月光の海 第一章(4)/ 伊岡瞬

文字数 11,058文字

第一章 ダンチ(一九九六年)

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 給食のあと、また何か話しかけてきた(あや)()を無視して図書室へ行き、地図を借りて調べた。
 やはりそうだ。「()(わたり)3の2」は、周辺の位置関係からすると、この地域の人が『ヒラヤ』と呼ぶあたりらしい。(しゅう)(へい)たちが通う学校からも『ダンチ』からも、自転車を飛ばして十分近くかかる位置にある。
『ヒラヤ』というのが正式な地名ではないのは知っている。もちろん柊平たちが名付けたわけではない。たぶん、だれも正確に知らないほどの昔から、そう呼ばれてきたのではないか。
 建物そのものを指すこともあるし、あの地区全体を指すこともある。柊平たちのすみかを『ダンチ』とひとくくりにするのに似ている。
 あきらかに、周囲の戸建て住宅とは、造りも雰囲気も違う。古い木造の平屋が建ち並び、それぞれに庭がついているが、建物自体はあまり大きくない――つまり広い間取りではない。
 建ったのは『ダンチ』よりも古そうだと、柊平は思っている。
 あの区画は畑に囲まれている。片道一車線のあまり交通量の多くない公道から、(じゃ)()()きの私道が畑の中に伸びていて、そのつきあたりが『ヒラヤ』だ。
 公道から続く砂利の道は、区画内の真ん中あたりを(つらぬ)いていて、小さな公園に突き当たって終わりになる。この砂利の道を挟んで、『(なが)()』とも呼ぶらしい古い造りの建物が、左右に並ぶ。
 正確に数えたことはないが、おそらく二十軒近い世帯が暮らしているはずだ。
 周囲はすべて畑で、畑との境界は学校や公園にありがちなフェンスに囲まれており、通り抜けはできない。なんとなく外界から隔離されたようでもあり、極秘基地のような雰囲気もある。
 しかし、見知らぬ土地をふらつくのが好きな柊平も、この『ヒラヤ』の区画には、ほとんど立ち入ったことはない。縦横ともに百メートルにも満たないこの狭い地域が、隣の学区の小学生にまでその名が知れているのには、わけがある。
 上級生から代々伝わってきたらしい「噂」でしか聞いたことがないが、昔この『ヒラヤ』で、不思議で残酷な事件があったらしいのだ。
 深夜遅く『ヒラヤ』脇の道路を、一人の若い女が歩いていた。彼女は、ふと『ヒラヤ』のほうから、小さな子どもの呼ぶ声を聞いた。
「おねえさん。おねえさん」
 真夜中でもあるし、気味が悪い。無視して通り過ぎようとしたが、どうしてもその呼び声に逆らうことができず、まるで体を(あやつ)られているかのように、ふらふらと『ヒラヤ』地区に入っていった。
 そして翌朝『ヒラヤ』の空き家の庭で、その若い女の死体がみつかった。不思議なことに、女の体にはどこにも傷がないのに、体中の血も骨もすべてなくなっていたという。
 たぶん、「トイレの花子さん」のような伝説だとは思うが、何かのきっかけで、ふと夜中に目が覚めたときに思い出せば、しばらく寝付けなくなる程度には怖い。近くにコンビニをはじめ、商店などはないし、夜になれば人通りも絶えそうだ。
 だから、柊平や(ひとし)だけでなく、近隣の子どもたちにとって『ヒラヤ』はあまり近づかないほうがいい場所だった。
 一年前の夏、柊平はいつもの遊びのテリトリーから少し離れた公園で、学校の友だちと缶蹴りをしたことがあった。友人の数は多いほうではないが、完全に孤立しているわけではないので、均以外と遊ぶこともある。
 このとき、同じ公園にいた(みどり)|《かわ》川小の連中と、いつしか一緒になっていた。そのうち、缶蹴りに飽きてバスケをやろうということになった。緑川小のひとりが公式ボールを持っているから取りに行こうと、十人ほどで自転車を漕いで行った。それが、『ヒラヤ』地区に入った数少ない経験だ。
