『君と漕ぐ』/きらめく航路を、貴方と(谷川宗長)
文字数 2,867文字


ある緩慢な力がぼくらをとらえ、川が後方にしりぞき始めた。さながら多くの糸で作られたものが引っぱられてでもいるように、流れが複雑にからみ合いつつせきたてるのをぼくは感じた。そして同時に、ぼくが夜のなかで意識を失い、避けることはできないがいずれは別れて帰ってくるはずの未知のもの目ざして進んでゆく瞬間に、いつも感じるあの感覚がよみがえった。ぼくは櫂を水にいれた。
──ジェイムズ・ディッキー『救い出される』(酒本雅之訳)
「呉越同舟」という言葉があります。
『孫子』から生まれた故事成語で、中国の春秋時代、もしも互いに仇敵である呉の国の人と越の国の人が同じ舟に乗り合わせてしまったら、という譬え話が元になっています。運悪く暴風に襲われてしまった二人は一時休戦、互いに協力して危機を乗り越えるだろう。
二人以上の漕ぎ手がいる船は、操舵手同士が団結しないと難局を打破できません。
いわんや、競技用カヌーをペアで漕ぐことをや。
最速を目指す小舟のフォルムは、はなから安定を求めてはいないのですから。
『君と漕ぐ』は、はじめは乗ることすら難しい、そんな競技用カヌーを乗りこなし、スプリント・レースで最速であることに青春を賭ける少女たちの物語です。
物語の主人公は四人。圧倒的なカヌーの才能を持ちながらも、ある事情から大会競技の表舞台に出ることのなかった一年生の湧別恵梨香(ゆうべつえりか)。引っ越し初日、地元の川でカヌーを一心不乱に漕ぐ彼女に出会い、転校先のカヌー部に入部することを決めた一年生の黒部舞奈(くろべまいな)。確かな才能を有しながらも、カヌーに対してどこか一歩退いたような様子のカヌー部副部長の二年生、天神千帆(てんじんちほ)。千帆と小学生の頃からペアを組み、自分以上に確かなその実力に信頼を置くがゆえに、現在の彼女にもどかしさを感じている二年生部長、鶴見希衣(つるみきえ)。そんな四人が埼玉県のながとろ高校カヌー部に一堂に会するところから、物語は本格的に始まります。
タイトルからも分かるように、物語の一番の焦点はペア(二人組)でのカヌースプリントに当てられています。ペアによってそれぞれの戦略・スタイルは異なっても、お互いの息を合わせること。パドルのさばき方からペースの配分、さらには勝負時の読み合いまで。もちろん才能や努力量も必要とされますが、選手の相互理解もまたダイレクトにタイムの伸縮、ひいては勝敗に繋がる要素となるのです。
ところが、物語開始時点で成立している希衣・千帆のペアはどこかギクシャクしています。その原因として、二人は過去に利根蘭子(とねらんこ)という圧倒的な才能を持つ少女に完敗していたことが明かされます。敗北の苦い記憶。持って生まれた才能の差。希衣はさらなる勝利への焦燥に空転し、千帆は希衣からの信頼に応えることのできない自責の念を抱いている。そんな不完全燃焼の二人の元に現れた恵梨香という新星の存在が、二人の関係に新たな化学反応を呼び起こし、ながとろ高校カヌー部はやがて大きな決断を下すことになります。
『響け! ユーフォニアム』シリーズにも共通する点として、著者である武田綾乃は作品世界に対して平等にシビアであることが挙げられます。舞奈は性急な展開のスポーツ漫画のように突然才能に目覚めることはなく、あくまで「落水することなくカヌーに乗ること」から練習を始めます。選手間には歴然とした才能の差はあり、カヌー競技に対するアプローチも千差万別です。人付き合いが極端に苦手な恵梨香の無意識の傲慢さをひそかに看破する一方で、希衣は自身の狭量さを指摘されるまで気づきません。そんな若者特有の視野の狭さまでもが、綿密に演算された上で描かれています。登場人物の誰にも寄りかかることのない、風通しのいいフェアネスが、爽やかな読み心地の秘訣となっているのです。
そしてまた、この小説が描くのは「選手としてカヌーを漕ぐ喜び」だけに留まらないという点も大きな魅力です。少しずつ実績を積み重ね、初心者から脱していく舞奈は元より、彼女たちを指導していく教師たちの在りようや、ボランティアでカヌー大会の運営に携わる人々。かつてパドルを握った人に、彼女たちの勇姿に憧れてカヌーに興味を持った子。さまざまな形でカヌーに関わる人々の喜びが多面的に描かれていることで、必ずしもカヌー選手だけが世界の主役ではないと理解できる構成にもなっているのです。
かつて、アメリカの心理学者ホールは青年期の不安に揺れる期間を「疾風怒濤の時代」と表現しました。高校生である彼女たちは、その真っ只中にいるのです。才能。進路。人間関係。さまざまな横風が、小舟を揺らし、操舵者のフォームを歪め、合っていたはずの二人の息づかいを徐々にずらします。そんな風の最中にあってもなお、彼女たちは同じ舟に二人で乗り、先に進むことを決意したのです。
二人以上の漕ぎ手がいる船は、操舵手同士が団結しないと難局を打破できません。
だからこそ、彼女たちはお互いを分かりあおうと努力し、お互いの分からない部分はわからない部分として尊重し合おうとするのです。
その姿勢に、我々は胸を打たれます。
この『君と漕ぐ』は読み進めるうちに、彼女たちの進みゆく航路に陽の光が射すように祈らずにはいられなくなるような、眩しいばかりのひたむきさとヒリヒリした焦燥感に満ちた、続きの待ち遠しい青春スポーツ小説シリーズの快作です。
(書き手:谷川宗長)


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