月光の海 第一章(1) / 伊岡瞬
文字数 6,362文字
第一章 ダンチ(一九九六年)
1
その地域では、「ダンチ」という単語が独自の意味を持っていた。
漢字にすれば「団地」である。
しかし、この周辺の住人がこの言葉を発するとき、頭に浮かんでいるのは、ほぼ例外なく片仮名の「ダンチ」だ。
辞書的な解釈をすれば、団地とは、一群の、つまり複数の建物という意味だ。
水 上 () 柊 () 平 () が暮らす都営住宅は、昭和四十年前後、西暦でいえば一九六〇年代半ばに、東京都M市南西部に造成された。鉄筋コンクリート五階建てが、十一棟から成る中規模の団地だ。
いわゆるバブル期のはるか以前に開発されたこともあって、土地の使い方は贅沢だ。
一階には一戸建て並の専用庭があり、棟と棟のあいだには、ゆったりとした芝生や植栽のある敷地と、車が余裕ですれ違える広さの道路が走る。各棟の階段の出入り口の前には、一戸ごとの専用倉庫や、充分な台数を停められる駐輪場もある。
ほぼ二棟に一つの割合で公園があり、団地中央部のひときわ広い公園に接する形で、五十人ほどを収容できる娯楽室を兼ねた集会室もあった。
この「団地」が、いつから人々の頭の中で「ダンチ」に切り替わったのか、おそらく誰に聞いてもはっきりとは答えられないだろう。自然発生的に定着したに違いない。
しかし、取り決めたわけでもないのに、人々はこの呼称に対する共通の語感を持っていた。
前後の会話の流れによって、あるときは一群の建物そのものを指し、あるときはその建物に暮らす人々を指し、そしてあるときはそこに暮らす人々への感情を示した。
とくに最後の場合は、蔑 () 視 () とも妬 () みとも説明のつかない、複雑な心境が込められている。
一九九〇年代の前半に、いわゆるバブル経済が崩壊し、苦労して持ち家を購入した人々の多くが、高金利時代の残 () 滓 () である利息の高いローンの支払いに苦しんでいた。
給料は下がり、ローンの残額と市場価格の逆ザヤ――要するに、売っても借金だけが残る現実を突きつけられた。自己破産、離婚、心中、といった事件はニュースとしての価値すら軽くなっていた。
そんな時世に、私鉄とはいえ最寄りの駅から徒歩で約十分、バスなら二停留所目、という好立地にあって、土地の使い方は贅沢、しかも都営住宅という性質上、いくら築三十年前後とはいえ、民間の半額とも三割ともいわれる安い賃料で貸与しているのはおかしい、という意見が強くなった。
この気運は行政の重い腰を上げさせ、再開発の計画が発表された。
住人には、二年以内の立ち退きが通告され、早期退出希望者には、転居先が好条件で用意され、支度金も支給されることになった。
しかし、それぞれの思惑から、ぎりぎりまで居残ろうとする一家も少なくなかった。
「宿題、みんなやってきたか」
よく響く、担任の岩 () 峰 () 教諭の問いかけに、はあいという声が、クラスのメンバーの半分ほどからあがった。
ノートを広げる音が、そちこちから聞こえてくる。
昨日の国語の授業で出された宿題とは、「漢字の四字熟語をできるだけ多く調べて、その意味も説明できるようにしてくること」というものだった。
水上柊平は、顔をやや伏せて、それでも一応は声を出した。声を出さないと指名される率が高いという、クラス内の〝伝説〟があったからだ。これまでの経験からすると、そんなことはないような気がするのだが、リスクは避けたい。
「じゃあ、だれにやってもらうかな――」
「はいっ」と勢いよく手をあげた者が何名かいる。横目でちらりとみれば、隣席の堀 () 江 () 綾 () 香 () もその一人だ。よけいなことをするんじゃない、と思った。目立ちすぎても指される。そして、岩峰教諭は、席が隣り合った者どうしをセットで指名することが多いのだ。
「別に手はあげなくていいぞ。なぜなら、宿題だからな。全員やってきてるはずだからな」
