月光の海 第一章(6)/ 伊岡瞬

文字数 7,692文字

第一章 ダンチ(一九九六年)

 8

「おい。とうとう出たぞ」
 それまで会話が途切れていた()()に、やや緊張した声が響いた。
『ヒラヤ』事件からちょうど一週間が経つ。その後(あら)()からの連絡はこないし、これで終わりかとそろそろ気が緩みかけた夜だった。
 (しゅう)(へい)の父親、(たか)(ひで)が、誰に話しかけるともなくそんな言葉を()いた。夕食時、柊平はさっさと自分のぶんを食べ終え、見飽きた雑誌でも広げるか、部屋に引っ込もうか決めかねていたときだ。
 何が出たのかと驚いて目を向けると、父親はテレビに反応したのだった。見ているのは、NHKの午後七時のニュースだ。なんとなくほっと息を吐く。
 父親は、片道数十分ほどのちょっとした工場地帯の一角にある、そこそこに大きな自動車の部品を作る工場に勤めている。『ダンチ』から最寄りの駅まで徒歩で十分、電車で三駅、そこから送迎バスで十分弱の通勤だそうだ。
 最初の暴力親父が勤めていたのも同じ会社だ。どの程度の仲だったのかは知らない。あの父親に友人がいたとは思えない。ただ、その関係で母親と知り合ったのだろう。あくまで想像だ。具体的なことは何も聞いていない。なんとなく不潔な感じがする。
 仕事の流れはだいたい決まっているらしい。遅番や緊急の仕事のないときは、午後の七時前には帰ってきて、風呂を済ませ、夕食を()りながらNHKのニュースを途中から見る。少くとも、家で酒を飲むのを見たことがない。ほとんどは、夏は冷やした麦茶、それ以外の季節は大きな急須で()れたほうじ茶を飲む。
 テレビに関しては、この父親がリビングにいる限り、チャンネルはほとんどNHKに固定されているといってもいい。もしくは電源を落とされている。したがって、夜七時以降は、柊平が見たい番組を見ることはできない。だから、父親に急な残業が入ったりした夜は、ここぞとばかりに、かじりつくようにしてテレビを見ることになる。
「何が出たの?」
 小ぶりな茶碗を持って少し遅れてテーブルについた母の(あさ)()が、画面に視線をやりながら、会話の流れ、という雰囲気で訊く。
「例の、金持ち老人の家を狙った強盗事件だよ」
 父にしてはめずらしく興奮気味だ。
「ああ、このあいだから騒ぎになってる?」
「あれが、『(くら)(なか)』にも出たらしい」
「えっ、『蔵中』に」
 食事のときなどは、適当に父に話を合わせているが、本来は社会問題や事件などにあまり関心のない母も、この話題にはさすがに驚いたようだ。柊平も驚いた。
『ヒラヤ』事件の日、(ひとし)を心配してうろつきながら見上げた、あの洒落(しゃれ)た雰囲気の家並を思い出す。
 母は、少し硬めのほうれん草のおひたしを、もりもりと音を立てながら()み、目はテレビに向けている。父が解説するように答える。
「それも旧区画のほうだな」
「そうなの? たしかにあのへん、大きな家が建ってるわね」
「古い家は、セキュリティ的に意外に()(さん)らしいからな」
 あまり、同情や心配をしている雰囲気は感じない。
 柊平も、『蔵中』のようすを知っている。「遠征」の範囲内だから。
 大きい公園や空き地などがないので、わざわざ行く目的はないが、別な場所への往復時に、たまに通り抜けることがある。そこで見た光景に、聞いた話などを当てはめる。
『蔵中』と地名のついた一帯は、こんもりと盛り上がった丘の上にあって、自転車で立ち()ぎをしなければきついほどの坂道だ。
 やはり父親が以前「豪邸というほどでもないが、一種のお屋敷街だな」と語っていたのを覚えている。そんなふうに呼ぶらしい大きな家が建ち並んでいる。柊平たちも初めて見たときは「すげえ、でかい家だ」と驚いた。
 ただ、ひとくちに『蔵中』といっても、ちょうど中間あたりを貫く道路を挟んで、家並みの印象が変わる。
 東側の古い家が並んだ地区にはあまり人通りはなく、生け垣にしろ、石の塀――その材料を(おお)()(いし)と呼ぶのだと最近知った――にしろ、道端から簡単に庭がのぞけないほど背が高い。
 重そうで大げさな門の(すき)()から見えるのは、きちんと手入れされた松や椿やそのほか和風の樹木が、かくれんぼができそうなほど()(しげ)るか、その逆にちょっとしたサッカーの練習ができそうなほど広々した芝生だったりする。「蔵」が残っている家もめずらしくない。そちら側を「旧区画」とか「お屋敷街」と呼ぶらしい。
