〈十五少女〉伊田知リンの場合(前篇)/小説:円居挽
文字数 15,634文字

街と歌、現実と虚構、セカイとあなたーー
15人の仮想少女が【物語る】ジュブナイル。
エイベックス / 講談社 / 大日本印刷による
音楽×仮想世界プロジェクト『十五少女』の開幕前夜。
これは、5人目の少女の物語ーー
1 友達の死、憂鬱な日
おととい友達が死んだ。ボクの目の前で飛び降りて。
彼女の死の理由について答えめいたものはあったが、ボクはそれを誰かに話すつもりはなかった。そもそも上手く説明できる気がしない。
頼まれている楽曲制作の〆切が迫っているのに何もやる気がしなくて、今日はずっと部屋で天井を眺めていた。それでいて自分がどこで間違えたのかをずっと考えてしまう。
今日はあの子の告別式らしい。だけどボクは顔を出す気にもなれず、自宅で引きこもっている。不登校歴は長いから今更サボったところで誰も何も言わないだろう。
今、ボクの胸にある感情を言語化しようと思ってもなんだか上手くいかない。悲しいのとは少し違う。多分、虚しいの方がやや近い。
ああ、そうか。ボクは自分がまともな人間になれる証明が欲しくて、あの子と友達になりたかったんだ。そしてあの子の死で、むしろボクがまともでないことが証明されてしまった。
ボクがもう少しでも察しがよければ……いや、いくらかでも冷静だったらあんなタイミングであの子と会うこともなかった。でもそれはボクがボクである限り、不可能な気もするし……。
いくら考えたところで答えは出ない。そして自分がひどくお腹が空いていることに気づいた。時計を見ればもう14時過ぎ、そういえば昨日の晩から何も食べてなかった。
……とりあえず何か食べに行こう。
作り置きのご飯なら冷蔵庫を漁れば出てきそうだが、そんなもので元気が出るとは思えない。ボクは身支度もそこそこに、おっかなびっくり外に出る。
気持ちいいほどの秋晴れだ。日光なんて、もやしのように暮らしているボクにとっては毒だけど、こんな日に外を歩くのは何かの自傷行為みたいで丁度いい。
こういう時はハンバーガーかパスタ……いや、ステーキでもいい。
それでも脳と胃袋は欲望に正直なもので、ボクの足は飲食店の多い駅前の繁華街に向かっていた。夕方以降にこの辺を歩いてると中学時代の同級生に出くわしそうで厭だけど、同級生とエンカウントする危険の少ない平日の昼だって運が悪いとおまわりさんに補導されそうになるからあまり好きじゃない。けれど誰の注意も引きたくなくて気配を消して歩こうとすればするほど挙動不審になるのが陰キャの悲しいところだ。
次の瞬間、ボクは硬直した。同じ高校の制服を来た女子がこちらに歩いてくるのに気づいてしまったからだ。万が一、知り合いだったらどうしよう。
祈るような思いで女子生徒の顔を見る……よかった。全く知らない人だ。
だがボクの目は釘付けになった。清楚な黒髪ロングで、透き通るような白い肌。そして人形みたいに整った顔立ち。同性なのに見とれてしまった。この人からはどんな匂いがするのだろうと無意識に思い、すれ違う瞬間に目を閉じて嗅覚に意識を集中させる。
微かな死の匂い……というか線香の匂いがした。
なんで?