岩峰教諭は、ゆっくりと「そうだよな」と続けてから、男女それぞれ二名ずつ指名した。やはり、どちらも席が隣り合っている。
前に出たその四名が、カツカツと誇らしげなチョークの音を立てるのを耳で聞きながら、柊平は国語の教科書をぱらぱらとめくった。どこかに四字熟語が載っていないか探すのだ。
幸い、前の席に座る井 () 原 () 均 () の体が大きいので、教壇からは見えない。つまり、柊平からも黒板は半分ほどしか見えない。どうしてこんな席順になったかといえば、くじ引きで決めたからだ。
嫌いな男子と隣り合わせになったある女子が、母親にいいつけて、校長宛に「えこひいきで席を決めている」という抗議の手紙を書かせた。それで腹を立てた担任の岩峰が、一切の事情を考慮しない、くじ引きで決めてしまったのだ。
姓が岩峰であり、石頭より頑固ということから、岩頭――略して「ガンタマ」というあだ名がついている。
大きな背中をした均が、体は曲げずに手だけを後ろに回して、白いものを渡して寄こした。ノートをちぎったメモだ。
《なにかおしえてくれ》
柊平はとっさに《一石二鳥》と書いて渡した。たった今、頭に浮かんだ唯一の熟語だ。
それを受け取った均が、もう一度窮 () 屈 () そうに手を後ろに回して、親指を立てた。礼の意味だろう。
「よし」とガンタマの大きな声が響いたので、柊平は思わず首をすくめた。
柊平は、頭を傾け、均の背中越しに黒板を見た。《呉越同舟》や《因果応報》などと、難しい熟語が書いてある。いかにも、家で調べてきましたという感じだ。腹立たしいが、宿題だからそれが当然なのだ。
「じゃあ、ひとりずつ意味を説明してくれ」
前に並んだ四人が得意げな口調で、順に説明した。
「よし、だいたい合っている。――それじゃつぎ」
別な四名が指名され、彼らもそつなくこなした。
「あと四人いこうか」
こんどこそ、自分に来るかもしれないという予感があった。あせると何も浮かばない。
まず、二名が指名された。となりの席の綾香に、押し殺した声をかける。
「何か教えろよ」
黙って知らんぷりしていると思ったら、ノートのはしに何か書いている。
《先生にしかられる》
「ケチ」
また何か書いている。見れば《絶対絶命》とあった。なるほど、それだ。いいところもあるじゃないか。
「おいそこ、なにひそひそやってる」
見つかった。
「そんなに前に出たいなら、あとの二人は水上柊平と堀江綾香」
クラスの中から、ヒューヒューと冷やかしの声があがる。
「ラブラブゥ」
柊平と隣席の綾香は仲がいいとクラスで評判になっている。柊平にしてみればそれは心外で、仲が良いどころかいつも喧嘩している。しかし、クラスの連中は「夫婦喧嘩」と囃 () し立てる。
柊平を含めた四名が、前に出て書いた。柊平は、ついさっき均に教えた「一石二鳥」を書こうかと思ったが、あれは均に譲ったものだ。しかたなく、綾香に教えられた「絶対絶命」を書いた。これなら、たぶん意味も説明できる。
四人が書き終えたところで、なぜかクラスの中からくすくす笑いが起きた。ガンタマが、右手に持った金属の指示棒で、自分の左の手のひらを叩いている。
「三人は合っている」なぜか嬉しそうだ。「――しかし、一人だけお約束の間違いをしてくれたやつがいる。どれだと思う?」
クラスの中から一斉に「ゼッタイゼツメイ」という声が上がった。
ガンタマは、伸ばした銀の棒で柊平の頭を二度叩いた。
「おまえ、まさか受け狙いで書いたんじゃないだろうな」
チョークを手に取り、柊平の書いた下手な字を二重線で消し、隣に《絶体絶命》と書いた。ますます笑い声が大きくなった。綾香の顔を見ると、笑いをこらえているのがはっきりとわかった。
「水上は、明日までに、ここに並んだ十二個を、ぜんぶ百回ずつノートに書いてくること」
計算していたらしく、少し間をあけて「全部で千二百個だ」と叫んだ男子がいて、みなが笑った。
「なあ、柊ちゃん、なんであんな奴の言うとおりに書いたんだよ」