 一方、道路の西側は、最近まで林だったのを、十年ほど前から住宅街として開発しはじめたらしい。それぞれの家の土地の面積は、「旧区画」の屋敷の半分かそれ以下だが、モデルハウスのようなお洒落な建物が並んで、平たい屋根の家は、バーベキューができる屋上まであるという。違いがわかりそうでわからないが、こちらは「やや高級住宅街」なのだそうだ。
「やや高級住宅街」の分譲売り出しが始まったころ、チラシが毎週のように配られてきたらしい。母親が「あんなチラシ、ゴミが増えただけだったけど」と皮肉気に笑ったことがある。
 一週間前、柊平が見上げたのは、こちらの「新区画」「やや高級住宅街」のほうだ。ぼんやり白っぽくくすんだ壁の家など一軒もなく、濃いグレーやレンガ色だったり、逆に明るいグリーンやピンク色の壁まであった。
 停まっている車も違う。「旧区画」の屋敷の庭に見えるのは、大きいけれど国産で型が少し古い、そして色は白か黒の車だ。一方の「新区画」には、BMWやベンツなどの外車が多く、色も真っ赤や目の覚めるようなブルーだったりする。ちょうど、メガネ男の荒木が乗っていたみたいな車だ――。
 そんなことをぼんやり考えて、もしかすると荒木の本当の家は「新区画」にあるのではないかと思った。
「死人は出なかったみたいだな」
 ひととおり強盗のニュースを聞き終えた父親が、無感動に言った。そのあとに「よかったよかった」と続きそうには聞こえなかった。
「何軒も続いてるの?」
 ふだん柊平は、好きなテレビ番組が見られないことへのささやかな抵抗のつもりで、食後しばらくは、わざと居間のテーブルで本や雑誌を読むことが多い。「つまらないな。退屈だな」と言葉に出さない意思表示だ。
 父親が決して「暇なら勉強しろ」と言わないから安心しているところもある。ただ、マンガ雑誌は露骨にいい顔をしないので、図書室で借りた挿絵の多い物語か、友達に借りたサッカー雑誌などが多い。
 そんな柊平が関心を示したのが嬉しかったのか、父親は母親に説明する形で解説を始めた。これはいつものことだ。柊平に直接話しかけるのが、いまだに苦手らしい。最近の均に似ている。
「最初はちょうど一年ぐらい前だな。あれはたしか、世田谷区の古くからある高級住宅街に強盗が入って、現金とか貴金属とか盗んで、高齢の夫婦を殺した事件があっただろう」
「うん。あった」と答えたのは母だ。まったく同じやり取りを、前にも聞いたような気がする。柊平としては、たしかにそんなニュースがあった記憶があるが、いつのどの事件のことかははっきりしない。
「その夫婦は、銀行をあまり信用しない主義だったらしくて、家の金庫に現金で二千万近く貯めていたらしい。貴金属は数百万相当とかいうけど、そっちは売ってもたぶん二束三文だったろうな。とにかく、その金庫の番号を聞き出すのに、夫の見ている前で奥さんを拷問して――」
 そこであわてたように言葉を止めた。柊平は、すでに別のニュースに切り替わっている画面を見たまま、気づかないふりをしていたが、父親としては、子どもの前で残酷な表現を使ってしまったと思ったようだ。あはん、と小さく咳払いをして先を続ける。
「――金庫を開けさせて、金品を奪って、結局のところ老夫婦は殺されてしまったんだな」
 終わりの方は、なんとなく尻すぼみになった。
「でも、あれって、犯人捕まったわよね」と母が返す。
 父がリモコンを手にとり、スポーツコーナーに変わったテレビのボリュームを下げた。ますます耳を傾けざるを得ない。父もすでに食事を終えてしまい、母の()(しゃく)する音だけが聞こえる。
「捕まった。高級時計を売ろうとして足がついた。でも、その直後にそっくりな手口で、こんどは()(たか)市で、独身の老人男性が殺された。やっぱり現金を貯めこむ主義だったらしい。あんまりそっくりの事件だったので、最初の世田谷の犯人は誤認逮捕とか(えん)(ざい)じゃないかという話が出たぐらいだ。だけど、結局は自白したし裏付けもとれたみたいで、単に似た手口の犯行だとわかった」
「模造犯とかいうやつ?」
 母の質問に、父がふっと鼻から息を吐いた。
「それを言うなら模倣犯だよ」
「あ、そうだった」
 両親にはめずらしく、冗談のつもりだったのかもしれない。二人がほぼ同時に、ちらりと柊平の反応を見る気配を感じたが、柊平はクラスの友人に借りた、一ヵ月遅れのサッカー雑誌に視線を戻していた。部屋に戻るタイミングを逸してしまったのが悔やまれる。
 ただ、『ヒラヤ』に近い場所での事件なので、なんとなく興味を感じている。
