『スパイの妻』行成 薫

文字数 15,499文字

 名匠・黒沢清監督がメガホンととり、蒼井優主演、高橋一生共演でおくる映画「スパイの妻」が、第77回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞!
 日本映画の同賞の受賞は、17年ぶりの快挙です!
 それを記念し、小説版『スパイの妻』の冒頭部分を無料公開いたします!


『スパイの妻』


二〇二〇年 夏(前編)


 母さん、これ、どうする?
 夏の盛り。額に玉の汗を浮かべながら、今年四十二になる長男の喜久雄が八重子の前にまた見慣れない箱を持ってきた。家の整理をしていると、長年住んでいる八重子でさえ思いもよらないものが次々と出てくる。まるで、骨董市の様相だ。
 横浜の自宅は、元々八重子の両親が建てた家である。古い住宅地の外れにあるこぢんまりとした一軒家で、八重子はこの家で育った。結婚後は家を出たが、夫と死別し、両親も亡くなったこともあって、十五年ほど前から八重子が継いで独り暮らしをしている。
 戦後間もない頃は掘っ立て小屋のような平屋だった家も、二度の建て替えを経て、今はよく見る二階建ての住宅になっている。だが、それも築四十年を過ぎて、あちこちにガタが来ていた。外壁の一部が剝がれ、ほんの少しだが雨漏りもするようになった。二階のバルコニーは金属が腐食してしまって、喜久雄から「もう使わないように」と言われている。
 八重子がいつの間にか七十五歳の老人になっていたように、この家もいつの間にか年老いてしまったようだった。家の現状を見かねた子供たちがリフォームを提案してくれたのだが、八重子は答えを保留していた。
 七十を過ぎた頃から膝が上手く動かなくなって、八重子は遠くまで歩いていくことができなくなった。その上、患っていた緑内障の症状が進んで、今は左目がほとんど見えない。家の近くには商業施設もないし、病院に出るのにもバスを使わなければならない。隣家とも離れていて、公道から自宅までを繫ぐ私道は、かなり傾斜のきつい上り坂になっている。まるで世間の目を避けるようにぽつんと建つ家は、老人一人で維持するのには少々難があったのだ。
 家族とよく相談をした結果、八重子は自宅を手放すことに決めた。
 老朽化した建物は取り壊して更地にし、土地は売りに出す。八重子自身は、駅近くの老人用賃貸マンションに引っ越すことにした。ケアスタッフが常駐している建物で、買い物や通院も今よりずっと楽になる。長男夫婦の自宅にも近いし、八重子にとっては申し分のない物件だ。
 それでも、自宅を手放すという決断に至るまでにはかなりの葛藤があった。一度は終の棲家と決めた場所だ。愛着もあるし、戦後の混乱期に、苦労しながら家を建ててくれた両親への申し訳なさもあった。自分の気持ちと体の状態を天秤に何度も掛け、ようやく出した答えだった。
「ねえ、これ、ばあば?」
 十歳と六歳の孫娘が廊下を賑やかに走ってきて、八重子に小さな写真立てを差し出した。今日は、長男一家が総出で引っ越し前の物品整理を手伝ってくれていた。写真立ては、半ば倉庫のようになっている二階の和室に置いてあったものだ。少し埃を被っていたガラス面を、布巾で拭く。白黒写真には、やや緊張した面持ちで正面を向く男女が写っている。
「これはね、ばあばじゃなくて、ばあばのお父さんとお母さん」
 えー、と、孫娘二人が声を上げる。
「すごい古い写真じゃない?」
「そうね。これがばあば」
 椅子に座った母と、直立した父。二人の足元で緊張のあまり無表情になってしまっている幼女が八重子だ。確か、五、六歳の頃に家族で撮った写真だと記憶している。
「ねえ、ばあばのママ、めっちゃ美人じゃない?」
「美人!」
 姉妹が口を揃えて「美人」と連呼するので、八重子は少し驚いた。
 八重子の母、聡子が他界したのはもう二十五年前のことになる。写真の中の母は、三十代の半ば頃だ。色白で涼やかな顔の母は、きりりとした表情で真っすぐにカメラのレンズを見ている。背筋がぴんと伸びていて、凜とした印象だ。
「ねえ、ばあばのママはどういう人だったの?」
「そうねえ」
 八重子は、頭の奥にある母の姿を追う。だが、正直に言うと、あまり思い出したくない記憶ではあった。母のことを好きだったかと問われるなら、八重子は素直に頷くことが出来そうにない。
 孫たちが言うように、八重子の母は確かに顔立ちの整った美人であったが、笑わない人だった。寡黙で、どこか空虚な女。それが、八重子の持つ母の印象だ。人付き合いもよくなく、他者を拒絶するような空気を常に纏っていて、家の中はいつも重苦しかった。写真の中の母も、洋装の華やかさとは対照的に薄氷のような冷たい表情をしている。レンズを見ているはずの目には、何も映っていないように見えた。
「賢い人だったと思うわよ」
「頭よかったんだ」
 八重子は、無難な表現に逃げることにした。幸い、孫娘たちはそれ以上深く詮索することもなく、また黄色い声を上げながら、何か掘り出し物はないかと二階に駆け上がっていった。一息つき、手元に残された写真をもう一度手に取る。何とも言えない感情が胸を突き上げて、ぐっと喉が詰まった。
 八重子が孫娘たちと同じくらいの歳だった頃は、毎日が地獄だった。外を出歩けば大人たちに白い目で見られたし、時には石つぶてをぶつけられて、血が出てしまったこともある。私は何もしていないのに、と、八重子はいつも思っていた。

