月光の海 第一章(2) / 伊岡瞬

文字数 14,543文字

第一章 ダンチ(一九九六年)

「べつに、なめてません」
 答えながら、(しゅう)(へい)はつい左手を上げそうになった。顔をかばうためだ。ビンタや(こぶし)から顔を守るためだ。気がついたときには、こんな癖がついていた。その原因がなくなったあとも、消えてくれない。
 しかし、メガネ男は殴るつもりはなさそうだった。さらにきつい目で(にら)んだだけだ。
「ほんとです」
 (ひとし)が、少しずれたタイミングで口出しするのと同時に、自転車で通りかかった買い物帰りらしい主婦が、少し先で停まった。心配しているのか、ただの野次馬気分か、こちらのようすを見ている。柊平は、いいぞ、と思った。観客が増えるほうがいい。
「おまえら、学校はどこだ」
 メガネ男が訊いた。予想した展開だ。いたずらを見つけた大人は、百パーセントこう訊く。しかし、もちろん正直になど答えない。学校まで来られては少しめんどくさいことになる。ガンタマは、きっとこのメガネ男の言い分を信じるからだ。しかも、最悪なことに本当のことだからだ。
 名札をはずしておいてよかった。あんな(かっ)(こう)悪いものをつけて、道草などできない。
(みどり)(かわ)小学校です」
 嘘をついた。この手は前にも使ったことがある。信じさせるには、嫌そうに、ぼそぼそっと答えるのがコツだ。とくにこのあたりは、柊平たちが通う(きた)(はら)小と、隣接した緑川小の通学区との、ちょうど境界なのだ。
 叱られるぐらいなら、まして殴られるぐらいなら、嘘をついたほうがいいと、大人たちに、特に親に教えられた。
「緑小か。名前は」
 第一関門突破だ。あとはこの場から逃げられればいい。
「だったら、おじさんの会社と名前はなんですか」
 逆襲に出る。これも、前に一度使ってうまくいった手だ。暴力をふるいそうにない相手には、こちらも強気に出るに限る。
「なんだって?」
「ぼくたちは、やっていませんって言ってるのに、学校とか名前を聞くなら、おじさんも会社とか自分の名前を言ってください。ぼくたちが石を()ったっていう証拠はあるんですか」
 ここまでの会話で、相手の男の怖さを見切っていた。恐れるに値するかどうかの基準線は、明快で単純だ。前の父親より怖いか怖くないか。このメガネ男の迫力なら、比較にもならない。
 男は、左手の指でメガネを少しだけずり上げた。
「ふざけたガキどもだな」
 いつしか、野次馬は五、六人に増えていた。「どうしたの」「なにかしらね」などという、おばさんどうしの会話も聞こえる。ますますいいぞ、と思った。野次馬が増えると、たいていの大人はうやむやにして立ち去る。メガネの男もきょろきょろしはじめた。
「もう、行ってもいいですか。知らない人と口をきいちゃいけないって、先生に言われてますから」
 最後のほうは、わざと声を大きくした。
 野次馬どうしの会話が、ますますざわついてきた。
「あとで学校に連絡するからな」
 メガネの男は、悔しそうに言って、BMWのドアを開けた。勝った、と思った。まだ名前もしゃべっていない。もっとも、本当の名を言うつもりはなかったが。
 男は、車の前に自転車を停めて見ていた、小学校低学年の男児をクラクションで追い散らし、そのまま走り去った。
「均、行こうぜ」
「ああ」
 あっけない結末に終わってしまって、少し残念そうな野次馬たちを残して、速足で歩いた。
「待ってよ、柊ちゃん」
 おいついた均が、二度、三度と後ろを見ている。
「振り向くなって。おれたちは何にもしてない」
「わかった」
 さらに速度を上げる。ほとんど駆け足だ。なんとかやり過ごせたとはいえ、大人を相手にやりあった。しかも嘘をついた。興奮している。手のひらは濡れているし、心臓はどっきんどっきんと痛いほど強く脈打っている。足は自然と速くなる。
「待ってよ、どこ行くの」
 はあはあ息を荒くしながら、均が小走りでついてくる。
 いつもの通学路とは違うが、いまさら来た道を戻ることはできない。あいつに見張られていてもいいように、ずっと遠回りして帰ろうと思った。
 見覚えはあるが、ふだんの遊びのテリトリーではない道を進む。
「あいつさ、学校とかにさ、連絡、しないかな」
 均の言葉は切れ切れだ。
「するなら緑小だろ。信じてたから」
