「先生と私」の関係に潜む加害性をあぶり出す。 『檸檬先生』書評/吉田大助

文字数 2,618文字

 夏目漱石は『こころ』において、太古から存在していたとある関係に光を当て、ひとつのジャンルとして確立させることに成功した。そのジャンル名は、「先生と私」だ。


 自分が知らないことを教えてくれる「先生」と、その人物から学びを得ている生徒の「私」すなわち主人公(語り手)。二人の関係性のドラマを主軸とする場合もあれば、「私」が「先生」の言動の記録係として、ソクラテスにおけるプラトンのように振る舞う場合もある。バディものの変種と捉えられることもあり、一般的に憧れや尊敬、親愛や友愛のドラマを描くジャンルとして知られているだろう。


 しかし、そもそも『こころ』がそうであったように、「先生と私」という関係には加害性が潜んでいる。教える「先生」と学ぶ「私」との間には、立場の差があるからだ。各種ハラスメントは、立場が優位にある人間が、その立場を利用して、自分よりも立場が下の人間に対して精神的・身体的苦痛を与える行為を指す。アカデミック・ハラスメントという用語があることからも明らかだが、「先生と私」の関係は、「加害者と被害者」にたやすく転化する怖さがある。「#MeToo運動」で告発された事件の中には、「先生と私」の関係から生じたものが多数混じっていた。


 たとえフィクションであろうとも、現代社会において「先生と私」を元になにがしかの表現をしようとするならば、価値観のアップデートが必要不可欠だ。例えば「先生と私」の恋愛を描きたいのであれば、ひと昔前のように両思いになってハッピー、なんて物語を無遠慮に世に出していいはずがない。第一五回小説現代長編新人賞を受賞した珠川こおりの『檸檬先生』は、そうしたハードルをきっちり越えてきた。そればかりか、「先生と私」の関係に宿る加害性それ自体を、物語の根幹に据えている。


〈私の十年来愛した女性は、今私の目の前で細い四肢を投げ出し、切れ長の瞳をだらりと開けて倒れている。(中略)絶命している〉


 冒頭の一ページで衝撃的なシーンが描写された後、「春」と題された章が現れる。書き出しの一文は、〈初めて彼女に会ったのは私が小学校三年生の時だった〉。小説の語り手が、小学三年生当時から少なくとも十年以上先の未来にいる「私」であることの表明だ。語り手はできるだけ「小学生の頃の私」あるいは「この時の私」の心情や五感を忠実に再現するよう心がけているが、十年以上の時を隔てたからこそ当時のことが言語化できる、という俯瞰的な視点も取り入れられている。


 物語の幕開けは、苦い。東京にある小中一貫の私立校に通う八歳の「私」は、クラスメイトたちから「色ボケ」と呼ばれ、いじめられていた。彼は、音を聞くと色が見え、色を見ると音が聞こえる。そして、数字に固有の色を感じる。視覚情報が聴覚とリンクする、共感覚の持ち主だったのだ。


 それゆえ算数の時間は教科書から色が溢れて混乱し、普通の絵画や音楽は〈見たり聴いたり、それだけで脳の中がサイケみたいになって〉吐き気をもよおす。〈教師に訴えたところで眉を顰められるだけに終わっていた。クラスの誰も理解してくれない。私だけがおかしい〉。


 共感覚は、子供時代にある程度の確率で生じる現象として知られているが、「私」の周りにはいなかった。母は昼間はスーパーで働き、夜も仕事に出ていて忙しい。画家でプータローの父は年に二、三度帰ってくるのみだ。孤独だけが友達だった日々にかすかに灯る喜びは、共感覚者でしか味わえない特別な「美しさ」の体験だった。その「美しさ」を求める気持ちが、運命を引き寄せる。


 放課後の音楽室のピアノで「美しい」──普通の人の感覚では「汚らしい」旋律を奏でていた、中学部の三年生の少女。檸檬色の瞳をしたその人は、共感覚の持ち主だった。自分よりもずっと長い年月この現象に付き合ってきた彼女は、共感覚についての知識をレクチャーしてくれた。私を「少年」と呼ぶ少女を、彼は「檸檬先生」と呼ぶようになる。


 檸檬先生は、「私」が共感覚を駆使して描いた絵画を褒めてくれる。数字から色を引き剝がすコツを教え、算数の苦手意識を克服させてくれる。そして、「運動会……にちゃんと参加しようや」と促してくれる。集団生活から逃げてばかりいてはダメなのだ、と。「自分は普通ではない」というネガティブな想像力を抱く人間が求めているのは、「あなたは普通だ」と不安を上書きしようとする言葉ではない。「あなたが普通ではないように、私も普通ではない」と共鳴し、寄り添ってくれることだ。その意味でも、檸檬先生は上からではなく隣から、人生の導き手となってくれる、素晴らしい「先生」なのだ。


 一五歳の少女と八歳の少年が結ぶ「先生と私」の関係は、読み手にとってまずは憧れの対象として胸に飛び込んでくることだろう。かつて自分にも檸檬先生のような人がいた、と記憶を蘇らせる人は少なくないかもしれない。ところが、「夏」の章に突入する前後から、檸檬先生が抱えた問題が見えてくる。彼女の近くには、相談できる大人がいない。


 つまり、彼女には「先生」がいない。繰り返し記してきたように、「先生と私」の関係には加害性が宿る。そのことを生徒に自覚させるのも、本来は「先生」の役割であるはずなのだ。その学びを経ていない檸檬先生は無意識のうちに、やがて意識的に加害性を発揮し、「私」の人生に影響力を行使し始める。読み進めながら危ない、と思う。離れろ、と思う。その先で、「先生と私」というジャンルの定番である、「最後の授業」が訪れる。


 願わくば、違う結末が見たかったと思う。作品に対する批判ではない。不器用な登場人物たちの人間性を理解したがゆえに生じた、願いだ。しかし、いったい彼らにどんな言葉を投げかければ良かったのだろう? いい小説は、いい「先生」になる。人生の導き手になると同時に、反面教師として立ちはだかってくれる。人生について、この世界の有り様について考えるべきものが、ここにある。


                             (小説現代2021年3月号掲載)

吉田大助(よしだ・だいすけ)

ライター。1977年、埼玉県生まれ。「小説新潮」「野性時代」「STORY BOX」「ダ・ヴィンチ」「CREA」「週刊SPA!」など、雑誌メディアを中心に、書評や作家インタビュー、対談構成等を行う。構成を務めた本に、指原莉乃『逆転力』などがある。

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