『白医』 下村敦史

文字数 27,209文字

 『闇に香る嘘』『同姓同名』で話題沸騰! 今最旬の乱歩賞作家・下村敦史さんの最新医療ミステリー『白医』がいよいよ5月26日に発売!
 今作で下村さんが満を持して選んだテーマは〝安楽死〟。救うべきは、患者か、それとも命か――。3件の安楽死疑惑を前に、沈黙を貫く医師の真意とは?
 この度、刊行を記念し、第一話「望まれない命」を特別公開いたします! 


第一話 望まれない命



「善意で人を殺せば聖人ですか?」
 証人席に座る女性は、被告人席ではなく、法壇の面々──裁判官と裁判員たちに問うた。答えが返ってくるはずがないのは承知で、問いかけずにいられなかったのだろう。
 厳粛で重々しい空気が張り詰めた法廷内に、沈黙が満ちる。
 神崎秀輝は女性の問いかけについて想いを巡らせた。
 聖人──。
 自分のことを擁護する者の中に、そのような表現を用いた人間がいることは知っている。過激な言動で注目を集める芸能人や評論家だと弁護士から聞いていた。ある週刊誌は『神崎秀輝は殺人鬼か聖人か』と扇情的なタイトルをつけたという。
 自分が聖人であれば──そう信じ込むことができれば、死を与える行為に葛藤などはなかっただろう。
 女性──水木多香子は神崎を一睨みした。敵意の眼差しだ。
 多香子はひっつめ髪をヘアゴムで縛り、喪服のような黒一色のワンピースに身を包んでいた。証言台の上に置かれた拳は、筋が浮き出そうなほど握り締められている。
 神崎は彼女を見返し続けた。
 多香子はふと視線を逸らし、法壇を真っすぐ見据えた。力強い意志的な眼差しだったが、どこか哀訴の念が揺らめいている。
 一切の表情を削ぎ落としたように厳めしい顔の女性検察官は、一呼吸置いてから質問した。
「雅隆さんの容体はどうでしたか?」
 多香子は追憶に浸るようにしばし目を閉じた。目元に涙が光っている。
「調子は──」目を開ける。「決して悪くありませんでした。全身にがんが転移していて、痛みに苦しむ日もありましたが、それでも夫は生きることに意欲的でした」
「雅隆さんが自ら死を望んだことは?」
「ありません。夫は残された時間、少しでも息子と思い出を作りたがっていました。あたしは息子と一緒にできるかぎり付き添いに行きました」
「雅隆さんが亡くなったときのお話をお願いします」
「はい。十二月十一日の朝七時ごろのことです。息子の朝食の用意をしているとき、自宅の電話が鳴りました。不吉な予感を抱いたことをよく覚えています。プライベートでは携帯を使っているので、自宅の電話が直接鳴ることは少ないからです。しかも、そんなに早い時間帯に鳴るなんて……」
 多香子は眉間に皺を刻み、唇を嚙み締めた。訃報が届いた日のことはもう二度と口にしたくないかのように──。
 だが、やがて覚悟を決めた顔で続けた。
「あたしは震える手で受話器を取り上げました。『はい……』と応じる声に震えが混じったのが自分でも分かりました。聞こえてきたのは、聞き慣れた看護師さんの声です。その瞬間、ああ、ついにその時が来た、と絶望しました」
「どのような電話でしたか」
「たった今、雅隆さんが息を引き取られました、と。目の前にさーっと暗幕が降りたようになって、受話器を取り落としそうになりました。看護師さんの声が遠くに聞こえました」
 多香子は顔をくしゃっと歪めた。唇を引き結び、拳を睨みつける。
 女性検察官は彼女が口を開くのを黙って待っていた。
「……あたしは息子の小学校に今日は休むと連絡し、着の身着のままで車を運転して、天心病院へ向かいました。隣では、息子が、ママ、どうしたの、何かあったの、って何度も訊くんです。でも、答えられませんでした。答えてしまったら、それが真実になりそうで……あたしはこの期に及んで、何かの間違いじゃないか、ホスピスに着いたら愛する夫の笑顔が出迎えてくれるんじゃないかって、信じて──いえ、縋っていたんです」
 女性検察官は、お気持ちはよく分かります、と言わんばかりに小さくうなずいた。
「車を飛ばしたい衝動と闘いながら、安全運転を心がけました。もし事故を起こしてしまったら、あたしたちが夫より先に逝ってしまう……今思えば不思議ですが、そのときのあたしは本気でそう思い込んでいたんです」
「天心病院に到着されてからは?」
「……亡くなった夫と対面しました。部屋には神崎医師がいました。夫は──紙のような顔色でしたが、それを除けばまるで眠っているようでした。現実に直面しても信じられず、何度も名前を呼びかけていた気がします。ぎゅっとスカートを握られる感触で、息子の存在を思い出しました」
「息子さんの様子は?」
 女性検察官は精いっぱいの気遣いを込めた声で訊いた。多香子は口を開こうとし、また閉じた。嗚咽をこらえるように手のひらで口を押さえ、眉間に皺を作った。肩が小刻みに震えている。
「……何も言わずに耐え忍んでいました。悲しいはずなのに。きっとあたしが動揺していたから、どう反応していいか分からなかったんだと思います。あたし自身、夫に取り縋って泣きわめくべきなのか、どうすべきなのか、分からなかったんです。呆然としているのに、頭の中では冷静な部分があって、まるで部屋全体を俯瞰しているような……とにかく、そこで現実だったのは夫の死だけでした。昨日までは元気に──元気にって言い方も変ですけど、ちゃんと生きていたのに……」
 途切れ途切れに紡がれる声には悲嘆が絡みつき、まるで法廷の底を低く這い回っているようだった。
「そこにいた神崎医師は──被告人は何と?」
「……雅隆さんは眠るように亡くなりました、と。苦しみはほとんどなかったと思います、と言われました。あたしが現実を受け入れられるまで、神崎医師も看護師さんも付き添ってくれて、そのときのあたしは愚かにも素直に感謝していたんです」
 彼女は怒気が籠った眼差しを神崎に据えた。今度は神崎から視線を逸らさなかった。
「真相を知ったのはいつごろですか?」
 女性検察官が質問すると、多香子は神崎をねめつけたまま答えた。
「……夫の死から二週間ほど経ってからです。ある日突然、封筒が届いたんです」
「中身は何でしたか」
「告発でした」
「告発!」女性検察官が驚いてみせる。
「はい。パソコンで打ち出した文字で、夫が安楽死させられたことが書かれていました。あたしは最初、意味が分からず、ただ呆然と文面を眺めていました。次第に、夫に恐ろしいことが起きたのだと分かってきました」
「差出人は記されていましたか?」
「匿名でした。天心病院の関係者の誰かが良心の呵責に苛まれて送ってきたのだと思います」
「真相を知ってあなたはどうしましたか」
「天心病院に行って院長に面会し、夫は神崎医師に安楽死させられたんじゃないかと問い詰めました。事実無根だと一蹴されましたし、あたしの妄想であるかのように言われましたが、告発の手紙を突きつけたら表情が変わって……。分かりました、すぐ調べます、と」
 語る多香子の声音には、御しがたい怒りが滲み出ていた。裁判員の何人かは、同情するようにうなずいている。
「後日改めて説明差し上げたいと言われ、従いました。二日後に連絡があり、会うと、弁護士が同席していて、院長からは、『主治医の神崎医師の治療に問題があったようです。申しわけありませんでした』と謝罪されました」
「続けてください」
「曖昧な言い方で、しかも歯切れが悪いので、強く問いただしたら、神崎医師が塩化カリウムを注射して、それがあたしの夫の死を早めた可能性がある、と」
「なるほど。それは正確な表現ではありませんね……?」
「はい。後から知った話ですが、塩化カリウムはアメリカで死刑執行に使われていたり、安楽死に使われていたりする薬だそうです」
「被告人は雅隆さんに故意に致死量の塩化カリウムを注射し、死に至らしめたというわけですね」
「そうです。担当の神崎医師は、毎日続く地獄のような苦痛を見かねて楽にしてやりたい、と考えたとか。あくまで夫のための苦渋の選択だった、と言われました」
「納得できましたか」
「まさか! 院長と弁護士は問題を矮小化し、慰謝料であたしを説得しようとしてきたんです」
 恩ある院長には償いきれない迷惑をかけた。院長は事を隠蔽しようとしたわけではない。
 裁判の前に一度だけ面会した際、院長は『事が起こった以上、金銭を支払うしか、自分にはできない。それなのに受け取りをいまだ拒否されている』と悔やんでいた。彼が誠実な医師であることはよく知っている。
 最後に『うちとしては君を守ってやることはできない。すまない』と申しわけなさそうに謝られた。神崎はただ黙って頭を下げた。
「あなたは雅隆さんの安楽死を望んでいましたか?」
「いいえ」多香子はきっぱりと否定した。「愛する夫の死を願うはずがありません! 夫には、息子のためにも一日でも長生きしてほしかったです」
「雅隆さん本人はどうでしょう?」
「苦しくても精いっぱい生きようとしていました」
「被告人は雅隆さんを含めて三人の患者を安楽死──死に至らしめています。それを知ってどう思いましたか」
「赦せません」彼女は涙声で言った。「神崎医師は、あたしからは愛する夫を──息子からは愛する父を奪ったんです」