 ──スパイの妻。

 それが、八重子の母が背負っていた汚名だった。どうしてそう呼ばれるのか八重子にはわからなかったし、両親も何も話さなかった。だが、母が犯した罪のようなものが、娘である八重子までも苦しめているのだ、ということだけはわかっていた。
「母さん、どうしたの」
「え? 何か変かしら?」
「ちょっとぼんやりしているように見えたからさ。それより、見てくれよ、これ」
 二階から降りてきた喜久雄が、一抱えもある大きな箱を畳の上にどんと置いた。箱は縦長の四角いもので、少し大きめの置時計ほどのサイズだ。表面はあちこち剝げてしまっていて、少し古いにおいがした。
「どうしたの、こんなもの」
「すごいもんみつけたよ」
 喜久雄が留め具を外して箱を開くと、中には見たこともない機械が収められていた。古いものだろうが、保管の仕方がよかったのだろう。物自体は綺麗な状態を保っているように見えた。
「何、これ」
「パテベビーってやつだな」
「パテ?」
「昔のホームビデオセットみたいなもんさ。フランス製でね。コッチのデカいのが映写機で、この革のセカンドバッグみたいなのがカメラ」
 よく知ってるわね、と感心しながら、八重子は息子が持ってきた機械をまじまじと見た。息子は西洋骨董や美術品などの買い付けを行うバイヤーで、こういった古物には殊の外詳しい。
 取り出された機械は、フランス製ということもあって、しなやかな女性の立ち姿を思わせる形をしていた。フィルムを巻くためのリールが下に一つ。フィルムは上部にセットする。コマを投影するための箱が中央に鎮座している。電動で動くリールに巻かれたフィルムは、箱の中を通る間に後ろから光を当てられ、レンズを通して次々に映写される、という仕組みになっているそうだ。
「こんなの、いつから家にあったのかしら」
「戦前の物だろうからなあ。ずっと押し入れの奥にしまってたのかもな」
 喜久雄は慣れた手つきで映写機をあちこち触り、動くかも、と笑った。
「もし売れるものなら、売ってしまってもいいんだけれど」
「そうだなあ。ちゃんと動くか見てみよっか」
 息子はそう言うと、二階に向かって、ぼちぼち休憩にしよう、と声を掛けた。孫娘たちの元気な返事が聞こえてくる。

 朝からくるくると働いてくれた長男家族のために、八重子は昼食に店屋物の寿司を取ることにした。馴染みの寿司屋に電話している間、喜久雄は娘たちに雨戸を閉めさせ、居間を真っ暗にしていた。部屋の中央に置かれた卓袱台の上の映写機から、ほんのりと光が漏れている。
「電源コードも生きてるし、電球も切れてない」
 息子は驚き半分、楽しそうにそう言うと、薄明りの中で、丸くて平たいブリキの缶を取り出した。大きさは、昔のレコード盤より一回り小さいくらいだろうか。
「これは?」
「パテベビー用のフィルムさ。九・五ミリ幅だから、クミリハンなんて言ってたらしくてね」
 みれんの? と、戻ってきた孫娘たちが物珍しそうにフィルムの缶を手に取った。喜久雄が「たぶんね」と返事をすると、みたいみたい、の大合唱が始まった。
「観てみようか」
「ええ? よしなさいよ。何が映ってるのかもわからないし」
「もしかしたらさ、ばあばのママが映ってるかもよ?」
 母が、と思うと、八重子は胸の奥がずきりと疼いた。寡黙で、笑わない母の顔が頭に浮かんで消える。
 フィルム缶にはそれぞれにラベルが貼られていた。字は随分かすれているが、母の字ではないだろうということはわかる。父が書いたのだろうか。その中の一つに、八重子の目は吸い寄せられた。朧げな光に照らされて浮かんだラベルの文字は──。

