月光の海 第一章(5)/ 伊岡瞬

文字数 7,561文字

第一章 ダンチ(一九九六年)


 (みな)(かみ)(しゅう)(へい)は、ぴかぴかに磨かれた青いBMWの脇に立ち、二人が消えた玄関ドアをみつめた。
 (ひとし)がメガネ男――(あら)()という男に(えり)(くび)をつかまれて、ひきずり込まれたそのドアを。
 ただ、いくら(にら)んでも、()けて中のようすなどわからない。警戒しながらそっと近づく。ドアに耳を寄せ、意識を集中する。何も聞こえない。
 いや――。
 何かぼそぼそと話す声が聞こえるような気もするが、内容はまったくわからない。
 庭側にまわってみようか。しかし、こちらから中がのぞけるぐらいなら、向こうからは丸見えになってしまうだろう。
 帰れと命じられたが、均を見捨てて帰れるわけがない。しかし、本音を言えば怖い。
 どうしよう、どうしよう、どうしたらいいのだろう。誰か、大人に助けを求めるか。いっそ公衆電話を探して、110番通報しようか。たしか、緊急の電話はお金がなくてもかけられると聞いたような気がする。
 だけど、もう少しようすを見たほうがいいかもしれない。ただ説教されているだけかもしれない。柊平や均に反省の色がないので――多少の(おど)しを含めて――説教しているだけの可能性もある。そこへサイレンを鳴らしたパトカーがやってきて、騒ぎが大きくなってしまったらもう取り返しがつかない。
 途方に暮れてしまった。
 気配を感じて、振り返る。
 路地を挟んで、裏の棟の庭が見える。そのうち一軒の庭に、住人の姿があった。お婆さんだ。いつか見た、水まきをしていた老女とは別人のようだが、同じぐらいの歳に見える。
 彼女は庭で何かごそごそやったあと、伸ばした腰を叩きながら、不審なものを見る目を柊平に向けた。
「あんた、どこの子?」
 大きな声を出したら荒木に聞こえてしまうと、はらはらしながら小声で答える。
「ええと――」
「ここの子じゃないだろ?」
「ここ」とはもちろん『ヒラヤ』地区のことだろう。
「違います」かすれそうな声でなんとか答える。
「ここはよその人が入ったらだめだよ。自分の家に帰りな」
 もしかすると、「何か困ったことでもあるの」と()いてくれるのかと、一瞬は期待した。近所だから、荒木と顔見知りかもしれない。そうしたら、口をきいてくれるかもしれない。
 しかし老女の雰囲気や口のききかたからすると、そんな期待はできそうもない。それより、これ以上やりとりを続けて、また荒木が出てきたらよけいに面倒だと思って、ともかくその場を離れることにした。
 公園まで戻り、荒木の家がある棟を見張る。庭側も玄関側も、路地は行き止まりになっている。だから、どこかへ行くならば必ずこちら側へ出るしかない。
 さっきは二人でこいだブランコに、今は一人で座って、ぼんやりと揺らす。
 何か考えようとするのだが「どうしよう」「どうしよう」という言葉だけが上滑りして、意味もなく頭の中をぐるぐる回っている。
 均はいったい何をされているのだろう。説教か、体罰か、まさか脅されて「金を沢山払います」などという文章を書かされているのではないだろうか。親になんか言えない。やはり、匿名で警察に通報しようか。匿名とかいっても、「逆探知」されてばれてしまうかもしれない――。
 どのぐらい時間が経っただろう。急に声をかけられた。
「何してるの」
 驚いて顔をあげると、あの少女が立っていた。いつのまに着替えたのか、車から降りてきたときと恰好が変わっている。
 さっきは、赤いスカートに白いブラウス、ピンク色のカーディガンという、女の子っぽい恰好だった。いまはグレーのトレーナーに、下はジーンズをはいている。
 髪型も違っている。二本の三つ編みにして両側に()らしていたが、今はほどいて後ろでひとつに(たば)ねている。昨日見たのと同じ、ポニーテールというやつだ。ただそれだけの違いで二、三歳ぐらい年上に見える。
「べつに」
 すぐに目を逸らしたのは、あらためて近くで見たら、記憶にあった以上に可愛かったからだ。昨日もさっきも、見かけたのは一瞬のことで、「なんとなく」ぐらいにしか思わなかった。しかし、今こうして手を伸ばせばとどきそうな位置でみると、テレビに出てくるアイドルのようにかわいいとさえ思う。
「友達がいなくなったの?」
 少女が、大人びた雰囲気に似合った、少し低めの声で訊き、荒木の家のほうをあごでしゃくった。驚きを隠そうとしたが、どのぐらい成功したかわからない。
「なんで?」
 そう思うのか、と続く言葉がうまく出てこない。
「ふふっ」
 少女は、トレーナーのポケットに両手を突っ込み、前後に体重を移動して、体を軽くゆすっている。さぐるような目を柊平に向けている。
 この少女と話したいという気持ちはあるが、だからといって、自分たちが置かれた苦境を、詳しく説明するつもりはない。視線を落とした先に見える、少女の真新しいスニーカーが目にしみるように白い。
 少女は、ねえ、と言い、柊平をのぞき込むように首をかしげた。
「荒木さんに連れていかれたんでしょ」
「あいつのこと、知ってるの?」
「少しだけ」
「どうして連れて行ったか、知ってる?」
 少女は、こんどは畑のほうに視線を向けて、またしてもふふっと笑った。
「ねえ、もう帰ったほうがいいと思うよ。たぶん、三十分ぐらい出てこないと思うから。もうちょっとかな」
「どういう意味?」
「さあ、よくわからない。だけど大丈夫。怪我とかしないから」
 そう答えると体をゆするのをやめて、くるりと背を向けた。いや、向けかけてもう一度柊平を見た。
「なんていう名前?」
「どうして」
「べつに言いたくなければいいけど」
 少女はそっけなく言い放ち、こんどこそ歩き出す。その背に声をかける。
「おれ、水上。水上柊平」
 少女は立ち止まり、首から上だけをこちらに向けた。
「マキノキリ」
 そう言い放つと、二度と立ち止まることなく公道のほうへ歩き去った。