納得がいかなくてつい振り向くと、彼女もボクの方を見ていた。厭な予感がしたけれど、ばっちり目が合ってしまっている。今更逃げられない。
「……もしかして竹虎レオナさん?」
抑揚を欠いた、けれども綺麗な声。これまで聞いたことのない種類の声だったからもっと聞いてみたくなって、ボクは彼女の問いかけに答える。
「そうですけど……あなたは?」
「特進二年の伊田知リン」
2 突然の出会い
特進の二年生が普通科の一年であるボクに何の用だろう。そもそもボクは学校に出てないから面識もない筈なのだが。
「さっきまで一昨日亡くなった灰谷エナさんの告別式があって」
「ああ……」
灰谷エナ……死んだ友達の名前だ。いや、向こうはどう思ってたのか解らないけど。
「今日は学校を休んで出席してきたの。生徒代表でね」
ああ、だから線香のような匂いがしたわけか……それに制服は学生の正装、全て腑に落ちた。でもエナ絡みで認識されているのなら絶対にロクでもない用件だ。
「だけどエナとは学年が違いますよね?」
「私は生前の灰谷さんからいじめについての相談を持ち込まれていたから、その縁でね」
「でも赤の他人ですよね? そういうの、例えば生徒会とか先生たちに相談するべきじゃないんですか?」
ボクも学校行ってないから詳しくないんだけど。
「生徒会に頼みに行ったらすげなく断られたんだって。だったら私がやるしかないでしょう」
「だったら」の意味が解らないけど、その佇まいと受け答えから彼女の学校での立ち位置(カースト)が見えた気がする。美人で優等生、周囲からは慕われていて、悩みの相談も受けるだけの余裕がある……陰キャで不登校のボクとは対極に位置する存在だ。
「そもそもどうして告別式に? そのぐらいの縁で、学校を休ませて貰えるんですか?」
「申し出てみたらあっさりと認められたの。学校としても生徒の代表として私一人が出てくれるなら助かるみたいで」
エナがいじめられていた件はもう把握しているようだ。
「……悪いですけど、ボクはいじめに関与してませんよ。そもそも登校してませんし」
これは本当だ。そもそもボクはエナが受けていたといういじめに全く関与していない。
「うん。それは知ってるし、生前の灰谷さんからもあなたの名前は出なかった」
「それじゃあ……」
「だからこそ知りたいの。灰谷さんがあなたの目の前で身を投げた理由を」
リンは遠くに見える、駅の歩道橋を指さしてそう言った。
この人はボクを糾弾しようとしている……そう思った途端、ボクは饒舌になった。
「伊田知先輩……確かにエナは一昨日の夕方、あそこの歩道橋の上から飛び降りました。でもボクが力尽くでそうしたわけでもなく……本当に突然飛び降りたんです。目撃者だっていましたし……」
饒舌になったからといって人と喋るのに慣れているわけではない。ボクの本心が伝わったかどうかも解らないまま、一度黙り込むことで伊田知先輩に会話のバトンを渡す。
「勘違いしないで。私はあなたを灰谷さんを殺した犯人として告発したいわけじゃないの。ただ彼女が死を選んだ理由を知りたいだけ」
淡々とそう告げる伊田知先輩に少し反感を覚えたのはその態度が探偵みたいだったからだ。事情聴取で連れて行かれた警察署の人たちの方がまだ人間味があった。
「伊田知先輩はエナと知り合ってどれぐらいですか?」
「まだ一月ぐらいかしら」
「ボクは二年半です。それでも伊田知先輩よりずっと長いです」
「そう……」
まるで他人事のように言う。エナに対して深い思い入れを持っている人には見えない。
「ボクがエナの死んだ理由を知っていたとして、どうして部外者同然の伊田知先輩に教えないといけないんですか?」
偽善者。本当はエナの死なんてどうでもいい癖に誰かの死を悼む自分に酔ってるんだろう。それとも悪趣味な好奇心か。どっちにしたってロクなもんじゃない。
これ以上、この人と話すことなんかない。
伊田知先輩の背後に視線を向けると、丁度横断歩道の青信号が点滅しているところだった。それを見て、ボクは咄嗟に横断歩道を駆け抜けた。
「あ……」
そんなこと言いそうなキャラでもないのに伊田知先輩の声が届いた気がする。
ここらは駅前の道路の中でも特に交通量が多いところだ。今から伊田知先輩がボクを追いかけようとしても車の激流に阻まれる。そしてボクは悠々と逃げきれる。
しかし引きこもりの身に急なダッシュは酷すぎた。息が上がってしまい、ボクは少しだけ休憩するつもりで膝に手をつく。どうせ信号が青になるまではまだ時間がある。伊田知先輩はボクがどこかへ行くのを指を咥えて見ているしかない筈だ。
自分の勝利をこの目で確認したくて息を整えながら振り向くと、信じられない光景がボクの目に飛び込んできた。
最初、赤信号に行く手を阻まれた伊田知先輩はまっすぐ立っていた。だが先輩はまるで目の前の道路に身を投げるように倒れ込……んだかと思った瞬間、地を擦るような低い体勢で駆け出した。見たことのない疾走法だけど自重を利用して加速しているのだろうか。いや、走り方なんてどうでもいい。今、伊田知先輩は車の行き交う赤信号の横断歩道の上を全力で疾走しているのだ。おそらくは逃げたボクを捕まえるべく。