『スパイの妻』だ。

 思わず、フィルムを手に取った。一九四〇年という日付も微かに見て取れる。スパイの妻。一体、このフィルムにはどんな映像が記録されているのだろう。気にはなったが、観るのは恐ろしかった。
「ちょっと貸して」
 八重子が何か言うよりも早く、喜久雄が八重子の手からフィルムを取り、缶を開けた。中には映像が記録されているであろう、フィルムが収められている。喜久雄は少し手間取りながらも、器用にフィルムを映写機にセットしていく。
「初期のパテベビーは手回し式だったんだけど、これはもう少し後の型だな。だから、リールが電動で回るようになってる」
 喜久雄が蘊蓄を語っているのだが、八重子の耳には少しも言葉が入ってこなかった。止めておきましょう、という言葉が何度も口をついて出ようとしたが、どうして? と聞かれてしまうと、明確な答えを返せない。孫娘たちの前で、母の姿を見るのが怖い、などとはさすがに言い難い。
 そうこうしているうちに、息子は準備を終えてしまった。映写機を少しずらして、壁に向ける。壁際には少し前まで古いキャビネットが置かれていたのだが、処分した結果、何もない壁があるだけになった。白い壁が、スクリーンの代わりに映写機からの光を受け止めていた。
「よし、はじめるぞ」
 台所から喜久雄の嫁もやってきて、全員が壁に注目した。映写機から光の帯が溢れ、かたかたと独特な音を立ててリールが回りだす。最初はぼんやりとしたものだったが、喜久雄がレンズのピントを調整すると、やがてくっきりと像が浮かび上がってきた。初めに映し出されたのは、どこかの風景。古い建物だ。音はない。不思議な静寂の中、リールが回る音が八重子の胸に響いていた。

 暗闇の中、懐中電灯の光が左右に動く。どこかの倉庫だろうか。
 やがて、光が何かを探し当てる。闇の中に金庫が浮かぶ。
 女の細い手が、金庫に伸びた。
 ダイヤルを回す。何度か数字を合わせると、金庫が開いた。
 辺りを警戒するように見回しながら金庫の扉を開ける、洋装の女。
 女の手を、男の物と思われる手が後ろからがっしりと摑んだ。

 仮面舞踏会を思わせる白い仮面で目元を隠した女の顔が映し出された。男の手が、女の仮面を静かに外す。その瞬間、八重子の心臓が早鐘のように胸を叩き出した。

 母だ。

 きゅっと握った手に、力が籠った。この映像は一体何なのだろう。男に捕まった母は、その涼やかな目で、真っ直ぐに何かを見ていた。




一九四〇年 夏



 暗闇の中、懐中電灯の光が左右に動く。
 やがて、光が何かを探し当てる。闇の中の金庫だ。
 福原聡子は、緊張の吐息をつき、金庫に手を伸ばした。
 目盛盤を回して取っ手を引くと、金庫の扉はあっけなく開く。
 その聡子の手を、闇の中から現れた男の手が、がっしりと摑んだ。