 ボールの持ち主が家から持ってくるのを、ほかの連中と待つあいだ、柊平は自転車にまたがったまま、きょろきょろとあたりを見回した。
 どの家もリフォームしたような印象はなく、子どもの目にも老朽化していることが見て取れる。古いが風格があるたたずまいというのでもない。華やかさもない。
 板張りの壁も雨戸も、ところどころ塗装が剥げたり()(かえ)ったりしている。割れた窓ガラスをテープで補修した家もある。玄関先に放り出された三輪車なども、完全にさび付いていて、何年前からそこにあるのか想像もつかない。
 それぞれの家に小さな専用庭があるが、きちんと手入れしている家は少ない。中身のないプランターが転がっていたり、通り抜けできそうもないほど雑草が()(しげ)っていたりする。
 しかし、「廃墟」というのとも違う。ところどころに車が止まっているし、窓にはカーテンもかかっている。洗濯物も干してあるので、実際に人が住んでいる気配はあるのだ。現に、小学生だっている。
 このとき、ふと一軒の庭で、白髪をアップにしてムームーのような服を着た老女が、植木にバケツの水を撒いているのに気づいた。下着をつけていないらしく、前屈みになって大きく開いた胸元から、まるで水を入れただけの風船のようにだらんと垂れた、黄土色の乳房が二つ見えた。
 柊平の心臓はどきりと脈打った。見てはいけないものを見た気がして、すぐに目を逸らそうとした。しかし、なぜか視線がはがせなかった。すると、老女がいきなり腰を伸ばし、顔をこちらに向けた。柊平はあわてて目を逸らしたが、老女は見られたことに気づいて、柊平のことを睨んでいるような気がした。
 ほかの少年たちは、どこそこの公園ならバスケ用のゴールがある、という話題で盛り上がっていて、老女のことには気づかなかったようだ。
 それ以来、なんとなく気にはなるが、ますます近寄りがたい場所になった。日常とかけ離れた、一種の異空間のように感じる。一人でここに迷い込んだら、家に帰れない。そんな想像をする。
 だからたまに自転車で脇の道路を通るときは、あえて少しスピードを少し落とし、あえて『ヒラヤ』内のようすをうかがってしまう。また老女の胸が見たいからではない。もっと別な、もっともっとどきりとするものが目撃できそうな気がするからだ。考えたこともない何か――。
 ただ、それがどういうものなのか、具体的には想像もつかない。
 不思議な、そしてなんとなく立ち入るのに勇気を要する一帯だ。

 朝一番で説教され、そのあとの授業ではガンタマとは視線を合わせられなかった。
 ガンタマのほうでもやりづらいのか、柊平も均も、授業中に差されることはなかった。「帰りの会」が終わるなり、教室を飛び出した。
「あ、(みな)(かみ)君」
 (ほり)()(あや)()が声をかけてきて、柊平は立ち止まりかけたが、均に「早く行こうぜ」とつつかれて、結局無視した。
「どうする柊ちゃん」
 一番乗りで昇降口に着き、靴をつっかけながら、息を切らて均が訊く。
「自転車で行こう」
 帰りのことを考えたら自転車で行ったほうがいい。一旦、家に戻ってランドセルを置き、身軽になって自転車で向かうことにした。そのほうが移動するのに楽、という理由もあるが、なにより、いざというとき逃げやすいのが一番の理由だ。もしまたあの男に見つかって、追いかけられるようなことがあれば、自転車を飛ばして、車が入ってこられないような、畑の中や路地を逃げればいい。
 両親共働きでだれもいない家にランドセルを放り出し、『ダンチ』の中にある公園で均と落ち合った。
「行くか」
「行こう」
 先に柊平が突っ走り、あとから均がついてくる。