刺すようなクラクションの音やタイヤの焦げる匂いまで伝わってきそうな急ブレーキの音がボクの耳の中で暴れる。しかし伊田知先輩は依然として無傷だ。理論上は充分なトップスピードさえ維持できれば、赤信号だろうが車の波を上手く避ければ駆け抜けることはできる。だけどこんなのは銃弾が飛び交い、地雷が埋設されている戦場を駆け抜けるのと同じだ。
そんなワンミスが即死に繋がる状況にもかかわらず、伊田知先輩は戸惑うことなく足を動かし、迷いなくコースを選ぶ。まるで自分が死なないことを知っているかのような確信ある動き。あるいは自分が生存できるコースを見えている人間の動き……ルールを破っている点はまったく褒められたものではないが、動きの美しさに魅了されていた。
そもそも伊田知先輩はルールを破りそうな人には見えない。そんな先輩が出会ったばかりのボクのためにルールを破っている……それも自分の命まで懸けて。先輩の行動は、万言を費やしても消えない人間不信を忘れさせてくれた。ずっと一人ぼっちで、すっかりひねくれてしまった心がまともに戻った錯覚さえあった。
だからボクは横断歩道を無傷で駆け抜けた伊田知先輩が、犯人を確保するようにボクの右腕を掴むのを黙って眺めていた。きっと刑事の見事な追跡に魅せられて投降してしまう犯人も世界のどこかにはいるのだろう。先輩が走り出してボクを捕まえるまで、時間にしてほんの数秒だった筈だが、まるで永遠のように感じられた。
「待って」
伊田知先輩のその声で永遠が終わり、再び時が動き出した。
疑問は沢山あった。どうしてこんな危険を冒したのか。どうしてあんな身のこなしで車を避けられたのか。どうしてそこまでしてエナの死の理由を知りたいのか……。
「……どうして?」
こう口にするしかなかった。こんな一言で知りたいことが全部訊ける筈もないのに。
伊田知先輩は事もなげにこう言い放つ。
「何度死んでも構わないから……それでもあなたと話がしたくて」
クラクションの残響がまだ耳で響く中、その声ははっきりと聞こえた。
解らないことだらけの中、ただこの人がボクを追ってきたということだけは解る。
自分の都合で交通ルールを破るような、本来話をしてあげる筋合いもない人に、どうしてこんなに憧れてしまうのだろう。
3 出会ったばかりの先輩とファミレスに行く
「伊田知先輩は何か食べないんですか?」
あれでさよならというのも違う気がして、伊田知先輩をすぐ近くにあったファミレスに誘った。流石に真面目そうな先輩には断られるかと思ったけれど、「いく」と快諾してくれた。
ボクはお腹空いていたのもあって、ハンバーグセットにした。しかし何も食べていない人間の前で無邪気にハンバーグを頬ばるのには抵抗がある。せめて伊田知先輩がデザートでも食べているだけでかなり違うのだけど。
「私はいいの。食べるのそんなに好きじゃないし……」
伊田知先輩はドリンクバーだけ注文して、今はメロンソーダを無表情で飲んでいた。紅茶しか飲まないような顔して何そのギャップ……いや、まるで燃料のように口にしている。アンドロイドみたいだ。
いや、もしかしたらお家が厳しいのかもしれない。だとしたら、こんな機会でもなければメロンソーダなんて口にできないのも納得できる。
「ボクだけ食べてるのもなんか馬鹿みたいじゃないですか。奢りますから何か頼んで下さい」
「そう? だったら……バニラアイスにしようかしら」
メニューでは一番安いデザートだ。財布的には助かるが、本当に義理で頼んでいる感じがして愉快ではない。
タッチパネルをぺたぺた触りながら注文をしている伊田知先輩を眺めながら、ボクはこんなことを訊ねる。
「誘っといてなんですけど、優等生っぽい先輩が放課後にファミレス来ていいんですか?」
「放課後って学校がある日の話でしょう。私、今日は休みだから」
いや、こんな時間に制服着てファミレスに来てることを言ってるんだけど……。
ボクの中で伊田知先輩の印象が「クールな優等生」から「不思議ちゃん」にシフトしつつある。それと普通に喋れているように見えるから勘違いしてしまうけど、多分この人も口下手な方だと思う。
「それで、どうしてあんなことできたんですか?」
「何のこと?」
「あんな危険な赤信号を渡りきったことですよ」
ただの不思議ちゃんには車列を縫うようにして駆け抜けるなんて芸当は不可能だ。
「それは動機を訊いているの? それとも何故無事だったかを訊いているの?」
「可能ならどちらも」
伊田知先輩は一瞬だけ眉をしかめた。
「説明は苦手なんだけど……どちらか一つにしない?」
説明が億劫らしい。だけど『エナの死の理由』というカードを握っているのはこちらなのだ。
「いえ、是非どちらもお願いします。ボクが納得できないと、エナのことも話せないと思うので」
「まあいいわ。結局は繋がっているし。でも全てを話したら、あなたにも灰谷さんのことを話してもらうのが条件。それでいい?」
ボクは肯く。