均が道に落ちている小石を蹴 () った。それはアスファルトを飛び跳 () ねるように転がって、電柱に当たって跳ね返った。
「しょうがねえだろ。均が訊くからだよ」
均は柊平のことを「柊ちゃん」と呼ぶが、柊平は均をそのままの名で呼ぶ。特に意味はない。小学校に入ったときからの縁で、いつしかそうなっていた。
「だからそれはあやまったじゃん。――だけど綾香のやつ、絶対にわざとだよな。わざと間違えて教えたよな」
また小石を蹴った。さっきよりも少し遠くへ飛んで、その近くを歩いていた野良猫が驚いて走り去った。均が、へへっと笑った。
「その話はもういいよ」
蒸し返されるたび、屈辱感もぶり返す。
「だって、そのせいで宿題出されたじゃないか」
わがことのように悔しがる均が、今度はサッカーのシュートのように、助走をつけて勢いよく蹴った。
小石といっても、ウズラの卵より大きそうで、角張った形をしていた。つま先でうまくすくい上げる恰好になったらしく、アスファルトの上を転がらずに、放物線を描き、路上駐車していた青い車のボンネットにカツンと当たった。
あまり車に詳しくない柊平でも、白と青色で四分割されたエンブレムは知っていた。BMWだ。外車だ。
柊平が、やめろよ、と口にする前に、怒鳴り声が聞こえた。
「こらっ、何するっ」
車の持ち主なのかもしれない。向こうから歩いてきたメタルフレームのメガネの男が、突如こちらに向かって走り出した。
「やべえ」
ふたり同時に反応して、男が来るのと反対側に逃げた。
「こら、待てっ」
あきらかに怒っている。
待つわけがない。全力で走った。しかし、ランドセルの中身ががさがさと飛び跳ねるので、バランスが崩れて走りづらい。それでもなんとかひとブロックを過ぎた。
「こっち」
左に曲がったが、似たような住宅街が続いている。
「どっち行く?」
「いいから走れ」
「うん」
すぐに、やや太り気味の均の息が荒くなり、遅れはじめた。
「あそこの空き家を抜ける」
柊平がそう短く発すると、均がうんと応じた。
指さした家が、ずいぶん前から空き家になっているのは知っている。自転車で何度か前を通りかかったことがあるからだ。人目のないときに、一度だけ忍び込んでみたことがある。ドアや窓には鍵がかかっていて、建物の中までは入れなかった。しかし、庭の構造はおよそわかっている。
錆 () ついて動きの悪い門を抜けながら、一瞬振り返ってみたが、メガネの男の姿はなかった。しかし、まだ安心はできない。
「裏に回ろう」
「うん」
腰ほどの高さの雑草が生い茂った庭を突っ切り、建物の横手の狭い隙 () 間 () を抜けた。割れた植木鉢やこぶし大の石やなんだかわからないものを踏んで、体勢を崩す。そのたびに、ブロック塀やざらざらの家の壁に腕や肩をぶつけてこすってしまう。
どうにか裏手の門から道路に転がり出たときには、あちこちに汚れや擦 () り傷がついていた。左手がべとべとするので、見れば蜘 () 蛛 () の巣だった。毒づきながらそれを払う。
「まだ追いかけてくるかな」
息を切らした均が、顔を歪 () めて訊いてきた。
「たぶん、もう来ないと思う」
柊平は、左のひじのあたりの擦りむいたところをこすった。晩飯のときまでに痕を消しておかなければならない。親にばれないようにしないと。
本当は、あのメガネの男に説教されるぐらいは、少しも怖くなかった。問題は学校や親に連絡されることだ。もしガンタマにばれたら、死ぬほど宿題を出される。父親に知られたら、もっとめんどくさいことになる。
「行こうぜ」
均を促して歩き出した。
「おれ、スボン破 () けた」
均がときどき立ち止まっては、ジーパンの膝のあたりをつまんで見ている。通り抜けた狭い隙間には、釘が飛び出た板も立てかけてあった。きっと、あれに引っ掛けたのだろう。
「怪我してないならいいじゃん。見せてみな」
たしかに、三センチほどのかぎ裂きになっている。しかし、柊平も知っているが、均の母親は優しい。こんなことぐらいで怒りはしないだろう。