 昨日、均が鯉に石を投げつけた、(なか)(がわ)にかかる橋を渡った。あのときは気づかなかったが、柱に《こすず橋》と書いてある。
 こすず橋を渡ると、道はゆるく右にカーブを描く。進行方向右手の、道路と川に挟まれた一帯は、畑や休耕地だ。一方の左手は、ゆるやかな斜面になっている。やや高台になったあたりは、一軒ごとの敷地も広く建物も大きな家が並んでいる。このあたりでは「高級な」住宅街なのだそうだ。たしか地名は『(くら)(なか)』という。母のパート先の「社長さん」も住んでいるそうだ。
 道路を先へ進むと、右手の畑の中に、集落が見えてくる。あれが『ヒラヤ』地区だ。
 地番確認のために、自転車を停め、電柱の地番表記を確認しようということになった。
「あ、あった。『戸渡』って書いてある。このへんは3の1だ」
 均が、自転車にまたがったまま、ポケットから出したメモと、電柱の表示を見比べてうなずいている。ノートの端に(あら)()(きよ)(ふみ)から突きつけられた『確認書』に書いてあった住所を書き写してきたのだ。柊平は書かなくても覚えた。番地は「3の2の10」だ。
 ついに『ヒラヤ』へ続く砂利道の入り口についた。
「やっぱりこの中か」
 均がぼそっとつぶやき、柊平の決意を確かめる。
「ほんとに行く?」
 ほかの時なら「あたりまえだろ」と即答するのだが、いまは答える前にあたりを見回した。
《この先私道につき、通り抜けできません》
 トタン板に白くペンキを塗った上から、黒い下手な字で書かれた古い看板が、集落への道の脇に少し傾いて立っている。
「平気だよ。この前、一回入ったことあるし」
 バスケをしたときのことを思い出している。あのとき均はいなかった。たしかに近寄りがたい雰囲気は消えないが、入ってしまえばどうということはない、はずだ。
 自転車を漕ぐ。しかし、スピードはすごくゆっくりになった。フェンスの入り口から集落に入る。
 図書室で見た地図によれば、この入り口が北側だった。そこから南側にある公園に向かって道が延びている。その道を挟んで左右に、(ぎょう)()良く平屋の建物が並んでいる。
 人の姿は見当たらない。話し声なども聞こえてこない。
「10番の家を探す」
 やはり、二十軒ほどの家があるように見える。はしから番号がついているのだとすると真ん中あたりのはずだが、そもそもどっちから数えるのかすらわからない。
 自転車をゆっくり漕ぎ、まずは一番手前の棟に近づき、最初の家の玄関を確認する。
「ドアに番号が書いてないね」
 均が素直に感想を漏らす。しかし、柊平はもっと重要なことに気づいた。
「表札が出てない」
 隣の家も同じだ。住んでいないのか、住んでいるのに出していないのか、とにかくこれでは確認しようがない。
「どうしよう」
 均が救いを求めるように柊平を見る。
「どこかに案内板がないかな」
 住宅街にはときどき、その周辺の地図と各家庭の苗字が書かれた案内板が立っていることがある。あれがあれば早くて確実だ。しかし、そんなにうまくみつかるだろうか――。
「あ、あれそうじゃない?」
 均が指さしたのは、南側の突き当たりにある、小さな公園の角に立つ看板状のものだ。急いで自転車を漕いで行ってみると、大当たりだった。
「これだ」均が嬉しそうだ。
 地図には『ヒラヤ』地区の全体が描かれていた。あらためて配置を確認する。中央の道を挟んで東西に三棟ずつ、北から四軒、四軒、三軒と並ぶ。公園の脇の棟だけが一軒少ない。合計で二十二軒だ。各家の細かい番号も載っている。
「10番、10番」均が声に出して探す。
 みつけた。西側の一番南寄りの棟の真ん中だ。公園に立っている二人からすれば、すぐ隣に見えている棟だ。ただ、角度的に玄関は見えない。
「どうする?」
