『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』 真梨幸子

文字数 17,578文字

イントロダクション

をお願いします」
 そんなことを言ったのは、K出版の担当、R子さんだった。もうかれこれ十年の付き合いか。
 R子さんの言葉がずっと引っかかっている。
「勝負作? 私はいつだって勝負作を書いてきたつもりですが」
 手を抜いたことはない。その都度その都度、心と体力を削って書いてきた。そう、「(つる)の恩返し」の鶴のように。(おお)()()だが、小説というのはそういうものだ。そのつもりがなくても、結果的に健康もメンタルもすり減らしてしまう。
 私の場合は、友人も減らしてしまった。
 小説家になる前は、旅行したり食事をしたり観劇したり夜通し長電話したりする友人が何人かいた。それが、今はゼロだ。(なか)(たが)いをしたわけではない。まるではじめから友人などいなかったように、携帯電話の履歴から消えていったのだ。
 携帯電話といえば、かろうじて残っていた履歴を頼りに、古い友人に電話をしてみたことがある。……ああ、そうだそうだ。引っ越しするときに、彼女から借りた本が数冊出てきたのだ。それを返そうと、電話をしてみた。電話に出た彼女は言った。「もう、住む世界が違うからさ。連絡しないでほしい」
 そのときは、「うん、わかった。じゃ、本はこちらで処分していいかな?」とだけ。特になにも感じなかったが、その数日後から、牛の(はん)(すう)のように彼女の言葉が繰り返し繰り返し飛び出してくる。そのたびに、口の中が苦味でいっぱいになるのだ。よくよく考えたら、あれは絶交の言葉だ。私、絶交されるようなことをしただろうか? ……したのかもしれない。小説家だもの。小説家というのは、知らず知らずのうちに、身近な人物をモデルにしてしまうものだ。あるいは、こちらにはまったくその気がなくても、相手に「これ、私のこと?」と勘違いさせてしまうものだ。そういえば、「ね、私の母親と同じ名前の登場人物がいたけど、うちの母親がモデル?」と、深夜に友人から電話がかかってきたこともあった。彼女の母親の名前なんか知らないし、本当に偶然だったのだけど、私は謝った。「ふーん、そうか。分かった」と友人は一応は納得してくれたけれど、それ以降、連絡はない。メールを送っても返事がないし、年賀状も途絶えた。……こんなことは数えきれない。一時は、「友人がたくさんいて(うらや)ましい」とすら言われていたのに、今となっては、携帯の連絡先は仕事関係の人だけだし、年賀状もそうだ。その理由は、どう考えても、私が小説家になったからだ。
 仮に、私の友人に小説家になった人がいたとしよう。私ならどうするか。やはり、気になる。自分のことが小説に書かれていないか、作品が発売されるたびにチェックするだろう。そして静かにフェイドアウトするだろう。もっとも、小説のジャンルにもよるが。それが清く正しい児童向けの小説とか、または歴史小説やファンタジー小説ならば気にはしない。……いや、それでも気になるかもしれない。悪役が出てきたら、これもしかして私のこと?と。被害妄想かもしれないが、気になる。そして気になることに疲れ果てて、結局はその人からフェイドアウトする。
 小説家とは、そういう職業なのだ。周りから人が去っていく。「先生」なんて呼ばれることも多いが、とんでもない。その昔は、小説なんていうのは隠れて読むものだったし、いかがわしい職業だと見下されてもきた。の対極にあった職業なのだ。ドブネズミのようにいつでも食料(ネタ)はないか人の間を()いずり(まわ)り、ネタをみつけたらとことんしゃぶりつくす。身内でもネタになると思ったら利用しつくす。気に食わない人に()()ったらやはりネタにして、作品の中で殺す。……我ながら、いかがわしい職業だ。友人が去っていくのも当たり前だ。それなのに、「先生」だなんて。いったい、いつからそう呼ばれるようになったのか。
 いずれにしても、今の私には友人と呼ぶ者はいない。(はん)(りょ)もいなければ子供もいない。究極の「おひとりさま」だ。マンションの管理組合に提出する「緊急連絡先」になってくれる人すらいないのだ。
 でも、小説家になったことを後悔はしていないし、これから先も続けるつもりだ。マンションのローンもある。
 だから、どの作品も「これを最高傑作にしよう」という(せっ)()()まった思いで取り組んできた。そこまで気合を入れないと、この出版不況の中、作品を出し続けるのは難しい。そう、明日死んでこれが遺作となってもいいように、全力で執筆してきたつもりだ。
 だからこそだ。
「勝負作をお願いします」
 と言われたとき、なにか、ちくんと痛かったのだ。言われなくても、毎回勝負作を書いているつもりだ。それなのにそう言われるということは、それまでの作品が「勝負作」だと思われていない証拠だ。または、「今まで以上の勝負作を書かないと、あなたはもうヤバいですよ」という警告なのかもしれない。
 自覚はあった。年々、初版部数が落ちてきている。SNSのフォロワー数も少ない。次から次へと優秀な後輩が誕生し、自分の優先順位が落ちてきていることも薄々気が付いてはいる。
 そう、私は(しゅん)を過ぎた……いや、もっといえば終わりつつある作家なのだ。
 だからこその、「勝負作をお願いします」なのだ。最後(つう)(ちょう)なのだ。
 よし、わかった。それなら、さらなる勝負作を書こう!
 そう意識すると動けなくなるのが私という人間だ。昔からそうだ。期待しているとか頑張ってとか言われると、とたんに平衡感覚を失う。それまでできていたことができなくなるのだ。小学校のときの学芸会がまさにそれだった。主役級の役を与えられた私は、周囲から異様なほど期待されていた。そして、セリフがとんだ。というか、言葉を失った。一過性の失声症に襲われたのだ。数日は、「あーあー」としか言えない赤子のような状態に(おちい)った。
 現在、まさにその状態にあった。小説の書き方が分からなくなったのだ。パソコンに向かっても頭がぼぉぉとして、キーボードに置いた指は硬直して動かない。無理やりに文字を入力してみるが、その文字の意味が分からない。ただの記号にしか見えない。
 はてさて、どうするか。
 思考すらできなくなり、パソコンの前で地蔵のように固まっていたときだった。
 携帯電話が鳴った。
 叔父の(ゆたか)からだった。母の弟だ。数少ない私の(しん)(せき)なのだが、ずっと疎遠な状態が続いている。というか、避けられている。私が小説家になどなったものだから。声を聞くのはどのぐらいぶりだろう? 母の葬儀以来だから、十年ぶりか。
が、死んだよ」
 さっちゃんとは、母の妹だ。
 そうか、あの叔母もいよいよ、亡くなったか。
 といっても、ほとんど会ったことがない人だ。母の葬式には来ていたようだが、あまり印象にない。……というか、叔母さん、なんで死んだんだろう?
「それがさ……」
 叔父が()(よど)んだ。
 私の胃の下あたりがぐるっと鳴った。好奇心が(うず)いたときのいつもの現象だ。
 私は、携帯電話をスピーカーモードにすると、パソコンのキーボードに改めて指を置いた。
「ね、叔母さん、どうして死んだの?」
 私の体は、いつのまにか前のめりになっていた。
「ね、どうして?」
 私は、(つと)めて冷静に言葉を返した。が、その指はすでに激しく動きはじめていた。ディスプレイには、みるみる言葉が並んでいく。
 どうやら、私の()()な小説家根性にスイッチが入ったようだ。
「ね、叔母さんは、?」
「さあ。なんでだろう。なぜ、さっちゃんは、死んだんだろうな……」