「よかった。その前にちょっとおかわりを入れてくるわ」
伊田知先輩はそう断って席を立った。ボクは「結局は繋がっているし」という言葉の意味を考える。
エナの死の理由を知りたい気持ちと命がけで車を避けることに直接の繋がりがあると言われてしまうと、もの凄く気になる。というか見当もつかない。
例えば伊田知先輩が生前のエナのことを凄く気に入っていて、別に後を追っても構わないぐらいに思い詰めていたら……まあ、そういうこともあるかもしれない。ただ、エナが伊田知先輩に惹かれるならともかく、逆はどうだろうか。それに出会って一ヶ月だ。そういう結び付きが生まれる前にエナが死んでしまったと考える方が自然だろう。
あ、でも……もし伊田知先輩がエナのことを本当に好きで、後を追おうと考えているのなら……ボクが本当のことを言ってしまったら死んでしまうかもしれない。もしそうなら、伊田知先輩に真相を教えるわけにはいかない。
あれ、どうしてだろう。ボクは会ったばかりの伊田知先輩のことをこんなに真面目に考えている。
「どうしたの?」
いつの間にか伊田知先輩はテーブルに戻ってきていた。考え込みすぎて何も気づかなかった。
「いや、ちょっと考え事を!」
消失していた感覚が恥ずかしさと共に一気に戻ってくる。今はもうメロンソーダの泡が弾ける音まではっきり聞こえる気がした。
「じゃあ、説明するわね。そうね、まずは私が赤信号を無視しても無事だった理由だけど……あんなこと、その気になればあなたにだってできない?」
なんでボクが質問されているんだろう。そんな気持ちをグッと呑み込んで回答する。
「そりゃ……できるかもしれませんよ。でも危ないじゃないですか。接触したり、跳ねられたりする確率も決して低くはないでしょう。3%か30%かは解りませんが……」
「でも跳ねられるぐらいなら平気じゃない?」
「厭ですよ!」
伊田知先輩は事もなげにそう言ってのけるが理解できない。跳ねられるだけならまだ生存の可能性はあるが、あんなところで跳ね飛ばされたらほぼ確実に轢かれる。まあ助からないだろう。
そんなことを口にしようとしたら、店員さんがバニラアイスを運んできた。流石のボクも店員さんの聞いているところでこんな話を続けるつもりはない。
4 先輩はクール系? それとも不思議ちゃん?
ボクは店員さんが遠くに行くのを見届けて、伊田知先輩にこう切り出した。
「……じゃあ、なんですか。伊田知先輩は恐怖のネジが壊れているからあんなことができたってことでいいんですか?」
「誤解しないでほしいのだけど、私だって痛いのは厭よ。ほら、脈をみて」
伊田知先輩はボクに向かって右の手首を差し出してくる。華奢で白い手首……ボクはドキドキしながら伊田知先輩の血管に触れる。
「いつもよりも脈拍が速い」
いや、全然解らない。そもそも普段の脈拍知らないし。というか普段他人と肉体的接触がないから、動揺と興奮で自分の脈拍が上がりっぱなしなんですよ!
ボクは慌てて伊田知先輩の血管から手を離す。伊田知先輩は自分の血管を撫でると、バニラアイスの皿に手を伸ばす。
「きっとあの場を無傷で切り抜けたことで少し高揚しているの。だから普段はやらないこんなこともしちゃう」
そして伊田知先輩はバニラアイスの塊をメロンソーダに投入した。
「メロンソーダアイスって糖分過多なデザートよね。栄養バランスも悪いし。でも嫌いじゃない」
そう言いながら伊田知先輩はスプーンで削り取ったバニラアイスを頬張る。その様子をボクはしばらくぼんやりと眺めていたが、ほどなく伊田知先輩にペースを握られていることに気づいた。
「話を戻しますよ。伊田知先輩は死のリスクを承知した上で、敢えて赤信号の横断歩道を渡りきったと……どうしてそんなことができたんですか?」
「何度死んでも構わないから……」
またそのフレーズ……さっきは痺れたけどこうやって差し向かいで聞くと、なんだか恥ずかしい。というか気に入ってるのだろうか。だとしたら少し中二病なのかもしれない。
「どうやったら信じてもらえるのか解らないけど、私は永遠に17歳を繰り返すことになったの」
そっち系かー。
もう不思議ちゃんや中二病の域は軽く超えてしまったけど、一応話を聴くことにした。
「あの、17歳を繰り返すってどういうことですか?」
「文字通りの意味よ。私は17歳になった瞬間から18歳になるまでをずっと繰り返す……いえ、より正確に説明すると、死ぬことでいつでもリセットをかけられると言った方がいいのかも」
ああ、ループ系ね。アニメや漫画ではおなじみのやつ。
「ええと……伊田知先輩は死んだらいつでも17歳の誕生日に戻れるってことですか?」
苦し紛れの相づちのつもりだったけど、伊田知先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった……伝わった」
「別に納得したわけじゃないですけどね?」
「そう……」
伊田知先輩からスンと微笑みが引っ込んだ。そんな顔をされるとなんだかこちらが悪人になった気がする。