 均が訊く。何を今さら、とも思うが、ためらいたくなる気持ちもわかる。ここまでは意地のようなものに動かされて勢いでやってきたが、いざ家を見つけると、それもいきなり目と鼻の先に現れると、その先どうしていいかわからない。
 ドアチャイムを鳴らして「昨日、車に石をぶつけた二名ですが、弁償の話はなかったことにしていただけませんか」とでも頼んでみるのか。
「行ってみる?」
 すぐに答えない柊平に、均が重ねて訊く。その声も不安げになっていく。
「――やっぱりやめようか」
 その気弱な発言が、結果的に柊平の背中を押した。
「おれ、やっぱり行く。親にあんな金払ってくれって言えないし。――均はここにいてもいいよ」
「だったらおれも行くよ」
 自転車を押し、きょろきょろ周囲を見回しながら、ゆっくり問題の家に近づく。表札もかかっている。
「あった」
 均が声をひそめて指さす。わかっていることでもいちいち口に出すのも均の癖だ。
 プラスチックの表札には、たしかに《荒木》という文字が刻まれていた。
 建物の古さ加減は、当然ながらほかの家と大差ないが、ドアのペンキは塗り直してある。車のことといい、〝塗装〟に神経質なのかもしれないなどと考える。
 玄関のまわりはきれいに片付いていた。よけいな玩具(おもちゃ)だとか空っぽの植木鉢だとかが転がっていない。雑草もほとんど生えていないし、中の水が濁ってしまった猫よけのペットボトルも置いてない。
 まだ新しい感じの〝ママチャリ〟が一台、壁に立てかけるようにして置いてある。
「どうする? チャイム押してみる?」
 本音をいえば、まだ完全にはふんぎりがつかない。いや、その勇気がない。均がいなければ、とっくに帰っていただろう。しかしもう後へは引けない。
「庭のほうも見てみよう」
 一度公園に戻り、自転車のスタンドを立てる。庭の前にもやはり細い路地が通っていて、庭の反対側、(ゆが)んだり(かたむ)いたりしている緑色のフェンスの向こうには、ほこりっぽい畑が広がっている。
 路地をおそるおそる進む。それぞれの庭に塀などはないが、胸の高さぐらいの植木が垣根がわりになっている。この棟は、垣根もその中の庭も、ほかの棟よりはきちんと手入れされている印象だ。
 身を隠すように腰をかがめつつ、忍び足で路地を進む。
 一番手前の家には、どきっとするような赤と黄色のどぎつい色で描かれた、大きな花柄のカーテンがかけられている。しかしぴったりと閉じていて、見られている気配はない。その隣、荒木の家の前にまわる。そっとのぞく。庭に面した窓は、無地の銀色のカーテンが、やはり閉じられている。
「だれもいないみたい」 
 均がささやく。だんだん大胆になり、垣根から顔を上げ、じっくり観察する。三軒のうちの残りの一軒、向かって左手の家には真っ黒に見えるカーテンがかかっているが、ここも閉じられている。
「車が停まってないね。いないのかな」
 均が残念そうに言う。たしかに、あの青いBMWはもちろん、軽自動車も見当たらない。
 不在ならば、ここまでのことが無駄足になる。あの傷が、本当に小石でついたものなのか。実は別なときにつけられたものではないのか。それをしっかり訊いてやろうと思ってきたのに、それがかなわないということだ。
 しかし、柊平はどこかで少しほっとしていた。大人相手に交渉などできそうには思えないからだ。
「まだ夕方だから、仕事かもね」
 均が足もとの小石を、荒木の家の庭に向けて蹴り込んだ。
「やめろよ」
「あ、ごめん。――あいつさ、きのう車を停めてたあのへんにいるのかな」
「そうかもしれない」
 そんなことを話しながら、ゆっくり荒木の家の庭を後にした。自転車を置いた小さな公園に戻る。だれもいない。というより、この『ヒラヤ』地区へ来て、まだだれも見かけていない。いったい何人ぐらい住んでいるのだろう。やはりなんとなく気味が悪い場所だ。