氷と泡

一章

 (しん)()(じろ)(どお)り沿いのカフェ。
 ()()()()は、手にしていたティーカップを一度皿に戻した。
 そして、ウインドーの外をいつものように(なが)める。
 目の前には、四階建てのビル。ピンク色の外壁が相変わらず(まぶ)しい。
 その隣は、小さな公園。中央にポール時計がにょきっと()えているので、地元の人は「時計公園」と呼んでいるらしい。
 公園の前には、タクシーが三台、連なって()まっている。
 タクシーの運転手の一人と目が合う。メガネをかけた男だ。男が親しげに、微笑(ほほえ)んできた。
「やだ、なに、あの人」
 なにか気まずい感じがして、沙知はとっさにテーブルの上の雑誌(フリーペーパー)を手にした。誰かが忘れたものらしい。どうやら、不動産情報誌のようだ。(やみ)(くも)にペラペラと(めく)っていると、
「あ。……アイビーハイムだ」
 沙知の手が止まる。そのページには、都内X区の物件が、ずらずらと並んでいる。
「あのアパート、まだあったんだ……」
 背筋から、ぶるっと寒気が広がった。
 彼女は、二の腕をかき抱いた。

 沙知は、いわゆる「おひとりさま」だ。今年で五十七歳。
 今の生活に、不満はない。むしろ、満足している。こんなにな生活、なかなかない。なんのもなく、ふらふらとあっちに行ったり、こっちに行ったり。まさにノマドライフ。
 彼女は、そっと周囲を見回した。
 ランチ時間ということもあり、ほぼ満員だ。
 あ。
 知った顔を見つけた。がっしりとした体格の、二重(あご)の女性。大手広告代理店(ばん)(ぱく)(しゃ)のシバタさんだ。
 沙知は(とっ)()に声を上げた。
「シバタさん!」
 呼ばれて、シバタさんが警戒の姿勢をとる。その表情は、明らかに逃げ腰だ。
「ほら、やっぱりシバタさんだ! ……なんか、()せました?」
 シバタさんの()(げん)な表情が一瞬で(ゆる)む。「痩せました?」は、魔法の言葉だ。この言葉ひとつで、大概の女性は緊張をほぐし、満面の笑みになる。
「分かります? 実は、糖質カットをしているんですよ」
「ああ、それ、流行(はや)ってますよね! へー、こんなに効果があるんなら、私もやってみようかな」
「クガさんは必要ないですって。それ以上痩せたら、なくなっちゃいますよ」
 文字にしたら褒め言葉なのだろうが、その言い方にはひどく(とげ)があった。「なくなっちゃいますよ」、それは、どういう意味だろうか?
「そんなことより、クガさん、ここでなにを?」
「あ、ノマドワークってやつですよ」
「ノマドワーク?」
「家で仕事をするより、カフェとかのほうがはかどるんです」
「ああ、なるほど。……でも、こんなに混雑していたら、気が散りません?」
 シバタさんの言うとおり、さっきよりさらに人が増えてきた。ノートパソコンの時計表示を見ると、十三時前。トレイを持った人々がきょろきょろと席を探している。
 シバタさんの手にも、トレイ。アイスコーヒーが載っている。
「あ、隣の席、どうですか?」
 沙知は、()()に置いていた紙袋をどけた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて……」