『どうして?』
 男の唇が動く。音は無い。
 男は聡子の手を離すと、聡子のつけていた仮面を外す。

 その瞬間、映写幕いっぱいに、聡子の顔が映し出された。

 映像が途切れると、金村と駒子が大仰な拍手をした。金村は、聡子の夫である福原優作の父の代から福原家に勤める執事で、駒子は昨年雇ったばかりの若い女中だ。今日は夕食の後、自宅の食堂に集まって優作が撮っている映画の試写が行われていた。映画と言っても、個人で撮影した無声映画で、その上まだ未完成だ。劇場で観るものとは比ぶべくもないが、それでも金村や駒子は大いに感動した様子だった。
「奥様のお綺麗なこと!」
「ほんまに、本職の女優さんかと思いましたわ」
 聡子の代わりに、優作が「褒め過ぎだ」と笑う。優作は慣れた手つきで洋卓の上に置かれた映写機に触れ、フィルムを巻き戻していった。
「私は、演技なんてできないって何度も申し上げたのに」
 聡子が恥ずかしさのあまり俯いているのを、優作が楽しそうに眺めている。その笑顔がなんとも憎らしい。
 優作の映画好きは聡子と結婚する以前からのものだったが、最近は趣味が高じて、自分でも映像を撮りたいなどと考えるようになったらしい。フランス製のカメラと映写機を手に入れてからは、どこに行くのにも小さなカメラを鞄に忍ばせている。忙しい仕事の合間を縫ってフィルムを切ったり繫いだりしているようで、一度熱中してしまうと、朝から晩まで書斎から出てこないこともあるほどだ。
 優作が、映画を撮る、と大真面目な顔で言い出したのは、つい先日のことだった。聡子は、どうぞご自由に、と笑っていたのだが、優作はその映画の主役を聡子にやれと言う。もちろん、演技などできっこない、と聡子は断ったのだが、優作はとにかく一度言い出したら聞かない性格だ。物腰こそ柔らかいのだが、どんな小さなことでも自分の意志を曲げようとしない。それが仕事でも、趣味であっても。笑みを浮かべながら、いいからいいから、といつも聡子を丸め込んでしまう。聡子は聡子で、夫の笑顔を見ていると、つい抗う気を失う。卑怯だ、と思いつつも、結局は夫の言うとおりになる自分がいた。
「旦那様、この場面、どこで撮らはったんです?」
「ウチの倉庫だ。建物が古いのが逆に幸いだったな」
 ウチ、とは、優作が経営する「福原物産」の神戸本社事務所のことだ。福原物産は優作の祖父が立ち上げた商社で、主に医薬品の輸入を行っている。創業はちょうど日露戦争の最中だ。当初は小さな会社に過ぎなかったが、先の大戦中に大手の商船が独逸軍の潜水艦に多数沈められたことで商機が回ってきた。陸軍の医薬品を引き受けるようになると業務が急拡大し、今では神戸でも名の知られた商社の一つになっている。
 そんな福原物産を優作が継いだのは、五年前のことだった。先代社長である優作の父、そして母が相次いで病死し、優作は三十代の若さで会社を引き継がなければならなくなった。社長に就任したての頃は、「青二才の癖に」という心ない陰口も叩かれたが、優作はすぐに経営者としての手腕を発揮し、周囲の雑音を黙らせた。今は経営状態も良好で、業績も安定している。だからこそ、映画を撮ろう、などという余裕が持てるようになったのかもしれない。
「映像で見ると、あんな所でも映画っぽくなるだろう」
「ほんまに。それに、文雄さんも熱演やないですか」