 あまりこそこそ隠れる気分ではなくなってきた。並んでブランコに座り、きこきこと揺らす。
「どうしよう。待ってみる?」
 均が、柊平に判断をまかせるという口調で訊いた。
「そうだな。もうちょっとようすを見ようか」
「わかった」
 何を待って何のようすを見るのか、じつは柊平にもわからない。それでも、このまま帰るわけにはいかないという気がしていた。
 ブランコを揺らしながら、ガンタマの悪口や、女子の悪口を話した。特に均は、柊平の隣の席に座る学級委員の堀江綾香を槍玉に挙げる。
「堀江って、すぐ告げ口するよな。いちいち、『それルール違反』とか言うし」
「そうだな」
「あいつ、学級委員だと思って、得意げだよな」
 均のこぐブランコが、きいと大きな音を立てた。
 たしかに、綾香はよくガンタマに報告するし、掃除の時間にほうきと雑巾でホッケーをする男子に注意したりする。しかし、柊平には「得意げ」には見えない。ガンタマに無理矢理委員に指名されてしまって、嫌だけど仕事だからしかたなくやっている、というふうに見える。
「あ、人がいた」
 一軒の家から中年の女が出てきて、自転車を漕いでどこかへ出かけた。買い物だろう。それをきっかけにしたように、ちらほらと家から人が出てきたり、どこかから戻ってきて入っていったりするようになった。男も女もいたが、ほとんどが、柊平たちの親の世代のように見えた。
 自転車でやってきた男は、スーツや作業服などは着ておらず、かなりくたびれた服を着て、無精髭を生やしている。子どもがめずらしいのか、柊平たちに気づいて、じろりとにらむような視線を向ける男もいた。だが、話しかけてくることもなく、どこかの家に消えた。
「何時ごろ帰る?」
 均が不安げに訊いてくる。
「もう少し」
 日が沈んだらあきらめようと思い始めたとき、それが起きた。
 一台の車が、公道から曲がってこちらへやってくる。砂利敷きの私道を、ぱつんぱつんと小石を跳ね飛ばしながら走ってくる。
「あ、あいつだ」
 均が声をあげた。きのうの青いBMWだ。フロントガラスに光が当たって、中が見えない。
「隠れろ」
 ブランコから離れ、太い木の陰に身を隠すようにして、ようすをうかがう。BMWは『ヒラヤ』の敷地に入ってもスピードを緩めず、砂利道の埃を巻き上げながら突き進んでくる。まるで、公園にいる柊平たちをめがけているように。
 逃げだしたくなったとき、砂利を跳ね飛ばす音をさせて、荒木の家の玄関先につながる路地へと曲がった。ほっと息を吐く。
「行こう」
 自転車はその場に置いたまま、小走りに建物の脇まで近づく。太い桜の木の陰から、路地をのぞいてみる。
 BMWは、やはり《荒木》の表札がかかった玄関の前に停まっている。間違いなさそうだ。
 そのまま見ていると、運転席と助手席がほぼ同時に開いた。運転していたのは、昨日の男、荒木清史だ。
「あいつだ」
 柊平の後ろからのぞいている均が、ささやいた。うなずきかけたとき、助手席から下りた人物を見て、柊平は短く声を上げてしまった。
「あっ」
 あわてて自分の手で口をふさぐ。
「どうかした?」
「なんでもない」
 とっさに嘘をついた。助手席から降りたのは、なんと昨日『こすず橋』の上でみかけたあの少女だったのだ。均は気づいていないらしい。
 親子なのだろうか――。
 だとすると、荒木はずいぶん若い父親だ。
 荒木が何か声をかけると、少女は一度うなずいて歩き出した。家には入らず、こちらへ向かって歩いてくる。髪型が昨日と違って、両側に結んで垂らしている。
「どうしよう」
 均の声が不安げだ。
「公園に隠れよう」
