていた。目の端に映ったゴミ箱に雑誌をねじ込みたい衝動が湧き上がったが、度胸のないわたしはそれをマガジンラックの元の場所に戻した。
 火葬場はマイクロバスで街から二〇分ほど走った山の中腹にあった。わたしの佇むロビーでは、大きな窓から差し込む晩秋の光が穏やかな日だまりを作っている。気温は一一月にしては温かく、制服の上に何か羽織る必要はない。
 喪服に身を包んだ中年の男性が傍に現れ、さっきの雑誌を手にした。よそのご遺族だろう。わたしは俯いて祈る。どうか、父の記事を読まないでください。怒りを向けないでください。いま焼かれているところだから、その間だけでも穏やかであってください。
 男性が去った後、彼の戻した雑誌を見つめる。若い女優が笑顔で飾るその表紙には、『専門家が見抜く、小五男児の行方』と太いゴシック体の煽り文が仁王立ちしている。敗北感を悟られたくなくて、表紙の女優を睨みつける。と、彼女の顔はすいっと動いてくにゃっと歪んだ。誰かが雑誌をつまみ上げ、丸めたのだ。
 雑誌はそのままわたしの目の前でゴミ箱の口にねじ込まれた。
「気にすんな、こんなもん」
 ねじ込んだのは友部日出郎くんだった。細身のシルエットの喪服に身を包み、ポケットが少しよれている。
「捨てて怒られないかな?」
「怒られるくらいで済むなら、何もないのと一緒だ」
 黒い髪をオールバックにした彼は、雑誌を睨むつもりがいつの間にかわたしを睨みつけていることに気づいたらしく、肩をすくめて目を逸らした。
「なんにせよ、堂々としてろよ。罪悪感とか感じることないし、堂々と悲しんで、悼んで、謙介さんを送り出すんだ」
 堂々と悲しむ。堂々と悼む。今のわたしたちにはとても難しいことだ。だって目の前にある事実として、わたしの尊敬する父は犯罪者としてこの世を去った。
 森遠謙介。享年四六。教え子は大勢いる。でも一人も来ていない。つい先週まで教鞭を執っていたのに、ただの一人も。
 家族だって。今日のことは、母と祖母が手分けして最低限の親類には伝えた。けれど半分は野次馬的に話を聞きたがるばかりで、残りの半分のうちの半分は罵倒、あとの半分には体よく慰めの言葉で断られた。父を送るわたしたちの傍にいるのは数えるほどだ。
「ヒデローくん、来てくれてありがとう」
「謙介さんには世話になったしな」
 そのうちの一人、ヒデローくんは眉間にしわを寄せて答えた。彼は知恵子さんの弟だけれど、知恵子さんとは違って、ぶっきらぼうで取っつきにくい。年はわたしより一〇ほど上だったと記憶している。高校生の頃のヒデローくんにとって、うちの両親は歳の離れた兄と姉のような存在だったらしい。知恵子さんもそうだったと聞いている。でも彼女はここに来ていない。残念だけれど仕方がない。知恵子さんのご主人は市役所近くの大きなビルに弁護士事務所を構えている。そんな人やその家族が、犯罪者と呼ばれる人の葬式になんて来てはいけないのだ。
 頭ではわかっているけど、不思議な気持ちだった。父の人生が否定された、ならばまだ怒りを覚えることもできる。でもこれでは、父の人生がなかったことにされたのと同じだ。歴史を食べる虫がいて、その胃袋に吸い込まれて、父の人生は何も残らず、父の仕事は何も生み出さなかったかのようだった。娘であるわたしまで存在が希薄になった気がして、こんな状態でどうやって堂々としていればいいのだろう。誤魔化すようにわたしは訊ねた。
「ここにはマスコミは来てないね。一応気遣ってくれてるのかな」
「どうだろうな。連中の興味が他に移ったんだろう」
 たぶんそっちが正しい。死んだ父の問題は、生きているかもしれない少年の問題へと移ったのだ。
 ふいに、自分の足が震えていることに気づいた。トイレに逃げ込み、やたらと磨かれた鏡の前でハンドクリームを塗り直す。でも足の震えは止まらない。この震えはあの日からずっと続いている。

 あの日。父の死を知った日。
 知恵子さんの家で父のことを知らされてすぐ、わたしは自転車を漕いで帰宅した……はずだ。今ひとつ記憶がない。知恵子さんが車で送ると言ったのを固辞したのは覚えている。彩月ちゃんと詩乃ちゃんの前で、母のように取り乱してはいけないと思ったし、少しでも平穏な日常の中にいたいと本能的に感じた。でも心がからっぽで、耳鳴りが酷くて、もしかすると信号無視を二、三回やったかもしれない。家には母と、背の高い見知らぬ男性、もう一人印象の薄い男性がいた。二人は刑事で、背の高い方、鶴木と名乗った額の広い男は、わたしを覗き込むようにして言った。
「娘さん? どちらにお出かけだったんですか?」
 やけに茶色がかった瞳に射すくめられ、体が強ばった。「親戚の……」なんて漫然と答えている間にリビングのソファに座らされ、更に質問攻めにされた。父はどういう人間だったのか。仲は良かったのか。最後に話した内容は何だったか。この連休はどう過ごすと言っていたか。
「……一一月最初の三連休を使って、泊まり込みで絵を描くって言っていました」
「絵ですか。絵を描くのに、よく一人で出かけられるんですか?」
 ここでようやく事情聴取されているのだと気づいた。
「油絵が趣味なんです」わたしの補足に意味があったのかは定かでない。
 その後も「恩田家との接点は?」「ご主人が生徒さんを自分の車に乗せることは普段からあったんですか?」「仕事の不満を述べたことは?」など質問が続いた。わたしと母は指紋を採られた後、近々家宅捜索が行われると告げられた。蒼白な顔をした母に、鶴木刑事は「いつでも連絡が取れる状態でいてください」と念を押した後、わたしに向けて言った。
「私の仕事は事実を洗い出して体系づけることです。あなたたちの敵ではないことを覚えておいてください」
 淡々とした口調だった。彼のギョロッとした目と青白い肌は、わたしに髑髏姿の死神を連想させた。
「外が騒がしいようですが、相手にしないことを勧めます」
 刑事たちが去ったのと入れ替わりで家のインターホンが鳴り始め、やがて鳴りっぱなしになった。なんでもない住宅街の、自転車で登るにはいささか急な坂の途中にあるわたしたちのささやかな二階建ては、雑誌やテレビの記者やレポーターによって包囲されたようだった。掃き出し窓越しにカメラのレンズがこっちに向けられているのに気づいて、わたしは乱暴にカーテンを引いた。それでも玄関の方からは、質問する声が嫌でも聞こえてくる。
『何か一言お願いします』
『ご主人の家庭内でのご様子に不審な様子はなかったのでしょうか?』
『どこか他に家族を養っていたという疑惑がありますが──』
 インターホンのモニター越しに、たくさんの男女がレコーダーを差しだしているのが見える。坂道を全力疾走したわけでもないのに倒れそうなくらい喉が渇き、立っていられなくなった。母がインターホンの音量をミュートにしたのを合図に、二人してダイニングのテーブルに向かい合わせで突っ伏した。電話も鳴り響き、留守番電話には父の学校の校長から、PTA会長から、保護者から、立て続けに不安を語る声が吹き込まれていった。
『校長の柴崎です。挨拶は省きますが、お話をしたいのでお時間あるとき折り返しを』
『ご主人の件について事実確認を──』
『すみません、テレビの件は本当ですか?』
 わたしは無言で立ち上がり、電話のコードを引き抜いた。