 金村の後ろ、椅子二つ分ほど皆から離れて座っているのは、聡子の相手役を演じた竹下文雄だ。優作の姉の子で、聡子から見れば義理の甥っ子にあたる。文雄は金村に褒められても喜ぶそぶりは見せず、斜に構えたように口元だけ笑みを浮かべて、そうですかね、とそっけない返事をした。
 文雄は子供の頃から学業優秀だったそうだが、世渡りはあまり上手とは言い難いところがある。東京の帝大に入学するところまでは良かったのだが、その後は人付き合いに悩んで成績が振るわず、卒業後の勤め先も決まらずにいたところを、優作が福原物産に拾い上げた。文雄は語学が達者であったため、今は優作の秘書兼通訳のような役割を与えられている。外国人との商談に帯同したり、英文の契約書を和訳したり、といった仕事だ。
「別に、熱演っていうほど頑張ったわけじゃないですよ」
「真に迫った表情やったと思いましたけどねえ」
「お遊びですから。本気になってやるようなことじゃあないんですよ」
 義叔母さんはまんざらでもなさそうでしたけど、と文雄が笑うので、聡子は恥ずかしさ半分で、まあ、と憤慨する。
「でも、この時は文雄さんの方が一生懸命で。あんまりにも私の手をぎゅっと握るものだから、それが痛くって痛くって」
「義叔母さんの抵抗する力が強かったので、仕方なく」
「まあ、私の所為だとおっしゃるんですか?」
 三人が、どっと笑う。笑い事ではない、と、聡子は口を尖らせた。文雄は、大げさだとでも言うように、肩を竦めて首を横に振った。優作が、意地の張り合いになりそうなのを察したのか、まあまあ、と、聡子と文雄の間に割って入った。
「二人ともカメラが回り出すと役者だった。お蔭で緊迫感のある良い画が撮れたよ」
「これは、完成が楽しみやなあ」
 金村が満面の笑みを浮かべた。
「一応、題材はノモンハンの事件でね。聡子と文雄はソ連のスパイという役どころなんだ。だから、本当は満州の風景なんかも撮って来たいところなんだがなあ」
 駒子が、満州! という素っ頓狂な声を上げた。
 ノモンハン事件が起きたのは、ちょうど一年ほど前のことだ。満州国と蒙古の国境争いに端を発する帝国陸軍とソ連軍の紛争だったが、優作の映画では、ソ連軍が日本の軍事力を計るためにスパイを使ってけしかけた紛争として描かれている。映画の中の文雄と聡子は、日本人ながらソヴィエト連邦国のスパイとして暗躍する男女、という難しい設定だ。実際にそんな人間がいたらと思うと、背筋がぞっとする。
「まさか、満州まで映画を撮りに?」
「いや、僕だってさすがにそこまで道楽者じゃあない」
 せやろか、と、金村と駒子が声を揃えた。優作が、どうも僕は信用がないな、と、聡子に向かって苦笑いをした。
「さ、そろそろお開きにしようか」
 優作が映写機を箱に収めるのと同時に、壁掛け時計が午後九時を報せた。いつもなら金村は近隣にある自宅に戻り、駒子も邸内の使用人部屋に引っ込む時間だ。文雄も、そろそろお暇を、と言いながら背伸びをした。優作が肩を叩きながら、また飯でも食いに来い、と声を掛ける。
 だが、その弛緩した空気の中、玄関の呼び鈴の音が邸内に響き渡った。思わず、全員が顔を見合わせる。
「こんな夜更けに、どなたかしら」
「わたし、見て参りますね」
 駒子が慌てて二階の食堂から階段を駆け下り、玄関に向かう。聡子は突然の来客に驚きながら、鏡で身だしなみを整えた。
 ほどなく、玄関から、旦那様、という駒子の声が聞こえてきた。
「ドラモンドさんがお見えです」