「ほんとは、北小だって、ばれないかな」
「心配すんなよ。ばれたって関係ない。証拠がないだろ。指紋だってないし」
「でも、ガンタマのやつ、絶対追及してくるぜ」
「名前も言ってないのにガンタマにばれるわけない」
 そう答えたが、たしかに可能性はあると思っている。
 まず緑小にクレームを入れる。調べてみたが、該当児童はいないようだという返事が来る。次に、隣接した北小に連絡をする。職員会議で話題になる。ガンタマは勘が鋭い。さっきの言動を細かく説明されたら、柊平たちが疑われる可能性はある。少しでも怪しいそぶりを見せたら、徹底的に追及される。
 以前にもあったが、ガンタマが問い詰めるときは、児童が泣き出すまで手加減なしだ。作り話や言い訳には耳を傾けない。矛盾があれば怒鳴り、ときには、手を出すこともある。以前はゲンコツをお見舞いしたらしいが、最近はさすがにまずいと思うのか、表紙の硬い出席簿で頭をはたく。ゲンコツほどではないが、それでも派手な音がして、けっこう痛い。
 ガンタマの児童からの人気はかなり低いが、保護者からの受けはいいそうだ。はきはきとしゃべるし、背が高くて、柊平はそう思わないがハンサムという意見もあるらしい。
「だけど腹立つなあ。あのメガネ、しつこく追いかけてきやがって」
 均の感情は、いつも少し遅れて盛り上がる。
「今さらいってもしょうがねえよ。そもそも、均が石なんか蹴るからいけないんだろ」
「そうだけどさ。――あれ、ゼッタイ嘘だぜ」
「なにが」
「車に傷がついたとか。イチャモンに決まってる」
「もういいよ。終わったし」
「うん」
 いつしか住宅街を抜けていた。道は行き止まりになり、雑草の茂った川べりに出た。
「これ、(なか)(がわ)かな」
 均の問いに、たぶんね、と答えた。
 中川は、もとは田んぼや畑の用水路だったのだが、このあたり一帯の農地の宅地化が進んで、その使命を終えたとガンタマが教えてくれた。いまはところどころで生活排水が流れ込む、くねくねと蛇行するただの汚い川になっている。
 この中川をもう少し(さかのぼ)れば、柊平たちが暮らすダンチの近くも流れている。しかし、そのあたりはもっと川幅が狭くて、場所によっては飛び越えることもできる。その代わり流れが速い。
 少なくともダンチの男子は、この中川を飛び越えるのが〝一人前〟になる儀式だ。柊平も飛んだ。そして、ほとんどの男子と一部の女子は、一度は落ちた経験がある。柊平も落ちた。どぶの臭いをさせて帰り、母親にめずらしくきつく叱られた。
 片側だけ歩道のある、コンクリート造りの橋がかかっていたので、その中ほどに立って、川面をぼんやりと見下ろした。底が浅い場所の水は澄んで見えるが、やはりどぶの臭いが漂ってくる。少し離れたところに、つがいらしい鴨が二羽、ときおり水にくちばしを突っ込んで餌をあさっているのが見えた。
「うわ、すげえ。いっぱいいる」
 (らん)(かん)から身を乗り出して見ていた均が、驚きの声をあげた。柊平もそちらに目を向ける。
 少し離れた橋脚の付け根あたりが深くえぐれて、水深があるのか濃い色をしている。そこに、黒い魚影がうごめいている。ひとつひとつは五十センチかそれ以上ありそうだ。
「鯉だ」
 何を食っているのか、丸い砲弾のようにころころと太った真っ黒の鯉にまじって、一匹だけ、赤と白がまだらになった一回り小さな錦鯉が尾を振っている。
 鯉の群れが、のぞきこんでいる二人の真下に集まってきた。水面がゆらゆらと揺れる。たぶん、橋から餌を投げ込む人間がいるのだろう。それを待っているらしい。しかし、投げ入れてやるものなど持っていない。
「鯉って食えるのかな」
 均が、拾った小石をいきなり魚めがけて投げつけた。
 石は、ぼずん、と音をたてて、鯉と鯉のあいだに落ちた。驚いた鯉たちが、一斉に散った。
「ちきしょう」
 均が、今より少し大きな石を拾って、構えて待った。
「柊ちゃんも狙ってみなよ。どっちが当たるか賭けようぜ」
「おれはいいよ」
 べつに鯉がかわいそうだったからではない。ガキっぽいと思ったからだ。
 一旦は、ばらばらに逃げた鯉だったが、こんな場所で群れているぐらいだから、投石程度には慣れているらしく、すぐにまたもとのあたりに戻ってきた。
「死ねっ」
 均が再び投げつけた。ぼずん。また外れた。
「ちきしょう。待ってろよ」