 すると、今度は母のスマートフォンが鳴り始めた。さすがに嫌気が差したのか、母は天井を見上げて苦痛を飲み込もうとしているみたいな顔をした。
「母さん。電話鳴ってるよ」
「知ってる」
「出ないなら、音止めてよ」
 わたしの苦情にうんざり顔でスマートフォンに手を伸ばした母だったが、ディスプレイを見た瞬間、目に安堵が浮かび、一転慌ててコールを受けた。
「あ、お母さん? うん、そう。うん──さっき警察が帰った。うん、まだわかんない──そう、ありがとう。落ち着いたらこっちからかけるわ。いや、だからまだ何とも……とにかくあとでかけるから」
 相手は祖母のようだった。母は電話を切ると、スマートフォンを握りしめたまま溜め息をついた。
「おばあちゃん、何だって?」
「いつでも来てくれていいってさ。って、こっちはマスコミに囲まれて、どうやって外に出たらいいのかもわかんないのに。気安く言ってくれるもんね」
「そんな言い方ないでしょ。気遣ってくれてるのに──」
「急かさないで。わかんなくなる」母はわたしの言葉を遮った。情報量が増えすぎると外部からの声に耳を塞ぐのは、以前からの母の悪い癖だ。
 リビングが沈黙し、外の喧騒だけが妙に響く。ミュートされているとはいえ、インターホンが鳴らされたことを知らせるランプは何百回と点滅していたし、窓の向こうからは人の声がずっと微かに聞こえていた。日が暮れた頃にはいくらか収まったけれど、夜になっても外が明るくて、それがわたしたちの家を照らすテレビ局のライトだと知ったときは疲弊して立ち上がることができなかった。
「いつまで続くのよ、これ」
 母は呟いたが、むしろ始まったばかりではないか。さっき母は祖母に「落ち着いたら連絡する」と言ったけれど、落ち着くことなどあるのだろうか。そう思っていたけれど、やがて外が一瞬賑やかになり、音が次第に引き上げていった。警察が来てマスコミを解散させたようだ。周辺住民から苦情が来たらしい。わたしたちはぐったりしていたから、どんな形であれ彼らがひとまず退散したことは束の間の「落ち着き」と言えた。
 深夜一時を回った頃に、わたしと母は二人して勢いよく立ち上がり、たっぷり一〇日分はあろうかという荷物をまとめて、門をしっかり閉めて、車に乗り込んだ。母の運転は動揺と疲労でだいぶ荒くて、家の車庫を出るときに横を擦ったけれど、いつもなら腹を立てたり言い訳したりするのに今夜は何も言わなかった。きっとわたしが自転車に乗っていたときもこんな感じだったのだろう。会話は全然なくて、母が一言だけ「見て。真夜中だから、信号が点滅してる」と指さしたくらいだった。三ツ目の真ん中が光っていて、わたしたちの未来について注意を促しているみたいだった。
 祖母の家に移り、一夜明けて、二夜明けた。わたしの好物を知っている祖母は苺の載ったショートケーキを用意してくれたけど、わたしはそれを食べずに傷ませた。そうこうしているうちに父の遺体が警察病院から返された。そして「明日の午後なら空いている」と言われたままに流されて、慌てて準備を済ませ、今に至る。

「お時間です」
 待合室にいたわたしたちは、係の人に呼ばれて火葬炉に向かった。わたしとヒデローくんの他には、母と祖母──父方の両親は既に他界しているので、母方のほう──と、父の弟の大介さん。父を見送る人は、世界中でたったこれだけだ。
 ずらりと並ぶ鉄扉の一つの前で待ち構えていると、扉が開き、台車が滑るように引き出された。台車の上には白と茶色の混じったような大小の欠片が並んでいた。係官が恭しく頭をさげたあと、無骨な磁石で台の上をさらい、棺桶の釘を回収する。父の骨は、まだ死ぬような年齢じゃないから当たり前なのだけれど、固くてたくさん残っていた。係官が「のど仏です」と小さな塊を拾い上げた。仏の形と言うけれど、何がどう仏なのかはよくわからなかった。焼かれる前の父の姿は見せてもらっていない。母が頑なにわたしを遠ざけ、頭の働いていなかったわたしは言われるままに従うのみだった。そして今、父の欠片を前にして思うのは、父自身も見たことがなかったであろう部分をわたしたちが眺めているのは不思議だなあ、ということだった。わたしたちは棺桶を囲んで、父の骨を拾った。一つずつ、箸で摑んで渡して、骨壺に収めていく。何度も何度も同じ作業を繰り返す。父の手のどこかをうっかり落としてしまい、手で拾おうとしたら係官の男性に「まだ熱いから」と制された。そこから先は、もう落としてはいけないということばかりが頭に浮かんで、今つまんでいるのが父だなんて考える余裕はなかった。
 大きな骨を収め終えると、係官があとを引き受けた。頭蓋骨だけ横にのけ、残りの骨をゆっくりと圧迫して砕いては、骨壺の中に収めていく。ちりとりで灰までさらうと、最後に顎の骨と、頭蓋骨を載せた。係官は母から父のかけていたメガネを受け取り、頭蓋骨の上に載せた。父は洗顔のときよくああしていたっけ。少しおかしく思っていたら、隣でヒデローくんが耳打ちした。
「謙介さん、よくああしてたな」
 同じことを考えていたのが面白いと思ったけれど、少しも笑いはこみ上げてこなかった。
 ハンカチでひっきりなしに目元を拭っていた母は、わたしが泣いていないことに驚いていたようだ。母はわたしのことを冷血だと勘違いしている節がある。父ならきっと「伊緒は感情の血行が悪いんだ。悲しみが全身に行き渡るまで時間がかかるんだろう」なんて笑うだろうに。実際はどちらも違っていて、今泣いたらいつ泣きやめるのか、想像が付かないから我慢しているだけだ。
 やるべきことは全て終わり、母は骨壺、わたしは遺影、大介さんが位牌を持って、逃げるように火葬場を出た。来たときと同じようにガラガラのマイクロバスで運ばれて、祖母の家に向かう。目に映った景色はどれもくすんでいて、心境が視覚にも影響を及ぼしたんだと思ったけれど、単にガラスのスモークのせいだと気づいて少し口元が緩んだ。
 戻った人たちで簡単に、言葉も少なく食事を済ませる。ヒデローくんが立ち上がって、ソファに沈むわたしに名刺をくれた。
「困ったら連絡しろ。足代わりくらいにはなるぞ」
 有難く受け取って財布にしまう。小一時間ほどして遠方に住む大介さんが帰り、さらにしばらくすると玄関の方が騒がしくなった。男性の声と、母の困ったような声が聞こえる。こっそり覗くと、三和土で喪服の男性が膝をついて、頭を地面にこすりつけていた。見知らぬ人だ。例によって母はおろおろするばかりで、祖母が「落ち着いたら」とか「あらためて」などと言っている。男性は頭を上げるとすがるような目で言った。
「お邪魔しませんので。私としましても、何もしないのでは心が痛むのです」
 それで気づいた。父の車に追突した軽トラックの運転手だ。篠山と名乗った男は全体的にこぢんまりとしていて、丸いメガネをかけた、品の良さそうな風貌をしている。年齢は三〇歳を少し過ぎたくらいに見えた。菓子折と名刺を差し出す彼に、祖母が言葉を重ねる。
「何分こちらも慌ただしいところですので。お気持ちだけで結構です」
「そう言われましても」対する篠山も一向に引かない。「あのとき、運転席の窓越しに見えた彼の表情が目に焼き付いて離れなくて、ずっと急かされている気分なんです。それに何が悔しいって、私のせいで子供が見つからないとも言える。誘拐犯を殺してしまって、もう、どうしていいのか──」
「誘拐犯?」