 ニュースの中でも、特に政治家や企業の不正に関係するものや、ある種の犯罪事件の解説をするのが好きな父が、この話題でも止まらなくなってしまったようだ。柊平はうんざりしてきて、話の切れ目に逃げ出そうと狙っているのだが、なかなか中断しない。
「最初の事件で捕まった犯人たちは、たしかまだ三十そこそこの男二人組だったんだけど、素直に自白したことと、犯行に至るまでの事情から『借金苦強盗』とか呼ばれて話題になった。二人とも、大手の金融会社、いわゆる『サラ金』ってやつだな、そこからの借金が返せなくなって、事実上の暴力団みたいな連中に追い込まれて、臓器売るか銀行強盗やるか、みたいな選択肢だったらしい」
 母が、えー、と気味の悪そうな声を上げる。
「なんだか、やくざ映画の話みたいね」
「ひとりはカードの穴埋めをするために、サラ金で借りては()(てん)する、というのを繰り返して、最初は五十万ぐらいだった残高不足が、あっという間に数百万になったらしい。もうひとりはもっと悲惨だ。両親が経営していた小さな工場が経営難になって、不渡りを出さないためにサラ金に手を出して、その連帯保証人に息子がなっていたらしい。結局、会社は倒産、父親は自殺、母親は行方不明、息子だけに督促の嵐が来ていたので定職にも就けず逃げ回っていたらしい。
 そんな事情が明かされて、強盗殺人犯なのに同情論が()いたぐらいだ。それどころか、返済を迫っていた組織が、この事件の被害者の情報を与えて『(きょう)()』したという噂もある。まあ、元をただせば、政府の無策が招いた不景気が原因だ」
「どんどん不景気になってるものね」
「出口は見えない感じだな」
 余ったおかずをひとつの皿にまとめたり、空いた茶碗を重ねたりしながら、母が重たい口調で続ける。
「住宅ローンを組んだ人とか大変みたいね」
「うちの会社にも、悲惨な目にあった人間がいる。あきらかに景気は後退したのに、金利はほとんど下がらない。だから利息すら払いきれなくて、元金が減らないどころか、むしろ増えていく現象が起きてる。銀行は支払いを(ゆう)()するどころか、取り立ては(よう)(しゃ)ない。借り換えの審査は厳しくなっている。だから売ろうにも売れなくて、大げさじゃなく一家離散とか夜逃げとかばたばた起きてるらしい」
「うちは、ローンなんて組まなくてよかった」
「企業の倒産もまだ増えるだろうな。うちもいつまでもつか」
「やだ、縁起でもない」
「政府の無策が人を殺しているのと同じだ」
 結局のところ、いつもと同じ結末になって、母は腰を上げ、片付けを始めた。どんな話題から入っても、行きつく先は同じだ。つまり、父は「政治が悪い」になり、母は「なまじ借金ができるほどのお金もなかったから、よかった」となる。
 ようやく席を立とうとしたら、父がまだ続けた。母は台所に立ってしまったので、事実上柊平に話しかけている形だ。
「――その後に起きたよく似た手口の事件は、まだ犯人が捕まっていない。それらもみんな、たまたま似ているだけかもしれない。同じ犯人かもしれない。犯行現場が少しずつ南西へ移動しているから、同一犯の可能性はあるな」
 すでにニュースは終わってしまって、どこかの市民会館で公開録画している歌謡番組が始まった。父がテレビのスイッチを切った。まずい傾向だ。
(なが)(やま)(のり)()という死刑囚が書いた、『無知の涙』という本がある」
 柊平は、またその話か、とうんざりした。もう何十回となく聞いている。代わりに演説できそうなほどだ。
 こちらを見ていないだけで、話す対象は柊平だ。
 いつもこうだ。柊平から会話をしかけたのでない限り、まるで中空の霊にでも話しかけるようにしゃべる。説教の途中で、ちらりとでも視線を横に向けたり、あくびをかみ殺したりしたら、容赦なくびんたが飛んできた最初の父親とは正反対だ。あっちのほうがましだったとさえ思う。
「永山が逮捕されたのは、一九六九年だ。九〇年に死刑が確定して、今年はもう九六年だ。いまだに執行されないのは、政府にも引け目があるからだろう。貧困者に対する政策に落ち度があったと、暗に認めているからだ――」
 雑誌を見るのさえ飽きてしまったが、せめて意地でも顔をあげないようにしようと思った。少しでも興味を示せば、話は延々と続いてしまう。
「無知と貧困が犯罪を生むというのは、これはもうどんな社会学者、政治学者も――」
 ならば訊きたい。ただ小石を()っただけなのに、いろいろいちゃもんをつけられて、家の中にまで連れ込まれた均の場合、一番ひどいやつは誰?
「しかし、彼にとって不幸だったのは――」
「あ、いけね、宿題やらないと」
 せいいっぱいの努力で、それだけを口にし、自分の部屋に入った。