「いやいや、そのループ設定が本当だとしても受け入れられないことが多すぎますよ。まず死んだらリセットされると言われてもボクだったら死ぬの厭ですし、命をかけてエナの死の理由を訊きにくるのも理解できません」
「ああ、そうだったわね。灰谷さんの件について説明しないと」
メロンソーダに浮かべたバニラアイスを半分以上食べた伊田知先輩は、残りのアイスをスプーンで崩してメロンソーダの中に溶かしてしまった。
「確かにあなたの言う通り、灰谷さんは私にとっては知り合って間もない、赤の他人かもしれない。けどね、人間関係ってそんな単純なものじゃないの」
そう言われてしまうと、不登校で人間との繋がりがあまりないボクとしては何も返せなくなる。
「私に灰谷さんを紹介した人はね、彼女の自殺で今ひどく落ち込んでいる。ううん、それどころか自殺してしまった灰谷さんを私に紹介したことも申し訳なく思っている様子だった。引け目から私を避けるようになるかもしれないし、もしかすると学校にさえ来なくなるかも……だけど、それは私の望むところではないの。だから次のループでは灰谷さんが自殺しないように、その原因を取り除きたいの」
あっ、この人マジで言ってる……。
この世には自分で心から信じていないと言えない言葉があると思う。今の伊田知先輩のがそれだ。
「もう少し説明するとね……私は人間関係を積み木みたいなものだと思ってるの。自分からそう遠くないところにいる人間でもいなくなると、そこから崩れるの。だからたとえ直接の知り合いでなくても灰谷さんの死を阻止することで私の人間関係……私の世界を保守したいの」
自分の世界を保守する……だからエナの死の原因を知り、次のループでは確実に取り除く。にわかには受け入れがたいが、それなら伊田知先輩の不可解な行動に説明がついてしまう。
「勿論、今回のループでは灰谷さんを助けることはできない。でも次以降のループでは助けたいの。だからあなたから真実を聞いておきたい……これで納得できた?」
伊田知先輩の次回以降のループではエナが死なない世界になるわけだ。そういう世界が発生することに救われたような思いがないと言ったら嘘になるけど、最低限の常識を持った人間なら簡単には口にするべきではない言葉がある。
「一応納得はしましたが、全て受け入れるとは言ってません。だからエナの死の理由についてはまだ話せません」
「どこが受け入れられないの?」
「そもそも突拍子がなさすぎるんですよ。伊田知先輩は当たり前のようにループ能力を手に入れたって言ってますけど、まずはそこからなんですよ。そんな特殊能力、貰えるものならボクだって欲しいですよ」
「……貰えるよ」
伊田知先輩がポツリとそう口にした。何気ない口調だったが、それがかえって真実味を帯びさせていた。
「貰えるんですか?」
「大人バスのことは知ってるよね」
大人バス。それはボクたちの世界に存在する儀式のようなもの。子供はある日、大人バスに乗ることで大人になる。好きなタイミングで乗れるわけではないし、その日がいつ来るのかは全然解らない。でもその時は確実に来るし、乗ればもう子供ではいられなくなる……ボクが大人バスについて理解しているのはそれぐらいだ。
「知ってるというか……知らないけど知ってるって状態ですよね。みんなそうでしょうけど」
大人バスにまだ乗っていない子供に大人バスについて教えるのは法律で禁止されている。みんな罰則が怖いのか、街の酔っ払いさえ大人バスについて口を滑らせるということはない。だからボクたち子供は大人バスのことを憶測で語るしかできなかった。
「確かに。私だって大人バスのことは特に知らない」
「じゃあ、なんで訊いたんですか」
「必要なことだから」
そして伊田知先輩は笑いもせずにこう続けた。
「大人バスのことは今でも知らない。それでも、きっと私が乗ったのは大人バスだったんだと思う。そして願いを叶えてくれた……」

5 大人バスって何?
伊田知先輩との最初の面会はそこで終わった。伊田知先輩の塾の時間が迫ってきたからだ。ボクの方でも情報を整理するのに時間が必要という状態だったので、翌日以降に仕切り直すということで連絡先を交換して別れた。
願いを叶えたという大人バス……謎だらけだけど、できることからやらなくちゃ。
そしてボクはファミレスから帰宅して、すぐに伊田知先輩が乗ったという大人バスのことを調べ始めた。まず最初にざっくりとインターネットで調べたのだが、いわゆる大人バスについての憶測ばかりで探せる気がしなかった。
ボクは次にSilicaで調べることにした。すると今度はそれなりに手応えがあった。勿論、SNSなんてユーザーがめいめい好き勝手につぶやくものだから、まとめるのに骨が折れたけど……。
数時間調べた結果、大人バスが願いを叶えたという都市伝説はおおよそこんな感じの話だった。
・ネットで信じられている都市伝説。いつからあるのかは解らない
・その大人バスに乗ると望んだ世界に運んでくれるらしい
・乗車資格は大人バスに乗りたくない気持ちがあること?
・乗車賃として何かを差し出す必要アリ?