「不動産情報誌を見ていたんですか?」
 シバタさんが、沙知の手元を見ながらそんなことを言った。ちょうど、X区のページが開かれている。
「X区ですか。いいところですよね。都心なのに治安もよくて、優良な学校も多い。なにより、職場から近いので私も(ねら)っているんですが、でも、お高くて……」
 シバタさんは、確か、子供が二人いたはずだ。先週、やっぱりこうやってばったりと出会ったとき、「下の子も小学校に上がったので、自分だけの部屋を欲しがっている。今、広めの分譲マンションを探しているところだ」という話をしていた。シバタさんの(だん)()さんもまた、広告業界で働いている。いわゆるパワーカップルだ。その気になれば、X区どころか、(みなと)区でも()()()区でも、マンションが買える身だ。なのに、いまだに賃貸マンションに甘んじているのは、(しょ)(せん)、家にそれほどの(こだわ)りを持っていないのだろう。
「どうせなら、熱海(あたみ)がいいな」
 シバタさんが、夢見るような(まな)()しで言った。
「熱海?」
「だって、熱海、今ブームじゃないですか」
 まさか。あの熱海が?
 シバタさんが、スマートフォンを取り出した。そして〝熱海〟と検索。
 すると。
「い、い、一億円?!」
 シバタさんが声を上げた。
 沙知は、そのスマートフォンを(のぞ)()んだ。そして、同じように声を上げた。
「え? 七十平米の部屋が、一億円を超えている!?」
「都心並みですよね」シバタさんが、肩を落としため息をついた。「確かこの部屋、新築時は五千万円だったんです。五年前のことです。今じゃ、その倍以上。コロナ以前からも、熱海はじわじわとブームが来ていたんですが、コロナで一気に来た感じです」
 とても信じられない。沙知は改めて、シバタさんのスマートフォンを覗き込んだ。
 以前は、心が(こお)りつくほど(さび)れていたのに。駅前の土産物屋街は、閑古鳥がないているか、シャッターが閉まっていた。
「熱海はなんだかんだ、(すご)いですよ」シバタさんが、(すべ)るような調子で言った。「東京の(おく)()(しき)(とく)(がわ)(いえ)(やす)のお気に入り……というのは、伊達(だて)ではありませんね。どことは言いませんが、バブル時にマンションがバンバン建てられた某リゾートなんか、一戸が十万円とかで投げ売りされていますからね。なんなら、お金を上げるからもらってほしい……というマンションまで。一時期、熱海もそんな感じでしたが、みごとに復活を遂げたようですね。それに──」
『お待たせいたしました。三番の札をお持ちのお客様』
 そんなアニメ声が背後から聞こえてきた。
 アニメ声とは裏腹の小太りの女性店員が、トレイを持ってこちらに向かっている。よく見る店員、さんだ。だって、ネームプレートに「せきぐち」とある。若い子が多い中、ベテランのオーラを出しまくっている。はっきり言って、このカフェでは浮いている。その()(わい)らしい制服も、なにかの罰ゲームのようだ。
「あ、それ、私!」
 シバタさんが、子供のように手を大きくふって反応する。
 小太りの店員の細い目が、ちらりとこちらを見た。
 そのトレイには、巨大なハンバーガー。店員の顔ほどある。
 店員が、ニコリと笑う。
 が、その目はどこか冷めている。
 その冷たさに、沙知は身を(すく)めた。


二章



 笑っちゃう。糖質カットダイエットをしている……と言った口で、ハンバーガーにかぶりつくんだから。しかも、ダブルスペシャルバーガー。バンズもお肉も増し増し。
 これだから、おばさんは……。
 たぶん、あの客、バブル世代。
 特に優秀でもないのに大手企業に就職して、いまだに居座り続けている。そう、ダブルスペシャルバーガーを(ほお)()っていた〝シバタ〟と呼ばれていたあのおばちゃんは、カフェ近くの大手広告代理店、万博舎の社員だ。給料もいいんだろう。なにが、熱海の億ションだよ。
 まったく。
 ほんと、あいつらのせいで、私たちがそのツケを払わされている。あいつらのせいで、私たちはずっと永久凍土の中だ。
 ああ、本当に、憎たらしい!