 そう毒づいて、きょろきょろと何かを探している。目当てのものが見つからなかったらしく、走って橋を渡って行った。
 すぐに、両手で抱えるような大きな石を持ってきた。
「どうすんだよ、それ」
「決まってるじゃん」
 石を頭の上まで持ち上げ、またしても集まってきた鯉めがけて投げ落とした。
 ぼっしゃんと派手な音を立てて、水しぶきが飛び散った。
「うへっ」
 ふたり同時に飛びのく。
「ばか。しぶきが顔にかかったぞ」
 柊平はぺっぺっと(つば)を吐き、(そで)で顔をぬぐった。
「こら、きみたち」
 声のするほうを見ると、自転車にまたがった老人が、停まってこちらをにらんでいる。
「川に石なんか投げちゃだめだぞ」
「はい」
 柊平はすぐにうなずいた。べつに反省はしていないが、めんどくさいので謝っておく。
「どこの学校だ」
「緑小です」さっきより素早く嘘が出た。
「先生に教わらなかったか」
「教わりました」
「だったら、やっちゃだめだぞ」
「はい、すみません」
 素直に謝っていると、気が済んだのか、老人はまた自転車を漕いで去った。
「ばーか。死ね、じじい」
 説教のあいだずっと黙っていた均が、老人の背中に向かって、ぎりぎり聞こえない程度の声量で悪態をついた。
 均は、学校内で一、二を争うほど体が大きい。ただ、力持ちではあるが、筋肉質というよりぽっちゃりとした感じだ。そして、ほんとうは気が小さい。ふだんはあまり自己主張しない。しかし、一度火がつくと手がつけられない。
 四年生のときのことだ。均のシャツのサイズが小さいのを、しつこくからかった男子がいた。成長してきつくなったのだが、母親に「もう少し着て」と言われて我慢していたのだ。
 均は最初のうちは苦笑していたが、「新しいのを買ってもらえないんだろう」とからかわれ続け、スイッチが入った。
 いきなり立ち上がり、両手で持ち上げた椅子を相手に投げつけた。柊平はその場にいたが、顔は真っ赤で目はつり上がり、まるで別人に見えた。幸い相手に怪我はなかったが、少しだけ問題になった。
 均は、その体つきと口数の少なさから、それまでどちらかといえばいじめられる側だったが、その日以来、均をからかう者はいなくなった。
 柊平も、本気で喧嘩をすれば均にかなわないだろうと思っている。しかしその騒ぎの前もあとも、まるでなついた猫のように、柊平に寄ってくるのだ。ときどき(うっ)(とう)しいこともあるが、ほかに親しい友達もいないので、こうして放課後の時間を一緒に過ごすことが多い。
 均が投げた石のせいで、もわもわとした濁りが広がる川に、さすがに鯉の姿は見えなくなった。
 柊平は欄干に両手をつき、ぼんやりと周囲を見回した。
 今、何時ごろだろうか。校門を閉め、追い出される時刻が、午後四時半と決まっているから、五時を少しまわったぐらいだろう。どんよりうす曇りの空には、まだ夕日の()(はい)さえない。
 ここからダンチまでは、歩けば三十分以上かかりそうだ。家とは反対の方角に歩いてきたのは、メガネ男に追いかけられて興奮していたせいもあるかもしれないが、心のどこかに「すぐには家に帰りたくない」という気持ちがあったのかもしれない。
 急いで帰宅する理由がみつからない。むしろ、早く帰って父親と顔を合わせたりしたら、まためんどうくさいことになる可能性が高い。
 均は、投げ頃の小さな石をいくつも集めてきて、飽きずにまた投げ始めた。均にとっては、一種のゲームなのかもしれない。
 その姿を見ながら、ぼんやりと思い出す。あの家にいて「楽しい」と思ったことがあったろうか。
 前の父親は、今から考えても普通ではなかった。誰かに聞かれると「幼稚園には行ってない」と答えるが、ほんとうはごく短期間、通ったのだ。ただ、入園するだけはしたのだが、一ヵ月ほどでやめることになった。
 たわいない理由だった。幼稚園で配ったプリントを、柊平だけ渡されなかったらしいと知った母親が、よせばいいのに父親にぽろりと漏らしたのがきっかけだ。父親は激怒し、幼稚園に電話をかけ、園長を出させ、怒鳴りまくった。園長は何度も詫びたらしいが、結局そのまま幼稚園をやめることになった。
「明日から、行かなくていい」