 思わず声が漏れた。本人に悪気はないに違いない。でもカッとなって、玄関に飛び出していってぶん殴ってやりたくなった。けれどわたしより先にヒデローくんが飛び出していったから、相手はヒデローくんにぶん殴られた。あっという間のことだった。
 篠山は頰を押さえながら、仁王立ちのヒデローくんを憎々しげに見上げた。
「殴って気が済むなら結構。残された側ってのも大変ですね。同情しますよ」
 彼は事故のことで罪に問われはしなかった。事故現場の道路は県道で防犯カメラが設置されていたらしい。カメラは父の過失──法定速度を大幅に超えて強引に前の車に割り込もうとしたシーン──をはっきりと捉えており、運転手に回避は困難だったというのが警察の判断だ。篠山が去った後、わたしはゴミ箱に捨てられた彼の名刺をこっそり拾った。市内の建設会社に勤める会社員らしい。たぶん真っ当な人なんだろう。でも、立場が違うせいでわたしたちは絶対に相容れないのだ。
 騒動が終わると誰とはなしに食卓を片付け始め、そのうちにヒデローくんも帰っていった。母はソファでぐったりしていて、祖母が洗い物をしている。窓の外はすっかり暗くて、これから気が重くなる時間が続くことを暗示しているかのようだった。わたしは先ほどヒデローくんからもらった名刺を眺めていた。『なんでも屋』みたいな会社名の下に、副主任・友部日出郎の名前が印字されている。
 母が背中越しに呟いた。
「そんな名刺、捨てちゃいなさい」
 母によると、ヒデローくんはバンドで二七歳までに有名になって死ぬつもりだったのだそうだ。ヒデローくんはロッカーで、有名なロッカーはみんな二七歳で伝説を残して死んでいるから、というのが理由らしい。
「死に損ねた日出郎くんが何をしているのか、よく知らなかったけれど。そんな得体の知れない商売をしているだなんてあんまりだわ。あんな人に頼ったりしたら駄目よ」
 わたしは母の背中に口を尖らす。
「せっかく父さんのお葬式に来てくれたのに、なんでそんなこと言うの?」
「来て当然よ。父さんは日出郎くんにお金渡してたからね。何のお金か知らないけれど、放蕩者に援助してたの。何も成し遂げないまま二八になって、残りの人生はオマケだなんて馬鹿げたことを言う穀潰しに」
 母は言い逃げするように立ち上がると、花瓶の水を替え始めた。
「今朝替えたばっかりじゃん」わたしが言うと、母はこちらを見ずに答えた。
「だって、枯れそうで怖いんだもの」
 きっともう疲れ切っていたのだ。母も、わたしも。

 日が暮れて、湯船に浸かりながら父のことを考えた。あんなにいい人が、どうしてこんなことに? なんていうありきたりな感情に飲み込まれそうになったので、父の悪いところを見つけ出そうとした。暢気、マイペース……は、欠点じゃない。頑固……これはどうだろう。考えながら、無意識に手を伸ばしてシャワーヘッドの向きを正面に直した。傾いていると父が「調和がとれていない」とうるさかったためだ。ついでにシャンプーやボディソープのボトルも直しながら思う。そういえば父の頑固は面倒臭かったかもしれない。
 あれはわたしが中学生になった頃だったか。両親がリビングでケンカを始めて、珍しいことだったからわたしは飲もうと思った麦茶を抱えて冷蔵庫の前で立ちすくんでしまった。ケンカの理由は、聞くに父が学校で問題事を起こしたという話だ。教師間でイジメがあって、父が職員会議で加害者の教師を名指しで糾弾した。イジメの内容は、仕事を無理に押しつけたり食事を何度も奢らせるといったいわゆるパワーハラスメントと呼ばれるもので、その教師には一ヵ月の自宅待機処分が下された。それが原因で教師は離婚し、別れた妻がわたしたちの家にクレームの電話を入れてきたというのだ。対応した母は「私たちの離婚はお前たちのせいだ」などと一方的に罵詈雑言を浴びせられ、言い返すこともできず途方に暮れたという。父の行動で誰かの家族が壊れたことも許せなかったらしい。
「どうして余計なことに首を突っ込むの」と母は言った。
「余計なことでも、首を突っ込んだわけでもない。誰かが解決すべきことを誰も解決しないまま放置していたから、僕が解決したまでだ」父は返した。
「それで直接的に関係のない人間が不幸になってたら元も子もないでしょ。私にだって迷惑がかかった」母は憤った。「時と場合によっては、見て見ぬ振りも重要だわ。私ならそうするし、普通はそうする」と追撃する。
 しかし父も退かなかった。
「普通とはパワハラのない職場のことだ。僕が普通に戻したんだ」
 それを聞いた母はしばらく渋面を浮かべた後、一言こう呟いた。
「くそ頑固」
 これは父の欠点だろうか? 判断のつかぬうちにのぼせてきて、わたしは風呂から出た。
 入浴を済ませたわたしは久しぶりに鏡で自分の顔を見た。髪の毛はボサボサで、目は腫れぼったい。父に涼しげな顔立ちだと言われていたのが噓みたいだ。首にかかる毛を弄って呟く。
「髪伸ばす意味なくなっちゃったな」
 毛先ばかりを見つめてしまうのは、鏡の中の自分と目を合わせるのが嫌だったからだろう。洗面台の灯りを消して、バスルームを後にした。軋む廊下を歩いて行って、寝室へ向かう。母の実家は、わたしたちの自宅から車で三〇分ほどの距離にある。葬儀を終えたわたしと母は、この家で四度目の夜を迎える。家の中は広いけれどちょっと埃っぽくて、小さな人形や鉢植えが部屋の隅の棚にぎっしり飾られていた。それらは祖母の生きてきた証拠品であるかのように、音も立てずに並んでいる。
 わたしたち母子は来客用の和室をあてがわれ、二人並んで布団で寝ている。母は部屋にテレビがあるのを嫌がって、上から布を被せていた。
 この家にはパソコンがないし、新聞も何年も前に解約してしまっている。雑誌を買う習慣もない。テレビさえ見ないでいれば、わたしたちの時間の流れは世界に寄り添わずにいられる。
 でも、その夜は眠れなかった。足先が妙に温かくて落ち着かない。水でも飲もうと起き上がり、リビングに向かう。まだ灯りが付いていて、祖母が寝支度をしていた。
「眠れないの?」
 祖母は台所に立ち、ヤカンから冷え切った湯冷ましを湯飲みに注いでくれた。時計を見ると一二時前で、普段ならまだ勉強している頃だ。
「……そういえばわたし、受験どうなるんだろう」
 わたしが大学進学を希望したとき、父の喜びようと言ったらなかった。「みんなが行くからって行かなくてもいいんだぞ」とか「教師の娘だからって気にするなよ」とか、わたしがなんとなくモラトリアムを求めているのだと思っていたのだろう。でも、バス網や交通ネットワークが好きだから都市デザイン系の勉強がしたいと話したら、即座にいろんな資料を集めてきた。「美術系の大学でインダストリアル・デザインを学ぶか、工学部で都市工学を学ぶか、あるいはゴミ処理やリサイクルにも興味があるなら環境学部か」なんて、わたしより事情に詳しくなっていた。父と相談した結果、わたしは工学部を第一志望、環境学部を第二志望にした。美術大学は、自分には向いていない気がしたのでやめた。父がいなかったらきっとまだ決めあぐねていたと思う。
 その父がいなくなり、目の前に迫っていたはずの受験が遥か遠くに消えてしまったように感じる。
 あくまで穏やかに祖母が答えた。
「人生は長いんだから。あとでゆっくり考えたらいいよ」
 長く生きているからそんなことを言えるんだ。出かかった言葉を飲み込んだ。