 やあ、ジョン、と、優作がふくよかな外国人の男と軽い抱擁を交わす。文雄と入れ替わりでやってきたのは、ジョン・フィッツジェラルド・ドラモンドという英国人だ。フレザー商会という海運会社の大阪・神戸支店長を任されている商人で、商品の海上運輸だけではなく、英国と日本の商人の間に入って、取引の仲介も行っている。福原物産もフレザー商会を通じて英国や欧州の薬品を輸入したり、日本や亜細亜の商材を輸出したりしている。
 優作はドラモンドを「友人」と表現するが、年齢はドラモンドの方が随分上で、親子ほどの歳の差がある。だが、仕事を通じて出会ってからすぐに意気投合したようで、私生活でも親しい間柄だ。
「サトコさんも、いつも美しい」
 聡子もドラモンドと軽く抱擁し、頰を寄せた。いつもは陽気で幾分多弁なドラモンドだが、今日はかなり疲れた顔をしている。
 それもそのはずだ。
 ドラモンドはつい先日、軍機保護法違反の容疑で憲兵隊に連行されたと聞いていた。要は、スパイの嫌疑を掛けられたのだ。逮捕から数日が過ぎ、聡子も、ドラモンドは無事だろうか、と心配していたところだった。
「その様子だと、嫌疑不十分で釈放、といったところか」
「ユウサク、キミのお蔭です。本当に助かりました。アリガトウ」
「お礼なんて、あなたらしくないな」
 聡子は、どういうことですか? と、軽く笑う夫に視線を向ける。
「サトコさんはご存知なかったですか」
「と、おっしゃいますと」
「ユウサクが、陸軍に〝話〟を通してくれたのです。その──」
 ドラモンドが「話」という言葉に含みを持たせる。おそらく、裏で少なくない額の金を回したのだろう。成程、と聡子は頷いた。ドラモンドを連行したのは神戸の憲兵分隊、管轄しているのは陸軍省だ。仕事で陸軍関係者と繫がりのある優作が、ドラモンドの釈放のため、幹部に口利きを依頼したようだ。
 友人が逮捕されたというのに映画など撮っている場合だろうか、と内心思っていた聡子は、少し自らを恥じた。福原優作という男は、黙っていても聡子より遥か遠くの未来まで見通している。視野も広く、抜け目がない。ドラモンドの一件も、逮捕の一報があってすぐに動き出していたに違いない。
「大した金じゃあない。必要経費さ。ジョンに何かあったら、取引のあるうちの会社にも影響するから」
 聡子が先頭に立って応接間に通すと、ドラモンドは持ってきたトランクからスコッチ・ウイスキーを取り出し、洋卓に並べていった。美しい琥珀色の液体が入った瓶がずらりと並ぶ。これは貴重なものを、と、優作は手に取った一本を眺めながら、満面の笑みを浮かべた。まるで、欲しかった玩具を買って貰った子供の様だ。
「お礼と言うには、とても足りないけれど」
「そんなことはない。最近はなかなか手に入らないからね」
 優作が、駒子に酒杯を持ってくるよう言いつける。さっそく一本開けるつもりのようだ。
「『アンナ・クリスティ』だな」
「アンナ?」
「グレタ・ガルボの映画さ。それまで無声映画にしか出ていなかった彼女が、初めて発声映画に出たんだ。バーにやってきた彼女が言う最初の台詞が、〝ウイスキーをちょうだい〟でね」
 駒子が持ってきた酒杯にスコッチを注ぐと、優作とドラモンドは無言で乾杯をし、一口ずつ口をつけた。優作は、君もどうか、と言ってくれたが、客の手前、聡子は遠慮することにした。
「美味い」
「もう一生、酒も飲めなくなるのではないかと思いました」
 ドラモンドが、感慨深げに手の中のウイスキーを見つめる。
「憲兵どもから暴力などは受けずに済んだだろうか」
「なかった、と言ったら噓になりますが、ダイジョウブ。大したことはありません」
 もう少し釈放が遅かったらわかりませんでしたが、と、ドラモンドは流暢な日本語で恐怖を語り、肩をすくめた。
 ドラモンドとほぼ同時期に、数名の英国人がスパイの嫌疑を掛けられて逮捕されていた。その中の一人、東京で逮捕された英国の通信社の支局長は、監視の隙をついて建物から飛び降り、自ら命を絶っている。スパイであることを隠し切れないと考えた結果の自決、と発表されたが、憲兵隊の拷問から逃れるために仕方なかったのだろう。誰もが皆そう思っている。
 憲兵や特高警察の拷問の苛烈さは、聡子も聞き及んでいる。今回は逮捕した英国人一人が不手際で死亡したり、英国の報復で邦人が拘束されたこともあって、ドラモンドの釈放には政治的判断がなされた可能性も否めない。だが、もしも優作の働きかけがなければ、逮捕されたその日から地獄の責め苦が待っていたかもしれない。温厚そうなドラモンドの顔が拷問の苦痛に歪むところを想像すると、聡子は背筋に冷たいものを感じた。
「それにしても、ドラモンドさんがスパイだなんて」
「まったく、酷い話だ。おそらく、英国に対する嫌がらせだろう。ジョンが捕まったのも、英国人だからというだけさ。スパイである根拠などなかったと思うね」
「仕方ない。おそらく、ドイツかイタリアのスパイの所為です」
「まあ、スパイ?」
「日本がドイツやイタリアに味方するよう、裏でスパイが活動しています。我々イギリス人は、彼らにとっては邪魔なのでしょう」
 優作はウイスキーを一気に呷ると、「こんな美味い酒を造る国と仲違いするなど愚の骨頂だ」と憤った。そして、そのまま少し、怒りを内にしまい込もうと押し黙る。聡子は瓶を手に取って、ウイスキーを優作の酒杯に注いだ。
「で、今後はどうするつもりですか」
「釈放はされたけれど、きっと有罪にはなるでしょう。もう、神戸にいることはできないと思いますね」
 これを売ることももうできません、と、ドラモンドはウイスキーの瓶を手に取って、深い溜息をついた。
「それは残念でならないな。すぐに英国へ戻られるのですか」
「当面は、シャンハイに滞在しようと思っています」
「上海と言うと、共同租界」
 租界とは、支那国内に置かれた外国人居留地のことだ。上海の共同租界は、本国同士が険悪になっている今も、日米英が中心になって管理している。亜細亜でありながら西欧風の建物が立ち並び、街並みが実に美しい場所だそうだ。聡子が思わず「素敵ね」とこぼすと、優作が「楽しい話をしてるわけじゃないぞ」と眉を顰めた。はっとして、すぐに謝る。
「じゃあ、もしあなたに会いたくなったら、上海に行けばいいのですね」
「そうですね。シャンハイにはまだ少し自由が残っているようですから、ニッポン人とイギリス人が会っていても、とやかく言う人は少ないでしょう」