 そう言われて終わりだった。残念な気持ちもあったが、少しだけほっとしていた。ほんとうはプリントをもらわなかったのではなく、柊平が捨てたのだ。書いてあることは読めなかったが、渡されたときに「『おそとあそびセット』の申し込み用紙です」と言われたからだ。
 幼稚園をやめることになったが、あまり残念とは思わなかった。どうせ、みんなと同じようにはできないのだ。
 あとになって思ったが、本当は、父親も怒る機会を待っていたのではないか。世間体もあって、入園させるだけはさせたが、やっぱり金がかかる。ちくしょう、やめさせる口実はないか――。
 だから、「プリントをくれない」でも「砂場で転んだ」でも、口実はなんでもよかったのだ。皮肉なことに、それは柊平がプリントを捨てた理由でもあった。
「おそとあそびセット」というのは、砂場遊びと水遊びのおもちゃがセットになったようなもので、別途お金を払って買うのだ。もしプリントを父親に見せたら、買って貰えないだけでなく、一見無関係な何か別な粗探しをされ、殴られ、「だからそんなものは買ってやらない」となるのがわかっていたからだ。
 またあるときは、父親の呼びかけに、柊平がすぐに返事をしなかったというだけの理由で激怒したこともあった。逆上した父親は、柊平が頼んだわけでもないのに、気まぐれで買ってきて、柊平が面倒をみさせられていたヤドカリ三匹を、台所の床にぶちまけて柊平の目の前で踏みつぶした。その情景が焼きついて、いまでも貝類が苦手だ。
 そんな父だったが、柊平が小学二年生のとき、年末も近い夜中に酔っぱらって横断歩道でない道路を横切り、おそらくダンプカーのような大型の車に跳ね飛ばされて即死した。()き逃げした車はいまだに見つかっていない。当然、賠償金ももらっていない。
 今の父親は、柊平が四年生のときに、母が再婚した相手だ。どういう事情か知らないが、父が勤めていた会社の人間だという。歳はたぶん同じぐらいだ。暴力を振るわないかわりに、ねちねちと話が長い。「カイカク」とか「サクシュ」とかの話が出てくると、こんなことなら一発二発殴られて終わりにしてもらったほうがいいとさえ思えてくる。
 そんなに会社が気に入らないなら、さっさと辞めればいいのにと思うが、朝になると――夜勤の日は夕方に――納豆と少しのおかずでご飯をかきこんで、家を出ていく。酒は一滴も飲まない。
「アルコールやギャンブルに頼るのは、ただの逃避で、金と時間の浪費以外の何ものでもない」
 それが口癖だ。
 ギャンブルどころか、外の食事にもほとんど連れていってもらったことはない。遊園地など論外だ。ギャンブルをする金もないことに、理由をつけているのだと、小学生でもわかる。
 前の父親のことは憎んでいたが、いまの父親のことは嫌っている。
 どちらがましか――。
 どっちもごめんだ。どうして母親は、ああいう貧乏人のへんなやつとばかり結婚するのか。クラスの中には何人も、最新ゲーム機やマウンテンバイクを買ってもらったやつがいる。どうしてそういう家に生まれてこなかったのか。生まれる前にくじ引きでもしたのだろうか。最近、なにかといえばそんなことばかり考える。
 まだ日は沈まないが、夕食の匂いがあちこちから(ただよ)ってくる。魚を焼く匂いや、肉を焼く匂いだ。
「なあ、柊ちゃん。腹減ってきたよ。そろそろ帰らない?」
 そろそろ均がそう言いだすと思っていた。
「そうだな」
「おれんち寄る? 何か食うもんあるかもしれない。あ、それとさ、ゲームしない?」
 均の家は、均の妹と母親との、三人暮らしだ。同じダンチに住んでいる。
 家の経済状態の話などしたことはないが、いやそもそも知らないが、印象として、母親ひとりの均の家の生活も、両親がふたりとも働いている柊平の家の生活も、あまり変わらない気がする。
 それどころか、均の家にはテレビゲームもある。かなり使い込んである初期型のファミコンだが、それでもあるだけましだ。
「それにしても、さっきのメガネ、腹立つなあ。もう一回戻って、石ぶつけてやろうかな」
 まだ言っている。以前のことを思い出して急に怒りだすのも均の癖だ。
「やめとけよ。それより――」
 そのとき、橋の反対側から、ひとりの女子が歩いてくるのに気づいた。
 髪はひとつにまとめて、後ろに垂らしている。たしかポニーテールという髪型だ。たぶん、柊平たちと同じぐらいの学年だと思うが、見覚えがない。緑小の子かもしれない。