 リモコンを取り上げてテレビをつけると、くだらないバラエティ番組が流れ出したので適当にチャンネルを変えていく。そのうちにニュース番組に変わったので、寝室の母に聞こえないようにボリュームを下げた。身を乗り出して画面を見つめる。
〈少年、依然消息不明〉
「伊緒ちゃん、そんなもの見なくても……」
 祖母は言ったけれど、目を離すことができなかった。事件の概略を語るナレーションの中、見知らぬ男性が映っている。誘拐された児童の父親が、記者会見を開いたとのことだった。
 テレビに映る男性は背が高く、頰から顎にかけて白髪混じりの無精ひげに包まれていた。銀縁で円形のメガネをかけ、カールした長髪は無造作に真ん中で分けられている。鼻は長いけど高くはなく、一見のっぺりとした顔立ちに見える。ぱっちりとした二重の目は、普段なら人なつっこさを感じさせるに違いない。けれどもあまりにも意気消沈していて、彼はただ静かに、まるでそういう振る舞いをすることが宿命付けられているように頭を下げた。
『皆様のご厚意に感謝します。息子は未だに見つかりませんが、絶対に無事に戻ると信じています』
 低く絞り出すような声。着古したベージュのジャケット。恩田六助くんの父・継夫さん(五二)とテロップが表示された。
 無性に息が苦しくなった。わたしの知っている情報の限りでは、父はこの人から息子を奪ったのだ。
 スタジオに画面が戻り、キャスターが一枚のパネルを取り出した。行方不明の少年の写真だった。
『こちらが、現在行方不明の恩田六助くん、一一歳です』
 写真は二つあって、斜め前から撮った顔のアップ。それから、運動会の時の体操服姿でみんなと写っている全身像。
「この子が……」無意識に言葉が漏れた。
 父が最後に一緒にいた人。ロクスケ。文字としては知っていたが、音で聞くのは初めてだ。口の中で呟いてみる。変な名前だ。アップの写真を見るに、眉が太く、目が大きく、意思が強そうだと感じる。髪は短く切りそろえられていて、ツンツンと硬そうだ。引いた写真を見ると、背丈は他の子供たちとそう変わらない。
『今もなお、懸命の捜索が続けられています』ニュースキャスターが目を伏せた。コメンテーターたちは、これから熊が餌を探す時期だの、最近雨が降ったので滑りやすくなっているだの、近くを流れる川は急流だの言って眉間にシワを寄せている。それらに何の情報も意味もない。つまり進展はない。
 それよりも恩田継夫氏の萎れた様子を前に、胸の血管に埃がまとわりついているような居心地の悪さを感じた。テレビを消して立ち上がり、洗面所へ向かい、ハンドクリームを塗りたくった。ハンドクリームを塗ると手がすべすべになるけれど、それ以上に心が落ち着く。これは精神的ハンドクリームだ。真に潤したいのは心なのだ。
 寝室に戻り、眠る母を横目に布団に潜り込む。もう何年も不眠気味と言っているくせに、鬱陶しいくらい寝息が聞こえてくる。音楽でも聴こうと思ったけれど、スマートフォンもパソコンも自宅だ。仕方がないのでどこにも繫がっていないイヤフォンを耳に挿した。プラグの先を握りしめて、畳に敷かれた布団の中でじっと目を閉じた。父が車でよくかけていた曲のサビを繰り返し、繰り返し巡らせているうちに、いつしか眠りに落ちていた。

 納豆は必ず一〇〇回以上混ぜるようにしている。醬油を多めに垂らしてから九〇回くらい数えたところで、テーブルの向かいで母が言った。遅めの朝ご飯、あるいは早めのお昼ご飯の頃だ。
「届くはずの保険の書類が来てないの。もしかしてウチの方に届いているのかも」
「取ってこようか?」九三、九四……。
「ついでに父さんの実家の鍵も欲しいんだけど。大丈夫? 頼める?」
 母がこういう言い方をするときは、そもそもそれが決定事項のときだ。
「わたしもスマホ取ってきたいし」一〇二、一〇三、一〇四……。
「ありがとう。いつも休みの日は昼まで寝てるんだから、たまには午前中から出かけるのもいいんじゃない?」
 一〇八。
 母は疲れていると無意識にあてこすりを入れる。ともあれ食事の後、わたしは自宅に戻ることになった。知り合いに会うつもりはないので、家着のまま、ジーンズとパーカーで出かける。祖母の家から二つ角を曲がると大通りに出て、目についたチェーンのハンバーガー・ショップで買ったショートサイズのコーヒーを抱え、バス停で家方面のバスを待つ。空を見上げると東の方が灰色だった。そのうち一雨来るだろう。ガラガラに空いた道路をやってきたバスもガラガラで、わたしはいちばん後ろの窓際に座った。
 葬儀から一夜明けて、気分はいくらか落ち着いていた。スマートフォンには、きっと何人かクラスの友人からのメッセージも届いているだろう。罵倒してくるほど嫌な人はいないと思うけれど、変に慰められるのもぞっとする。すぐには読みたくない。届いたメッセージは通知マークを消さないまましばらく残しておくだろう。ただ、それは儀式のようなもので、何日か過ぎればふと読んでもいいと思うのだ。
 誰かに言われたことがある。傷穴は塞がりたがっているものだ。
 バスを降りて坂道を登ると、五分ほどで我が家についた。三日ぶりに見た自宅の外観は妙にきれいで無機質に見えた。門が開きっぱなしなことに通ってから気づく。
「あれ? 閉め忘れたんだっけ」
 違う。きっとマスコミが忍び込んだのだ。げんなりしながらカバンの中の鍵を探していると、背後から呼ぶ声があった。振り向くと、敷地の縁に見知らぬ女性が立っていた。
「ちょっとよろしいですか?」
 彼女はわたしの返事を待つことなく近寄ってきた。この人はいつからここにいたのだろう。それが気になって、反応が遅れてしまった。三〇歳手前くらいだろうか。黒髪を束ねて、太い黒縁のメガネをかけている。美人だとは思うけれど、メガネの印象が強すぎて顔立ちがいまいちわからない。彼女はわたしに一枚の名刺を差し出した。
〈フリーライター:水口参子〉
 げんなりが肥大する。母に頼まれて自宅に戻れば、相も変わらずマスコミが待っていた。への字口で周囲を見回すわたしを見て、水口参子なる女性は言った。
「私しかいません。他の人はみんな、少年の方を追っているので」
「あなたはどうしてそっちを追わないんですか?」
 言いながら名刺の字面を追う。裏面を見ると、更にジャーナリスト、エッセイスト、ブロガー、ラジオパーソナリティなどと横文字が並んでいる。ずいぶんと肩書きが多く、しかも全部カタカナだから何者なのかよくわからない。
「あなた、森遠謙介氏の娘さんですか? 伊緒さん?」
 しかもわたしの質問には答えない。
「お父さんのことを教えてください。本当はお母様とお話しできれば良かったのだけど、いないみたいだし。様子がおかしかったとか、こそこそしていたとか、何か気づかなかった?」
 彼女はまるで質問する権利は自分が独占しているとばかりに喋ってきた。わたしは彼女を無視してカバンを漁った。鍵を見つけ、ドアに向き直る。が、背後から更に質問が飛んできた。
「あなたは、自分が無責任だとは感じない?」
 挿した鍵を回す前に手が止まった。今度は意図せず沈黙になる。言葉を要求されたと感じたのか、水口参子は続けた。
「家族の罪はあなたの罪じゃないけれど、そこから目を逸らすのは家族として無責任だって、そう思わない?」