7

「おはよう」
 柊平は、『ダンチ』内にある登校班の集合場所へ行くと、まっさきに均に声をかけた。
「おはよう」
 均も挨拶を返してくる。しかし、まだ柊平の目を見ようとはしない。 
『ヒラヤ』でのちょっとした事件があってから、今日で一週間が経つ。均の態度も、以前と同じに戻ってきた、と思いたいが、少し違う。
 どう違うのか、説明は難しい。口をきかないとか、急に泣き出すとか、怒りっぽくなったとか、そういう具体的な変化はあまりない。
 あえていうなら、少しよそよそしくなった。柊平が遊びに誘えば、以前なら「やろうぜ」とすぐにのってきたのに、今は「なんか、あまりやりたくない」だ。
 それに、話をするときに目を見なくなった。関係ないもの、たとえば電柱とか道ばたの草とかを見て話す。少し寂しく感じる。やはり、何かあったのだろうか――。
 あの日、抵抗する間もなく、均が荒木という男の家に連れていかれ、通りかかったマキノキリと名乗る少女から、理由も言わないまま「もう帰ったほうがいい」と宣告された。
 しかし、友人が怪しい男の家に連れ込まれたというのに、見捨てて自分だけが帰るわけにはいかない。乗り込んでいく勇気はないが、せめて誰かに助けを求めるか、警察に通報したい。だが、それも踏ん切れずにいた。もとはといえば自分たちが()いた(たね)だからだ。大ごとにしたくない。学校にも、警察にも、そして何より親に知られたくない。しかし、均の身は気にかかる――。
 じれったい気持ちを抑えながら、『ヒラヤ』の区画内をうろうろしたり、いったん公道まで自転車で戻って、百メートルほどの距離を行ったり来たりするうち、腹は減ってくるし、喉も渇いた。脇見をしていて、車に()かれそうにもなった。
 時計は持っていないが、午後五時半を知らせる間延びした音楽が、どこからか流れてきた。下校してからの時間を逆算してみると、『ヒラヤ』に来て、四十分ほどが経つはずだ。
 太陽もそろそろオレンジ色に変わってきて、寂しげな雰囲気だ。不安な気分がどんどん増した。このまま、均が二度と出てこなかったらと考えると、心臓をつかまれたような不安に陥る。ふだんは気にとめたこともないカラスの鳴き声が、やけによそよそしく寂しげに聞こえた。
『ヒラヤ』へ続く(じゃ)()(みち)の入り口あたりで、またなんとなく誰かに見られているような気がして、顔を上げた。道路を挟んで反対側の、急にせりあがった丘の上に視線が向く。庭のフェンスらしきものが続き、クリーム色や薄いブルーの壁の家が何軒か見えた。『(くら)(なか)』と呼ばれる地区だ。
 見上げる形なので、庭や家の中などは見えないが、なんとなく家そのものの雰囲気に高級感がある。家の中では焼肉をして、イチゴかチョコのケーキでパーティーをしている光景を想像してしまう。そういう気分を「ひがみ」と言うのだと、担任のガンタマが前に言っていたのを思い出す。
 そのうちの一軒の窓のカーテンが、柊平が見上げると同時にシャッと閉められた。嫌な感じだ。
 することもなく、自転車を押しながら、もうこれで何度目か、公園へと向かう。しかし着く直前に、ついに荒木の家のドアが開くのが見えた。あわてて、道路脇の茂みの陰に自転車を引き込み、腰をかがめる。
 ドアの中から、ようやく均が出てきた。柊平は思わず声をかけそうになったが、なんとか思いとどまった。そのまま息を殺すようにして観察する。
 心臓が高鳴った。すぐにも駆け寄りたいが、続けて荒木が出てくる可能性もある。まったく動けずにいる。だけど少しほっとした。ここから距離はあるが、顔に殴られた感じはないし、鼻血も出ているようには見えない。
 均は、荒木の家のほうを一度も振り返ることなく、妙にゆっくりした動作で、停めてあった自分の自転車にまたがり、ぐいっと()ぎ出した。なんとなくかったるそうだが、怪我をしているようすはない。荒木が出てくる気配もない。均がすぐ目の前を通り抜けるとき、柊平は抑え気味の声をかけた。
「おいっ、均」
 ききっとブレーキの音を立てて、均が停まった。
 植え込みの陰から立ち上がった柊平を、均はなんとなく焦点が合わないような目で見た。柊平は荒木の家のドアをちらちらと見ながら近づいていく。
「ああ、柊ちゃん」
「大丈夫だったのかよ」
「あ、うん。大丈夫」
 中で何があったのか詳しく聞きたかったが、均がとても疲れた感じだったのと、あまりしゃべりたくなさそうだったので、それ以上しつこく聞けなかった。いくら話しかけても、柊平の目を見ようとしなくなったのは、それからだ。
 そのままほとんど無言で、いつものように、先に柊平、後ろに均と縦に並んで『ダンチ』まで帰り、均の住む棟の前で別れた。『確認書』をどうするか、相談をするのも忘れていた。