「だけどさ、縫い目がわかるとクラスのやつとかに……」
均の言葉が途中で止まったので、腰をかがめていた柊平も顔を上げた。均の視線の先を見ると、青い車が角を曲がってこちらにやってくるところだった。ナンバーまでは覚えていないが、BMWだ。
追いかけてきた――。
「あれ、さっきのやつじゃないか?」
「ほんとだ。くそっ、しつけえな」
「やばいよ。柊ちゃん、逃げよう」
うしろを向きかけた均の肘 () をつかんだ。
「逃げるなよ。どうせ追いつかれる」
「じゃあ、どうする?」
「知らんぷりする」
「えっ」
「均は黙ってろ。おれが話す。絶対に相手の目を見るなよ」
「うん。――わかった」
車がゆっくり近づき、ふたりの数メートル前方で停まった。
「――だからさ、たった一個知ってた熟語、均に教えちゃったんだぜ」
柊平は、大きな声でいきなり話題を変え、話を合わせろという意味で目くばせをした。
「え、え、ああ、そうだったのか」
均のせりふはなんとなく棒読みっぽい。
「だからさ、しかたなくって、隣のブスに……」
「おい、きみら」
車から、メガネの男が下りてきた。間違いない。さっきの男だ。相当にしつこい性格らしい。それとも、そんなにひどい傷がついたのだろうか。だとすれば、なおさらシラを切るしかない。
「なんですか」
柊平が答える。
「さっき、石をぶつけたよな」
あまり若くない。かといって、老人でもない。親の世代より少し若いぐらいだろうか。つるっとした顔をしていてよくわからない。ただ、おしゃれな感じのシャツを着ている。追いかけられたからそう思うのかもしれないが、ガンタマ以上に神経質そうだ。
「石って、なんですか?」
「とぼけるなよ。さっき、石を蹴って、車に当てただろう」
ドアを閉めて、ボンネットの前に回った。石の当たったあたりに指先をあてて、こすっている。
「見てみろ。傷がついたぞ。先週届いたばっかりの新車だ。外車はな、塗装に金がかかるんだよ」
「石とか知りませんけど」
「とぼけるなよ。さっき、そっちのでぶが、石を蹴って車に当てただろう。ちゃんと見たぞ」
メガネの奥から、まず均を睨み、その視線を柊平にも向けた。
「おまえ、石なんか蹴った?」
あえて軽い口調で、均に尋ねる。
「さあ」
均がどうにかとぼけてみせた。柊平はメガネの男に向き直る。
「ぼくたち、いま下校の途中で、野良猫見つけて、それを追いかけてあそこの空き家にいましたから」
振り返って、たったいま抜け出てきたばかりの空き家を指さした。そして、これみよがしに服についたほこりや蜘蛛の巣を払った。
「均ちゃん、ズボンの破れたとこ、だいじょうぶか」
わざとメガネ男を無視して、均のズボンの裂けめに指を突っ込んだ。
「うん。見つかると怒られるから、自分で縫うよ」
均の芝居がようやく自然になってきた。
「こら、すっとぼけるなよ」
無視されて、メガネ男の声が荒くなった。
「――大人をなめんなよ。ガキどもが」
(つづく)
1
その地域では、「ダンチ」という単語が独自の意味を持っていた。
漢字にすれば「団地」である。
しかし、この周辺の住人がこの言葉を発するとき、頭に浮かんでいるのは、ほぼ例外なく片仮名の「ダンチ」だ。
辞書的な解釈をすれば、団地とは、一群の、つまり複数の建物という意味だ。
いわゆるバブル期のはるか以前に開発されたこともあって、土地の使い方は贅沢だ。
一階には一戸建て並の専用庭があり、棟と棟のあいだには、ゆったりとした芝生や植栽のある敷地と、車が余裕ですれ違える広さの道路が走る。各棟の階段の出入り口の前には、一戸ごとの専用倉庫や、充分な台数を停められる駐輪場もある。
ほぼ二棟に一つの割合で公園があり、団地中央部のひときわ広い公園に接する形で、五十人ほどを収容できる娯楽室を兼ねた集会室もあった。
この「団地」が、いつから人々の頭の中で「ダンチ」に切り替わったのか、おそらく誰に聞いてもはっきりとは答えられないだろう。自然発生的に定着したに違いない。