 罪、という言葉が引っかかって、首の後ろが熱くなる。罪と言っているのはあんたたちであって、事実はまだわかっていないのに。せめてそれだけは言い返してやろうと思って振り向くと、彼女は待ち構えていたかのようにわざとらしくわたしと視線をぶつけた。
「あなた、お父さんとは不仲だった? ちゃんと会話していた? 普段からきちんと接していれば、何か違和感に気づけたかもしれないのに。そしたら、事件を未然に防ぐことだってできたと思わない?」
「……父には不審な感じは全然ありませんでした。それより、まだ罪とは──」
「じゃあきっと、あなたの目は節穴なんだわ」
 会話が成立していない。額に汗が流れ、反対に手の乾きを感じる。
「私、自分が善人だとは思ってないけど、子供は駄目だわ。何も知らない、自分を守る力もない子供を無理に連れだして、自分は死んでおしまい。こんなの許せない」
 それをわたしに言われても──そう言おうとしたとき、門の外から太い声が上がった。
「おい、あんた何か用?」
 隣の家のおじいさんだった。門の外からこちらを見ている。水口参子は眉をひそめて言った。
「どちら様? あなたには関係ないでしょう?」
「俺に関係ないことなんてこの世にねえよ。なあ姉ちゃん。マスコミってのは子供捕まえて詰め寄って、そんなに偉いのか? んなわけないよな」
 おじいさんは言いきって、携帯電話を取りだした。警察を呼ぶサインだ。水口参子は肩をすくめて、何も言わずに踵を返すと歩き去って行った。
 急に力が抜けて、ドアにもたれかかる。
「……ありがとうございます」
 絞り出すように言うと、おじいさんは大きく歯を見せて笑った。
「あの女、よくウロウロしてたから。まったくマスコミってのは品がないよな」
 たぶん、最初の日に警察を呼んでくれたのも彼だろう。このおじいさんと話すのは久しぶりだった。小学生の頃は顔を見れば挨拶していたし、たまに果物などをもらっていたと思う。おじいさんはその頃よりだいぶしわくちゃになった顎を撫でながら言った。
「どこに行ったのかと心配していたんだ。ああ、言わないでいいよ。俺が知っちゃったら、うっかり口が滑っちゃうかもわからんし」
 にこやかに笑い、嗄れた声で父へのお悔やみの言葉をかけてくれた。
「大変なことになったな。安らかに過ごせることを祈ってるよ。お父さんも、あんたらも」
 父とは細々と交流があったらしく、顔を合わせれば野球や将棋の話などで盛り上がったらしい。知らなかった。
「まあ、長々と呼び止めても悪いな。用事があるんだろう。ちゃっちゃと済ませて帰りなさい」
 おじいさんは手を振って自分の家に戻っていき、わたしはようやく挿しっぱなしだった鍵を回した。

 カーテンが閉め切られて薄暗い我が家に踏み込む。ポストに詰まっていた新聞やチラシや封書を抱えられるだけ持って、足先でスニーカーを脱ぐと、家の中をひとしきり覗いて回った。マスコミが忍び込んでいないことを確認してリビングへ向かうと、洗濯物が干しっぱなしだった。記憶よりも散らかっていて、そういえばあの夜はわたしも母も疲れ切っていたのだな、とあらためて感じる。
 キッチンの窓際に小さな鉢植えのサボテンが見えた。あれは母のだ。母はここ何年か、快眠セラピーという会合に通っている。安眠のためのアロマや精神を落ち着ける呼吸法などに熱心だ。このサボテンもリラックス効果があるとの触れ込みで配られたもので、後生大事にしている。ついでに持っていってやろうかな。いや、その前に、余裕ができたら家の掃除だな。なんて思ったけれど、そのときロッキング・チェアにかかった父の背広が視界に入り、瞬間的にぞっとした。続けて震えが止まらなくなった。
 掃除なんて、いつするの?
 慎ましやかで平和な三人家族の暮らす一軒家。自分はいつここに戻るのだろう。そもそも、戻って来られるのだろうか。
 父さんさえ戻ってくれば、と思った。少年を誘拐したかどうかなんてどうでもいい。犯罪者でも、刑務所に入っていても、いつか戻ってきてくれるなら、こんな気持ちにならなかったはずだ。「取り返しの付かないこと」を人生で初めて知った。父が欲しい。父におかえりと言いたい。なのに、目に映る全てがわたしに別れを告げていた。
 逃げるようにダイニングに走り、抱えていた書類をテーブルの上にばらまいた。この中から、母の欲する保険だか何だかの資料を探さなくてはならない。クシャクシャの紙などもあって、開けば罵倒の手紙だった。コピー用紙に黒マジックで『変態』『変質者』『家庭があるくせに恥を知れ』『妻と娘を同じ目に遭わせてやろうか』なんて殴り書きされていた。封筒を開けたら刃物が入っているのもあった。手に何か汚い物がついて、それを台所で洗うときは心臓が靴ブラシで撫でつけられているような感覚を覚えた。何より最悪だったのは、白黒の画質を落としたわたしの横顔の写真があったことだ。雑誌の切り抜きのようだが、いったいいつ撮られたのだろう。
 この所業の主たちは、昨日テレビで見たあの父親とは全員無関係に違いない。彼らはきっと、自分たちには犯罪者を戒める権利があると思っているのだ。この悪意は、善意の名のもとに行われている。善意の側の人たちにとって、加害者の家族のわたしたちは敵対する存在なのだろうか。
 怖い。
 母の求める書類を見つけ、カバンにねじ込む。ここからとっとと逃げ出したい。
「あとは、実家の鍵だ」
 リビングの食器棚の抽斗にあるはずだが、その場所に鍵は見当たらなかった。「なんでないんだよ、もう」他の抽斗も音を立てて開けてみるが、どこにもない。髪をかきむしり、苛立っても無意味だと気づいて無理やり深呼吸する。
「仕方ない、後回しだ」
 二階に上がり、自室に駆け込んだ。
 変えたばかりのシーツの上に掛け布団が丸まっている。見慣れた光景のはずなのに、どこかちぐはぐだ。ここにいたわたしは、今ここにいるわたしとは違っていて、もう二度と戻ることはない。さっきより動揺せずに受け止められたのは、慣れのせいだろうか。
 スマートフォンは記憶の通り、通学用のカバンの中に放り込まれていた。充電コードに繫いで電源を入れると、何度か振動して、不在通知やメッセージが届く。メールの受信数は三〇を超えていて、ざっと表題を見る限りハンバーガー・ショップのクーポンやメガネ屋の案内ばかりだ。
「いったん放置」
 次に数件の着信履歴を見てみると、母の他は全部、友人の飯村千紗だった。
「おお……千紗」安堵の声が漏れる。
 学校ではだいたいずっと、千紗と一緒にいる。同じクラスで、席も近い。高校に入ってすぐ、中学までやっていた陸上をやめて美術部に入ったときに一緒になり、それ以来の仲だ。留守番電話は入っていなかったが、彼女は何か伝言を入れるタイプではない。逆にメッセンジャー・アプリに溢れる未読分は、ほとんど彼女からのものだった。

〈送信者:飯村千紗〉
『ねえ、生きてる?』
『あのニュース本当なの?』
『電話でれない感じ? 学校は?』
『落ち込んでたらいつでも呼んで。飛んでいくから』
『あ、飛んでいくって言っても自転車だからそこんとこよろしく』
『そうだ。イオのメッセージが既読にならない理由は、私なりに考えるにこうだわ』
『何もかも嫌になって、スマホの電源を切ってベッドにぶん投げて放置でしょ。あのゴツいケースの』
『でも』
『そしたらこのメッセージも届かないね。じゃあ私はどこに向けてこれを送信しているのかしら?』