 第三回の審理が終わると、神崎は拘置所に戻された。
 患者である水木雅隆に塩化カリウムを注射し、死に至らしめたのは事実だ。
 だが、法廷で明かされていない事実もある。

 ──先生。多香子の表の顔に騙されないでくれよな。

 ある日のことだった。体調を伺っているとき、雅隆が縋るような眼差しで言った。
 その台詞の意味を知るのは、彼の病状が悪化してからだった。

 ──あなたがしぶとく生きてたらいい加減迷惑なの!

 病室のドアの隙間から漏れ聞こえた多香子の罵倒が耳に蘇った。辛辣な台詞にぎょっとしたのを覚えている。
 人の本心は、表面では計り知れないものだ。愛とは一体何だろう。自分は正しかったのか、間違っていたのか。
 いまだ自問する。



 神崎が勤めているのは、東京郊外にある天心病院だった。終末期を過ごす患者に緩和ケアを行うホスピスだ。ベッドの数は三十床もなく、医師はわずか三人で、看護師は四人。後は臨床心理士、ソーシャルワーカー、リハビリ専門医、臨床工学技士、栄養管理士、薬剤師だ。
 緩和ケア──。
 一言で言えば、重い病気に苦しむ患者とその家族が少しでも苦痛が少ない残りの時間を送れるよう、ケアすることだ。
 必ずしも終末期の患者に行うケアに限定されているわけではない。だが、天心病院は死期が近い患者が大半だった。明るく振る舞っている者もいれば、死の気配を纏って絶望している者、悲観的になって心を閉ざしている者など、様々だ。
 治して退院させるのではなく、死を前提とし、少しでも苦痛の少ない最期を送れるよう、手助けする。
 時に医師として無力感に襲われ、自分を見失いそうになる。死に慣れてしまえば楽だと承知していても、決して慣れることはなく、常に葛藤が付き纏う。
 神崎は更衣室で白衣を羽織ると、看護師の八城優衣を伴って個室を順番に回った。
「……具合はどうですか?」
 神崎は、ベッドに仰向けで寝ている水木雅隆に声をかけた。二十七歳の男性で、全身にがんが転移している。天心病院に転院してからは抗がん剤の使用を中止しているものの、投与していたころの副作用で頭髪も眉もない。
 彼は虚ろな瞳をわずかに動かし、一吹きで消えてしまいそうな声でつぶやいた。
「喉が苦しい。綿が詰まっているみたいだ……」
 それだけを口にするのが精いっぱいらしく、彼は胸を上下させた。顔は脂汗にまみれており、体内の痛みを吐き出したがっているような荒い息遣いだ。
「痰を出しましょうね」八城看護師が彼に寄り添い、優しく語りかけた。「そうすれば楽になりますからね」
 がんが肺に転移していると、痰が溜まりやすくなる。
 八城看護師は彼を側臥位にすると、病院着の上から背中を丹念にマッサージしはじめた。吸引器は苦しみを伴うため、彼は嫌っている。
 手抜きしない彼女は、排痰法も、顔を汗まみれにしながら丁寧に丁寧に行う。
 彼女は三十四歳とまだ若いものの、死が前提のこの職場で献身的に患者に接している。一ヵ月で辞めてしまう看護師も少なくない中、貴重な人材だった。
「痛みのほうはどうですか?」
 神崎は問診票を取り出し、雅隆の背中側から尋ねた。彼はぼそぼそと答えた。
「痛むんだ。ものすごく」
「どの部分が痛みますか」
「……腕がずきずきして、胸も苦しい」
 食いしばった歯の隙間から絞り出すような声だった。
「痛みは強いですか? 一番痛いときを十とするなら、今はどのくらいですか?」
「……八くらいかな。みぞおちにヘビー級のパンチを食らったらこんな感じだろうな、きっと」
 痛みの場所や強さを伝えやすいよう、用意した人の体のイラストで部位を指差してもらったり、数字を用いて意思疎通をはかるのは、大事なことだった。現場ではそういうやり方を採用している。
「今はそれでもましだよ」水木雅隆は背中をマッサージされながら、痰が絡む咳をした。「夜中は激痛で目覚めて、そのままずっと寝られなくて。十五くらいかな」
 痛みが最も強かった──ということだ。非ステロイド系消炎鎮痛剤では緩和しきれていないようだ。
「オピオイドを使いはじめましょうか」
 彼は大きく息を吐いた。
「オピオイドって──麻薬だよな?」
「そう分類されますね。モルヒネです」
「中毒が怖いな」彼は弱々しく自虐的な笑みを見せた。「ま、先が長くないのにそんな心配、馬鹿らしいかもしれないけど。煙草だって吸ったことないんだよ、俺」
「……痛みがある患者さんの場合、オピオイドを投与しても依存症になりにくいです」
「そうなのか?」
「痛みがあると、痛みを抑える防御反応としてドーパミン系の回路が抑制されているので、依存症になりにくいんです。ですから、NSAIDsの効果が不充分だと、使ったほうが良いです。神経障害には効果がありませんが、呼吸困難の苦しみには効きます」
「でも……麻薬を使いはじめると、死への助走をはじめた気がして、いよいよかな、って思ってしまって……それに麻薬に頼ったらますます何もできなくなりそうで……」
 病人は自分で様々な可能性を調べるため、時に医師より治療法や薬に詳しいこともある。だが、多くは中途半端な知識で、間違いも少なくない。
「オピオイドは多くの患者さんが誤解されているような、〝看取りの薬〟ではありません。むしろ、痛みを緩和することで、ご自身で諦めていたことができるようになります。前向きな投薬なんです」
 マッサージを終えた彼女は、彼の病院着をまくり上げ、温めたタオルで背中を拭きはじめた。
「……痛みが激しいときだけ飲むことは?」
「それはあまりお勧めしません。そうしてしまうと、逆に痛みを感じやすくなってしまうので」
「そう──か」
 彼の口ぶりには落胆の感情が滲んでいた。
「飲み薬はもう増やしたくないな。吐き気が強くて……」
 神崎は人差し指で首筋を搔いた。
 飲み薬のオピオイドだと、吐き気を催すケースがあり、大量に投与できないという問題点がある。制吐薬である程度は抑制できるものの、それにも限度がある。
 激痛も苦痛なら、吐き気も苦痛だ。無用な痛みを避けなければ、緩和ケアの精神から遠のいてしまう。
「経口投与ではなく、点滴にしましょう。それで吐き気は抑えられるはずです」
 マッサージを終えると、八城看護師は側臥位の向きを替えた。不安そうな眼差しと対面する。
「……副作用は?」
 症状を抑えるために薬、薬、薬──。新しい投薬の際、患者の誰もが気にするのは副作用だった。
「適量を投与すれば、様々な副作用もそれほど心配はありません」
「それでもあるんだろう?」
「はい。オピオイドの副作用の一つに便秘があります」
「便秘──?」
「はい。今は排便の状況はどうですか?」
「……ちゃんと出てるよ」
 答える彼は顔を顰めていた。今にも泣き崩れそうな、それでいて恥辱を嚙み締めているような、複雑な表情だった。
 彼は先日、トイレでの排便を望み、自力で歩いて行こうとしたが、倒れ込んで間に合わず、漏らしてしまっていた。
「便秘になったら、極力下剤を使わずに自然排便できるよう、努力してみましょう」
「……他に副作用は?」
「眠気に襲われるかもしれません」
 彼は顔を歪めたまま唇に微苦笑を刻んだ。激痛の最中、無理して作った笑みのように見えた。
「……今夜にも眠ったまま逝けたら幸せだろうな」
 悲観的というより、心底それを望んでいるかのような口ぶりだった。
「何をおっしゃってるんですか」八城看護師がベッドサイドテーブルの整頓をしながら言った。「ご家族も雅隆さんにまた会いたがっていますよ」
 彼は、ふっと息を漏らした。自嘲のようでもあり、冷笑のようでもあった。
「どうかされたんですか?」
「面会を──拒絶することはできないかな」
 肉体が朽ち、死にゆく様を家族に見せたくないと訴える患者はいる。だが、〝拒絶〟とは言葉が強すぎる。
「つらいんだ……」
 絶望の漆黒に塗り込められたかのような声に、八城看護師は一瞬、息を詰まらせた。
「お気持ちは──」
 彼女は語りかけようとし、途中で口を閉ざした。安易な共感の言葉など何の慰めにもならないと悟ったかのように。
「ご家族が悲しまれますよ。息子さんも、お父さんに会いたがっています」
「……そうだよな。忘れてくれ」
 彼は会話を拒否するように静かに目を閉じた。だが、八城看護師は精いっぱいのいたわりの声で続けた。
「この前だって、息子さん、次にお見舞いに来るときは、お父さんにプラモデルを見せるんだって。誕生日に買ってあげたそうですね。息子さんが大好きなシリーズ。一生懸命作っているそうですよ」
 雅隆は何の反応も見せなかった。だが、よく見ると、固く閉じたまぶたがわずかに濡れ光っていた。