 しゃべるのを途中で止めたまま、彼女の姿を追う。
 すらっとした体つきで、背筋を伸ばして歩いている。テレビで見た野生の動物--たとえばチーターのような印象だ。性格がきつそうな目をしていると思った。
 みつめている柊平に気づいたのか、女子のほうでも柊平を見た。とっさにランドセルを背負っていることが気恥ずかしくなったが、今さら隠せない。
 視線が合った。そのまま逸らせなくなった。女子がゆっくり歩いてすぐ脇に来るまで、柊平と彼女の視線は定規で引いたように、一点で接していた。
 すれ違う瞬間に彼女は視線を前方に戻し、歩調を変えることもなく去っていく。
 たった数秒のことだったが、柊平の胸は苦しくなった。
 いままでに味わったことのない思いだ。悔しいとか悲しいとか、そういうたぐいとは違う感覚だ。
「なあ柊ちゃん」
 均の呼びかけを無視して、柊平は、振り返りもせず歩き去る女子の背中を見ていた。

2

 情けない機械音とともに、マリオが崖から落ちてゲームが終わった。
「あ、あーあ。惜しかったな」
 脇で見ていた均が悔しがったが、当の柊平はそれほどでもなかった。
 いつも同じところでやられる。さすがに最近は飽きてきた。といっても、均が持っているゲームの種類は全部で三本だ。たまには違った、つまり新しいゲームをやりたいが、人のものだからそんなことはいえない。
 均は「中古で買ってもらった」と言うが、本体の汚れ具合や、ソフトのシールがはがれている感じからすると、親戚あたりに、使わなくなったのをもらったのではないかと思う。そう考えると、ある日突然、均の家にこのゲーム一式が登場したことも、それ以来一本もソフトが増えていないことにも、説明がつく。
 だがそれでも、家にゲーム機すらない柊平からしてみれば、うらやましい。
 今の父親ならば、いくら金があってもテレビゲームは買わないだろう。一度、母親にねだったことがある。その翌日の晩飯のときに、説教された。やり過ぎると脳の何とかいう部位が萎縮するらしい。
 もちろん、ほとんど聞いていなかった。そんな理屈を並べるのは、どうせ金がなくて買えないことへの言い訳じゃないか、と腹の中で思っているからだ。
 ああ、はいはい、どうせダメなんでしょ――。
 飢えない程度にものが食えること以上に、親になにかを期待してはいけないということを、自分の名前がひらがなで書けるようになるよりも早く、知っていた。
 たとえば小学校に上がる前のことだ。どんな用事で出かけたのかは忘れたが、めずらしく家族でどこかの商店街を歩いていた。パン屋の店先に並んだ菓子パンがどうしても食べたくなり、めったにないことだったが、柊平はだだをごねた。買って買ってと母親の手を引っ張った。腹が減っていたのはもちろんだが、そんなふうに甘えてみたかったのかもしれない。
 すると、少し先を歩いていた父親がそれに気づき、速足で戻ってきて、一言も発することなく、柊平を殴った。道路に転がり、何が起きたのか理解できず、驚きのあまり泣くことすらも忘れた柊平に向かって吐き捨てた。
「てめえにそんなものを買い食いさせるために働いてるんじゃねえ」
 
「お兄ちゃん、宿題やりたいから、音小さくして」
 ふすまをあけて顔を出した、均の妹、(しず)()の声に我に返る。
 均の面倒見の良さを知らない人が見れば、兄が妹のぶんまで食べてしまうからではないかと誤解しそうなほど、静香は兄に似ずに()せている。ただ、その名に反して口はかなり達者だ。
「いま、小さくするところ」
 均のとってつけたような言い訳を無視して、静香が柊平に挨拶した。
「こんにちは」
 ぺこりとお辞儀をすると、きれいに真ん中から分けて左右ふたつにまとめた髪が揺れた。
「あ、どうも」
 友人の妹とはいえ、そして二歳も年下とはいえ、女子と面と向かって話すのは、なんとなく気恥ずかしい。すぐに、均に話しかけた。
「おれ、もう帰るよ」
「え、まだいいじゃん、お母さん、帰ってきてないし」
 壁にかかった時計を見ると、あと十分ほどで六時になる。
「でもなあ」
「今日さ、カレーだって言ってた。な、静香」
「うん。言ってた」
「だからさ、食べて行けばいいよ。な、静香」
「うん。食べて行けば」
 さすがに均たちも、カレーが自慢できるほどのごちそうだと思って言っているわけではないだろう。ただ、柊平がカレー好きなのを知っているし、そもそもカレーは皆で食べると美味しいからだ。