 話は尽きなかったが、あまり長居すると迷惑がかかるから、と、ドラモンドが席を立った。優作もそれに倣って立ち上がり、二人はがっしりと握手を交わした。
「どうか、お元気で」
「アリガトウ。ワタシはもう少し、シャンハイからアジアの行く末を見守ろうと思いますよ」



 午前零時を報せる時計の音が、寝室の外から聞こえてくる。
 六甲山南側の一角に建つ福原邸は、元々独逸人の外交官が建てた邸宅であった。先の大戦がはじまり、持ち主が帰国するにあたって手放した家を、回り回って先代である優作の父が買い取ったものだ。二階建ての洋館だが庭園は日本風で、和洋折衷、独特の雰囲気がある。家の周囲は閑静な住宅街で、喧騒とは無縁だ。
「まだお休みにはなりませんか」
 薄明りの中、優作は寝室に置かれた小さな机に書類を広げ、何やら真剣な眼差しで眺めていた。聡子が話しかけると、ようやく我に返ったように、ああ、と息をつき、顔を上げて微笑む。
「もう結構な時間か」
「明日もお仕事でしょうから、そろそろお休みになられては」
「そうだな」
「何を熱心にご覧になっていたんです?」
「ああ、これか、これは──、その」
「秘密の文書?」
 聡子が何気なくそう言うと、優作は、はは、と声を上げて笑った。
「まさか。夫婦の間に秘密などないさ」
「本当でしょうか」
「もちろんだ。僕が君に隠し事などするわけがないだろう」
 聡子が、せやろか、と金村の口真似をすると、優作は苦笑いをしながら、信用がないな、と頭を搔いた。
「先刻、ドラモンドさんから渡されたものですか」
「そうだ」
 ドラモンドの去り際、優作は玄関の外で暫く話し込んでいた。話の途中で、ドラモンドは何やら大きな封筒を取り出して優作に手渡していた。優作が熱心に読み込んでいたのは、その封筒に入っていた書類のようだった。
「何か面白いことでも?」
「いや、そうだな。ジョンが手掛けていた仕事をウチで引き継げないか、という相談だった」
「うちで、と申しますと、福原物産でですか」
「医薬品の調達の仕事でね。お相手は関東軍」
「関東軍ということは──」
「そうだ。商談のために、満州へ行くことになりそうだ」
 満州と聞いて、聡子はそっと優作の傍に近寄り、寝台の縁に腰を掛けた。僅かに、胸の高鳴りを感じる。支那との戦いで連戦連勝の関東軍の本拠地は、満州国の首都・新京にある。
「現地に行かなければならないのですか」
「契約を結ぶには、僕が行かなければならんだろうな」
 神戸港は日本一の貿易港ではあるが、日本人の貿易商が港から外に出ていくことはあまりない。基本的には、海外からやってきた商人や、神戸に支社を構えている海外の会社と取引をすることが多いのだ。ドラモンドも、生糸の買い付けや酒の輸出のために、神戸に常駐していた男だ。
 だが、優作はそれだけでは時代に乗り遅れるとばかり、先代が存命の頃から積極的に海外へ渡航し、現地の商人たちと取引をしてきた。それが福原物産躍進の秘訣でもあったのだが、家で帰りを待つ聡子はいつも気が気ではない。優作が外国に行っている間は、近所の神社に安全を祈願しに行くのが聡子の日課になる。
 それでも、これまでの渡航先は香港、釜山、新嘉坡といった貿易港が中心であった。港ならば有事の際は船で離れればよいのだが、新京は内陸だ。満州国自体、ソ連、蒙古、支那に囲まれた場所で、昨年にはノモンハンの紛争が起きたばかりの、紛うことなき戦地である。これまでとはわけが違う。
「満州は危険ではないですか」
「確かに安全ではないだろうが、ソ連とは膠着状態だし、日支の戦争も日本が優勢だ。今が好機とも言える」
「危険を冒すだけの価値があるお仕事なんでしょうか」
「さあな。ただ、ジョンが僕に任せたいと言ってくれた仕事だ。できれば引き継いでやりたいと思っている」
 聡子は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。こうなっては、何を言っても無駄だ。夫の目は、既に遠い満州に向いている。
「お止めください、と言っても無駄でしょうから」
「おい、そんな言い方を──」
「どうか、お気をつけて。早くお戻りくださいね」
 聡子は、優作の胸にそっと顔を埋めた。ほんのりと酒の匂いが残る夫の胸の奥で、心臓がゆっくりと動いていることがわかる。優作の腕がするりと聡子の背に回り、力強く聡子を抱きしめた。
「心配無用だ。一ヵ月で戻ってくる」
「一ヵ月、ですか」
「ちょうど、満州の風景を撮りたいと思ってたところだ。危ないことはない。半分観光のようなものだよ」
「まあ呆れた。本当に映画の撮影をするつもりですか?」
「もちろん、仕事のついでだがね」
「仕事なんておっしゃって、実は撮影のための口実でしょう」
「馬鹿言うな。僕だってそんなに道楽者じゃあないぞ」
 優作が少し顔を離し、聡子の肩に手を置いて、覗き込むように視線を合わせた。確固たる意志に溢れていながらも、子供のように無垢な目。結婚して七年が経つが、出会った頃とまるで変わらない。
 せやろか、と、聡子が囁く。優作は聡子の額に自らの額をつけて、そろそろ信用してくれ、と笑った。