 オピオイドの投薬をはじめると、激痛はいくらか抑えられたらしく、雅隆の苦悶のうめきも減った。
「どうですか?」
 尋ねると、彼は目を開けた。
「楽にはなったよ」
「そうですか。よかったです」
 神崎は質問を重ね、彼の体調を確認した。聞き取っていると、病室のドアがノックされた。
 八城看護師と共に入ってきたのは、子連れの女性──水木雅隆の妻と息子だった。
「あ、先生」多香子は軽くお辞儀をした。「夫がいつもお世話になっております」
「いいえ」
「夫の具合は──」
「オピオイドが効いているようで、先週に比べたら痛みはずいぶん落ち着いているようです」
「先日は、痛い痛いって言ってましたから。会話もまともにできないくらいで……息子もそんな父親の姿に怯えてしまって……」
 彼女は丸椅子に腰掛けると、夫の二の腕に触れた。そっと撫でるようにする。
 雅隆は息子が見舞いに来る日は、医療用のウィッグを被っている。彼は『もう長くないんだから見栄えなんか気にしないけどさ、骸骨みたいな見た目で怖がらせたくないだろ』と話していた。だが、体裁を整えても子供の不安を和らげはしないようだ。
「病気になる前は弱音なんて吐いたことがないんです。だから、息子もこんな父親の姿を見るのに慣れていなくて……」多香子は息子を見やった。「動揺しているんだと思います」
 息子は、多香子が置いた丸椅子の前で突っ立ったまま、ベッドには近づこうとしなかった。
 子供の心理としては無理もない。大きな背中で今まで自分を守ってくれていた存在が、自分でもできること──一人で歩いたり、食べたり、走り回ったり──すら不自由になり、病院のベッドに何ヵ月も繫がれ、痛みにうめき、涙している姿は、ショック以外の何物でもない。
 神崎は母のことを思い出した。
 三十五歳のころに母ががんになって弱っていく姿を目の当たりにしたときは動揺し、怖かったことを覚えている。死に向かう肉親の姿は、目を背けたくなるほど、根源的な不安と恐怖を駆り立てるのだ。
 最後の数週間、見舞いをためらった。そのときの後悔は今でも残っている。
 ──自分を必要としている患者がいる。患者を放置できない。母なら今日明日会えなくなることはないだろう。
 そうやって自分を無理やり説得した。
 患者の手術中に何本も着信があったことを知ったのは、母の死から二時間後だった。
 瘦せ衰えた母の亡骸と対面した。どんな最期だったのだろう。担当医に尋ねると、苦しみの少ない安らかな最期でした──と言われた。気を遣ってくれたのだと分かる。
 医師として末期がんの患者を何人も診てきた。そんな平穏な最期だったとは思えない。
 だが、担当医の言葉を信じたがっている自分がいた。
 自分が傷つきたくなくて、目を逸らしてしまった。だからこそ、避けられない死ならせめて苦痛をより少なく──。
 家族としても、苦痛にまみれている身内には会いにくいだろう。それが緩和ケアに関心を持つきっかけだった。天心病院の院長に声をかけられたときは、運命じみたものを感じた。
「ほら」多香子は息子に手を差し伸べた。「お父さんに話してあげて。体育祭のこと、教えてあげたいって言ってたでしょ」
 息子はためらいがちにうなずき、ベッドに近づいた。仰向けになる父親をじっと見下ろす。
 雅隆のほうから何か声をかけるかと思ったが、彼は目玉を動かし、無言で見返しただけだった。
「この前ね──」息子が口を開いた。「体育祭があってね、僕、リレーでアンカーだったんだよ。赤組でね。青組に負けてたんだけど、一生懸命走って、抜いたんだよ」
 雅隆は視線を天井に据えている。
「……一位だったんだよ、僕」
 褒めてほしがっているのが明らかで、息子は緊張した顔で父親の反応を待っていた。
 静寂の中、エアコンが静かに暖風を吐き出している。
「あなた」多香子が呼びかけた。「何とか言ってやって。哲人、頑張ったんだから」
 雅隆は大きく息を吐いた。
「……そうか」
「そうか、って──」
 雅隆は落ち窪んだ眼窩の中で目玉を動かした。死んだ魚のような瞳で妻を見る。
「ベッドの俺は蚊帳の外だ」
「映像、見る?」多香子はショルダーバッグを漁り、液晶付きのハンディカメラを取り出した。「哲人の雄姿──」
「いや」
「見てやらないの?」
 雅隆は興味なさそうに視線を外した。
 多香子はかぶりを振りながら嘆息した。哲人に向き直り、優しく頭を撫でる。
「お父さん、今日は疲れてるみたい。少し外、行きましょうか」
 哲人は安堵したように息を抜いた。
「……うん」
 多香子は息子の手をとると、神崎に向かって「先生、夫をよろしくお願いします」と言い残して出て行った。
 二人きりになると、気まずい沈黙が降りてきた。雅隆は視線を壁際に流している。
 一介の担当医に彼の態度を咎める権利はなく、聞かなかったことにして診察を続けるしかなかった。
「先生……」
 雅隆がつぶやくように漏らした。
「何でしょう」
「先生は──リングで大の字になったこと、あるかい?」
「リング?」
「強烈なパンチを貰って、意識が飛んでさ。気づいたら、ぐわんぐわん揺れる視界の中で高い天井を見上げてんだ。そのときの照明の眩しさがさ──」雅隆は病室の蛍光灯を睨みつけた。「ちょうどこんな感じだったよ」
「……眩しいですか?」
「ちょっとね」
 神崎は壁のスイッチを切った。まるで命の灯火のように、蛍光灯がふっと消え、病室が薄暗くなった。カーテンを開けた窓から射し込む夕陽が彼の横顔をうっすらと朱に染めている。
「ボクシングをされていたんですか」
 雅隆は儚げな微苦笑を浮かべた。
「こんなザマじゃ、そうは見えないだろうけどさ。期待されてたんだよ、結構。日本ランカー目前でさ。チャンピオン目指してた」
 彼は薄闇が溜まる天井に向かって手を伸ばした。摑み損ねた何かを摑もうとするかのように。
 濡れた瞳でその手を見つめている。
「後からビデオを見たら、首がひん曲がるような一発を顎に貰って、崩れ落ちてさ。10カウントだよ。狙い澄ました右フックがカウンターで炸裂してた。先生はボクシングは観るかい?」
「有名な日本の選手の世界戦がテレビで放送されたとき、二、三度観たことがあります。その程度ですが」
「相手はさ、アウトボクサーで、ちまちまポイントを稼がれて、一発逆転を狙った大振りに合わせられた。いつもはそれでKOしてきたんだけど、そのときは相手が巧かった。さすがに利き腕の右同士のカウンターだから一発だったよ」
「……残念でしたね」
 雅隆は急に全身から力を抜き、腕を落とした。まるで自分のKOシーンを再現するかのように。
「プロ初のダウンでさ。初めて知ったよ。脳が揺れるとさ、気持ちいいんだよな。立ち上がりたいって思えなくなる。その快楽に身を委ねたくなるんだよ。ちょうど、オピオイドを投与されてる今のようにさ」
 話の行きつく先に漠然とした不安を覚え、相槌も打てなかった。
「ボクサーを立てなくすんのはさ、痛みじゃないんだよ。快楽なんだ。痛みなら耐えられても快楽には耐えられない。どうせなら気持ちいいまま逝きたいよな」
 死への願望──。
 本来、医師ならば否定しなければならない。だが、ホスピスでは事情が違う。
 避けられない死を苦痛なく迎えたい──。
 それは死を受け入れた者たちの望みでもある。医師も看護師も安らかな最期を迎えさせてやれるよう、誠意を尽くしている。単なる願望であれば、ホスピスの患者たちが日常的に口にするし、さして珍しくはない。
 だが──。
「先生の手で俺を死なせてほしい」