 関口祐子は、[!]キーを力任せに連打した。パソコンの画面にいくつも表示される〝!〟マーク。
 それでも足りなくて、
「ああ、本当に、憎たらしい!」
 と、つい叫びが飛び出す。
 が、すぐに口を右手で押さえた。また、壁ドンされたら、たまらない。
 壁ドンといっても、ロマンチックなほうではない。隣の住人に、壁をドンドンと(たた)かれるほうだ。
 昨日もやられた。
 しかも、
『うるせーんだよ! 静かにしろ!』
 と、()()られた。
 ああ、この安アパートときたら。
 出窓にロフトにフローリングのワンルーム。スペックだけ見たら、なかなかの部屋だ。でも実際は、壁も天井も信じられないぐらいに薄くて、右から左から上から下から、生活音が絶え間なく聞こえてくる。トイレを流す音はもちろん、冷蔵庫を開ける音、くしゃみする音、キータッチの音も。
 だから、たぶん、自分が出す音も漏れなく、隣人たちに届いているのだろう。特に右隣に住む人は、やたらと壁を叩いてくる。自分だって、いちいちうるさいくせに! テレビの音、もう少し落としてよ! 朝からずっと、つけっぱなし。もう、ほんと、頭がおかしくなる!
 祐子は、再び[!]キーを連打した。が、五回目でやめた。キーが、スポーンと飛んでいったからだ。
 毎回、ここで祐子は反省する。
「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい! もう乱暴なことはしません! だから、壊れないで!」
 この状況でパソコンまで壊れたら、目も当てられない。先日、電子レンジが壊れて、掃除機も様子がおかしい。その上パソコンまでダメになったら……。
 そう、祐子の生活はギリギリだった。
 派遣とバイトを掛け持ちしているが、収入は手取り十八万円ほど。でも、のせいで、さらに収入が減ってしまった。先月は手取り十万円しか稼げなかった。家賃の五万円を払ったら、残りは五万円。その五万円で光熱費と通信費と生活費を賄わなければならない。
 いわゆる。いや、貧困おばさんだ。
 でも、まだ、最底辺ではないという自負はある。
 だって、体は売っていない。
 そういうバイトに誘われたことは一度や二度ではない。
「みんな、やっているよ? 案外、楽だよ? 楽に儲かるよ?」
 そんな甘い言葉を何度も(ささや)かれた。
 その度に、祐子は言った。
「〝楽〟って言葉は、()()()(じょう)(とう)()だから」
 言われたほうは、〝カチン〟という擬音が聞こえそうなほど、あからさまに不愉快な顔をする。続けて、決まってこう言うのだ。
「あなた、そんなんだから、友達もできないんだよ」
 はいはい、友達できなくて上等。下手に友達作ったら、むしろリスクだらけ。バイト先のバックヤードには、〝友情〟を(えさ)にして金儲けしようというヤカラがごまんといる。変な薬を売りつけたり、振り込め詐欺の片棒を担がせようとしたり。金儲けだけならまだいいけど、変な思想を押し付けてくるヤカラだって多い。……宗教とか。
「はぁぁあ」
 祐子は、(うな)りのようなため息をついた。
 そして、[!]キーを探すために、ゆっくりと腰をあげた。

「うん? なに、これ?」
[!]キーを探して、テレビ台の裏を覗き込んだときだった。
 (はば)()に何かを見つけた。
「シミ? ……文字?」
 台を少しだけ動かして、その箇所に顔を近づけてみる。文字だ。
「いやだ! 落書きじゃん! 全然気がつかなかった! 不動産屋に(だま)された!」
 この部屋を不動産屋に勧められたとき、「築年月」の項目にひっかかった。
「一九九一年か……。ちょっと古いかな」
 と(しぶ)っていると、
「バブル時代に建設された物件は、しっかりと作られていますから、おすすめですよ。外観だって、古さをまったく感じさせないでしょう? しかも部屋はリフォームしていますんで、新築と同じ。割高な築浅物件より、断然おすすめです」
 と、不動産屋のおじさんに(まく)()てられた。そのおじさんの言葉通り、壁も床もリフォームしたばかりで、ピカピカだった。それがここを決めた一番の理由だったのだが。
「さすがに、巾木までは、取り替えなかったか。……っていうか」
 祐子は、二の腕をさすった。
 過去に誰かが住んでいた……という生々しい(こん)(せき)を突きつけられて、ふと、背後が気になったからだ。
 それにしても。
 なんで、こんな巾木に落書きなんか?
 前に住んでいた人、かなりヤバい人?
 祐子は、再度、二の腕をさすった。
 まさか、事故物件とかじゃないよね?
 祐子は、[!]キー捜索を中断すると、ノートパソコンの前に戻った。そして、にアクセス。
 事故物件を地図で示しているサイトで、この存在を知ったのは去年のことだ。バイト先のバックヤードで、大学生の女の子に教えてもらった。そのときに一度、このアパートも検索してみたが、事故物件を示すアイコンは表示されていなかった。でも、もしかしたら見落としがあったのかもしれない。
「あ」
 祐子の指が止まった。
「マジで?」
 自分が住んでいるアパートに、事故物件を表すアイコンが表示されている。
(うそ)でしょう? 前にはなかったじゃん!」
 詳細を見てみると、
『平成20年5月、203号室で(くび)(つり)自殺。腐乱死体の状態で発見される』
 とある。
 とりあえず、ほっと肩の力を抜く。この部屋ではなかった。
 いやいやいや、隣の隣じゃん!
 ちょっと、マジで? あああ、見なきゃよかった!
 頭を()きむしりながら、祐子はノートパソコンに向かった。