 一気に道を渡って公園に戻った。再びぼさぼさの植木の陰に身を潜め、枝の(すき)()からようすをのぞく。荒木の家の玄関は見えないが、少女がその手前側の玄関から中に入るのが見えた。あの、派手な花柄のカーテンの家だ。そういえば、あの赤と黄色の花は、少女から受ける印象に似合っている気がした。
「あいつはどうしたかな」
「ここからは見えないな。自分の家に入ったんじゃないか」
 そのまましばらく、ようすを見た。何が起きたというわけでもないのに、心臓が強く脈打っている。
 親子などではなく、単に「お隣さん」だったのだ。しかし、それにしては少女の態度が不自然だった気がする。まさに親や兄弟に対するように、遠慮や感謝するようすがなかった。それに、少女の表情がなんとなく暗そうに見えた。気が乗らない、とでもいえばいいだろうか。
「もう一回行ってみようか」均がぼそっと漏らす。
「用心しながら行こう」柊平が答える。
 ゆっくり植木の陰から立ち上がる。さっきと同じように建物に近づき、太い樹木の陰からのぞいた。BMWは、そのまま玄関先に停めてある。ほとんど誰も通らないので、道路を塞いでも問題ないのだろう。
 柊平が先に立ち、均がやや後ろからついてくる。すぐにでも走って逃げる気持ちの準備をして、近づいていく。荒木は家の中に入ったようだ。荒木の家のドアノブを注視しながら、もしもあれが少しでも動いたら、全力でダッシュしよう。そう何度も自分に言い聞かせる。
 心臓のどきどきはとまらない。ものすごく長く感じる時間を経て、ようやくBMWにたどりついた。ドアにも気を配りながら、昨日のきずの箇所をさがす。
「あ、やっぱりそうだ」均が声を上げた。
「しっ、声がでかいよ」
「ごめん、ごめん。でもさ、あいつ、やっぱり嘘ついてるよ」
「嘘?」
「うん。見てみなよ」
 均が指差す先を見た。たしかにきずがついている。しかしそれは、とてもあの小石が当たってつくようなものではなかった。長さが三センチ、いやもっとあるかもしれない。何か先がとがって固いもの、たとえば釘とか鋭い石の角などでひっかいたような傷だ。あんな小石がこつんと当たったぐらいでこんな傷はつくはずがない。
 それに、傷のある場所も変だ。均が蹴った石が当たった場所より、だいぶ前方のように思える。
「これ、場所が違うよな」
「だろ。だろ」
 均が興奮している。
「ほかに傷はないよ」
「たしかに」
 やはり、あの小石では傷などつかなかったのだ。
「ちきしょう。やっぱり、別なところでついた傷を、おれたちに弁償させようとしてるんだ」
 均の(いきどお)りを聞きながら、柊平の頭の中は、めったにないほど回転していた。
 今、均が言ったようなことを証明できれば、弁償しなくて済むはずだ。しかし、どうやって? だれか大人の証人を連れてくればよかった。
 ふと気づくと、均の手に石がある。きのう鯉に投げつけたのよりはさすがに小ぶりだが、片手で持つのがやっとぐらいの大きさだ。
「おい均、それどうするんだよ」
「傷をつける」
 そう言って、石を頭上に持ち上げた。まただ。均はかっとなると、暴走する。均が決心するように、大きく息を吸い込むのがわかった。
「やめろよ。均――」
「おいっ」
 男の声と同時に、パシャ、という音も聞こえた。シャッター音だとすぐに気づいた。
 驚いて振り返ると、あの男――荒木清史が立っていた。



「あっ」
 ふたり同時に声を上げた。驚いた二人を、荒木がもう一度写真に撮った。あせりながらも、なんでもすぐ写真に撮るんだな、と頭の(すみ)で思った。
「おまえら、なにやってる」
 荒木は、黒い小型のカメラを手に下げて、こちらに近寄ってくる。いつの間に、どうやって回り込んだのだろう。いきなり二人の背後から現れた。玄関のドアは開いていない。つまり、庭側から回ったのか。
 返事などできるわけもなく、固まっている二人に荒木が言葉を投げる。