Silica上でそんな大人バスの話をしているのは中高生までで、子供向けの都市伝説という感じだ。それこそ学校の七不思議レベルのやつ。つぶやきの中には願望ベースで語られているものも散見され、大人バスに関しては互いに矛盾する情報も結構あった。そういうノイズをざっくりとキャンセルすると、伊田知先輩が乗ったという大人バスとはフィクションによくある「乗れば願いを叶えてくれるバス。だけどその代償は……」的な設定の都市伝説らしかった。
大人たちが言うに大人バスは「その時が来たらそれに乗るべきだと解る。日本に住んでる大人は誰でも乗っている」そうだけど、彼らが詳細を隠すせいで子供たちの間ではかえって不可思議なものとして扱われている。そしてだからこそ変な噂が生まれることを止められないのだ。
多分、現実に大人バスの話をしている学生たちから話を聴くのがいいんだろうけど、生憎ボクにはそんな友達もいないし、そういう人を紹介して貰えるアンテナもない。ひとまずボクにできる調査はここまでだろう。
ただこの大人バスにまつわる都市伝説がどういうものなのか、更に言えば実際にあるのかということはひとまず置いといてだ。そういう願いを叶える系の都市伝説を信じてしまうのって、どこかで現状に不満を持ってるタイプの人間だと思う。でも伊田知先輩は持っている側の人間だ。優等生だし、美人だし、あのダイナミック赤信号無視を見る限り運動神経も悪くない……そういう人間がそんな馬鹿げた噂を信じていることに違和感がある。
ボクには見えてない部分で不満を抱えているのか、それとも本当に乗ったのか……。
ボクはやるべきこともやらずにずっと馬鹿な都市伝説を調べていた自分に気がついて愕然とした。そしてその理由に思い当たって更に驚いた。
そうだ……ボクは誰かから興味を持ってもらえて嬉しいんだ。そして伊田知リンという人のことがどうしようもなく気になっている。不可解な言動はあっても、それを理解したいと思っているからここまで夢中になっていたわけか。
いや、なんのことはない。エナがいなくなったことで、ボクは一人で生きる心細さのようなものを意識し始めたのだろう。そんなボクの前に現れたのがたまたま伊田知先輩だったというだけで……ああ、自分のチョロさに腹が立つ。
いや、腹が立っているのは伊田知先輩にもだ。仮に伊田知先輩がその大人バスに乗って永遠の17歳を願ったとして……どうしてそんなことを願うんだろう?
ボクやその辺の高校生とは違って伊田知先輩はきっと望んだら何にでもなれる人間、可能性の塊だ。でも17歳で居続ける限り、伊田知先輩は何者にもなれない……。
そして人間は配られたカードで勝負するしかないとはよく言われるし、ボクだってそうしてきた。なのに先輩は恵まれたカードを持っている癖に人生から降りようとしている。
真面目に考えてみたら随分と人を馬鹿にした話だ。持てるカードを全部使って、自分で自分の居場所を作るしかなかったボクから見れば伊田知先輩のそうした態度は人生や人間を舐めているとしか思えなかった。
エナだって、それができなかったからああなったのに……。
気がつけばもう深夜、お風呂に入って寝た方がいい時間になっていた。ボクは未練がましくSilicaで大人バスを調べる。すると思わぬ大物がかかっていた。
ねえ、大人バスの乗ったら願いが叶うって噂を知ってる人いる?
友達が騙されて変なところに連れて行かれていないか知りたくて……情報が欲しいんだ。
素っ気ないつぶやきだけど投稿者はカグツチ市在住の有名人、モデルの辰見アクアだ。彼女ぐらいの影響力があれば、じきに様々な情報が集まってくるだろう。
それにしても……はたして大人バスへの情報統制は正しいものなのだろうか。大人たちは「大人バスのお迎えはその時が来たら確実に解るから」と言って誤魔化すけれども、現実的には解らないのだから、誘拐に使う悪人だって出てくるだろう。というかきっといる筈だ。考えるだけで厭な気持ちにあるけど、辰見アクアのつぶやきに出てきた"友達"もどこかに誘拐されて、今頃大変な目に遭っているのではないだろうか……。
もしかしたらリン先輩が乗ったという大人バスも、そうした偽の大人バスだった可能性がある……いや、でもリン先輩は無事に帰ってきているっぽいし、変な目に遭ったわけでもなさそうだ。だとするとそんな都合のいい大人バスというのは本当に存在しているのだろうか?