 ……ということで、私が今住んでいるアパートで、昔、首吊り自殺があった模様。
 っていうか、なんで今更、そんな情報がアップされたんだろう? アップするならもっと早くにしてほしかった。そうしたら、こんなアパートには住まなかったのに

〝!〟マークを打とうとして、[!]キーが行方不明だったことを思い出す。
 仕方なく、「。」を打って、記事を投稿する。
 読者数二十人、一日の閲覧数平均十人弱。(ほう)(まつ)ブログだが、祐子にとっては唯一の自慢だ。なにしろ、二十年続いている。しかも、毎日更新している。
 今流行りの「承認欲求」とはまた違う。そう、ルーチンだ。()(みが)きと同じだ。これをやらないと、なにか気持ちが悪い。しまりが悪い。
 寝る前のルーチンはまだある。求人広告サイトをサーフィンして、お気に入りの動画チャンネルをチェックして。
 そして、財布の中のレシートを仕分けして。最後に()()を飲んで、パジャマに着替える。
 今日も、一日、(とし)をとった。やれやれだ。そんなことを思いながら、ベッドに横たわる。
 明日は、仕事がふたつ。朝九時から午後二時まで西(にし)()()()のカフェでバイト。午後三時から夜八時まで池袋の雑居ビルで入力の仕事。そのあとは……。
 ……うん。明日は久しぶりにマッサージに行こうかな? うん、そうしよう。



 6日午後11時ごろ、東京都新宿区西早稲田の公園で、通行人から「女性が倒れている」と警視庁西早稲田署に通報があった。女性は救急搬送されたが、約1時間後に病院で死亡が確認された。通り掛かった何者かに頭を殴られたとみられ、同庁は女性の身元を調べるとともに、傷害致死事件として犯人の行方を追っている。

 バイト先のカフェに行くと、バックヤードで女の子たちが輪になってなにやら騒いでいる。
 女の子のほとんどは、この近くの大学に通う学生だ。言うまでもなく、祐子がここでは最年長で、「おかあさん」なんていうあだ名で呼ばれている。不愉快だが、甘んじている。この年頃の女の子の無邪気さに勝てるやつなんて、この世にはいない。
「あ、おかあさん!」
 女の子たちのリーダー格、ヨシダさんと目が合う。苦手なタイプだが、どうもあちらは祐子のことを気に入っているようで、やたらと(なつ)いてくる。
「おかあさん、ニュース見ました?」
「ニュース?」
「そ。この近くの公園で──」
「ああ、時計公園?」
 新目白通りを渡った先に、住宅に囲まれた小さな公園がある。公園の中央にはポール時計がにょきっと立っており、それが理由か、この辺の人たちは『時計公園』と呼んでいる。正式な名前は知らない。
「そう、時計公園で、殺人があったみたいなんですよ」
「殺人?」
「女の人が、誰かに殴り殺されたようなんです」
「マジで?」
「さっき、警察の人がここにも聞き込みに来たんですけどね。……亡くなった女性って、どうやら、みたいなんです」
 例のホームレス。……この近くを根城にしている女性のホームレスだ。このカフェにも毎日顔を出している。そして、紅茶一杯で半日はねばっている。でも、ホームレスには見えない。ぱっと見は、フリーランスの執筆業(ライター)……という印象だ。実際、ノートパソコンをいつも広げている。
 そう、昨日だって。
「……いつもの席にいたのに。……殺されたの?」
 祐子の背中をぞわぞわが走り抜けた。
 が、ヨシダさんはどこか楽しげに、
「無差別殺人ですかね? それともホームレス狩りってやつでしょうかね?」
「え? なになに、無差別殺人?」首を突っ込んできたのは、ヨシダさんの(こし)(ぎん)(ちゃく)のクドウさんだ。「いやだ、こわいぃぃ!」
 二の腕をさすりながら、クドウさんが祐子のほうを見た。
「ユウコさん、無差別殺人ですって」
 クドウさんはこの中で唯一、祐子のことを「おかあさん」と呼ばず、名前で呼んでくる。その()()れしさと、に毎回イラっとくる。だからユウコではなくて……。これなら、「おかあさん」と呼ばれたほうがましだ。
「ユウコさんも気をつけてくださいね」
「……なんで?」
「だって。殺されたの、の女性ですよね? だから、たぶん、犯人が狙っているのは年配の女性なんですよ。だから、ユウコさんも……」
 は? 年配? 私はまだ四十歳だっつーの。一方、殺害されたあのホームレスは、どう見ても五十代。……一緒にしないでほしい。



