月光の海 序章 / 伊岡瞬

文字数 7,344文字

『代償』や『悪寒』、『本性』など大ヒット作品を次々送り出している()(おか)(しゅん)。2020年11月にはコロナ禍を予見したかのような『赤い砂』も話題になりました。
 そんな一度読んだらやみつきになる<伊岡ワールド>の最新作、「tree」で月1連載開始です!

***

序章

 リビングの天井に、薄茶色のしみがついていた。
 ふっと気を抜いた何かの折に、いくつかの痛みの記憶とともに頭に浮かぶのはあのしみだ。
 通っていた小学校の壁の色すら思い出せないのに、あの天井のしみだけは、まるで昨日見たばかりのようにはっきりと覚えている。
 鳥が羽を広げた姿にも、蘭の花にも見えるそのしみの正体を、誰かに話したことはない。
 なんの工夫もない、それもあまり趣味のよくない冗談だと思われるのが関の山だからだ。

 春だった――。
 あの日の空模様までも、はっきりと覚えている。
 朝のうちはあいにくの雨だったが、(しゅう)(へい)の心は半分だけ弾んでいた。新しく買ってもらった、黄色い傘を差せるからだ。お下がりでない自分のものを買ってもらったことなど、それまで記憶にない。
 柊平がこれから通うことになる小学校の、入学式の日だった。真新しい名札に書かれた姓は、まだ《いちむら》だった。
 保育園も幼稚園も通わなかった柊平が、初めて体験する集団生活だ。
 期待なのか不安なのかすらわからない胸の高鳴りとともに、母と並んで傘を差して登校した。さすがに、何を話したかまでは覚えていない。母親は、ふいに物思いにふけるときがあったので、このときも何も話さなかったかもしれない。
 うれしさが半分の理由は、長靴にあった。これは新品ではなく、母がどこかでもらってきた、誰かのお下がりだった。穴こそあいていないが、(きず)や汚れは目についた。柊平はわざと水たまりや泥のところを選んで歩いた。そうすれば、新品でないことが、わからなくなると考えたからだ。
 小学校に着いた。太い桜の根元に、雨で落ちた白い花びらが、無数の点を作っていた。
 まず広い建物に集められ、台の上から男の人が何か話すのを聞いた。マイクの調子が悪く、何を言っているのかよくわからなかった。そのあと、引率されるまま教室まで歩き、割り当てられた席に座った。机は新品のようにぴかぴかしていた。
 なるべく目を合わせないようにしながら、教室内を見回した。知った顔は少なかった。
 ほとんどが初めて見る顔だ。みな緊張しているように見える。泣き出しそうな子も、ひとりやふたりではなかった。
 ただ、ほとんど全員が真新しい――おそらくは〝おろしたて〟の――服を着ていた。すぐにそのことに気づいて、見回すのはやめた。柊平が着ている上着もシャツもズボンも、たしかに普段着ているものよりはましだし、今日はじめて(そで)を通した。だが、新品ではない。
 長靴とおなじように、母親が、知り合いだかそのまた知り合いだかから、「もう着られないけどもったいない」という理由でもらってきたものだ。
 母親より少し年上に見える、女の「先生」が、まず自己紹介し、黒板にひらがなで名前を書いた。そのあと、ひとりずつ名前を呼ばれ、できるだけ元気よく返事をし、教科書を何冊かもらい、これからの説明を受けて、再び母親と歩いて帰った。
 そのころには雨は止んでいた。通学路脇の畑で、雨のあとの菜の花がきらきらと光っていた。
「今日は、柊平の好きなカレーね」
 自宅のある団地まで歩いている途中で、まるで柊平の心を読んだかのように母が言った。少し前に、どこかの家から(ただよ)ってきたカレーの匂いを嗅いでから、ずっとカレーのことばかり考えていたのだ。
 今日は休んだが、母の勤め先でもあるスーパーに立ち寄り、一緒に買い物をした。
 カレーの具材で埋まっていく買い物かごを、横で見ていた。そして、豚肉の量がいつもより多そうだと気づいた。正確な分量はわからないが、パックが二個あったからだ。
 途中、母親の仕事仲間らしい女の店員が話しかけてきて「これ、ちょっと芽が出ちゃったけどよかったら」と言って、ビニール袋に入ったジャガイモを二個手渡した。
 買い物も終わり近くなって、レジ近くにある特設コーナーで母が立ち止まった。ここではいつも、「全国駅弁大会」だとか「特選和菓子市」といった企画をやっている。母親は、そこに置かれた業務用の大きな冷蔵庫の中をのぞいている。柊平は、期待で歓声をあげたくなるのを我慢していた。
「いかがですか。お買い得ですよ」
 頭に白い帽子をかぶった女の人が、ゲームに使うサイコロぐらいに小さく切ったケーキの載った紙小皿を、母と柊平に勧めた。母は自分が受け取った分も柊平に渡した。
「おいしい?」
「うん。おいしい」
 ほかにどんな答えがあるだろう。
「うちは甘いものを食べないから、子どもの分、一つだけ」
「はい。ありがとうございます」
 模様も何もない白いぺらぺらの箱に、チョコケーキを一個だけ入れ、白い帽子の店員が差し出した。柊平が受け取り、大事に両手で持った。
 レジで会計をするとき、やはり母の顔見知りらしい女の店員が話しかけてきた。
「あら、今日は見ないなと思ったら、そうか、柊ちゃんの入学式ね」
 後半は柊平に笑いかけた。柊平はうなずく代わりに帽子を目深にかぶりなおした。
「そうなの。でも、うちはいつもどおりで、お祝いもしないの」
「でもケーキ買ってもらったんじゃない。よかったね」
 柊平が大事に抱えている白い箱を目で指した。
「ちょっとだけね」
 母親がはにかんだように答え、照れ隠しなのか、柊平の頭を帽子の上から軽くなでた。