 無感情なつぶやきだったが、切実な懇願の響きを帯びていた。神崎はとっさに言葉を返せなかった。
 平穏な死を迎えるための手助けと、死へ背中を押す行為は違う。一時的な悲観の感情で口にした世迷い言として、軽口のように扱うのが最善だと思った。
「ご冗談はよしてください」
 雅隆の瞳がゆっくりと動き、目が合った。胸の内を探り合うように、しばし間があった。
「今の俺はさ、ダウンしても無理やり引き起こされて殴り続けられているようなもんだよ。タオルを投げてくれるセコンドがいなけりゃ、一体誰が終わらせてくれるんだ?」
 彼の真剣な眼差しと向き合っていると、冗談や戯言で口にしたわけではなさそうだった。
「ホスピスは、苦痛がない最期を迎えさせてくれるんじゃないのかい」
 治癒が見込めない患者に苦痛を与えるだけの治療を中止し、人間らしい死を迎えさせる──という理念は、たしかに終末期ケアでは重視されている。だが、彼の場合、まだターミナル前期だ。症状を緩和し、痛みをコントロールしている段階だ。人工呼吸器や投薬で生きながらえているわけではないので、彼が望む死を与えようとすれば、直接手にかけるしかない。
 何も答えられずにいると、雅隆が細腕を持ち上げ、眺めた。筋肉は削げ落ち、骨の輪郭が浮き彫りになっている。それは眼窩が落ち窪み、頰骨が浮き出る顔も同じだった。
「見てくれよ、先生。現役時代はさ、あんなに減量に苦しんでたってのに、今じゃ、三階級も下がっちまった」
 食事ができないことは、必ずしも悪いことではない。なぜなら、栄養を摂れば、それががん細胞の餌になるからだ。
「笑っちゃうよな」雅隆が自嘲の笑みを漏らした。「トレーニングしてて、やけに疲れやすくて、疲労もなかなか抜けなくて……おかしいなとは思ったんだよ。だけど、初のKO負けを喫したばかりだったからさ。その精神的なもんが原因だって思い込んでた」
「検査はされなかったんですか?」
「負けた日に脳の精密検査は受けたよ。異常なしだった。まさか内臓のほうに問題があるなんて、思いもしないだろ。それで今じゃこのありさまだよ」
「少しでも楽に過ごせるよう、何が最善か一緒に考えていきましょう」
「綺麗事だよ、先生。この先どんどん苦しくなることが分かってる。楽になりたいよ、早く。苦痛と一緒に自分の肉体が朽ちていくのが耐えられないんだ」
 患者から向けられる死の願望に対し、いまだどう答えるのが正解なのか、分からずにいる。
 神崎はしばらく彼の感情の吐露に付き合った。
 他の病室を回った後、食堂で昼食を摂った。豚の生姜焼き定食が運ばれてくるまでの時間、スマートフォンで『水木雅隆』の名前を検索してみた。
 普段は患者と距離を取っている。必要以上に踏み込まず、医師として相手を診るためだ。
 だが、それは本当に正しいのか。
 彼の人間性や人生を知る手掛かりになるかもしれない。目の前の人間を単なる〝患者〟として診ているだけでは、決して本音にはたどり着かないのではないか。
 彼はたしかにプロボクサーだった。顔写真も出ている。無駄がないシャープな顔立ちだ。今とは別人だ。
 動画を検索すると、試合の映像があった。イヤホンをつけ、再生してみる。
 せっかくだから彼が勝利した試合を選んだ。
 観客席が半分も埋まっていない試合会場で、リングだけがまばゆく輝いている。ブルーのトランクス一枚の彼は、引き締まった肉体を剝き出しにし、躍動していた。重そうな左ジャブで距離をはかり、右を振り回す。
 相手は軽やかなステップでパンチを躱している。放つジャブが的確に雅隆の顔を弾く。
 一ラウンド、二ラウンド、三ラウンド、四ラウンド──。
 流れは変わらなかった。ダウンを奪わなければ──いや、KOしなければ判定負けは必至だろう。素人にも分かる。
 地味な試合展開だった。アウトボクシングをする相手に付き合わされている、という印象だ。飛び散る汗。歓声と罵声──。
 五ラウンド終了のゴングが鳴ると、雅隆は自分のコーナーに引き上げた。顔には焦りが色濃く表れている。
 彼は両肩を丸めるようにして丸椅子に尻を落とした。そのせいで一回り小さく見えた。
 セコンドがリングに飛び上がるや、彼の頰を両手で挟み、鬼の形相で発破をかけた。
 途切れ途切れの怒声が流れてくる。
 ──何やってんだ、馬鹿野郎!
 ──あいつのガッツポーズを大の字で眺めたいか!
 ──そんならやめちまえ! いつでもタオルを投げてやる!
 雅隆の瞳に闘志が戻った。闘犬じみた顔つきで相手陣営を睨みつけ、気合を入れる。
 ──よし、行ってこい!
 リング中央に進み出た雅隆は、目に見えて動きが違った。スピードでは劣っているものの、巧みにプレッシャーをかけ、コーナーに追い詰めていく。そして──ボディを中心にパンチを打ち込み、相手の体力を削った。
 その瞬間は六ラウンドの終了間際に起こった。執拗なボディ攻撃を嫌がった相手がガードを下げた瞬間、狙い澄ました右フックが顎に炸裂したのだ。
 それまでに相手が稼いだポイントを帳消しにする一発だった。10カウントを聞くまでもなくゴングが打ち鳴らされる。
 両拳を天高く突き上げ、雄叫びを上げる彼は、生命力の塊だった。誰よりも肉体的に充実していて、タフだ。一体誰がこの一年半後にベッドから立ち上がれなくなると想像しただろう。
 輝きが強ければ強いほど、光が消えたときの闇が濃くなる。今の彼の心を占めるのは、どれほど深い闇なのか。
 ──観るんじゃなかったかな。
 一握りの後悔を抱えたまま、動画を停止した。
 神崎は昼食を終えると、ロビーに戻った。哲人がソファに座っていた。両脚をぶらぶらさせながら携帯用ゲーム機で遊んでいる。
「どうしたのかな?」神崎は哲人に話しかけた。「お母さんは?」
 哲人はゲームを中断し、画面から顔を上げた。
「お父さんと話があるから待ってろって」
「そっか……」
「僕、いつまで待ってたらいいの?」
 下がり気味の眉に一人ぼっちの寂しさと不安が表れていた。
「……先生が様子を見てきてあげよう」
 神崎は雅隆の病室へ足を運んだ。
 病室の前に着き、ノブに手を伸ばしたときだった。室内から多香子の声が漏れ聞こえた。
「──あなたがしぶとく生きてたらいい加減迷惑なの!」