『知ってる? インターネットの世界には、誰にも読まれていないテキストが夜空に見える星の数の全部よりも多いくらい存在しているんだってさ』
『怖くね?』
『やべ、マジ怖くね?』

 文章が千紗の声で再生される。いつも一方的に話し続け、独特の言い回しでわたしに反論の隙を与えない。気持ちにゆとりが生まれるのを感じた。他にも何人かの友人からもメッセージは届いていたが、どれも自分の心配を押しつけるようなもので、心にぜんぜん響かなかった。やはり千紗だ。彼女のことをこの数日で思い出す余裕もなかった自分を恥ずかしく思う。千紗がいる。なんて心強いのだろう。あとで久しぶりに電話してみよう。
「ノートパソコンは荷物になるからいいや。服もまだ大丈夫。他は……」
 机の脇の棚にねじ込まれていたペンギンのぬいぐるみを取り上げてカバンにしまう。ふたたび一階に降りながら、スマートフォンのアプリを一つ起動させる。ずらっと並ぶリストから『実家の鍵③』を選択すると、キッチンの方でブザーが鳴った。見に行くとコーヒーメーカーの脇に鍵が転がっていた。
「お前、なんでそんなところにいるのさ」
 キーホルダーのボタンを押してブザーを止める。我が家の鍵にはみんなGPS付きのキーホルダーがついている。半径二〇メートルくらいの範囲にあれば、スマートフォンで見つけ出すことができる。鍵をよくなくす母のために父が導入したものだ。ここにあるのも母がしまい忘れたからに違いない。ちなみにわたしのスマートフォンのケースがやたらゴツくて頑丈なのも、初めてのスマホを買ってもらったその日に落として壊した失敗に由来する。おかげで重くて扱いづらいけれど、維持費を支払ってもらっている身としては拒否する選択肢などなかった。
「書類オッケー。鍵オッケー。スマホオッケー。オールクリア!」
 わざと声に出して確認すると、戸締まりをして、きっちりと門を閉め、自転車にまたがった。大通り沿いのケーキ屋さんで彩月ちゃんの好きなシュークリームを買う。それを崩さないようにカゴに入れると再び自転車を走らせ、わたしは知恵子さんの家のインターホンを鳴らした。二人の女の子の喜ぶ顔が見たい。それだけのつもりだった。
 でもインターホン越しに名乗ったとき、知恵子さんの反応は変だった。ドアを開けてくれたときの表情が、いつもの笑顔ではなかった。出迎えてくれる彩月ちゃんと詩乃ちゃんも見当たらない。詩乃ちゃんなんか、いつもぜったい駆け寄ってくるのに。
「どうしたの? 伊緒ちゃん」
 知恵子さんはドアを手で支えたままで、招き入れてくれる様子もない。
「近くを通ったので立ち寄ろうと思いまして。これ、彩月ちゃんが好きなやつ」
「ありがとう。お葬式に行けなくてごめんなさいね。詩乃が風邪を引いちゃって……」
「大丈夫です」わたしは遮って、ペンギンのぬいぐるみを差し出した。「この前、詩乃ちゃんにあげるって約束してたので」
「そう。ありがとう。詩乃には今度お礼を言うように伝えるから」
 声は固くて、棒読みだった。
 きっとご主人に「関わるな」とでも言われたのだろう。世間はわたしが思うよりも犯罪者の家族を忌避するらしい。わたしはここに招かれていない。それを証明するように知恵子さんの言葉は続いた。
「伊緒ちゃん。しばらく大変だろうから、落ち着くまで勉強会はお休みしましょうか?」
 大学受験を控え、わたしは夏休み前から週一回ペースで知恵子さんに勉強を見てもらっていた。知恵子さんは東大を出たのにすぐ結婚して家庭に入ったから、勉強に飢えているといって快く引き受けてくれていた。とりわけ苦手な古文を見てもらった後に、紅茶とショートケーキを頂くのが習慣になっていたけれど、それが今終わった。
「落ち着くまで集中できないでしょうし。ね?」
「……そうですね」咄嗟にしては、動揺を見せずにうまく返せたと思う。「どうも気を遣わせてしまってすみません」
「謝るのはこっちよ。それより、あなたのお母さんを気遣ってあげてね。ちゃんと、本当に、家族として」
 刺々しさはないけれど、やけに急いた口調だ。視線が流れがちで、周囲を気にしている。まわりの人にわたしといるところを見られたくないのだ。
 玄関を出たあとで振り返ると、リビングのカーテンの隙間から詩乃ちゃんが手を振ってくれていた。涙が出そうだったけれど、ここで泣くのは自己中な気がしたから頑張って笑顔を返した。

 自転車を漕いで祖母宅へ戻る途中で雨が降り始めた。まっすぐ帰っていたらきっと間に合ったのに。無意味に拒絶されて、雨に降られて、バカみたいだと思った。ずぶ濡れになったわたしに祖母はタオルと温かいお茶を出してくれた。シャワーを浴びて出てくると、母は保険の書類に記入を始めていた。シャツ姿のわたしを呼び止めて言う。
「ねえ、あんたもう一八になったんだっけ?」
「そうだよ」
 父の生命保険に関する書類のようだ。加入時の書類の控えもあって、備考欄には当時の家族の詳細も記載されている。
 森遠謙介。大学卒業後、小学校の教諭を務める。
 森遠早美。大学卒業後、飲料メーカーに就職。結婚後、三年半勤めた後に退職。
「お母さん、仕事してたことあったんだ」
「私をなんだと思ってるの。仕事が嫌だってお父さんに泣きついたらその場でプロポーズされたの。そしたら私、逆にびっくりしちゃってさ。そんなに簡単でいいわけないって思って、そのあと一年勤めてから辞めたの」
 親の過去はあまり聞かされたことがない。聞いてもはぐらかされることが多くて、うちの親は二人して照れ屋なのだと思っていた。でも母は珍しく、聞かれていないのに続ける。
「いい意味でも悪い意味でも、いい人だったな。お父さんは寛容で、何でも許してくれた」
 結婚式も、新婚旅行も、家を買うときも全部母の意見が通ったらしい。
「単にこだわりがなかったのかもしれないけど。だから何でも私に合わせてくれる」
 それは違う、と思った。
 父ほどこだわりの強い人を、わたしは知らない。父は、人と怒りや悲しみではなく喜びを分かち合うことに心血を注ぐ人なのだ。相手の喜びが、自分の喜びなのだ。ただし少しだけズレていて、たまに張り切って料理すればわたしの好物のエビ春巻きを山ほど作り、わたしが食べきれないで残すと無言で落ち込んでいたりした。わたしを喜ばせようとして鬱陶しくなることも多かったけれど、それだって一緒に笑い合いたいからだってことは聞かずともわかっていた。
 母は慣れきってしまっていて、父がどういう人間か忘れてしまったのだろう。いつかリビングで父と大ゲンカしたときの頑固さを覚えていれば、こだわりがないなんて思わないはずだ。あの日の続きを思い出す。父と母のやりとりに、わたしは思わず口を挟んだ。
「父さんは正しいと思ったことをしたんだから、それを責めても意味ないよ」
 父も母も、わたしの割り込みが意外だったらしく、しばらく黙った。その後、母は「私にとっては悪いことなの」と口を尖らせたけど、父は「じゃあ次は、イオに共犯者になってもらうかな」と苦笑した。
 わたしがあのときのことを思い出したのを見透かしたように、今現在の母はわたしに言った。
「イオは昔から、お父さんの味方だもんね」
 母は父の反対だ。たぶんわたしに怒りや悲しみを共有して欲しいと望んでいる。期待に沿いたい気持ちはあるけれどいつも上手くいかなくて、余計に怒らせたり悲しませたりしてしまう。父と一緒だったらわたしは何も心配要らないけれど、母と一緒だと自分が荷物のように感じる。