一九四〇年 秋



 昼下がり。秋の柔らかい日差しが窓から降り注いでくるが、聡子の気分は上向かない。ペン先は便箋の上をふらふらと迷ったまま、先に進んでいこうとしなかった。聡子は溜息を一つついてペンを置き、書きかけの便箋をまた一枚畳んで屑籠に捨てた。
「お手紙ですか?」
 聡子の様子を見かねたのか、洗濯物を取り込み終えた駒子が声を掛けてきた。慌てて笑顔を繕い、そうなの、と答える。
「横浜のお義姉さんからお手紙を頂いたので、お返ししなきゃと思って」
「ああ、成程」
 それは大変や、と、駒子が苦笑する。
 優作の姉はもちろん神戸の生まれなのだが、結婚してからは横浜に住んでいる。横浜で生まれ、神戸に嫁いできた聡子とは逆だ。福原家を離れたとはいえ、先代亡き今は一族の最年長である。責任感故か、優作の私生活から福原物産の経営についてもあれこれ口出しすることが多かった。
 特に、結婚して七年経っても子ができない聡子には風当たりが強かった。事あるごとに子はまだか、といった催促を受ける。時には面と向かって体に問題があるのではないか、と言われたこともあった。優作も辟易していて、気にするな、と言ってはくれるものの、気にせずにいるのもなかなか難しいことだった。
「どんなお手紙やったんですか」
「優作さんから連絡はないのかしら、いつ戻るのかしらって。遠回しにだけれども」
「ああ、まあ」
 気持ちはわかる。聡子と駒子は同じ言葉を頭に浮かべたのだろう。声には出さなかったが、無言で頷き合った。
 優作が満州に渡ってから、もうじき約束のひと月になろうとしていた。初めこそ、現地に無事到着した、といった連絡が電報で届いていたが、それも半月を過ぎた頃からはぱたりと途絶えた。便りがないのは良い便りなどと言うこともあるが、心配しながらただ待っているだけの身には、一日一日が長く、重苦しいものに感じられる。
 おそらく、横浜の義姉も同じ思いなのだろう。今回の満州行きには、文雄が付き従っているのだ。語学に長けた文雄は、英語と独逸語が堪能なのはもとより、支那語も少し話すことができる。優作も日常会話程度の英語を話すことはできるが、商談に向かう時は文雄を通訳として同行させることが多かった。今回の商談は同じ日本人相手で通訳は不要だが、道中のことを考えて文雄を連れていくことにしたようだ。
 だが、義姉は文雄が優作についていくのを快く思ってはいないようだった。文雄が優作に対して抱いている思いは一種の崇拝のようでもあり、母親である義姉の目からは、少し危うく見えているのかもしれない。
 福原優作という人間は、誰にも迎合しないからである。
 優作は福原物産の跡取りとして神戸に生まれたが、父の仕事の都合から、幼少期を横浜で過ごした。六歳で神戸に戻ってきた彼の遊び場はもっぱら港近くの旧外国人居留地で、福原物産の取引先である外国人の商人たちが遊び相手だったそうだ。そのせいか、優作には西洋の先進的な思想が染みついていて、言葉の端々からそれが垣間見える。即ち、個々の人間は自由であり、全ての人間は平等である、という考え方だ。
 聡子もまた、横浜に生まれ、異文化に囲まれて育ってきた。優作の思想と相通ずる部分もあるし、自由と平等という思想の上に築かれた優作の人柄に強く惹かれているのも事実だ。だが、日支の戦争が長期化している昨今、米英との対立が深まるにつれ、国全体の空気が変わりつつあるのを聡子も肌で感じている。その空気の中では、優作という人は明らかな異端児であり、ややもすれば、危険思想の持主として目をつけられかねない危うさを持っていた。
 優作自身は、世間の空気を読んで己を偽ることなど良しとしないだろう。優作に言わせれば「何も悪いことなどしていない」のだ。実際、その通りではある。優作は一人の人間として英国人と対等に話をし、自由を行使して欧米の文化を楽しんでいるだけなのだ。けれど、戦争という暗雲垂れ込める社会の中で、翼を広げて空を舞う優作はあまりにも目立ち過ぎる。目立つ鳥は、猟師の目に格好の獲物として映るだろう。

 ──行って参ります。
 ──義叔母さん、叔父さんのことはご心配なく。

 神戸港を出立する文雄の顔が脳裏を過った。普段は何かと斜に構えがちな文雄だが、優作のカメラを小脇に抱え、大きな船を前にして興奮が抑えられぬ様子で、少年のように目を輝かせていた。はしゃぐ文雄を優作が窘めてはいたが、その優作も、文雄と似たような目をしていた。
 真っ直ぐに空を見上げる優作の横顔は、聡子の目には眩しく映る。と同時に、いつか自分を置いて飛んでいってしまうのではないかという恐れも感じる。ここのところ、優作がどこか遠くに去ってしまう夢を見て飛び起きたことが何度もあった。
 優作は、優作のままであって欲しい。そう願う反面、早く自分の元に帰ってきて欲しいという女としての望みも、聡子の胸の奥で燻り続けている。相反する想いは、時に聡子を板挟みにして苦しめた。
 壁の日暦に目を遣る度、世間にも夫にも寄りかかることのできない寂しさに圧し潰されそうになる。同じ思いを持っているはずの義姉に腹の中のものを吐露してしまいたい衝動に駆られるが、自尊心の高い義姉はそのまま受け入れてはくれないだろう。そんなことで福原家の嫁が務まるか、と説教をされてしまうに違いない。
「でも、もう来週には旦那様も文雄様も戻っていらっしゃいますし」
「そう、ね」
「奥様も、今しばらくの辛抱ですね」
 駒子がそう言いながら立ち去ってしまうと、胸に穴が開いたような気になった。もう少し話し相手になって貰いたかったのだが、仕事の邪魔をするわけにもいかない。一見、多くの人に囲まれているようではありながら、結局のところ自分は独りなのだ、と聡子は思った。
 再びペンを取り、気が向かないながらも机に向かおうとした時だった。部屋の外から、金村が聡子を呼ぶ声が聞こえてきた。
「奥様、お部屋におってですか?」
 聡子が部屋の扉を開けて顔を出すと、金村が階段を急ぎ足で上がってきた。
「ええ。何事かしら」
「電報です。その、旦那様から──」
 聡子は金村が差し出した電報送達紙を半ばひったくるようにして受け取った。頰が紅潮していくのが自分でもわかる。文面を見る前に、一呼吸入れて気持ちを整える。
 紙面には、やや無機質な書体でカナ文が記されている。一目では文意が摑めず、聡子は何度か文字列の上に目を走らせた。次第に、文節と文脈がはっきりしてくる。心配そうに様子を見守る金村に向けて、聡子は電報文を読み上げた。声が震えないよう下腹に力を籠めたつもりだったが、それでも最後は少しだけ声が上ずった。

 ニシユウカン
 キコクオクラス
 シンパイムヨウ

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