 神崎は手のひらがドアノブに触れる寸前で立ちすくんだ。指先に痺れるような緊張が走る。
 呼吸も忘れ、身じろぎすらできずにいた。
「何だと!」
 雅隆の怒鳴り声がドアを震わせた。神崎は思わず廊下を見回した。自分に後ろめたさは何もないにもかかわらず、なぜか誰もいないことに安堵した。
「いつまでロープにしがみついてるつもりなの? このままだったら医療費だってかかるし、保険金だって下りないの」
 他人事ながら鉤爪で胸を鷲摑みにされるような、疼痛を覚えた。
 踏み込むべきなのかどうか。
「お前がそんな女だと思わなかった!」
「……あたしは現実を見てるの」
 地を這うように低い声がドア越しに聞こえた。
 患者のためを思えば看過はできない。
 神崎はノックし、ノブを回した。蝶番が金切り声を上げる。ドアが開くと、目を瞠った多香子の顔と対面した。だが、彼女はすぐに焦りと驚きの表情を消し、ほほ笑みを繕った。
「あ、先生」どこかわざとらしく媚びを含んだ声だ。「夫も今は少し体調がいいみたいです」
 機先を制された形となり、神崎は言葉に詰まった。先ほどの罵倒は幻聴だったのではないかと思える。
「あ、ああ……何よりです」
 神崎はベッドに歩み寄り、雅隆を見下ろした。彼は無感情な瞳で天井を睨みつけていた。孤独な朽木のようで、肌の色も枯れた樹皮を思わせる。
「大丈夫──ですか?」
 心配が口をついて出た。
 彼は口元を歪めただけだった。
「先生」多香子が神崎の背後から言った。「このまま痛みはましになっていくんでしょうか?」
 平穏を願うような口ぶりだったが、声には緊張が滲み出ていた。質問の真意を疑ってしまう。
「……オピオイドが効いていますから、しばらくは苦痛も抑えられると思います」
 神崎は可能なかぎり率直に説明した。病状を偽れば信頼を得られず、患者も家族も現実を受け入れられない。
 ホスピスでは、本人の緩和ケアだけではなく、家族ケアも欠かせない。苦しんでいるのは本人だけではない。家族も肉親に迫る死をどう受け止めればいいか、不安で心労を抱えている。だからこそ、症状や治療方針、今後起こり得る問題について正直に話し、理解と気持ちを共有しなければならない。
 だが、どこまでプライバシーに踏み込むべきなのか。
 家族間には色んな事情がある。今まで看取ってきた患者とその家族も様々だった。全く見舞いに来ない家族もいれば、瘦せ細った姿にショックを受けて距離をとってしまう家族や、現実を受け入れられず泣き崩れる家族──。
 だが、今回は事情が違う。
「あの……」
 神崎は振り返り、一言でも注意しようと思った。だが、多香子はほほ笑みの仮面を外さないまま、小首を傾げた。
「何でしょう?」
 安易な質問を拒絶する雰囲気があった。先ほどの立ち聞きには気づいていないだろうが、さっきの今だからか、警戒心が見て取れる。
「……いえ、何でもありません」
 結局、彼女の本音には触れられなかった。
「そうですか……」
 多香子は視線を落とした。低く抑えた口調に含みがあった。だが、神崎は気づかないふりをした。さっきのは単なる売り言葉に買い言葉かもしれないし、聞かれていたと知ったらバツが悪いだろう。
「……哲人君が待っていましたよ」
 彼女ははっと思い出したように顔を上げた。
「じゃあ──」多香子は雅隆の腕を軽く撫でさすった。「また明日、来るから。休みには哲人も一緒に」
 彼は小さく顎を動かした。それが肯定を示す唯一の仕草だった。
「先生」多香子は殊勝に頭を下げた。「引き続き夫をよろしくお願いいたします。苦しみと痛みが和らぐように、何とか……」
 今度は一切の他意が感じられず、夫想いの妻としか思えなかった。仮面の精巧さにぞっとした。
 二人になると、神崎は内心を押し隠し、彼の診察を行った。普段以上に優しく声をかけ、点滴の量を調整する。
「……それでは、また夜、来ます」
 病室を出ようとしたとき、辛うじて聞き取れる声で「先生……」と呼びかけられた。
 神崎は振り返った。
「どうしましたか?」
 雅隆は逡巡するように唇を結び、やがて口を開いた。
「多香子の表の顔に騙されないでくれよな」
 それは彼の哀訴のように感じた。



 それから一ヵ月──。
 多香子は週に四度のペースで見舞いに来ていた。
 彼女の存在を気にしていたこともあり──不誠実だと知りながら、彼女が見舞いに来たときはドアの前に立ってしまった──、神崎はしばしば悪罵を耳にした。
 雅隆もどうやら言い返しているようではあったが、命そのものを削り取られているかのように症状は日に日に悪くなっていた。
 以前、面会を拒絶できないか、彼に訊かれた理由が分かった。彼は、自分を罵倒する妻と会いたくなかったのだ。
 見舞いのたび、ロビーで待たされる哲人の姿が目に入った。彼は退屈そうに携帯ゲーム機と睨めっこしている。
 神崎はため息をついた。
 彼が待たされているときは、必ず病室で口論している。一緒に話せる時間が限られている父親に会いに来た息子を放置してまで、雅隆を罵らねば気が済まないのか。
 神崎は哲人の隣に腰掛けた。
「それ──面白いの?」
 彼は神崎に顔を向けた。プレイしている指が止まった。画面の中で爆発のエフェクトが起こり、『GAME OVER』の文字が表示される。
「あ、死んじゃった……」
 ゲームの話だと分かっていながら、ぎょっとしてしまう。
「ごめんね。邪魔しちゃったかな」
 哲人は神崎の顔をじっと見つめ、小さくかぶりを振った。
「別に。暇潰しだし」
 幼い顔に達観したような表情が表れている。
「お母さんはまた病室?」
「……うん」
「待たされてるの?」
「……うん」
「どのくらい?」
 彼は視線を持ち上げ、壁の掛け時計を見た。
「十五分くらいかな」
「そうか。様子を見てきてあげよう」
 神崎は立ち上がり、踵を返した。歩き出そうとしたとき、白衣が引っ張られた。
 振り返ると、哲人が裾を鷲摑みにしていた。リノリウムの床を睨むように視線を落としているため、顔に影が覆いかぶさり、表情が窺い知れなかった。だが、垂れ下がった前髪の隙間から覗く唇は嚙み締められており、泣き顔をこらえてるように見えた。
「どうしたの?」
 哲人は床に沈むような声で囁くように言った。
「今は行かないほうがいいよ」
 切実な口ぶりだった。
「なぜ?」
 彼は言いにくそうに視線をさ迷わせた。それで気づいた。
「……お父さんとお母さんの喧嘩を知ってるんだね?」
 哲人ははっと顔を上げたものの、また目を逸らした。しばらく沈黙した後、こくりとうなずく。
「哲人君が知っていること、二人は──」
 小さくかぶりを振る。
 おそらく、毎回待たされることが焦れったく、病室へ行ったのだろう。そして聞いてしまった──。
「ねえ」哲人が消え入りそうな声で言った。「お母さんが怒鳴るからお父さんは死んじゃうの?」
 神崎は絶句した。
 実際、多香子の罵倒が呪いとなって体を蝕んでいるかのように、雅隆の体調は悪くなっている。
 だが、家族に不安を与えるわけにはいかない。
「お父さんの体調がよくないのは、病気のせいなんだよ。お母さんのせいじゃない」
「本当? でも、喧嘩は嫌い」
「……お母さんも不安なんだと思うよ。今度、喧嘩があったら先生からちょっと話してみよう」
 哲人の頭を軽く撫でてやると、病室に向かった。外から開ける前に向こうからドアが開き、多香子が出てきた。
 目が合うと、彼女は縋るように言った。
「夫が苦しそうです。どうか痛みを取り除いてやってください」
 表の顔は決して崩さない。
 彼女が立ち去ろうとしたので呼び止めようとした。だが、結局黙って見送った。
 病室に入ると、ベッドの雅隆が顔を向けた。虚ろな瞳は焦点を結んでいない。
「……先生?」
「そうです。私です」
 ベッドに歩み寄り、彼の腕にそっと触れた。八城看護師から『スキンテアが……』と報告を受けていたので、注意深く病院着の袖をまくり上げた。
 雅隆が「ぐっ」とうめき声を漏らした。
 創縁──傷の周囲──が戻せる箇所は皮膚接合用テープで固定してあるものの、他の場所は酷いありさまだった。薄黒い皮膚がめくれ上がり、赤色の肉が見えている。
 スキンテア──皮膚の損傷だ。終末期のがん患者は、わずかな摩擦でも皮膚がめくれたり、傷ついてしまう。
「これは──痛いでしょう」
 神崎は同情を込めて言った。
「……火傷しているみたいだ」
 創縁が戻せないスキンテアは、ドレッシング材や医療用粘着テープで皮膚剝離を予防するしかない。
 神崎は処置を行いながら、彼の激痛を想像して顔を顰めた。
 今の彼は心と体のどちらがより痛いのだろう。