9

「なあ、均、きょう帰ってから、ちょっと『探険』に行かないか」
『蔵中』で強盗があったというニュースを見た翌朝、登校班の列を乱し、横に並んで歩きながら均に声をかけた。
 ほんとうは、縦一列にきちんと並んで歩かなければならないし、歩きながらの会話は禁止になっている。しかし、六年生の柊平と均に注意するメンバーはいない。
 この班に、六年生は柊平たち二人しかいない。下級生は、特に体の大きい均に何か意見したりしない。
 均が返事をしないので、もう一度繰り返す。
「なあ、行くだろ」
 行ってみたい場所――というより、見てみたいものは決まっている。強盗に入られた家だ。
 朝、新聞で詳しいことを調べてみようと思っていたのだが、ぎりぎりまで寝坊してしまって、見ていない。ゆうべ、布団に入ってからこの計画を思いついて、ひさしぶりに均と『探険』に出かけることを想像したら、なかなか寝付けなくなってしまったのだ。
『探険』というのは二人だけに通じる言葉で、「まだ行ったことのない場所」や「大人に行くなと言われそうな場所」へ出かけることだ。しばらく行っていない。
 下調べはできなかったが、ニュースを見た両親も、はっきり『蔵中』と言っていた。あそこはそれほど広いエリアではない。探せばすぐにわかるだろう。もしかしたら、パトカーがいる可能性だってある。そしたら興奮するはずだ。均だって、これで完全にもとどおりになれるかもしれない。
 しかし、均から返ってきたのは意外な答えだった。
「行かない」
「えっ」としばらく言葉に詰まった。「――どうして? だってさ、きのうニュース見なかったかよ。強盗が入ったんだぜ」
「用事があるんだ」
 均は、相変わらず柊平の目を見ずに答える。
「用事? お母さんとどこか出かけるの?」
 均は少し考えて、うん、と答えた。
 嘘をついているなと思った。こんな話しかたをするとき、だいたい均は嘘をついている。しかし、これ以上しつこくは訊けない。均がこんな話しかたをするとき、無理矢理にしゃべらせることはできない。
「じゃあ、明日は?」
「明日ならたぶん、いける」
「よし、じゃあ、明日行こうぜ」
 元気よく、均の背中を叩いた。しかし、本当は残念だった。今日だったなら、まだ犯罪の()(はい)が残っているかもしれない。ひょっとしてひょっとすると、警察が見落とした証拠を発見できるかもしれない。
 しかし、明日ではだめだ。あと一日経ってしまえば、犯罪の影や臭いは、もう残っていないだろう。
 でも、しかたないと思った。均は一番大切な友達だ。

「帰りの会」がない日だったので、均は六時間目の授業が終わるなり、走るように帰っていった。
 柊平は校庭に残って、そこにいる連中とサッカーをすることにした。
 ボールを追い始めても、やはりどうしても『探険』があきらめきれない。さんざん現場のようすを想像していたので、明日まで待てない。
 ひとりで行ってみようと決めた。均には、黙っていればわからない。もしも、証拠品など発見したら、均は素直に興奮して喜んでくれるだろう。
 ほかのメンバーにぶうぶう文句を言われながら、サッカーを途中で抜けた。
 大急ぎで家に戻り、習慣となった郵便物チェックをしてから、自転車置き場にある、自分の自転車をちらりと見た。すでに少しサイズが小さいし、子どもっぽいデザインだ。本当はもう乗りたくない。
 だけどもう少しの我慢だ。中学になったら、ひと回り大きな本格的BMXタイプの自転車(バイク)を買ってもらえる約束になっている。今の父親になって、初めて買ってもらう大物だ。もしも、賠償金を払うことになったりしたら、その話は百パーセント消えるに決まっている。 
 最初の父親なら、鼻血が出るほどなぐったあと、気が向けば買ってくれたかもしれない。しかし、今の父親はだめだ。夜中に母親と「今月のフクショク費にはいくらかかった」というようなひそひそ話をしているぐらいだ。このフクショク費というのは、最初に聞いたときは「服飾」のことかと思って首をかしげたが、あとで「副食」つまりおかずのことだと知った。おかずにいくら使ったか、二人で計算しているのだ。
 だから、だから絶対に、親にばれるわけにはいかない。
 もう一度強く決心して、階段をかけ上り、ランドセルを放り込むためドアの鍵を開けようとした。心臓がきゅっとなった。
 鍵が開いている。
(つづく) 
  

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