……駄目だ。今日は色んなことがありすぎて脳がオーバーヒートしてる。今夜はもう寝て、起きたらアクアへのリプライをじっくり漁ろう。
6 先輩との距離感
人間の感情ってどうしてこう複雑な味がするんだろう。
現役女子高生モデルのアクアにはそれこそ老若男女関係なしにファンがいる。しかし大人バスの真実を問うアクアへのリプライは、アクアを心配するものばかりで、ボクやアクア本人が望んでいるような情報なんてどこにもなかった。その全てに目を通したボクが言うのだから間違いはない。沢山の人間の感情を浴び続けて疲れたボクはスマートフォンを投げ出して、ベッドに転がった。
そんな理由でふて寝していたら通知音に起こされた。寝ぼけ眼で見れば「今から会える? 塾があるからそんなに長い時間は取れないけど、少しの間でも散歩しながら話さない?」という伊田知先輩からのメッセージだった。
もう放課後か。というか昨日の今日で声をかけてくるとは思わなかった……正直、ああも人生を舐めている人間に積極的に会う気はしないが、これで縁を切るにしても会って断りをいれなければならない。
ボクは寝直すかを少しだけ迷った後、「大丈夫です」と返事を送って外に出る支度を始めた。
「レオナさん、考えは変わった?」
散歩を始めてすぐに伊田知先輩にそんなことを言われて、ボクは声を失いそうになった。
「あの、今なんて?」
「さりげなく呼んだつもりだったのだけど、気がついた?」
「流石に気づきますよ。関係性のギアチェンジが下手くそです」
「駄目か……物の本には『下の名前を呼ぶことで親しい関係に移行できる』とあったから実践してみたの」
もっと下手くそか! この人、思ってること全部言っちゃうタイプ?
しかし複雑な気持ちだ。伊田知先輩がボクと親しい関係になろうとしてくれていること自体は嬉しいが、それもエナの死の理由を聞き出すためだと思うと素直には喜べない。
「ねえ……せめて私のことはリンって呼んでくれない?」
これは伊田知先輩なりの譲歩なのだろうか。
「いや、あの、レオナと呼んで駄目とは言ってないんですけど」
「じゃあ、レオナ」
やっぱり下手くそか! 呼び捨てでいいとまでは言ってない!
いや、この人の方が先輩だからおかしくはないんだけど。距離の詰め方がバグってる。
「……リン先輩、昨日あれから大人バスについて調べたんですけど」
ただ『リン先輩』とだけ呼ぶのが気恥ずかしくて、つい大人バスの話題を繋げてしまった。
「リン先輩は大人バスに乗った人ということで間違いないんですか?」
「ええ、乗ったわ。だから永遠の17歳になった」
「だったら願いを叶えてくれる大人バスって何なんですか? いくら調べても肝心なことが解らなくて……」
しかしリン先輩はかぶりを振る。
「残念だけど、私もそれ以上は教えられない。特にバスに乗った理由はね」
先手を打たれたようだ。そこが肝心なのに……何が代償で、どう願いが叶うのかが解ればリン先輩の心が見えるというのに。
「ところでリン先輩は、大人バスに乗りたくないんですか?」
Silicaで収集した大人バスの話に「大人バスに乗りたくない気持ちがあることが、大人バスに願いを叶えてもらう資格になる」というネタがあったことを思い出したので、駄目元でぶつけてみた。
「……そうね。乗りたいとは思わないわ。全くね」
「リン先輩は大人になるのが厭なんですか?」
「なるメリットを感じないから」
「でも大人になると色んなことができるようになるじゃないですか?」
ボクはまあまあ期待している。いずれは楽曲制作だけして生活していきたいし、好きに生きてみたい。それも大人になれば可能だ。
「それにリン先輩なら何にでもなれるでしょう?」
「大人みたいなこと言うのね」
リン先輩の整った眉の角度が急に上がる。ボクが何かの地雷を踏んだことだけは解った。
7 大人になんてなりたくないの
「……大人は『君たちは何にでもなれる』って口を揃えて言うけれど、そんなの絶対に嘘でしょ」
「え?」
「私たちが本当に望むような人間になれるのなら……こんなに問題だらけ世界になってるわけがない」
胸が痛くなった。この世界がもっと完璧ならボクもエナもいじめられる筈がなく、仮にいじめが発生してもちゃんとした大人たちがボクたちを守ってくれた筈だ。
「だから私はこう思ってる。どうせ大人なんて子供のなれの果て、大人は私たちに嫉妬して自分のところまで引きずりおろすために大人バスに子供を乗せるんだって。なれの果てから何を言われたって私の心は動かないし、信用しない」
リン先輩は学校でも家でも模範的な優等生だと思っていた。だけどその実、大人への不信感に支配されているなんて。
「だから私は大人バスになんか乗らない。この先、何度生きてもね」
リン先輩が大人バスに乗りたくない理由が少し見えた気がした。
「レオナ、私はこれでも結構自分のことを話したつもりなんだけど?」