 廊下を歩いているとき、受付のほうから向かってくる多香子と出会った。
「ああ、先生」彼女はお辞儀をした。「いつもありがとうございます」
「いえ。今日も雅隆さんのお見舞いですか?」
「哲人は学校なので、あたし一人で」
「……そうでしたか」
 つまり、多香子は言いたい放題──ということだ。寝たきりのまま、悪罵を浴びる雅隆の苦痛を思うと、放置はできなかった。彼をこれ以上苦しめるわけにはいかない。息子も聞いてしまっているのだ。
「少し──お話ししませんか」
 通りすぎようとした多香子に声をかけた。彼女は立ち止まり、不安そうな顔で「夫の具合が深刻なんですか?」と訊いた。心配が滲み出ている。
 演技がうまい。
「雅隆さんに関係のある話です」
 多香子は小さくうなずいた。
 私は先導してホスピスを出た。ロビーで話すような話題ではない。
 石畳が敷き詰められた敷地では、白衣の上からも染みとおる寒風が吹きすさび、並ぶ裸木の枝々が震えていた。
 冬は終わりを連想させるから好きではなかった。
「座りましょう」
 木製ベンチに並んで腰を落ち着けた。神崎は膝の上で両手の指を絡め、前方を見つめた。
「夫は……」
 多香子は焦れたように口を開いた。神崎は横顔に刺すような視線を感じながら一息ついた。
 プライベートの家族関係にどこまで踏み込むか、という問題はある。だが、それが患者本人の精神状態や体調に悪影響を及ぼし、平穏な残りの人生を妨げているなら無視はできない。それも含めての緩和ケア、終末期ケアではないか。
「……最近は症状がよくありません」
 彼女が緊張したのが肌に伝わってくる。
 神崎はちらっと彼女を窺った。多香子は続きを促すように、じっとこちらに目を注いでいた。
「お見舞いは──控えていただけませんか」
 雅隆のことを思えば、それが最善だろう。
「なぜですか?」
 通常の病院のように面会謝絶にするわけにはいかない。家族が後悔なく患者を看取れるよう、最期までケアするのがホスピスの理念なのだ。家族を締め出すことはできない。
「あなたの存在が雅隆さんを苦しめています」
 神崎ははっきりと言った。多香子は目を剝き、言葉を失った。よもや自分が元凶にされるとは思いもしなかったのだろう。
「思い当たることがおありでは?」
 ウェーブがかかった多香子の茶髪を寒風がさらっていく。はためく髪が顔を隠すように暴れても、彼女は搔き上げたりはせず、なぶられるままにしていた。
 やがて風が止み、髪が落ちた。現れた表情には、攻撃的な警戒心が満ちあふれていた。
「あたしが何をしたって言うんですか」
 どうあってもこちらから言わせるのか。語るに落ちないよう、言動には細心の注意を払っているのだろう。
「……病室のドアは意外と薄くて、声が聞こえるんです。そう言えばお分かりでは?」
 多香子の目がスーッと細まった。
 二人のあいだを寒風が吹き流れていく。
「彼の苦しみを思うと、黙っていられませんでした」
 彼女は足元に視線を落とした。落ち葉を睨む眼差しには、思いつめたような切実さがあった。
「……あたしは残酷です」
 後悔の吐露だった。自覚しておきながらなぜそんな言動を──と思う。
「ご家庭の経済事情など、色々あるかと思います。しかし、なにも今このときでなくても──」神崎は彼女同様、地面を見つめた。「残りの時間、心安らかに──」
「分かっています。あたしも分かっています。でも、哲人のためにも死んでほしくないんです。一日でも長く生きてほしい。あたしの願いはそれだけです」
 死んでほしくない?
 何か話が嚙み合っていない。いや、そもそも、彼女が会話していないせいか。
 一方的に喋っている。想いを吐き出している。
「あなたは雅隆さんを辛辣に責めています。聞いていられなくて、こうして出過ぎたまねをしています」
 横目で窺うと、多香子は苦悩の表情を見せていた。
「彼は──プロボクサーだったんです」
「知っています」
「あたしはジム経営者の娘で、ボクシングに一途な姿に惹かれて付き合いはじめたんです。結婚前に妊娠したときは、ずいぶん父に怒られましたけど……彼は、守るものがあるほうが頑張れるって、プロポーズしてくれて」
 話を聞いていると、憎む要素があるとは思えない。
 こちらの当惑が伝わったのか、彼女は一呼吸置き、ふっと息を抜いた。唇に微苦笑が浮かぶ。
「諦めそうになる彼を奮い立たせるとき、インターバルでセコンドがどうしていたか知っていますか?」
 彼女は神崎の目を真っすぐ見ていた。神崎はその瞳の中で問いの真意を探した。
 それから自分の記憶を探った。動画のワンシーンを思い浮かべ、はっとする。
 反骨心を煽り立てる挑発的な叱咤――。
鬼の形相をしたセコンドは、『何やってんだ、馬鹿野郎!』『あいつのガッツポーズを大の字で眺めたいか!』『そんならやめちまえ! いつでもタオルを投げてやる!』と彼を怒鳴りつけていた。中高生の部活でコーチが浴びせていたら問題になるだろう台詞でも、プロの──しかも命懸けの格闘技の世界では違う。現に雅隆の瞳には闘志が戻り、その後、KO勝ちをおさめている。
 神崎は慄然とした。
「まさか、あなたは彼が生きる意志を失わないように──」
 多香子は表情から力を抜き、ブロック塀のそばの木立へ視線を逃がした。
 ──あたしは残酷です。
 彼女が吐き出した言葉の意味が今、理解できた。
「夫は──彼は死にたい、死にたいって。哲人の前では我慢しているみたいですけど、ふとした拍子に漏らすんです。そのたび、哲人が泣きそうな顔で竦むんです」
 神崎は唾を飲み込んだ。
「哲人がいなければ──夫婦二人だったなら、あたしもこんなこと、しません、絶対に。でも、息子がいるのに彼は死を望むようなことばかり言って……。逆に言えば、息子の存在が生きる意志に繫がらないほどの苦痛なんでしょうね」
 彼女を見誤っていたのだ。
 実際、彼女が厳しい言葉をぶつけるようになってから、雅隆は死への願望を口にしなくなった。
 だが、治療で苦しみながらも、妻への憎しみで生き続けることが果たして幸せなのか。
 神崎は言葉を選びながらそう問いかけてみた。
「あたしは──たとえ恨まれても、愛している彼に死んでほしくないんです。哲人のためにも」
 彼女は痛々しいまでの、悲愴な覚悟を宿していた。
 彼女の真意を知り、どうすべきなのか分からなくなった。一方的な憎しみだと思ったからこそ、患者のためを思って口出ししたのだ。
 自分は一体どうすればいいのか。