「またそういう意地悪を言う」
「事実を話しているだけでしょ。あーあ、この保険に入った頃は、こんなことになるなんて思ってもみなかったな」
 母は溜め息をついたけれど、わたしだってそうだ。誰もみんな、こんな未来が来るなんて思ってなかったに決まっている。当たり前のことを言う母に、少しだけ苛立ってしまった。

 夕食後、空き部屋にこもって襖を閉めた。電話をかけると、千紗はすぐに出た。
『イオ? 良かったー。イオ成分が足りなくて飢えていたのよ』
 安心する。この、周囲から割と鬱陶しがられがちな自分勝手さは、今のわたしの心の曇天を吹き飛ばす勢いがある。
「ごめんね、電話できなくて。家に置きっ放しのままおばあちゃんちに来ちゃって」
 これまでの経緯を話す。家にマスコミが押しかけて、とてもじゃないけれどまともな生活は送れなかったこと。祖母の家に避難したこと。父の葬儀が終わったこと。
『お疲れさま。じゃあ学校は? 調べたんだけど、忌引きの休みって五日間だよね』
 たしかに学校からはそう言われている。連休明けから数えて五日間にしてもらったため、学校へ行くのは早くても来週からになる。
『そうなんだ。じゃあゆっくりできるね。心ゆくまで休むと良いぞ』
「何その口調」吹き出すと、千紗は照れ隠しのように笑った。
『良かった、いつものイオで。とにかく前向きにね。傷穴は塞がりたがっているものだから、無理にこじ開けたままにしないように。ね、また一緒に遊ぼうよ』
 そういえば千紗とは連休に遊ぶ約束をしていた。けれども父の死とそれがもたらした様々なことが津波のように押し寄せて、すっかり頭から抜け落ちていた。いつになるかわからないけれど、また一緒にカラオケや買い物に行きたい。
『そうそう。他の連中には釘を刺しておいたから。変に勘ぐるようなメール送っちゃダメだからねって。イオ、そういうの嫌いでしょ?』
「助かるわ」
『任せてよ。イオのことならだいたいわかるし。意外とシンプルだからね』
 しばらくくだらない話を続けて、千紗からかなりエネルギーを吸収することができた気がする。電話を終えると、わたしは部屋の隅の座布団の山にスマートフォンを投げつけた。
「あー、なんか疲れた」
 ……あれ?
 内心と行動がちぐはぐになっている気がする。

 洗面所で丹念にハンドクリームを塗った後に時計を見ると、一一時近くなっていた。このところずっと過眠の母は、きっともう夢の世界に逃げ込んでいるだろう。わたしはまだ眠れそうになくてリビングに行く。やっぱり祖母がいて、編み物をしていた。
「テレビつけていい?」
「好きなように」昨日のような否定の言葉はなかった。ニュース番組で事件の続報を探しだすのは難しくなく、すぐに〈次は……初めて明かされる真実〉とのテロップを見つけた。CM明けを待つと、男性が背を丸めてハンカチで涙を拭っている映像が始まった。少年の父・恩田継夫氏だ。
 彼をスタジオに招いての独占インタビューということだった。有名なニュースキャスターが恩田氏と椅子を並べて向かい合い、その話に耳を傾けている。
 三年前まで自宅兼店舗で飲食店を経営していたが、不況の風に煽られて閉店。最近は知人のつてで飲食店を手伝ったり、廃棄物の運搬や警備員のアルバイトをしたりして細々と生活している。生活はさほど裕福とはいえないが、息子と二人、仲良く暮らしていた。それが恩田継夫氏の略歴らしい。彼は低くか細い声で言う。
『六助は、六大陸をまたにかけて人助けするような男になって欲しいと、亡くなった妻がつけたものです』
 継夫氏は二年前に最愛の妻を亡くしたそうだ。以来、息子と二人暮らしだった。そして今や、その息子も行方知れず。今もどこかでさまよっているのだろうか。『早く見つかってほしい』と項垂れる氏の言葉に、深く同調した。六助くんが出てきてくれたら、恩田家は日常に戻ることができる。絶対に戻らないとわかっているわたしたちとは違う。できれば、誰の家族もうちみたいになって欲しくない。そう心から思った。
 継夫氏の対面に座るキャスターがフリップを掲げた。これまでの事件の経緯が紹介される。そこにはわたしの知らないことも多々あって、反射的にテレビのリモコンを手に取り録画ボタンを押した。
 一一月二日深夜。継夫氏が帰宅すると、家にいるはずの息子がいなくなっていた。彼は明け方まで周囲を捜索したが、行方は分からない。息子は勝手に外出するようなタイプではないし、書き置きの類もなかった。
 動きがあったのは朝だ。非通知の番号から携帯電話に着信があったという。
『息子からで、誘拐されて知らない場所に連れてこられた、と言っていました。細かく聞こうとしましたが、すぐに電話は切れてしまいました。犯人の隙をついての連絡だったのでしょう』
 暫し悩んだが、継夫氏は結局最寄りの警察署に相談に行った。その後、一旦家に帰ったところでもう一度電話がかかってきた。今しがたまでいた警察署からで、告げられた内容はあまりにも予想外のものだったという。
『隣の市で事故を起こした車から、六助の私物が出てきたということでした。指紋と毛髪も』
 六助くん以外の子供の痕跡はなかった。他に検出された指紋は家族のもののみで、そもそも普段から生徒が教師の自家用車に乗るようなことはない。
 右上に視線を飛ばして嘆息する父親に、キャスターが訊ねる。
『事故を起こした人物が六助くんの担任だと聞かされて、どう思いましたか?』
『亡くなった男性の身元が判明し、知人かどうか警察の方に訊ねられました。知っている名前だとはすぐに思ったんですが、担任教師だとはすぐには理解できませんでした。だって、まさかでしょう。よりによって、もっとも信頼を置いていた人物が息子を誘拐しただなんて』
 継夫氏は憤り、拳を強く握った。キャスターも強く頷き、低く言った。
『全く許せないことです』
 思わずテレビから目を背けた。が、継夫氏の言葉が耳に届く。
『あの日、友人の飲食店を手伝っていたんです。たまにはロクに美味いものでも食わしてやろうと思って、仕事を増やしていたんです。それがこんなことになるなんて』
 その心情の吐露はわたしの気持ちを強く揺さぶった。テレビ越しに言われている気がした。受け入れろ。お前の親のしたことを。それがお前の責任だ。
 ひょっとしてそうなのかもしれないと思った。わたしの父は犯罪者で、そのことをずっと心の中に抱いて生きていくことがわたしの責任なのだ。幸せとか、嬉しいとかを感じる資格はない。ずっと後ろめたさと共にあれ。そう言われた気がした。もしかすると母が夢の世界に逃げ込むことや祖母がテレビからわたしを遠ざけようとしていたのが正しかったのだ。
 でも、次に聞こえた言葉に対して、わたしは反射的にこう呟いた。
「……うそだ」
 背けていた目をもう一度画面に向ける。ニュースキャスターは神妙な顔をしている。聞き間違いでなければ、今、彼はおかしなことを言った。
『死亡した森遠謙介容疑者は、以前から児童に対して性的ないたずらをしているという噂があったとの情報もあります。警察は、容疑者が性的な暴行目的で六助くんを誘拐した可能性も含め慎重に捜査を進めています』
 繰り返された詳細に、聞き間違いじゃないことを知る。
 性的な? 目的?