 結局その夜、『確認書』を偽造した。
 やはりどうしても親に切り出すことはできそうもない。まだ母親が帰宅していないのをいいことに、両親の寝室にあるタンスの一番上の引き出しから三文判を持ち出した。ノートの上に『確認書』を置き、《印》と書かれた場所に『水上』のハンコを押しつけた。緊張で手が少し震えたが、思ったよりきれいに押せた。これでもう引き返せないと思ったら、妙に腹が()わった。
 印鑑を、もとの引き出しにしまい終えると同時に、玄関の鍵が回る音がした。母親が帰ってきたのだ。大慌てで、両親の寝室から直接自分の狭い部屋に飛び込む。(ふすま)タイプの引き戸で仕切られているが、出入りもできる。もうひとつの出入り口、玄関側のドアは閉じたままだ。
「ただいま」
 母親のいつもと変わらぬ声に、こちらも「お帰りなさい」と普段どおりに答える。
 しばらく身を固くしてようすをうかがったが、部屋に入ってくる気配はなさそうだ。早いところやってしまおう。いつでも引き出しに隠せる態勢を整え、『確認書』を机に広げる。今、あわてたせいで少しだけしわが寄ったが、問題はなさそうだ。
 柊平はふだんから「勉強はいまひとつだが、字だけは大人びて上手い」と言われている。新学期が始まるときに、連絡帳に父親が書いた保護者のサインを見ながら、筆跡を真似てみる。三十回ほど練習して、なんとかそれっぽく書けた。
 もちろん、そんな一時しのぎをしてみても、いざ弁償する段になったら、告白しなければならない。問題を先送りしていれば、傷はますます深く広くなるだけだ。そんなことはわかっている。わかってはいるが、母が勤務先のスーパーで、何か買うとしても半額近くに値引きされたものだし、売れ残りをもらってくることも少なくないことは知っている。ばれたならしょうがないが、自分から切り出すことはできそうもない。
 翌日、元の封筒に収めた『確認書』を担任のガンタマに渡すと、なぜかもったいをつけたような顔でうなずき、受け取った。
「一応、先生が中を確認してから、荒木さんに郵送する。いいな?」
「はい。――あの、均は?」
 ガンタマがぎろりと睨んだ。均は学校を休んでいる。朝、均の母が登校班までそれを伝えに来たが、休む理由は言ってくれなかった。もちろん、荒木のことが原因なのはわかりきっている。
「おまえは気にしなくていい」
「均は、どこが悪いんですか」
「風邪だ」
 ならば放課後、見舞いに行こうと思った。そしてついでに、『確認書』をどうしたのかきいてみたい。
 その日一日は、いつガンタマに「おまえ、あの『確認書』は自分で書いただろう」と言われるかと、びくびくしていた。授業で指名されたときなど、思わず「はいっ」と大きな声を出してしまい、クラスの皆に笑われたが、ガンタマは気づかないようだった。
 学校が終わるなり、サッカーのメンバーに入ってくれという同級生の誘いを断り、大急ぎで『ダンチ』に戻った。
 均の家のチャイムを鳴らすと、均本人がドアを開けた。母親はまだ帰宅しておらず、妹はどこかへ遊びに出ているらしい。なんとなく、顔色が悪いような気がするが、病気だと思うからかもしれない。
「あがってもいい?」
「え。――ああ、いいよ」
 足もとを見たまま、入れてくれた。
 いつも遊ぶ居間に座って、ずっとききたかった質問を切り出した。
「なあ、あいつのところで何かあったのか?」
「べつに」
「でも、何か言われたんだろ?」
 均はあまり言いたくなさそうだったが、なんとか聞き出した。それによれば、荒木の家では、とくにこれという出来事はなかったそうだ。荒木に、学校のようすや、小学生のあいだで流行(はや)っているゲームやマンガについて、あれこれと訊かれた。均はそう説明した。
「でもさ、ほんとに何もなかった?」
 疑うというよりは心配から出たことばだったが、この質問に均は珍しく声を荒らげた。
「何もないってば。しつこいな」
 目が赤かった。
 あの件についての話題は、もうこちらから切り出すことはできなくなった。
 ただ、ふだんはおっとりしているが、ときどき何かのきっかけでかっとなる性格は変わっていないようなので、それだけは少し安心した。