 彼がまたその台詞を口にしたのは、裸木に残ったわずかな枯れ葉も散って寒風に掃かれていく、寒さが骨身に染みるある日のことだった。
「先生の手で楽にしてくれ……」
 エアコンの音しかない病室で、雅隆は苦悩にまみれた顔を天井に向けていた。
「雅隆さん……」
「本気だよ、先生」
 覚悟を決めた眼差しと対面した。
「……痛みが強いですか?」
 彼は、愚問だろ、と言いたげに唇を歪めた。
 神崎は「すみません」と謝った。
 聞くまでもない。彼の体調は急速に悪化しており、オピオイドの効果も薄くなっていた。嘔吐、貧血、発熱、疼痛、しばしば襲う呼吸困難──。全身症状が強く出ている。
「一人じゃもう何もできないのに、苦痛を味わうためだけに生かされて……何の意味があるんだ?」
 それは終末期の患者の誰もが──又はその家族が──抱く問いだ。だが、医者としては何も答えられない。
 なぜなら──。
 それは患者それぞれの人生の問題だからだ。残された時間で何を見つけられるか、何を得られるか、人によって違う。もしかしたら苦しみと絶望以外に何もないかもしれない。
 だからこそ、赤の他人である医師には答えられない。
 精々できるのは、何かを見つける手助けだけだ。
 末期がんだった母の死が否応なく記憶に蘇る。
 誕生日に有名店のプリンを食べて無邪気に喜んでいた母がどんどん衰弱し、一年半も寝たきりで「痛いよ、痛いよ」「苦しいよ」とうめいている姿は見ていられなかった。
 明るかった母の人生の最後の一年半は、苦痛と泣き顔ばかりだった。
 母の死から四年後に心筋梗塞で他界した父は、死こそ突然で、何も心の準備ができていなかったものの、苦痛はほぼなく、死に顔は眠っているように安らかだった。
 最期の迎え方として、どちらが幸せだったのか。
「お気持ちは理解できます。苦痛を伴う治療の全てを拒否したいというお話なら──」
「違うよ、先生。終わりにしてほしいんだ」
「終わり……」
「分かるだろ、俺が言いたいこと」
 安楽死──。
 しかも、彼が求めているのは積極的安楽死だ。酸素マスクや点滴の中止で死を迎える消極的安楽死と違い、致死性の薬物の注射などで殺してくれ、と訴えている。
「それは──殺人です」
「被害者が死を望んでるんだよ。その場合、罪にならないんだろ」
「……自殺幇助と同じで六ヵ月以上、七年以下の懲役、または禁錮ですね。殺人罪よりは軽いですが、罪になります」
「さすがホスピスの先生。詳しいんだな。乞われ慣れてる感じだ」
 苦笑いするしかなかった。たしかに乞われ慣れているし、説得の難しさも知っている。
「でもさ、それは発覚したら、だろ。医者ならさ、何かやりよう、あるだろ」
 神崎はそれには答えず、問いかけた。
「あなたは苦痛を理由に死を望んでいるんですか?」
 雅隆は質問の真意を探るように目を細めた。
「想うところがあれば、吐き出してください」
「……苦痛が全てだよ。他に何がある?」
 彼を追い詰めたのは、妻の言動ではないか。肉体的、精神的に健康で充実しているときと違い、死が避けられない病気に苦しんでいる病床では、反骨心も長くは続かないだろう。一時ならまだしも、何日も続けば精神を蝕んでいく。
 この天心病院に誘われた当時、安楽死を合法化したオランダに勉強に行った。向こうでは自立した死──安楽死を含む──を迎えることこそ、本人の尊厳を守るQOLとして大事にされている、と知り、日本より先を歩いているその理念は参考になると考えたからだ。
 そこでたまたま安楽死の話になり、オランダ人医師から一九八九年のある報告書のことを聞いた。
 オランダ厚生省の医療検査官の元ホームドクターが三年がかりで作成した安楽死の実態調査だ。
 安楽死の最も大きな理由に『痛み』を挙げたのは、わずか五パーセントだったという。約三十パーセントは、これ以上苦しむ意味があるとは思えない、という『意味のない苦しみ』だった。『屈辱に対する回避』が約二十五パーセントだ。当時の医療関係者に衝撃を与えた調査結果だったらしい。
 人は痛みに耐えかねて死を望むのではない。
 だが、検察へ提出する報告書では、安楽死の理由として『意味のない苦しみ』は四パーセントに落ち、逆に『痛み』が二十パーセントに跳ね上がるという。
 あまりの激痛に耐えられないから安楽死を望むのだ、と訴えるほうが一般的に理解を得やすいということだろう。
 雅隆は苦痛を理由にしているものの、彼の心の奥底の本心を知りたかった。
 神崎は意を決し、踏み込んでみることにした。
「奥さんの辛辣な言葉があなたを追い詰めているのではありませんか」
 雅隆は下唇を嚙み締め、まぶたを伏せた。
 今まで世界各国で審議された安楽死の合法化が否決されてきたのは、第三者が故意に命を奪う倫理的な是非もさることながら、貧しい人間や弱者の切り捨てに繫がる危惧もあった。
 治る見込みがない病気でベッドに繫がれている患者は、日々、様々なプレッシャーを感じている。家庭が経済的に恵まれていなければ、治療費や入院費を使わせていることに罪悪感を抱く。頻繁に見舞いに来てもらっていたら家族の時間を奪っていることに罪悪感を抱く。
 そのうち、『早く死んでくれたらいいのに……』という家族の声なき声を聞くようになる。人の心の中は決して見えないからこそ、被害妄想だと自分に言い聞かせても信じられず、常に疑念が付き纏う。
 ──このまま家族に心理的、経済的負担をかけるくらいなら死にたい。
 やがて患者の頭に棲みつく悲観と諦念──。
 罪悪感や申しわけなさから安楽死を望む患者の命を奪う行為は、正しいのか。許されるのか。〝気持ち〟を死の理由にすることが許されるならば、人生に希望が持てない、学校のいじめがつらい、失恋した──という理由の死も認めざるを得なくなる。だからこそ、病気による〝耐え難い苦痛〟と本人の〝気持ち〟は分けて考えなければいけない。
 だが、実際に区別が可能なのか。
 結局のところ、どのように言い繕っても、患者の主観の願望を第三者の医師が判断するのが安楽死だ。
「やっぱり──先生は知ってたんだな」
「漏れ聞こえてきました」
「……そうか」
 雅隆は強く歯を嚙み締めるように口元を盛り上げた。あふれ出そうな悲痛な絶望をこらえるように。
 言いたかった。言ってしまいたかった。
 ──あなたを追い詰めている彼女の言葉は、あなたの背中を叩いているんです。背中を押しているわけではないんです。彼女はあなたの死を望んではいません。
 多香子の切実な哀訴を思い出しながらも、神崎は重い口を開いた。
「奥さんの言葉があなたを追い詰めているなら──」
 雅隆はうっすらと目を開けた。
「言ったろ、先生」
「え?」
「多香子の表の顔に騙されないでくれよなって」
「……覚えています。前におっしゃっていましたね。奥さんは裏であなたに暴言の数々を──」
「違うよ、違う。それが俺の言った表の顔だよ」
 彼の言葉の意味が理解できなかった。
 暴言の数々が表の顔──?
 それに騙されないでくれ、ということが彼の真意なら──。
 神崎は愕然とした。
「……あなたは最初から奥さんの本心に気づいていたんですね?」