「その石で何をする気だ」
 均を見ると、まだ石を持ったままだが、その腕はだらりと下がっていた。
「どうした。やるならやれよ。証拠の写真は撮った。もし、そんなもんをぶつけたら、修理なんかじゃすまさない。一台丸ごと新車にして返してもらう。おまえらの親父が一年間ただ働きしてもエンジンも買えないぞ」
 荒木が脅すのを聞きながら、均の肩に手を載せた。
「均」
 柊平が声をかけると同時に、その石は、ぼとん、と音を立てて砂利の上に落ちた。
「なんだ。やらないのか」
 男は手を伸ばせば届くあたりまで近寄っていた。きのうは銀縁のメガネだったが、今は縁のない、レンズだけのデザインだ。着ている服も、鮮やかなブルーのシャツに、白に近いほど薄いベージュ色のジャケットを着ている。このあたりでは見かけない。柊平の父親など、間違っても着ない恰好だ。それに、化粧品の匂いがする。
 すっかり意気消沈して、首をうなだれ、その場に立ち尽くしているふたりの頭上から、荒木の声が降ってくる。
「学校に確認して、おまえらの名前は聞いてある。家の住所もな。――どうした。『確認書』は書いてもらったのか」
 無言のまま、身動きもできずに、(せっ)(こう)(ぞう)のように身を硬くするしかない。
 しばらく、沈黙の時間が続いた。柊平はこの先どうするべきか、ただそればかりを考えていた。
 均が車に石を投げつける前でよかった。今ならまだ、ただひたすら謝れば、「『確認書』をもらって来いよ」と念を押されて解放される気がする。口調や目つきは少し怖いが、暴力をふるいそうには見えない。一方、一発二発殴られて済むなら、むしろそのほうがありがたいとも思った。
 ゲンコツは最初の父親で慣れている。しばらく洗礼を受けていなかったが、多少のことは耐えられる。殴られ、大げさに痛がれば、修理代が「チャラ」になる可能性だってある。親に金を払ってくれと頼むぐらいなら、そのほうがずっとましだ。
「あの――」
 (たん)が詰まったようになったので、喉を鳴らした。
「なんだ」
 均のことばかり見ていた荒木が、ようやく柊平のほうを向いた。
「ごめんなさい」
「今さら謝って済むか」
「あの。殴るなら殴ってください」
「殴れ?」
「はい。それで許してください」
 荒木はわずかに腰をかがめて、柊平と均を見比べた。そしてすぐにまた背筋を伸ばし、周囲を見回した。
 少しのあいだ、無言で何か考えているようだった。柊平の心にわずかに光が差した。言ってみるものだ。殴って済ませてくれるかもしれない。
 男が「ふん」と鼻先で笑い、いきなり右手を振った。均のほおがぱちんと鳴った。びんたしたのだ。
「あっ」
 均が声を上げ、叩かれたところを押さえる。
「痛いか」
「はい」
 男はまた「ふん」と笑った。
「おまえ、ちょっと来い」
 均の返事を待たず、すくめた首の(えり)をぐいとつかんだ。
「あっ」
 均の短い悲鳴を無視して、玄関のほうへ引いてゆく。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 均が半泣きであやまる。
「すみません。もうしません。弁償します」
 その背中に向かって、柊平も声をかけた。
 荒木は均の襟首をつかんだまま、柊平のほうを振り返った。
「乱暴はしないから安心しろ。――それと、おまえはもう帰れ」
「え?」
「こいつに」と均をあごでしゃくった。「少し話がある。おまえは帰れ。ここへ来たことは誰にも言うな。でないと、さっきの写真を学校に持っていく」
「あの、均は……」
「くどい」
 荒木は再び均の襟をつかみ、玄関のドアを開けて中に入っていった。
(つづく)

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