しかし、取り決めたわけでもないのに、人々はこの呼称に対する共通の語感を持っていた。
前後の会話の流れによって、あるときは一群の建物そのものを指し、あるときはその建物に暮らす人々を指し、そしてあるときはそこに暮らす人々への感情を示した。
とくに最後の場合は、
一九九〇年代の前半に、いわゆるバブル経済が崩壊し、苦労して持ち家を購入した人々の多くが、高金利時代の
給料は下がり、ローンの残額と市場価格の逆ザヤ――要するに、売っても借金だけが残る現実を突きつけられた。自己破産、離婚、心中、といった事件はニュースとしての価値すら軽くなっていた。
そんな時世に、私鉄とはいえ最寄りの駅から徒歩で約十分、バスなら二停留所目、という好立地にあって、土地の使い方は贅沢、しかも都営住宅という性質上、いくら築三十年前後とはいえ、民間の半額とも三割ともいわれる安い賃料で貸与しているのはおかしい、という意見が強くなった。
この気運は行政の重い腰を上げさせ、再開発の計画が発表された。
住人には、二年以内の立ち退きが通告され、早期退出希望者には、転居先が好条件で用意され、支度金も支給されることになった。
しかし、それぞれの思惑から、ぎりぎりまで居残ろうとする一家も少なくなかった。
「宿題、みんなやってきたか」
よく響く、担任の
ノートを広げる音が、そちこちから聞こえてくる。
昨日の国語の授業で出された宿題とは、「漢字の四字熟語をできるだけ多く調べて、その意味も説明できるようにしてくること」というものだった。
水上柊平は、顔をやや伏せて、それでも一応は声を出した。声を出さないと指名される率が高いという、クラス内の〝伝説〟があったからだ。これまでの経験からすると、そんなことはないような気がするのだが、リスクは避けたい。
「じゃあ、だれにやってもらうかな――」
「はいっ」と勢いよく手をあげた者が何名かいる。横目でちらりとみれば、隣席の
「別に手はあげなくていいぞ。なぜなら、宿題だからな。全員やってきてるはずだからな」
岩峰教諭は、ゆっくりと「そうだよな」と続けてから、男女それぞれ二名ずつ指名した。やはり、どちらも席が隣り合っている。
前に出たその四名が、カツカツと誇らしげなチョークの音を立てるのを耳で聞きながら、柊平は国語の教科書をぱらぱらとめくった。どこかに四字熟語が載っていないか探すのだ。
幸い、前の席に座る
嫌いな男子と隣り合わせになったある女子が、母親にいいつけて、校長宛に「えこひいきで席を決めている」という抗議の手紙を書かせた。それで腹を立てた担任の岩峰が、一切の事情を考慮しない、くじ引きで決めてしまったのだ。
姓が岩峰であり、石頭より頑固ということから、岩頭――略して「ガンタマ」というあだ名がついている。
大きな背中をした均が、体は曲げずに手だけを後ろに回して、白いものを渡して寄こした。ノートをちぎったメモだ。
《なにかおしえてくれ》
柊平はとっさに《一石二鳥》と書いて渡した。たった今、頭に浮かんだ唯一の熟語だ。
それを受け取った均が、もう一度
「よし」とガンタマの大きな声が響いたので、柊平は思わず首をすくめた。
柊平は、頭を傾け、均の背中越しに黒板を見た。《呉越同舟》や《因果応報》などと、難しい熟語が書いてある。いかにも、家で調べてきましたという感じだ。腹立たしいが、宿題だからそれが当然なのだ。
「じゃあ、ひとりずつ意味を説明してくれ」
前に並んだ四人が得意げな口調で、順に説明した。
「よし、だいたい合っている。――それじゃつぎ」
別な四名が指名され、彼らもそつなくこなした。
「あと四人いこうか」
こんどこそ、自分に来るかもしれないという予感があった。あせると何も浮かばない。
まず、二名が指名された。となりの席の綾香に、押し殺した声をかける。
「何か教えろよ」
黙って知らんぷりしていると思ったら、ノートのはしに何か書いている。
《先生にしかられる》
「ケチ」
また何か書いている。見れば《絶対絶命》とあった。なるほど、それだ。いいところもあるじゃないか。