 たしかに、皆で冗談を言いながら楽しく食べる光景を想像したら、心が揺れた。
「でもさあ、ほら、ガンタマに宿題出されたし」
 合計千二百回の熟語を書かなければならない。
「ここでやればいいじゃん」
 たしかに、下校途中にそのまま寄ったので、ランドセルの中に必要なものは入っている。
「もうすぐ、お母さん帰ってくるしさ。な、静香」
「うん。もうそろそろ帰ってくる」
 静香は、宿題ができないから静かにしてくれとクレームを言いにきたわりには、いつまでも会話に加わっている。もしかすると、静香も、柊平と一緒にカレーを食べたいと思っているのかと考えると、なんとなくくすぐったい感じがした。
「じゃあ、そうしようかなあ」
 柊平の母がパートを終えて帰宅するのは六時半ごろだ。仕事は六時で終わりなのだが、そのあと職場のスーパーで買い物をするので、そのぐらいの時刻になる。
 柊平の家も均の家も、同じ団地内にある。歩いて五分とかからないし、街灯もきちんとついていて、怖そうな場所もない。それに、均の家で夕食をごちそうになるのはこれが初めてではなかった。もっとも、その逆は一度もなかったが。
「わかった。じゃあ、あとで電話して聞いてみる」
 均は、よっしゃ、と嬉しそうな声を上げた。
「だったらさ、それまで『ドンキー』やってようぜ。あ――」
 静香にとめられたのを思い出したようだ。
「あのさ、音小さくしてやるからいいだろ。だって、柊ちゃんがいるんだし」
 均の言い訳に、静香はぷくっと頬を膨らませたが、柊平が苦笑すると、静香も笑った。「なるべく、静かにやってね」
「了解!」均がふざけて敬礼をした。

 ほどなく、均の母親が帰ってきた。「保険のガイコウイン」という仕事をしているそうで、たまに遅くなることもあるらしい。
 均が興奮気味に「あのさ、柊ちゃんが夕飯食べて行くって」と報告するのを、柊平は身を固くするようにして聞いていた。
「まあ、ずうずうしい」そう思われないかと気にかかる。もちろん、均の母親とは顔見知りで、そんなふうに考える人ではないと知っているが、だからといって気恥ずかしさは消えない。
「あら、そうなの。じゃあ、急ぐから」
 やはり嫌な顔もせず、さっと手を洗ってから、てきぱきと買い物の片づけなどを始めた。
「いいってさ」
 嬉しそうに報告する均に、ただ「うん」とうなずいた。
 何度目かのゲームオーバーを機に、そろそろ宿題に取りかかろうと、国語のノートを広げたところで声がかかった。
「ごはん、できたわよ。並べるの手伝って」
 電話を借りて家にかけ、母親に均の家で晩ご飯をごちそうになると報告した。母親は、よくお礼を言っておいて、と答えた。
 食事は楽しく美味しかった。
 特別なメニューなどない。ごく普通のカレー――といっても普通でないカレーは知らないが――に、炊き立てのごはん、それにレタスとトマトとキュウリをドレッシングで和えたサラダ、冷凍しておいたのを温めたらしいコロッケが子どもたちだけひとり一個といったところだ。
「うめえ」
 均は、サラダには目もくれず、カレーの皿を持ち上げたまま一気にかきこんで、まだ柊平が三分の一も食べ終えないうちに「おかわりっ」と皿を突き出した。
「ええっ、あなたずいぶん早いけど、ちゃんと()みなさいよ。野菜も食べて」
「気にしない気にしない。おかわりっ」
 均がもう一度皿を突き出すと、母親も静香も笑った。柊平もつられて笑った。
 楽しいと美味しいんだな、と思った。
 柊平の家では、食事のときに笑い声が起きることなど考えられなかった。
 最初の父親のときは、笑いどころか、とにかく無事に食事を終えることができればありがたかった。だからたまに刺身が並んだりしても、いつそれがひっくり返されるかが気になって、あまり食べた気はしなかった。
 あるとき「くちゃくちゃ音をたてて食うな」と食事中にいきなり言われ、その後二時間説教された。このときは、幸い殴られなかった。
 翌日、音がしないように気をつかって口を閉じて食べていたら「あてつけでそんなふざけた食い方をするのか」と、結局殴られた。
 今の父親は、まさに対極にあって、どんなに機嫌が悪かろうと、疲れていようと理不尽な八つ当たりをしたりしないし、仮に不機嫌さを見せたところで、絶対にこぶしを振り上げたりはしない。