 質問に対し、雅隆は無言で目を逸らした。それで察してくれと言わんばかりだった。
「まさか全てを察していたなんて──」
「……多香子の声が廊下の先生にも聞こえたと思ってさ。だから聞いたままを真実だと誤解しないでくれ、妻を冷淡で残酷だと誤解しないでくれ、って意味で、ああ言ったんだよ」
 ──先生。多香子の表の顔に騙されないでくれよな。
 夫想いの表の顔に騙されないでくれ、という意味ではなく、夫を罵倒する表の顔に騙されないでくれ、という意味の忠告だった。
「彼女の真意にお気づきなら、そこまで思い詰めなくても──」
 雅隆は小さくかぶりを振った。
「真意を知っていてもつらいものはつらい、ということですか?」
「違うよ、先生。そうじゃない」
「ではなぜ?」
「……多香子につらい嫌われ役をさせていることが申しわけないんだよ」
 今にも押し潰されそうな顔と声だった。返す言葉を見つけられずにいると、彼が苦渋の形相で言った。
「俺を弱虫だと思うかい、先生?」
「いいえ」神崎は即答した。それだけは迷わず答えられる。どの患者から投げかけられたとしても、返事は決まっている。「病気の苦しみを吐き出すことは、〝弱さ〟ではありません」
「でも、弱音だろ?」
「大事なのは〝強さ〟や〝弱さ〟のような外の評価ではなく、患者さんそれぞれのありのままの気持ちを尊重することだと思っています」
「ありのまま──か」雅隆は自嘲するように笑った。「死にたいってのもありのままじゃないのか?」
「……そうですね。患者さんの正直な気持ちだと思います。私に否定することはできません」
「息子がいるのに早く楽になりたい──って思ってしまう。息子のためならこの苦痛に耐えて少しでも長く生きよう、って思えないんだよ。多香子からしたら、息子を遺して死にたいなんて、信じられないんだろうな」
「だからあんな奮起のさせ方を──」
「多香子が本音じゃないのは──心を殺しながら、血反吐を吐くような思いで口にしてんのは、顔を見れば分かる。俺よりも苦しそうな引き歪んだ顔をしてんだよ、いつも」
 雅隆は下唇を嚙み締めた。皮膚が破れて血が滲みそうなほど強く。
「……俺はそれがつらいんだよ」
「その本音を正直に話しては?」
「言えねえよ。俺だってそれで救われてるところがあるんだからさ」
「あなたも?」
「多香子を悪く思わないでやってくれ。ああいう言葉、俺が誘ってたところがあるんだよ。優しい言葉をかけられるとさ、最初こそ救われても、だんだん毒のようになって体を蝕んでいくんだ。申しわけなくもなるし。情けなさと惨めさを感じて、絶望に打ちのめされる。二人に八つ当たりしたりさ」
 彼は悲嘆が絡みつく声で淡々と語った。切実な感情が伝わってくる。
「多香子は結構きつい性格でさ。ジムの娘だしな。俺もそこに惚れたんだよ。だけどさ、そんな多香子に優しくされるたび、もう日常には戻れないことや、死を意識してしまって、耐えられなくなるんだ。多香子が今みたいな態度を取るようになったのは、俺がそんな本心を告げたってのもあるかもな」
 告白を聞いてみると、複雑な心境が分かった。
「……俺さ、昔から『なにクソ!』って思わなきゃ、尻尾を巻きたくなる性質なんだよ」
 思い違いをしていた。彼の体調が急激に悪化していたのは、辛辣な言葉によるストレスが原因だったのではなく、奮起のために生命力を燃やしすぎたからではないか。
「この前──哲人がさ、多香子の目を盗んで俺に訊いたんだ。お母さんが怒るから苦しいの? って。今にも泣き出しそうな顔でさ」
 彼は体の痛みより、心の痛みのほうが苦しそうに顔を顰めた。
「違う、病気のせいだ、って答えたけど、哲人は言うんだよ。お母さんは嫌い、って……。病室であんだけずっと多香子にしがみついてたのに、多香子からも距離を取ってんだよ、あいつ」
 以前、同じような質問をされ、同じように答えた。きっと誤魔化しのようにしか聞こえなかったのだろう。
「……大事な息子をこんなに傷つけて、俺は何してんだろう、って。自分が嫌になる」
 悔恨の泥沼に沈んでいきそうな声だった。いや、もう彼は充分に溺れている。
「死が避けられないなら、これからも生きる人間のことを第一に考えるべきだろ。なあ、先生」
「……私には答えられません。どのような形で誰とどんな思い出を作るのか、誰に何を遺すのか人それぞれ違うものですから」
「俺にとって──」彼は一時、歯を嚙み締めた。「一番大事なのは哲人なんだよ」
 神崎は黙ってうなずいた。
「俺が生きる気力を奮い立たせようとしたら、多香子も苦しめるし、哲人も傷つける。哲人にはさ、父親の最期の瞬間を憎しみの記憶にはしてほしくないんだよ」
 雅隆は筋肉が削げ落ちた腕を、まるで丸太であるかのように重々しく持ち上げた。震えている。サイズが合わない病院着の袖が二の腕まで滑り落ちる。スキンテアで皮膚がただれた前腕があらわになった。あまりに痛々しい。
 プロボクサーとして、対戦相手を強烈なパンチでKOしてきた腕は見る影もなかった。
「チャンピオンベルト巻いてさ、まばゆい照明の下で哲人を抱き上げてやりたかったなあ……」
 彼の顔がくしゃっと歪み、目元に涙が滲んだ。嗚咽をこらえるように下唇を嚙む。
「……頼むよ、先生。もうタオルを投げてくれ」
 絡みついていた感情を全て剝がし取ったような声だった。
 オランダの安楽死の実態報告書を改めて思い出した。人は肉体的な苦痛以外の理由で死を望むのだ。
 当時は、それを認めたら日本で発生している何万という自殺を肯定することになるのではないか、という思いがあり、安易にはうなずけなかった。
 だが──。
 ホスピスで終末期の大勢の患者と接し、多くの死を目の当たりにするうち、当たり前の事実に気づいた。
 事件や事故、病気と無縁ならばこの先何十年も生きられる人間が、悲観や絶望で選択する自殺と、あと数ヵ月生きられるか分からない患者が残りの時間を肉体的、精神的苦痛と共に生かされるのに耐えかねた安楽死は、決して同じではない。
 死を望む患者や、安楽死を口にする患者は何人も見てきた。彼と他の患者の違いは何だろう。
 彼の話を聞くうち、初めて患者に対して思ってしまった。
 不幸だ──と。
「先生」雅隆が視線を外し、つぶやくように言った。「俺だって、そこから身を乗り出す程度のこと、できるんだぜ」
 神崎ははっとして彼の視線の先に目をやった。今の話に不釣り合いなほど透き通った陽光が射し込む窓がある。
 それだけはさせてはならない。
 もし懇願を突っぱねたら、彼は間違いなくそれを実行してしまうだろう。
 自分も覚悟を決めるべきだった。
 神崎は深呼吸した。
 その言葉を口にするには、人生をなげうつような決心が必要だった。
 二度と後悔しないためにも。
「……分かりました。私があなたを送ります」



 真夜中、神崎は薄暗い病室でベッドのそばの丸椅子に腰掛けていた。ベッドサイドテーブルのスタンドの明かりを最小限に抑えてある。薄闇が侵食する室内で、電球の周りだけが仄かに光り、雅隆の顔に陰影を作っている。
 ホスピスの人間に気づかれるわけにはいかないので、電気は消しておかねばならない。
「気分はどうですか?」
 神崎は彼に語りかけた。お決まりの質問だったが、今日の意味はいつもと少し違った。
「……いい気分だよ」
 これで全てが終わるのだと思えば──、という心の声を聞いた気がした。
 明かりの弱々しさは、命の灯火のようだった。彼の顔は薄闇の中に沈んでいる。
 この瞬間、全世界に自分と彼しか存在していないような錯覚に囚われた。
「がんになる前は、試合で死ぬのは本望だ、なんて言ってたけど、やっぱ死は怖いよな。それともリングの上だったら違ったのかな。分かんねえや」
「もし少しでも後悔や迷いがあるのなら──」
「いや、後悔も迷いもないよ。ちょっと感傷的になってるだけさ」
 神崎は筋弛緩剤と塩化カリウムを準備しながら言った。
「……私は間違っているのかもしれません。ですが、私はあなたの意志を尊重します」
 雅隆はうっすらと笑みを浮かべた。影が覆いかぶさっているせいで、顔が歪んでいるように見えた。
「ありがとう、先生」
「奥さんや息子さんに何かお伝えしておくことはありますか?」
 雅隆は小さく首を動かした。
「……そうですか。分かりました」
 神崎は雅隆の腕を取った。その瞬間、まるで腕を根元からもぎ取られそうになったかのように、彼は苦悶のうめきを発した。
「すみません、痛かったですね」
 雅隆はうっすらと笑みを浮かべた。
「最後の痛みと思えば、名残惜しいくらいだよ」
 神崎は釣られて笑みを返した。
「……じゃ、頼むよ、先生」
 神崎はうなずき、彼の腕に注射針を刺した。筋弛緩剤で呼吸を止め、塩化カリウムで心臓を止めるのだ。
 薬液を注射すると、雅隆はゆっくりとまぶたを伏せた。次第に反応が緩慢になっていく。
 意識がなくなったかと思った矢先、雅隆はまぶたを痙攣させ、唇を動かした。
 神崎は彼の口元に耳を寄せた。彼が囁いた言葉は、辛うじて──だが、はっきりと聞き取れた。
「……最後まで夢を見させてやれなくてごめんな」
 それが彼の最期の言葉だった。
 雅隆は苦痛と無縁な永遠の眠りについた。

10

 神崎は拘置所の中で息を吐くと、追想をやめた。
 水木雅隆の安楽死の真相は胸に抱えたまま、ずっと沈黙してきた。裁判でも明かすつもりはない。
 神崎は水木多香子のことを想った。
 彼女は夫を愛していた。それは間違いない。だが、息子のために一日でも長く生きてほしい、という想いでとった言動は、果たして夫のためになったのか。彼自身、叱咤を望んでいたとは言ったものの、最後の最後まで感情をぶつけ合う関係性に精神が削られたことは想像に難くない。
 真実を明かせば、情状酌量の可能性もあることは分かっている。だが、雅隆が安楽死を乞うたことを知れば、彼女は後悔するだろう。思い悩むだろう。
 自分の無力感に苛まれ、もっと何かできたのではないか、いや、自分が結局苦しめたのではないか、と。
 しかし、現実はもっと残酷だった。生きるための闘志を奮い立たせるいびつな関係が彼を苦しめていた──という事実は、彼女を後悔のどん底に突き落とす。
 最愛の夫を亡くした上に、不必要な苦しみまで背負うことはない。だから雅隆から死を懇願されたことも、自殺を仄めかされたことも、一切口にしていない。
 患者たちと長く接しているうち、死こそが平穏だと考えるに至った、と自白した。
 身勝手な自己満足同然の〝殺人行為〟を世間の多数が非難していることは知っている。それでも〝聖人〟と持ち上げる人間があるとは驚きだった。いや、正確には、安楽死肯定派のイデオロギーで祭り上げられているのだろう。
 何にせよ、裁判で彼女から憎しみを向けられても、それは当然だ。彼に死を与えた事実は変えられない。妻や子供の意志や望みは無視し、彼の──本人の決意だけを重視した。
 遺された者は納得できないだろう。
 出される判決を受け入れるつもりだ。
 法が自分の行った安楽死にどのような答えを出すのか。
 それを知りたかった。


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