「おいそこ、なにひそひそやってる」
見つかった。
「そんなに前に出たいなら、あとの二人は水上柊平と堀江綾香」
クラスの中から、ヒューヒューと冷やかしの声があがる。
「ラブラブゥ」
柊平と隣席の綾香は仲がいいとクラスで評判になっている。柊平にしてみればそれは心外で、仲が良いどころかいつも喧嘩している。しかし、クラスの連中は「夫婦喧嘩」と
柊平を含めた四名が、前に出て書いた。柊平は、ついさっき均に教えた「一石二鳥」を書こうかと思ったが、あれは均に譲ったものだ。しかたなく、綾香に教えられた「絶対絶命」を書いた。これなら、たぶん意味も説明できる。
四人が書き終えたところで、なぜかクラスの中からくすくす笑いが起きた。ガンタマが、右手に持った金属の指示棒で、自分の左の手のひらを叩いている。
「三人は合っている」なぜか嬉しそうだ。「――しかし、一人だけお約束の間違いをしてくれたやつがいる。どれだと思う?」
クラスの中から一斉に「ゼッタイゼツメイ」という声が上がった。
ガンタマは、伸ばした銀の棒で柊平の頭を二度叩いた。
「おまえ、まさか受け狙いで書いたんじゃないだろうな」
チョークを手に取り、柊平の書いた下手な字を二重線で消し、隣に《絶体絶命》と書いた。ますます笑い声が大きくなった。綾香の顔を見ると、笑いをこらえているのがはっきりとわかった。
「水上は、明日までに、ここに並んだ十二個を、ぜんぶ百回ずつノートに書いてくること」
計算していたらしく、少し間をあけて「全部で千二百個だ」と叫んだ男子がいて、みなが笑った。
「なあ、柊ちゃん、なんであんな奴の言うとおりに書いたんだよ」
均が道に落ちている小石を
「しょうがねえだろ。均が訊くからだよ」
均は柊平のことを「柊ちゃん」と呼ぶが、柊平は均をそのままの名で呼ぶ。特に意味はない。小学校に入ったときからの縁で、いつしかそうなっていた。
「だからそれはあやまったじゃん。――だけど綾香のやつ、絶対にわざとだよな。わざと間違えて教えたよな」
また小石を蹴った。さっきよりも少し遠くへ飛んで、その近くを歩いていた野良猫が驚いて走り去った。均が、へへっと笑った。
「その話はもういいよ」
蒸し返されるたび、屈辱感もぶり返す。
「だって、そのせいで宿題出されたじゃないか」
わがことのように悔しがる均が、今度はサッカーのシュートのように、助走をつけて勢いよく蹴った。
小石といっても、ウズラの卵より大きそうで、角張った形をしていた。つま先でうまくすくい上げる恰好になったらしく、アスファルトの上を転がらずに、放物線を描き、路上駐車していた青い車のボンネットにカツンと当たった。
あまり車に詳しくない柊平でも、白と青色で四分割されたエンブレムは知っていた。BMWだ。外車だ。
柊平が、やめろよ、と口にする前に、怒鳴り声が聞こえた。
「こらっ、何するっ」
車の持ち主なのかもしれない。向こうから歩いてきたメタルフレームのメガネの男が、突如こちらに向かって走り出した。
「やべえ」
ふたり同時に反応して、男が来るのと反対側に逃げた。
「こら、待てっ」
あきらかに怒っている。
待つわけがない。全力で走った。しかし、ランドセルの中身ががさがさと飛び跳ねるので、バランスが崩れて走りづらい。それでもなんとかひとブロックを過ぎた。
「こっち」
左に曲がったが、似たような住宅街が続いている。
「どっち行く?」
「いいから走れ」
「うん」
すぐに、やや太り気味の均の息が荒くなり、遅れはじめた。
「あそこの空き家を抜ける」
柊平がそう短く発すると、均がうんと応じた。
指さした家が、ずいぶん前から空き家になっているのは知っている。自転車で何度か前を通りかかったことがあるからだ。人目のないときに、一度だけ忍び込んでみたことがある。ドアや窓には鍵がかかっていて、建物の中までは入れなかった。しかし、庭の構造はおよそわかっている。
「裏に回ろう」
「うん」
腰ほどの高さの雑草が生い茂った庭を突っ切り、建物の横手の狭い