 時計公園の殺人事件から二日後。
 池袋駅から徒歩五分の雑居ビル。入力の仕事が終わり、ロッカーから私物を取り出してさあ帰ろう……としたとき、祐子はいつもの習慣でスマートフォンの電源を入れた。自分だけじゃない。周囲を見渡すと、みな、「とりあえずまあ(とりま)スマホ」とでも言うように、スマートフォンを立ち上げている。その大半は、LINEのチェックだろう。が、祐子のスマホには(あい)(にく)LINEアプリは入っていない。入れる機会もなかったし、そもそも、嫌いだった。年がら年中、誰かと(つな)がっている状態なんて(うっ)(とう)しい。
 それでも、仕事が終わって真っ先にスマホの電源を入れるのは、どういう心理だろうか? ……心理でもなんでもない。そう、これもルーチンのひとつだ。喫煙者が仕事終わりに、胸元のポケットから煙草(たばこ)を取り出すようなものだ。
 この習慣が身についたのは、のせいだ。感染者数が気になり、ついついニュースサイトを覗いてしまう。感染が落ち着いた今でも、この習慣だけが残ってしまった。
 いつものようにニュースサイトを開くと、
『西早稲田の公園で殺害された女性の身元判明』
 という見出しを見つけた。
 祐子は、すかさずその見出しをタップした。

 ──所持していた期限切れのパスポートをもとに捜査を進めたところ、女性は住所不定、職業不詳の公賀沙知さん(57)だと判明。6日午後11時ごろ、新宿区西早稲田の公園のベンチに座っていたところ、何者かに頭を殴られ、死亡したとみられる。
 付近のコンビニエンスストアの防犯カメラによると、公賀さんを殴ったと思われる人物は(かん)()(がわ)方向に逃走、警察はその足取りを追っている。

「ああ、やっぱり、被害者はバブル世代か」
 つい、言葉が飛び出してしまう。
 それに反応したのが、すぐ隣で携帯電話(ガラケー)をチェックしていた年配の女性……モリタさんだった。
「なになに、バブル世代? あたしのこと?」
 え? モリタさん、バブル世代だったの? もっと上かと思った。薄ら笑いを浮かべていると、
「バブル、バブルっていうけどさ。あたしみたいな末端には、あまり恩恵はなかったよ。一番いい思いしたのは、あたしたちより上の、団塊世代だね。ほんと、あの世代はいいとこどりよ。年金だって、たっぷりだって聞くよ。あたしたち、もらえないかもしれないのにさ」
「……ですね」とりあえずは、同意しておく。少しでも反論したら、その十倍のエネルギーで反論が返ってくる。
「で、バブル世代がどうしたって?」
「いえ、モリタさんのことではなくて。ニュースで──」
 祐子は、仕方なく、手にしていたスマートフォンの画面をモリタさんに向けた。
「私がバイトしているカフェの常連さんが、店の近くで殺されちゃったんです」
「え? カフェでバイトもしているの? かけもち?」
 え? 反応したのは、そっち? これだから、この人と話しているとちょっと疲れる。
「ええ、まあ。……派遣だけでは暮らしていけないんで」ほら、こうやって余計なことを口走る結果となる。
「まあ、そうだよね。割りのいい派遣は、若い子に占領されちゃっているしさ。あたしたちに割り当てられるのは、夕方から夜にかけての仕事ばかり。しかも短期。まさに、デジタル日雇い労働。いやんなっちゃうよね。……実はさ、あたしもかけもちしてんの。週末と祝日に、試食販売。ほら、スーパーとかで、試食いかがですかぁって声かけている人いるじゃない? あれよ。なんだかんだ、もう十年になるかな。日給一万円っていうから、はじめたんだけど。まあ、大変よ。いろんなところ行かされるのよ。先週なんて、(おお)(つき)まで行ってきた。大月、分かる? (ちゅう)(おう)(ほん)(せん)の、(たか)()のずっとずっと先よ。往復で五時間。しかも、交通費はこっちもちなんだから、バカみたいな話よ。それに──」
 モリタさんの話は終わりそうになかった。適当に(あい)(づち)を打ちながら、「では、お疲れ様でした」と言うタイミングをはかっていると、
「で、殺害された人って、ホームレスだったんでしょう?」
 と、モリタさんがようやく話題をそこに戻してきた。
「ええ。そうみたいです」
「でも、あなたが働いているカフェの常連さんだったんでしょ?」
「はい。……ほぼ、毎日、通ってました」
「ホームレスなのに、なんで、そのカフェに?」
「……たぶん、なんですが。その女性、元々はマスコミ関係の人だったんじゃないかな……って」
「なんで?」
「近くに大手広告代理店があるんですけどね。そのカフェ、社員さんたちの()まり()みたいになっているんです。で、ホームレスの女性、その社員さんの何人かと顔見知りみたいなんです」
「なるほどね。仕事をもらうためにカフェに通い詰めて、広告代理店の社員を待ち伏せってこと?」
「たぶん」
「そうか。……なんか、(みじ)めだね、それって」
「………」
 だから、モリタさんは苦手だ。思っていても口に出せないことをはっきりと言う。
「バブル時代、最も儲けていた業界のひとつが、広告代理店。ぽっと出のコピーライターなんかも一年やそこらでマンションとか買えるぐらい羽振りがよかったって聞くよ。でも、そのあとの不況で地獄を見た人も多いと聞く。……だからってさ、ホームレスまで転落するかな?」
「……ですね」ここでも、一応、同意しておく。
「きっと、その女性にも問題があったんだよ。……自己責任ってやつだよ」
 さすがに、これは、安易に同意できない。
「あたしなんかさ、子供二人を(かか)えたシンママ、シングルマザーだよ? 元ダンからの養育費もない。それでも、ちゃんと子育てして人並みに生活している。仕事を選ばずに、がむしゃらに働いているからね。来るもの(こば)まず。なんでもやったよ。ラブホテルの掃除、工事現場の(めし)()き、真夏の交通整理、深夜のパン工場ライン。みんな嫌がってやりたがらない仕事ばかり。だから、現場は外国人ばかりでさ。……日本人のあたしが言うのもなんだけど、日本人、ちょっと()(ごの)みしすぎなんだよ。あれはいやだ、これはいやだ……って。で、不況だの仕事がないだの()()をこぼす。あたしに言わせれば、ただのワガママ。お金がないなら、汚れ仕事でもなんでもやらなくちゃ。それをやらないから、ホームレスなんかになっちゃうんだよ」
「………」暴論だけど、一理ある。(うなず)こうとしたとき、
「あ、ごめん。こんなところで油を売っている場合じゃなかった。子供たちが塾から帰ってくる時間だ」
 そう言いながら、モリタさんがバタバタと大慌てで、上着を着込む。
「じゃ、お疲れさん!」
 見渡すと、ロッカー室にはもう誰もいなかった。祐子だけが、ぽつんと取り残される。
 なんだかな。……ま、いいか。
 ……さあ。私も帰るか。