 ただ、説教はする。だらだらと食事のあいだじゅう話している。スーパーで小松菜が(ひと)(たば)九十八円で売られるまでの仕組みを、流通構造の基本や社会システムの欠陥をからめて説明する。飯がまずくなるのは、最初の父親の()()(ぞう)(ごん)を浴びているときと、そう変わらない。
 テレビのニュース番組が好きなところも似ている。ニュースを見ながら、犯罪がなくならないのは、つまるところ政治家が悪いというような話になる。しかし、なぜ銀行強盗犯より政治家が悪いのか、どうしても理解できなかった。
 貧乏なら働けばいいじゃん――。
 心底そう思う。貧乏だから強盗するんだろ。政治のせいとか言ってるけど、貧乏なのは自分のせいだろ。なぜなら、世の中には金持ちだっていっぱいいる。昼間、追いかけて来たあの男だって、父親より若いがBMWに乗っていた。政治のせいで貧乏になるなら、全員が貧乏なはずだ。貧乏を、ただ政治のせいにしてるだけじゃないのか――。
 もちろん、口に出して言ったことはない。
 だれも耳を傾けてくれる人がいないうっぷんを、柊平で晴らしているという点で、もしかすると二人は似ているのかもしれない。そして、母親が似ている二人と結婚したのは、偶然ではないのかもしれない。
「柊ちゃん、おかわりすれば」
 空になった皿を見て、静香がアピールしてくれた。母親を見ると、にこにこしている。
「じゃあ、お願いします」
 よそってもらうあいだ、あらためて均の家の居間を見渡した。
 子どもがふたりいるせいか、柊平の家よりも少し散らかっている。家具なども、柊平の家と同程度か、もしかするともっと安物なのかもしれない。でも、なんとなくじめじめした雰囲気がない。
 静香が生まれてまもなく、均の両親は離婚したのだそうだ。それ以来ひとりで均と静香を育ててきた。
 均とばかり遊ぶ大きな理由のひとつは、均が寄ってくるからだ。だが、もうひとつ誰にも言えない、均にも言いたくない理由がある。均の家の生活の水準――お互いの着ているものや持ち物、ほとんど旅行など行ったことがない点――が、似たり寄ったりだと感じているからだ。
 しかし、家庭の雰囲気だけは全然違う。均の家のほうが、断然楽しい。
 やっぱり、政治家のせいじゃないなと思う。
 柊平は、心の中で父親のことを「お父さん」と呼んだことはない。

 結局、宿題には手をつけられなかった。
 食事のあと、コーラをコップに注いでもらって、均の母が片づけをしているときに、三人で飲んだ。
 均が、得意げに長いげっぷをして、怒った静香が均の背中を強く叩くと、それに合わせたように、またやらかした。
 柊平が笑った弾みでそれに続き、あきれた静香までもがげっぷをして、三人とも笑いが止まらなくなった。涙が出るほど笑っているうちに、宿題などどうでもよくなっていた。



 翌日、朝一番のホームルームの時間に教室に入ってきた、担任のガンタマの顔は、少し(こわ)()っているように感じた。
 柊平は、すでにランドセルから国語のノートを取り出し、やり残した宿題にとりかかっていた。結局、熟語千二百回の宿題は三分の一も終わっていない。
 均の家でカレーの会を終えて家に帰り、すぐに手をつけたことはつけた。ほかの連中が調べてきたものと、『絶体絶命』を合わせて十二個、それを百回ずつ書く。あらためて十二個をながめ、うんざりした。みんな、いいところを見せようと思って、やたらと画数の多い熟語を調べてきたに違いない。
『因果応報』などまだましだ。たとえば『(せい)(こう)()(どく)』は、簡単そうでかなり画数がある。昨夜はなるべく画数の少なそうなものから始めて、三種書いたところで睡魔に負けた。残りは、この日三時限目にある国語の授業までにやってしまうつもりで学校へ来た。
 不機嫌そうな顔で、出席簿を教壇に放り投げたガンタマが声を張り上げた。
「きょうは、ホームルームの時間に、みんなにちょっと聞きたいことがある」
 やはり、いつもの始まりとは違うようだ。
 そろそろ『(こう)(へい)()()』が終わりそうだった柊平も、つい手を休めて教壇を見た。
 ガンタマの顔は教室内を見渡しているが、柊平はなんとなくガンタマの視線が自分に向けられているような気がして、机の中にノートをしまった。