どうにか裏手の門から道路に転がり出たときには、あちこちに汚れや
「まだ追いかけてくるかな」
息を切らした均が、顔を
「たぶん、もう来ないと思う」
柊平は、左のひじのあたりの擦りむいたところをこすった。晩飯のときまでに痕を消しておかなければならない。親にばれないようにしないと。
本当は、あのメガネの男に説教されるぐらいは、少しも怖くなかった。問題は学校や親に連絡されることだ。もしガンタマにばれたら、死ぬほど宿題を出される。父親に知られたら、もっとめんどくさいことになる。
「行こうぜ」
均を促して歩き出した。
「おれ、スボン
均がときどき立ち止まっては、ジーパンの膝のあたりをつまんで見ている。通り抜けた狭い隙間には、釘が飛び出た板も立てかけてあった。きっと、あれに引っ掛けたのだろう。
「怪我してないならいいじゃん。見せてみな」
たしかに、三センチほどのかぎ裂きになっている。しかし、柊平も知っているが、均の母親は優しい。こんなことぐらいで怒りはしないだろう。
「だけどさ、縫い目がわかるとクラスのやつとかに……」
均の言葉が途中で止まったので、腰をかがめていた柊平も顔を上げた。均の視線の先を見ると、青い車が角を曲がってこちらにやってくるところだった。ナンバーまでは覚えていないが、BMWだ。
追いかけてきた――。
「あれ、さっきのやつじゃないか?」
「ほんとだ。くそっ、しつけえな」
「やばいよ。柊ちゃん、逃げよう」
うしろを向きかけた均の
「逃げるなよ。どうせ追いつかれる」
「じゃあ、どうする?」
「知らんぷりする」
「えっ」
「均は黙ってろ。おれが話す。絶対に相手の目を見るなよ」
「うん。――わかった」
車がゆっくり近づき、ふたりの数メートル前方で停まった。
「――だからさ、たった一個知ってた熟語、均に教えちゃったんだぜ」
柊平は、大きな声でいきなり話題を変え、話を合わせろという意味で目くばせをした。
「え、え、ああ、そうだったのか」
均のせりふはなんとなく棒読みっぽい。
「だからさ、しかたなくって、隣のブスに……」
「おい、きみら」
車から、メガネの男が下りてきた。間違いない。さっきの男だ。相当にしつこい性格らしい。それとも、そんなにひどい傷がついたのだろうか。だとすれば、なおさらシラを切るしかない。
「なんですか」
柊平が答える。
「さっき、石をぶつけたよな」
あまり若くない。かといって、老人でもない。親の世代より少し若いぐらいだろうか。つるっとした顔をしていてよくわからない。ただ、おしゃれな感じのシャツを着ている。追いかけられたからそう思うのかもしれないが、ガンタマ以上に神経質そうだ。
「石って、なんですか?」
「とぼけるなよ。さっき、石を蹴って、車に当てただろう」
ドアを閉めて、ボンネットの前に回った。石の当たったあたりに指先をあてて、こすっている。
「見てみろ。傷がついたぞ。先週届いたばっかりの新車だ。外車はな、塗装に金がかかるんだよ」
「石とか知りませんけど」
「とぼけるなよ。さっき、そっちのでぶが、石を蹴って車に当てただろう。ちゃんと見たぞ」
メガネの奥から、まず均を睨み、その視線を柊平にも向けた。
「おまえ、石なんか蹴った?」
あえて軽い口調で、均に尋ねる。
「さあ」
均がどうにかとぼけてみせた。柊平はメガネの男に向き直る。
「ぼくたち、いま下校の途中で、野良猫見つけて、それを追いかけてあそこの空き家にいましたから」
振り返って、たったいま抜け出てきたばかりの空き家を指さした。そして、これみよがしに服についたほこりや蜘蛛の巣を払った。
「均ちゃん、ズボンの破れたとこ、だいじょうぶか」
わざとメガネ男を無視して、均のズボンの裂けめに指を突っ込んだ。
「うん。見つかると怒られるから、自分で縫うよ」
均の芝居がようやく自然になってきた。
「こら、すっとぼけるなよ」
無視されて、メガネ男の声が荒くなった。
「――大人をなめんなよ。ガキどもが」
(つづく)