『隣人X』パリュスあや子

文字数 4,624文字

第14回小説現代長編新人賞を受賞したパリュスあや子さんの『隣人X』が、8月26日に発売! それを記念し、本作の冒頭部分を無料公開いたします! SFを背景に日本の現代社会の問題を3人の女性の視点から描き出しています。





〈プロローグ:とある施設のとある実験〉

 オペ室を思わせるその部屋では、爪先から顎までを覆うたっぷりとした真っ白な無菌服に目出し帽のようなマスクを装着し、その上から顔の半分はあろうかというゴーグルをかけた者たちが作業をしていた。誰が誰かを判別することは難しい。
 アルミニウム製のシャーレを思わせる容器が部屋の中央に運ばれる。電極のような突起が二本飛び出しており、コードがつながれた。シャーレには何も入っていないように見える。
 その部屋には特殊ガラスの大きな窓があり、隣の情報室から観察することができる。だがその部屋から情報室を覗くことはできない造りだった。情報室では白衣とゴム手袋を着けた者たちが、壁一面にぐるりと並んだ巨大な精密機器を調整していた。
 部屋で作業していた者たちも皆、ロック形式の異なる重厚な扉をふたつ押し開け、情報室に移動した。ガラス窓に正対して座った者が、タッチパネル式の画面に流れるように触れて次へ次へと最終確認を進めていく。だが最後に「Start」の赤いボタンが現れると、わずかに躊躇したようだった。それを押す。
 コードを通じ、情報室からシャーレに転送されるのは人間にまつわる膨大なデータだった。画面に1%、2%……と進捗が現れる。
 ステンレスの巨大な台に乗せられたシャーレは沈黙をやぶり、カタカタと細かく振動を始めた。やがて白い靄のようなものがシャーレから溢れだし、重量を感じさせる濃度をもって大きな塊となった。その塊は蠢きながら、伸び縮みを繰り返してヒト形を形成していく。そしてその内部に赤黒い光のようなものが浮かび上がった。
 その光が心臓として確固とした鼓動を打ち始めると、そこからの展開は目まぐるしかった。心臓を起点に血管が走り、骨が伸びた。臓器が実り、筋肉が支えた。脳がすっかりできあがる頃には、手足の末端は既に皮膚で覆われ始めていた。白人のそれであった。
 シャーレは空になって床に転がり落ちていたが、今や人間として横たわっている物体とは、糸を引いたような靄で繫がっていた。
 その物体は欠陥がないかを試すように、仰向けになったまま身体を揺らしたり、指を伸ばしたり曲げたりしていたが、やがて上体を起こすとゆっくり首をまわした。一点を見つめ開かれた目からは、なんの感情も読み取ることはできない。
 情報室にいる無菌服の者たちの表情は窺い知れないが、皆、目の前の信じがたい現象を身動きひとつせず、全神経を使い見守っていた。進捗はまだ9%を示していた。情報、記憶、知識そして感情といった、目に見えない要素こそが人間というものの多くを占めているのだった。
 十時間ほど経過しただろうか。ようやくデータの転送が終わりに近づいたころ、そのヒト形をした物体がふと、笑った。

〈土留紗央の落とし物〉

──なくしたかもしれない。
 その瞬間、土留紗央は貧血を起こしたときのように、目の前にすっと暗い幕が下りた。機械的な動きでIDをかざし、ゲートを通過していく社員達の列から外れ、紗央はもう一度、濃紺のロンシャンのトートバッグのなかをひっかきまわす。ひとつしかない内ポケットに、いつも収まっているはずの社員証。
──家に忘れただけかもしれない。
 いつも通勤に使うバッグ、特に出し入れをしていないことは自分が一番よく知っているが、そう思うことで落ち着こうとする。
 入館ゲートと受付から離れ、ロビーの椅子を占拠しているスーツ姿の男たちからも距離を取り、一縷の望みをかけて母親に電話する。思わず祈るように宙を仰ぐと、この東京駅直結のビルの天井の高さとその空間の異質な広さに、更に心許ない気持ちになる。
「うん、もし見つかったら連絡して」
 紛失。責任問題。絶対にそうあってほしくない。
 チームリーダーでベテラン派遣でもある工藤に連絡して、下まで迎えにきてもらう。紗央の働くオフィスは三十八階。高層階に上がるためにはエレベーターを乗り継がねばならず、入館ゲートだけでなく、乗り換えの際もIDが必要になる。
 今日のところは社員証を忘れたと話し、ゲスト用のパスを発行してもらうことで急場をしのぐこととなった。
「昨日かなり飲んでたけど、まぁさぁかぁ、なくしたんじゃないよね?」
 工藤は紗央にパスを手渡しながら、からかい口調の笑いをふくんだ声で言った。紗央もできるだけ軽く返す。
「そう信じてますけど、帰ったらすぐ確認しますね」
 昨夜も最悪だったが、それを今朝に引きずるとは最悪の最悪だ。