《なかまはずれはどれでしょう》
 名ばかりのダイニングキッチンに隣接した畳の部屋で、こたつに下半身を突っ込み、そんなタイトルの、表紙の角がすっかり丸くなった絵本を見ていた。
 見開きに、パトカーや消防車などが並んだなかで、ひとつだけ異質なものを探す問題だ。答えは「海に浮かぶ」という理由でタンカーなのだが、すっかり見飽きていた。テレビを見ていなかったのは、おそらくアニメの時間が終わり、ニュースかなにか、大人向けの番組に変わっていたからだろう。
 やがて、料理するあいだは匂いや煙が入らないように締めておく()(ぶすま)越しに、いい匂いが漂ってきた。日が沈んでから冷え込んできたので、ますます湯気を立てたカレーライスが恋しくなっていた。
 とたんに腹が鳴りだして、見飽きた絵本などどうでもよくなってきた。
 いつ、「ごはんよ」と呼ばれるかと期待して待っていると、玄関のドアが開き、閉まる音が聞こえた。父が帰ってきたのだ。こんな日に限って、ずいぶん早い帰宅だ。気持ちが急に(しず)んだ。せっかくのカレーとケーキを、父がいないあいだに食べたかった。
 父が母に何か語りかける声が聞こえた。少し機嫌が悪いようだ。自動車部品工場で働いている父は、仕事で面白くないことがあると、母にあたる。今日はどうだろうか。低くぼそぼそとしゃべるので、柊平のところまで会話の中身は聞こえない。
「柊平、ごはん」
 待ちかねた母の声が聞こえた。
「はい」と答える。父親がいないときなら、無言であったり、適当な返事をするのだが、いるときはまずい。きちんと返事をしなければ、めんどうくさいことになる。
 柊平の一家が暮らす団地の間取りは、あまり贅沢とはいえない。ダイニングキッチンと名はついているが、実際にはテーブルを置くスペースすらない台所。ここの床は(ごう)(はん)の板張りになっている。六畳と四畳半の和室がひとつずつ、それに四畳ほどのやはり合板張りの洋室、それですべてだ。3DKと呼ぶのだと、もう少し後になって知った。ほかに、トイレや狭い風呂もついている。
 いわゆる居間として使っているのは、キッチンと接する形でベランダに面した六畳の和室だ。ふすまタイプの扉を閉めれば間仕切り代わりになる。これを「戸襖」と呼ぶのだということは、もっとずっと後になって知った。
 冬の間はこの居間にこたつをおいて、夏になればそのまま()(とん)をはいで、この上で食事やその他の生活をする。夜寝るのは小さい方の畳の部屋だ。
 母が柊平に声をかけたのは、運ぶのを手伝ってもらうためだ。小学校入学を控えて、二ヵ月ほど前から始まった習慣だった。戸襖を開けると、父親が冷蔵庫から紙パック入りの酒を出すところだった。柊平が母のもとへ運ぶ皿を取りに行くのと入れ違いに、父親は酒とコップだけを持ってこたつに座った。
 父がテレビのニュース番組を見ながらコップの酒を飲むうちに、こたつテーブルの上に夕食が並んだ。
 湯気を立てているカレーライス、刻んだキャベツとトマトのサラダ、ゆうべの残りの煮物、朝の残りの大根の味噌汁などだ。柊平の前に置かれた、自分の分だけのチョコレートケーキの入った箱が、気恥ずかしいほど白く見えた。
 柊平に続き、母もこたつの前に座った。父は相変わらずテレビのニュースを見ている。父がいないときなら、七時からアニメを見られるのだが、今夜は無理だ。いまの番組が終われば、NHKのニュース番組へチャンネルを合わせる。
「いただきます」
 母が口にして、取り箸でつまんだサラダをカレーの皿によそった。ドレッシングをまわしかけて口へ運ぶ。
「いただきます」
 ケーキが気になるが、父がいるかぎり、ごはんより先にということはあり得ない。柊平は、スプーンでカレーのルーとライスを同時にすくい、口に放り込んだ。
 おいしい――。
 いつ食べてもカレーはおいしい。焼き魚や野菜炒めのときは、がっかりする。カレーならば、明日の朝も食べられるから、うれしい気持ちで眠ることができる。それに、やはり今日はいつもより肉が多い。