 これは休み時間もやるしかないと覚悟した。ホームルームが使えないと、かなり予定が狂う。
「昨日、(さか)()地区のほうへ行った者はいるか」
 ガンタマの声が響き、すぐ前の席に座る均の大きな背中が、びくっと震えたような気がした。しかし、さすがに均も、すぐに振り向いたりはしなかった。どういうことなのか、その先の話を聞くまで、内緒にしておいたほうがいい。どうせ悪い話に決まっている。均も、そのぐらいはわかっているはずだ。
「聞こえなかったか。昨日、学校帰りに坂井地区のほうへ寄り道した者はいないか」
 しばらくの沈黙のあと、「行ってませーん」という声がそちこちから上がった。坂井地区といえば、空き地や造成途中の道路などがあって、柊平と均が、よく寄り道するあたりだ。昨日も通った。若干通学路から外れてはいるが、とりたててお目玉を食らうほどの遠回りでもないし、危険地区でもない。
 しかし、ここは「行きました」と答えてはいけないと、直感が告げている。
「いないんだな」
 柊平は、露骨に目を伏せてはまずいと思い、顔は上げたまま「それはどいつだ」という顔でクラスの連中の頭や横顔を見回した。ガンタマの顏を見ることはできなかった。
 きっとあのことだ――。
 だが、それにしては早すぎはしないだろうか。あれは、昨日の夕方のできごとだ。あのときとっさに考えたように、まず緑川小へ電話を入れ、その返事を待つのに、早くともあと半日ぐらいはかかるはずだ。それが朝礼から話題に出るということは――。
 つまりあのメガネ男は、緑川小に電話をしただけでは気が済まず、結果がわかる前に、周辺の小学校にも、同時にクレームの電話を入れたのだ。恐るべき執念深さだ。
 だが、証拠は何もないはずだ。昨日のあの一件と、柊平たちを結びつけるものはない。名前もクラスも知らない。あの男がこの学校までやってきて、ひとりずつ顔をみればばれてしまうが、さすがにそこまではしないだろう。
 いつもより小さく丸まって見える均の背中に、大丈夫だと声をかけてやりたかった。
「それじゃあみんな、机に顔を伏せて目を閉じろ。いいか、先生がいいと言うまで顔を上げるなよ」
 命じられるがまま、机に腕を置きそこに目を押し付けた。
「もう一度聞く。きのう、坂井地区のほうへ寄り道した者はいないか」
 驚いた。だれかが手をあげた気配があったからだ。ほかにも、あのあたりへ遊びに行ったやつがいたのだ。しかしもっと驚いたのは、すぐにガンタマが「よし、おまえは手を下げていい」と言ったことだ。
「ほかにはいないか」
 これはどういうことだろう。だれか特定の人間が目的なのか。
 しばらくの沈黙のあと、ガンタマのため息が聞こえた。
「よし、顔をあげていい」
 急に顔をあげたせいか、強く目を押し当てていたせいか、軽いめまいがした。
「ほかにいないんだな。じゃあ、次に、ちょっとみんな(じょう)()を出せ」
 ランドセルから、竹でできた三十センチ定規を抜き取る気配が教室に満ちた。むき出しの者も、きちんと手作りの袋にしまった者もいる。
「先生、ロッカーに取りに行ってもいいですか」
「いいぞ」
 何人かの児童が立って、ロッカーへ向かう。登校してすぐ、教室後ろのロッカーにランドセルをしまった、優等生たちだ。
「よし。出したら、持った手を上げろ」
 クラス中のほとんどの児童が手を上げた。中には何人か上げていない者もいる。柊平をふくめて五人だ。忘れてきたのだろう。
「よし、もういいぞ。忘れた者にはあとで宿題を出す」
 よかった。その程度で済んだ――。
「おい(みな)(かみ)
 いきなり柊平の名が呼ばれた。
「はい」
 声が上ずりそうになる。
「おまえ、定規はどうした」
 なぜ自分だけにそんなことを訊くのか。
「はい。――家に忘れました」
 嘘だ。ずっとランドセルに入れっぱなしだったのだから、忘れるはずがない。だから、さっき見当たらなかったときは、その理由が思い当たらなかった。しかし、認めてはいけないということだけはわかった。
「家に?」
「はい」
「間違いないな」
「はい」
「ならば、この定規は誰のものだ」
 そう言って、出席簿に挟んでもってきたらしい、定規を掲げて見せた。
(つづく)

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