 背後の祖母に振り向く。
「おばあちゃん、今のって……?」
 祖母は控えめに頷いた。「よくわからないけど、そういうことも言われているね。もちろん、そんなはずないって言ってくれる人もいるみたいだけどね」
「これ、母さんも知っているの?」
「刑事さんに言われたってさ」
 鶴木とかいう刑事だろう。今なら、電話での母の取り乱しようも、事情聴取時のふさぎ込みぶりも理解できる。事故、誘拐、性的いたずら。それらを立て続けに聞かされたら、娘に何を説明したらいいかなんて整理できっこない。
 父は教え子を誘拐して、性的暴行を目論んだ?
 継夫氏が苦々しい表情を浮かべて言った。
『ロクは、以前何度か言っていました。先生に変なことをされた、と。それで学校に行きたがらないこともありまして、思えばあのときもっと親身になって話を聞いておけば良かった──』
 聴くに堪えなくなって、寝室へ行って母をたたき起こす。
「ねえ、母さん、起きて」
 肩がぴくりと動いたのを見て畳みかける。
「うちって貧乏だった? 父さんは家のお金を使い込んでいた?」
 母は布団から顔だけこちらに向けて、迷惑そうに答えた。「……何? 急に」
「家のローンが返済できなくなったとか?」
「もう払い終えてるわよ。中古物件で安かったし」
「じゃあ、わたしの学資が足りてなかった?」
「一五年前から積み立ててるわ」
「マスコミが言ってたよ。実は他に養っている家族がいるんじゃないかとか」
「そんなわけないでしょ。いつも家にいたでしょうに」
「たまに出かけてた、泊まりがけで」
「実家よ。絵を描きに行ってたの。ウチだとあんたが馬鹿にするから……ああ、そういうこと」
 母は眠たげな目でわたしを見て、深々と溜め息をついた。
「いっそ、身代金目的での誘拐の方が良かったって思ってるんでしょ?」
 その通りだった。わたしはわけがわからなくて、とにかく手っ取り早く胸の中の爆発しそうな塊を鎮めたかった。
「だからテレビなんて見るもんじゃないって言ったの」
「あれ、本当なの? 噓でしょ? ありえないって警察にちゃんと言った?」
「私に言わないでよ。警察になんて、そんな余裕無かったわ」
「何それ? ひょっとして母さんもそう思っているわけ? まさかだよね?」
 しかし母は寝返りを打ち、布団に首まで潜りこんだ。
「もういいのよ」
「いいって何? まだ終わってないでしょ。このままでいいの? 父さん、今のままじゃ変質者だよ? どうしようもない悪党ってことになるよ。わたしたちだって、その家族だってことになっちゃうよ?」
「だから、もういいって。疲れたわ。何かやりたいなら自分でやって」
 どうやら母は強引に傷穴を塞ぐ気だ。
 このままじゃよその人が思い出すとき、父は変質者として語られてしまう。尊敬する父の姿を思い出すのは間違いだということにされてしまう。わたしの思い出が誤りで、テレビや世間の言うことが父の本当の姿だと言われてしまう。何より恐ろしいのは、わたし自身がいつかそう思ってしまうのではないかということだ。
「母さん、ねえ。父さんの行動の本当の理由が知りたいの。起きてよ」
 屈んで母を揺するけれど、こっちを見ようともしない。ただ、少し口調を尖らせて言った。
「あんたに見せなかったけど、お父さんの遺体は酷かった。損傷が酷くて、顔も傷だらけで。触ってみたけど、冷たくて。その記憶を飲み込むためには、寝るしかないの。今、寝てるときだけが幸せなのよ。あんたも好きにしていいから」
 言い終わりに、鼻をすする音がした。それ以上は何を言っても怒鳴っても、狸寝入りで返事はなかった。
 そんな母を前にして、もはや自分でも、何を言ったら納得できるのか、何を思ったら落ち着けるのか、全然わからなくなっていた。
 ただ、売り言葉に買い言葉のように、頭の中で声がした。
 好きにしていい? 言ったな?
 急激に頭が冴えていく。性的目的なんて信じられない。警察にちゃんと話せばわかってくれるはず──いや、父を容疑者として固めている人たちと話をして通じるとは思えない。必要なのは、連中がぐうの音も出せなくなるような、父の潔白の決め手となるものだ。証拠か、証言か。
「……証言?」
 リビングに戻る。祖母はまだ起きていたけれど、テレビはとっくに違うバラエティ番組を流していた。視界を塞ぐように立ち、祖母に問う。
「おばあちゃん。あの子供、六助くん。まだ生きてるかな?」
 祖母はダイニングテーブルの椅子に深く座ったまま、口だけ動かした。
「どうだろうねえ。私にはわからないけど、無事だといいねえ」
「そうだよね。じゃあさ、もしも見つかったら、わたしが話すことってできないかな」
「それは難しいだろうね。警察に保護されたら、なかなか誰でも会いにいくってわけにはいかないでしょう」
 それもそうだろう。誰でもどころか、こちとら犯人の娘だ。ここまでは想像通りだ。
「ということはさ。わたしがあの子と話すためには、警察や、他の人よりも先に見つけるしかないね」
「そうだね」祖母は頷いた後、ぎょっとして目を見開いた。「伊緒ちゃん、急にどうしたの?」
 祖母の向かいに腰掛けて、考えていることを話す。
「教えてもらうの。六助くんに」
 連れ去られたとされる子供を見つけ、彼の話を聞くこと。父から何を聞かされたか、どうして父の車に乗り、どうしていなくなったのか。真実はそこにあるはずだ。それを知ることは父の名誉を回復するために残された最後の手段である。
「本当のことが知りたいの」
 根拠はないけれど、わたしは思う。性的目的なんてありえない。そして、父は決して少年を野垂れ死にさせたり、山の中でさまよわせたりするために連れ去ったんじゃない。何か理由があるはずで、その理由を聞かされている可能性があるのは、恩田六助ただ一人だ。
 祖母は呆気にとられたような表情だが、反対にわたしの頭の中はすっきり晴れていった。
「伊緒ちゃん。あの子を見つけて、何を証明するっていうんだい?」
「父さんの無実」
 テレビでの恩田継夫の言葉を担保するのは、彼自身の証言のみではないか。「父が六助くんに何かしようとした」なんて、彼が言っているだけに過ぎないはずだ。
 祖母の困惑をよそに、わたしは高らかに宣言した。
「父さんのために、わたしが六助くんを見つけるから!」

『さよならが言えるその日まで』第1章了
第2章につづく

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