「コってますね……」
 マッサージ師が、(あわ)れむように言った。おばあさんだけど、力はなかなかのものだ。ツボにぐいぐいと入ってくる。
 結局、祐子は今日もこのマッサージ店にやってきた。
 自宅アパートの()(より)(えき)、改札横にある小さなマッサージスペース。十五分千円。千円といえば一日分の生活費だが、それでもこの気持ちよさには代えられない。というか、これがあるから、今、なんとか働くことができている。
「お客さん、失礼ですが、お仕事は?」
 おばあさんマッサージ師が、恐る恐る()いてきた。
 無視してもよかったが、その気持ちの良さについ、口元が(ほころ)ぶ。
「接客業と……入力の仕事です」
「入力というのは、……パソコン的な?」
「そうです。……アウトソーシングって分かります?」
「さあ。横文字には弱くて」
「アウトソーシングというのは、簡単にいえば外注って意味です。本来は、各会社がやるべき事務とか入力とかを、外の業者に丸投げするんです」
「へー。事務まで、外注に出すんですか」
「そうです。私は、とある会社の経理関係の入力をしています。領収書の内容を延々と入力するんです。私の隣の人は、とある会社の人事部の入力の仕事をしていますよ。就職活動している学生たちの名前や成績や住所なんかを延々と入力しています」
「そんな個人情報まで、外注に出すんですか!」
「そ。個人情報保護だなんだと言ってますが、個人情報、ダダ漏れですよ。悪意ある人が一人でもいたら、簡単に悪いことに利用されちゃいます。実際、個人情報を名簿屋に売っ払って逮捕された人とかも結構いますよ」
「怖いですね……」
「まあ、私はそんなことはしませんけどね。……私、あんまり欲はないんですよ。……いえ、正確に言うと昔はありました。仕事をばりばりやって、いいマンションに住んで、年に何回かは海外旅行に行って……そんな生活を夢見てました。実際、私の先輩とかはそういう生活を手に入れてました。……でも、所詮、私は氷河期世代なんです。そんな生活、夢のまた夢です」
「氷河期世代? ああ、聞いたことがありますよ。バブルの次にやってきた、お先真っ暗な時代に就職活動をしなくてはならなかった若者たちのことですね」
「もちろん、氷河期世代でも成功を(つか)んだ人もいます。(すさ)まじい競争を勝ち抜いた人もいます。……でも、私、小心者ですから。人を()()としてまで……とか、悪いことをしてまで……とか、できないんです。あ、もちろん、成功した人たちがみな悪いことをしているなんて思ってはいません。でも。成功している人は間違いなく、要領はいいように思います。口も達者で──」
 祐子は、就職活動のときに出会った何人かを思い出していた。彼らはみな言葉(たく)みで、次から次へと言葉を繰り出しては、人を圧倒するようなところがあった。
「──でも、私は無理です。言いたいことも言えない性格なんです」
「あたしもですよ。……ため込むタイプなんです。我慢して我慢して我慢して、で、あるとき、爆発してしまう」
「爆発、したことあるんですか?」
「ありますよ。……若い頃、夫と子供を置いて、家出しました」
「家出?」
「そうです。(しっ)(そう)したんです」
「なんで、また」
(しゅうとめ)()りが合わなくて。……五年間は我慢したんですが、……ある朝、爆発してしまったんです。()()ではありません。本当に、爆発してしまったんです。朝食を作ろうとガスの元栓を(ひね)ったときです。ボンって」
「え? 本当に爆発してしまったんですか?」
「そうです。……そのとき、思ったのが、『あ、姑のせいだ。あたしを殺そうとしている。逃げなくちゃ』って」
「それで、逃げ出したんですか?」
「そうです。財布だけを持って、お勝手口から逃げました。あれから五十年、夫にも子供にも、そして姑にも会っていません」
「五十年も、失踪してたんですか?」
「あちこちを放浪しましたね。それこそ、日本中の温泉旅館を」
「マッサージ師にはいつ?」
「マッサージの資格は二十五年前に温泉旅館の中居をしていたときに、とったんです。マッサージ学校が近くにありましたからね」
()(らん)(ばん)(じょう)なんですね」
「そうですか? あたしなんて、まだまだですよ。……中居仲間には、もっと凄い人生を送っている人もいましたからね。……ああ、そういえば。一昨日だったでしょうか。熱海で中居をしているときに一緒だった人が、亡くなったっていうニュースが。……誰かに殴り殺されてしまったようです」
「え?」祐子は、思わず、体を捻ってマッサージ師のほうを見た。「それって、西早稲田の公園のベンチで亡くなった……ホームレスの女性ですか?」
「ほらほら、ちゃんと寝てください。()めませんので」
「あ、すみません。……で、殺されたのって──」
「そうですよ。西早稲田の公園のベンチで殺されたんです。もうびっくりでしたよ。あ、さっちゃんだ!って。数回しか話したことはないけれど、すぐに分かった。だって、珍しい(みょう)()でしょう? それに、新聞に載ってた写真、たぶん、免許証かパスポートの証明写真だと思うんだけど、あの頃の写真だったから。……それにしても、さっちゃん、ちょっと変わったところもあったけど、まさか、あんな死に方をするなんてね……」
「変わったところ? あ、確かに、変わっていたかも」
「え? お客さん、さっちゃんのこと、知っているんですか?」
「知っているというか。仕事先のお客さんだったんです」
「仕事? パソコン的な仕事?」
「いえ。そっちではなくて──」
 ピーピーピーピー。
 タイマーのアラームが、会話を遮断する。もう十五分が()ってしまったようだ。延長しようか? とも思ったが、パーティションの向こう側には、たぶん、列ができている。この時間は、仕事帰りの人たちが駆け込むのだ。
 祐子は、ゆっくりと体を起こした。うん、腰が少し軽くなった。財布を出していると、おばあさんマッサージ師が会計をしながら言った。
「しかし、奇遇ですね。殺害された被害者を知る赤の他人同士が、こうやって向き合っているんですから。……東京は、広いようで狭いですね」