「んっ」
 コップを置いて、カレーをふた口ほどほおばった父が、(まゆ)をしかめた。
 食卓に緊張が走る。柊平も、そして母の手も止まる。
「なんか薄くないか。それにやけに肉が多いな」
 急に胃のあたりが重くなる。父が料理の味のことを言い出して、何ごともなく済んだためしがない。
「柊平がお肉が好きだから」
 母の口から自分の名が出たので、柊平は目玉だけを動かして、母の顔を見た。いつもと表情が変わっていない。母が何かをとぼけようとするときの、口ぶりと顔つきであることは、幼い柊平でも気づいていた。こっちにとばっちりが来なければいいがと思った。
 神様。せめてケーキを食べ終えるまで、なにごとも起きませんように――。
「肉のことはいいが、味が薄いだろう。水っぽいぞ」
「そう? いつもと同じなんだけど。ねえ、柊平」
「うん」
 そう答えるしかない。しかし、ほんとうは柊平も気づいていた。いつもより、少しだけ味が薄くてさらさらしている。
「子どもでごまかすなっ」
 いきなりの怒声が響き渡った。
「カレー、薄いだろうが。また水の量を間違えただろ」
「薄くないと思うけど。いつもと同じに作ったから」
 はらはらしながら見ている。たったふた口しか食べていないが、もうスプーンを動かせる雰囲気ではなくなった。食欲も急になくなった。
 味方をするつもりはないが、いや、したくもないが、父の言い分が正しいと思った。たぶん、水の分量を間違えたのだ。そしてたぶん、肉がいつもより多かったので水も多めにしてしまったのだ。
 母は料理をするときに、ほかの家事――たとえば洗濯などに気を取られていると、水や調味料をきちんと計らないことがある。そのことで、いつも父に文句を言われている。
 こんなささいなことは、素直に認めて謝ってしまえばいいのにと思うが、母は体つきも力もたぶん平均以下のくせに、妙に負けん気の強いところがある。きまって、反論する。あるいは素直に認めない。そして結局は怒鳴られ、殴られる。
 父が片膝を立てた。ますますまずい。
「これが、薄いかどうかもわからないで、料理を作ってるのか。てめえは。味見もしないでずへらと出しやがって」
「ずへら」というのは、父が怒りだすと飛び出す単語だった。どこかの方言だと思うが、「いいかげん」というような意味らしい。
「そんなに言うほどまずいかな。ねえ、柊平……」
 その言葉が終わる前に、父は身を乗り出し、「こんなもん食えるかっ」と怒鳴った。
「てめえはいつも、負け惜しみばっかり言いやがって」
 思い切り右手を振ると、父の前にあったカレー皿が、サラダボウルを巻き添えにして、キッチンのほうまで横向きにすっ飛んで行った。サラダボウルはずいぶん前からプラスチック製だったが、皿は割れた。カレールーや米粒やキャベツやトマトが、そこらじゅうに散らばった。
「なによ」
 母が、驚きとも抗議ともつかない声を上げる。
「なによじゃねえ。こんなに肉使って、くそまずいもの作りやがって。金の無駄だ」
「そんなに怒るほどまずくないでしょ」
「まだ言うのか。薄いか薄くないか、食ってみろっ」
 皿を放り投げた自分の行為に、ますます怒りの度合いが高まった父は、母の髪をわしづかみにして、母が食べていたカレー皿に、顔を押し付けた。
 母の顔がカレーライスの中に半分沈んでいる。
 母がうめいて、顔を持ち上げようとしている。もごもご言っているのは、「やめて」と言っているのだろう。
 母の爪が父の手の甲をひっかいたらしい。
「痛てっ」
 父が手を引くと、母が顔を上げた。その顔も前髪もカレーにまみれていて、まるでテレビで見るコントのようだったが、現実に目の前にあると、(せい)(さん)な姿だった。
 ふうふうと母の息が荒い。
「熱いじゃない」
 カレーでぐしゃぐしゃになった髪をかき上げる、母の目も血走っている。
「いつだっててめえは、このっ」
 あまりの腹立ちに、父の息も荒くなっている。思い切り振った右手が、母のほおを打った。