 二日三日と経つうちに、だんだんもとの均に戻っていくように感じていた。
 放課後、下校時刻まで校庭に残ってサッカーをすることもあったし、早めに家に帰って、一緒に宿題をやったりもした。暗黙のうちに、あの日のことはなかったことにできそうな気がしてきた。
 でもそれはやっぱり、そうなって欲しいという願望だったのかもしれない。ときどきふっと気が抜けたような顔つきになるし、ほとんど柊平の目を見ることがない。荒木に、よほど脅されたかきつく説教されたのだろう。
 均の家には父親がいない。両親が離婚したかららしいが、それ以上の詳しいことは知らない。こちらから訊いたことはないし、知りたいと思ったこともない。
 ただ、柊平にとって、最初の父親にしろ今の父親にしろ、家にいられて楽しい存在ではない。だから本気で均に「おまえのうち、せいせいしていいな」と言ったことが何度かある。均は照れたような顔をしていたが。
 なんとなく、均は父親にしかられた体験がないのではないか、という気がしている。それを、あの荒木という男にきつく絞られて、ショックだったのではないか。きっとそうに違いない。自分だったら、言葉で説教されるぐらい、宿題の漢字書き取りよりずっと気楽だ。暴力を振るわれていないなら、自分が代わってやればよかった――。
 でも、それはもう済んだことだ。
 今、目の前にある、心に重くのしかかっている最大の問題は、「弁償」の一件だ。『確認書』偽造事件だ。
 荒木は、本当に修理代を請求してくるだろうか。請求されるとしたら、いくらぐらいだろう。
 三千円や五千円ぐらいなら、なんとか口実をでっちあげて、母親から「借りる」という形にして、()(づか)いや来年のお年玉で返せそうだ。だけどもしも、一万円、二万円、それ以上だったらどうする? 
 母方にも父方にも、親戚の数は少ない。ほんとうにいないのか、単につき合いがないのかよくわからないが、とにかく親に内緒でお年玉を前借りしたりできるあてはない。道路に落ちている財布でも探すほうが現実的だ。
 荒木が、次に連絡してくる方法も気になる。また学校経由なのか。郵送か。まさか、直接家にやってきたりはしないだろうな――。
 仕事を終えた母親が、買い物などを済ませて帰宅するのは、六時半、もしくはもう少し遅い時刻だ。最近は、よほどの理由がないとそれより早かったことはない。
 だからこの一週間、柊平はかならず六時半より前には家に戻り、来訪者の形跡がないか調べ、郵便物にも目を通すようにした。
「最近、郵便物をテーブルに置くのは柊平でしょ」
 母親に突然言われたときは、言葉に詰まった。
「ああ、うん」
「何か探してるの?」
 母親は、ぼおっとしているようで、意外に鋭い。ただ、具体的に何か疑っているわけではなく、率直な疑問として訊いているようだ。
「ええと、そういうんじゃなくて。――雑誌の懸賞が当たってないか、気になって」
「懸賞? やたらと変なものに応募しないでよ」
 とにかく、均のことをのぞけば、最大の心配ごとは荒木からの連絡だ。
(つづく)

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