 紗央は新卒派遣社員として、この大企業に勤めている。とりあえず半年契約。その後、また半年。そしてまた半年……かれこれ一年半近くこの巨大ビルに通っているわけだ。当初は感動していた高層階まで伸びるシースルーエレベーターも、今ではなんということもなく、ひとつ逃すと次が来るまで待たされる時間が長いことに舌打ちをしている。日常は慣れという砥石で容易にすり減っていくものだ。
 両親から「中堅大学の文学部、しかも文芸学科なんて就職に不利だからやめておけ」と何度言われたかわからない。しかし紗央は、奨学金までもらって大学院にも進んでしまった。そしてその奨学金が内実、途方もない借金であると気付くのは修了後だった。
 小説も詩も書いた。批評にも手を出した。紗央は古風なところがあり、本が売れない時代にあっても紙媒体を信奉していた。手紙を愛し、ワイン色の蠟にイニシャルの印を押して封をした。重要な書類には万年筆でサインするという自分内ルールも課していた。
 SNSはしていなかった。TwitterやInstagramを自己表現と呼び、フォロワー数に一喜一憂する輩は信用していなかった。
 その代わり、とも言えないが、仲間と同人誌を作っては文学フリマに出店し、更なる仲間と新たな雑誌を作ったりした。楽しかった。お金もかかった。なかには筆一本でやっていこうという気概をもつ猛者もいたが、紗央はその点では冷静だった。
 高校時代から、いくつの文学新人賞に応募したか数え切れない。しかし一次選考に通ったものが二作、それ以上はなかった。
 お気に入り登録をしているブログやサイトはいくつもあり、プロでなくても舌を巻くほど文章がうまい人、アイディアが奇抜でとびぬけている人はいくらでもいた。特定の分野で突き抜けたものを持っていたわけでもない、器用貧乏な紗央は、文章だけで食っていくのは難しそうだと早々に感じていた。
 しかし、そうは言いながら、心のどこかで大逆転を狙っていなかったとはいえない。大学院は最後のモラトリアム、自分の夢と現実に折り合いをつけるための調整期間だったといえる。

 稼がなくては生きていけない、という単純明快な結論に達すれば、稼げる企業に入るのみだった。就職活動を始めたのは周囲より遅かったが、暑苦しすぎず、それでいて誠実さが伝わるようにと準備する志望動機書は、毎回なかなかの出来栄えだと自画自賛した。優秀で、使い物になると思わせれば勝ちだ。
 大手ばかり受ける紗央に、周囲は無謀だと苦言を呈したが、紗央自身も驚くほど、最終面接まではトントンと進むのだった。
「大学の名前だけじゃない。学部だけじゃない。やっぱり私自身を評価してくれる会社があるんだ」
 それが自信過剰であったのか、単に「私自身」の力が足りないだけなのか、最終までは届くのに、肝心の内定は出ない。どうせ落とすなら一次で落としてくれればいいのに。時間の無駄だ。紗央は歯ぎしりした。一体なにが足りないというのか。
 最後の持ち駒となった大手の空間デザイン会社の最終面接には、かなりの時間をかけて臨んだ。その会社が手がけたものだけでなく、競合の物件も見て歩き、業界研究にもぬかりはなかった。
 学生五人に対して、面接官五人。横並びの学生たちが自己紹介し、次々と一流大学の名を挙げていく。しかし。しかし、紗央だって負けてはいない。どんな質問にも答えられる自信がある。
「ストレスはどうやって解消しますか」
 ハキハキ、にこにこ、答えた。
「そうですか」
 採点リストでもあるのか、役員という恰幅の良い男性は、視線を落としたまま平坦に言った。つやつやしたおでこだった。
 紗央への質問はそれだけで、計十五分程で最終面接は終わった。
 いつも通り深々とお辞儀をして面接室を出たが、紗央は完全に頭に血が上っていた。突き上げるような怒りに鼻息が荒くなった。
「なんなん?」
 廊下に出た瞬間、毒づいた。自分はこんな声が出せたのかと思うほど、憎々し気な声を発していた。社員のひとりが、そこで学生たちを待っていたことに全く気付いていなかった。
「お疲れさまでした、お帰りはこちらからです」
 紗央はすぐさまいつもの就活スマイルを浮かべた。社員もあくまでにこやかに、淡々と本社ビルから学生たちを追い出す。
「ありがとうございました」
 紗央は卑屈なほど丁寧に頭をさげた。瞬発的な癇癪は引き、心臓を氷水に投げ込んだように、身体の芯から冷たかった。一緒に面接を受けた他の四人は、内心あの愚行を嘲笑しているだろう。
 もうだめだ、と、他人ごとのように感じた。

 紗央は、どこでもいいから正社員になることも、就活浪人になることも選ばず、新卒派遣を選んだ。学士新卒で働き始めた友達が、この二年の間に転職している例をいくつも見ていた。残業代込みの安い初任給で働かされるなら、時給の高い派遣で働いたほうが割が良いのではないか、と安易にも考えた。
 なにより書き物に充てる時間も確保できる。紗央は自分では認めないが、モラトリアムの延長を決めたのだった。

「大変な倍率のなか選ばれた皆さんです。誇りをもって業務に励んでください」
 派遣勤務初日、グループ統括の熊住の挨拶に、紗央は耳を疑った。ただの派遣社員に、選民意識を植え付けてどうするのだ。だがこの社員は本気で、この大企業で働けることは素晴らしいことだ、と考えているようだった。
 熊住とは面接時に会っていた。名前の通り、もっこりした大柄な男性だったが、オレンジ色のチェックのシャツを着こなせてしまう派手さがあった。短い時間だったが、頭の回転の速さがわかる会話の組み立て方、言葉の選び方に「さすがだな」と紗央は圧倒されるようだった。面接慣れしていると自負する紗央でも、今まで経験したことのない心地良い緊張感があった。だが、派遣仲間には熊住のようなオーラを持った者はいなかった。
 紗央の配属されたチームは、人材派遣コーディネーターの補佐だった。十数名の派遣社員チームのリーダー二名もまた派遣であり、リーダーを管理する役がようやく正社員になる。膨大な人数がひしめいているフロアの、一体何%が正社員なのだろう。紗央はここに、世の中の仕組みのひとつを見た気がした。

《続きは単行本でお楽しみ下さい!》



『隣人X』パリュスあや子 講談社

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