「あっ」
 母はそのままのけぞるように倒れた。
「負け惜しみばっかり言いやがって。どうして『間違えました』って言えねえんだ。素直に『間違って薄くなりました』っていえば、おれだって、こんなに怒るか。それを、てめえはすっとぼけやがって。ばかにしてるのか、おれを。ああ? おれをばかにしてるよな」
 まくしたてながら、テーブルの上のものを腕で払いのけていく。がちゃがちゃと音をたてて、あるものは掛布団の上に、あるものは畳の上に転がり落ちる。ケーキの箱はテレビのほうまで飛んでゆき、横向きになって(ふた)が開いた。
 部屋中が、カレーライスと煮物、味噌汁などの残骸で足の踏み場もない有様になった。
「どうして、素直に謝れねえんだ」
 父は(かん)(しゃく)を起してよくそう言う。
 父のやりようにはまったく賛成できないが、その言い分には同感するところもあった。
 謝っちゃえばいいのに――。
 子ども心にもそう思った。
 しかし、あとで思い返せば、非力で口も立たず、やりかえすことのできない母の唯一の抵抗手段が、この「絶対にあやまらない」という態度だったのかもしれない。
 そのせいで、きのうは「寝入りばなに蚊に刺された」という理由で、おとといは「見切り品で買ったバナナの中身が黒い」という理由で、母は殴られた。
「てめえも、こんなカレー、食ってるんじゃねえ」
 いつものことだが、とばっちりは柊平にも来た。まだほとんど手をつけていない、目の前のカレー皿を、父の左手がパン、と払いのけた。父がその皿をどこへ飛ばすつもりだったのかわからない。
 しかし皿はみごとに真上に飛んで、天井にぶち当たり、当然落下してきた。
 落ちてきた皿は、ほとんど物がなくなったこたつの天板に落ちて砕け散った。飛び散ったカレーや米粒が柊平の顔や服にも飛び散った。目の周囲についたものだけを、指先でそっとこそげ落とす。あまり派手な動作を見せると、「大げさにしやがって、あてつけか」と殴られるからだ。
「二度とこんなまずい飯つくるな」
 父がもう一度母を殴ろうと、膝でにじり寄ったときだ。父がぐっとうめいた。
「くそっ」
 割れた皿の()(へん)に、膝で乗ったらしい。父があわてて(のぞ)き込んでいる膝から、まるでインクを絞りだすように血が流れ出ていた。
 傷口を洗いにいくのだろう、父はやや足を引きずりながら風呂場のほうへ去っていった。
 猛烈な台風が去ったあとのように、奇妙な静けさがあった。時計の針の音がこちこちうるさいほどだ。
 さんざんの入学祝いになったが、柊平は心のどこかでほっとしていた。なぜなら、自分は殴られなかったからだ。
 父は、家にいるかぎり、一日に一度は激怒しないと収まりがつかない。例外はない。絶対に毎日、一度は激怒する。
 だから、母に何も落ち度がなかった日には、あるいは母の落ち度よりさきに、柊平の失敗がみつかったときは、怒りの矛先は柊平に向かう。
 ふだんはそんなことはまったく注意しないくせに、虫の居所が悪いと、「食事の前に手を洗わなかった」というだけの理由で、体が一回転するほどの勢いで殴られる。そしてこのような場合に、ひとことでも脇から母が(かば)えば、「てめえは何を教育してんだ」と殴られる。
 カレーの味が薄かったから怒ったのではない。最初にみつけた怒りの対象がカレーだったのだ。六歳の柊平にも、その理屈はわかった。そしてこう思った。
 今夜は殴られるのが母だけでよかった――。
 あんな乱暴者で貧乏な男と結婚した責任は、母にある。誕生日に、だれかのお古の絵本をもらったり、スーパーで買ったケーキを叩き潰されたりするのは、父と母のせいなのだ。
 柊平は、最初の漢字を覚えるよりも早く、その理屈を自分で組み立てていた。
 そして、父がいないすきに、テレビの前に転がっている箱の中身をたべようと決めた。
 

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み