 確かに、奇遇だと思った。
 でも、こういう偶然はときどきやってくる。それが、東京の恐ろしさであり、面白さでもある。
 自宅に戻った祐子は、近所のスーパーで買った野菜ジュースと見切り品のサンドイッチを座卓に置いた。今日の夕食だ。そして、いつものようにノートパソコンを立ち上げようとしたとき、
「あ。[!]キーがない」
 そうだった。結局、[!]キーは行方不明のまま。[!]キーがないと、〝1〟も打てない。かなり不便だ。昨日なんか、〝1〟を入力するのにかなり遠回りした。そのせいで、いつもの倍以上、疲労が(つの)った。肩がこんなにコってしまったのも、それが理由だ。
 ああ、もう。
 夕食を食べながら、ブログを更新するのがなのに。この二十年間、ずっと続けてきたルーチンなのに。[!]キーごときで、それが破られるのはちょっと(くや)しい。
 祐子は、()つん()いになると、テレビ台へと向かった。
 間違いなく、このあたりに飛んでいった気がするんだけど……。
 そして、台を少し動かし、裏を覗き込んだとき。
 巾木に書かれたその文字が、やけに鮮明に浮かび上がった。
 文字だとは思うが、相変わらず、なんていう文字なのかは分からない。とにかく、細かい文字が巾木に沿ってびっしりと書かれている。
「文字じゃなくて、もしかして模様なのかな? ……うん? 他にも何か書いてある? 漢字?」
 祐子は、さらにテレビ台を動かして(すき)()を作り、頭を入れてみた。
 それは、やっぱり漢字だった。自己主張したいけれど、見つかるのも避けたい。そんな(かっ)(とう)が窺えるような、小さな文字。しかも、経年のせいか、かなり薄れている。
 祐子は目を()らした。
「最初の文字は……〝公〟に見えるな。……次の文字は、〝賀〟? ……え?」
『公賀沙知』
 その文字をすべて解読したとき、祐子の体中から、冷たい汗が吹き出した。


続きは『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』(真梨幸子)で!



【真梨幸子(マリ・ユキコ)プロフィール】
1964年宮崎県生まれ。1987年多摩芸術学園映画科卒業。2005年『孤中症』で第32回メフィスト賞を受賞し、デビュー。2011年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーとなる。2015年『人生相談。』が山本周五郎賞の候補となる。そのほかに、『5人のジュンコ』『私が失敗した理由は』『三匹の子豚』『聖女か悪女か』『フシギ』『まりも日記』『一九六一 東京ハウス』『シェア』『4月1日のマイホーム』など多数の著作がある。

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