暗に「お前も話せ」と言われている。ボクは覚悟して自分の中に曖昧に漂っていた気持ちの言語化を始めた。
「そうですね……今はもうリン先輩ほど大人バスへの拒否感がないかもしれません」
「今はもう、というのは?」
「多分、エナが死んだのはボクのせいです。ボクは間接的に人を殺したんだって思ったら、もう綺麗な子供のつもりでいるのは無理だなって。誰かに無理矢理にでも大人バスに押し込まれて『お前は明日から薄汚れた大人だ』って言ってくれるのを待っているような気持ちです」
リン先輩は顔色ひとつ変えずにボクを見ていた。そこには、同情も偽善もない。余計な優しさもなかった。彼女には表情が無いのではなく、嘘が無いのかも知れない。全部を話したわけでもないのに、随分と救われた気持ちになった。思えば家族にも警察にもこんなことを話したことはない。
「私が求めていたのは灰谷さんの死の真相であって、レオナの気持ちの変化ではなかったのだけど……今はそこまでが精一杯ということね」
「はい。まだ保留中です」
「そう。じゃあ、何をしたらその保留は解けるの?」
保留している理由をよく考える。「極めて個人的な当事者間の話だから言いたくない」というのはもう建前になってしまっている。結局、今残っているのは「一度でも話してしまえばボクはもう一人で強く生きられない」、それだけだった。ひとりぼっちだったボクはリン先輩のことを心強く感じ始めてしまっていることに気付いているのだ。
「そうですね……正直なところ、リン先輩が大人バスに乗ったのも、ループするようになったのも事実として受け入れてます」
というよりリン先輩が本当にそうなのかどうか、今のボクには確かめる術がない。だから信じてしまうことにした。
「だったら……」
「だからこそお話しするべきかどうか迷っているんです。リン先輩が次のループでエナを助けてめでたし……ならまだいいんですけど、それで終わりじゃないでしょう? リン先輩のゴールはなんなんですか?」
「それを知ってどうするの?」
「だって今のリン先輩、実質一人ぼっちじゃないですか。ループのこと知ってるの、ボクだけでしょう?」
ああ、そうだ。色んな人に囲まれる側の人間であるリン先輩が実は孤独ということにボクは安堵している。なればこそ、ぼっちのボクをリン先輩が選んでくれる理由を作ることができる。
「ゴール……ゴールね。言われてみたらちゃんと言葉にしたことはなかったわ」
リン先輩はしばらく無言で歩き続けた。やがて赤信号で足を止めると、答えが出たのか唐突に喋り始めた。
「私はこれから17歳をずっと繰り返す……だからループの度に私の世界をより完璧にしていきたいの。要らないゴミを取り除き続ければ、いつかは完璧な17歳に辿り着く……そう信じてるの」
またあの顔……本気で信じている顔だ。リン先輩が乗ったのが本当に都市伝説で語られている大人バスかどうかは解らないし、本当にループ能力を手に入れたのかも不明だけど、リン先輩自身は"そう"だと心から思っている。だったらリン先輩に対して大人バスの真相を問いただす意味はない。
「ボクは……リン先輩がそこまで言うのなら、エナの件をお話してもいいと思い始めてきました」
「……ありがとう。信じてくれてほっとしてる」
ただリン先輩が自分のループ能力を信じているというのなら、こちらもその前提で問いかけることならできる。
「でもこれだけは答えて下さい。もしエナが生きてたら、ボクがリン先輩と会うこともなかったと思います。つまり次以降のループでエナを助けたら、ボクとリン先輩はもうこんな風に過ごすこともないでしょう。リン先輩の言う完璧な17歳に竹虎レオナという人間がいないことをボクは残念に思います」
隣のリン先輩は何も言わない。だけど少なからず困惑しているのは伝わってきた。ボクだってリン先輩を困らせるようなことは言いたくないけど、彼女の本音を知るにはこうするしかないのだ。
「そういう前提でお訊ねしますけど……リン先輩はそれを残念に思ってくれますか?」
リン先輩は突然、足を止めた。
「ごめんなさい。もう着いてしまったわ」
そう言って指差したのは塾の看板、リン先輩の目的地だ。
「それとも……ボクも要らないゴミですか?」
「……今日はここでお別れしましょう。ちょっと早いけど、今日は授業の内容を予習しておきたいから」
だけどこれはリン先輩がボクの質問から逃げたようにも見えた。
「だから灰谷さんの話はまた今度でいいわ」
「そうですね。じゃあ、また連絡下さい」
メッセージは送り合える仲だけど、やっぱり自分から誘うのは怖い。そうした気持ちがこんな卑屈なことを言わせた。
だけどリン先輩はそんなボクの内心を知ってか知らずか、こんなことを言ってくれた。
「次に会う時までには、今の問いかけに答えられるようにしておくから」
大人にならないように、成長を拒み続ける。
子供でいられないから、適応を否定し続ける。
〈後篇〉は9月14日(水)公開予定です。