『月夜行路』秋吉理香子★刊行記念★特別書き下ろし掌編(2023年8月9日発売)

文字数 2,927文字

 「ある月夜のできごと」

 僕がそのバーに入ったのは偶然だった。
 大学時代からの友人・磨理子が地元に戻るというから、金曜日の夜、送別ディナーをする予定だった。だけど待ち合わせの銀座駅に着くと「引き継ぎが長引いて一時間ほど遅れる」とメールが来たので、目についた店の扉を開けたのだ。
 華やかで個性的な女性達がドリンクやフードを運んでいた。高い店かと焦ったが、ひときわ迫力のある美しい女性が「いらっしゃいませ」と僕の手から鞄を引き取り、腕を絡ませてカウンターへエスコートするものだから、逃げられなくなった。だから「心配しないで。うちは良心的なバーよ」とウィンクされた時はホッとした。
 女性はカウンター下の棚に僕の鞄を置くと、カウンターの中へ立った。
「あたしはルナ。このバーのママよ。なにをお飲みになる?」
「このあと約束があるんで……軽めの白ワインで」
「あら、デートかしら」
 ママは背後のワインラックから一本を取り出し、グラスに注いでくれた。
「いえ、相手は女の子だけど、大学の同期で、ただの友達です。転職して地元に帰るって言うから、銀座でご馳走しようかなって」
「まあ、寂しくなるわね」
「でも友達をやめるわけじゃないから。友情が続く限り、いつでも会えるでしょ」
 僕はワインをぐいっと飲んだ。ネクタイをゆるめたかったけれど、これから磨理子に会うから我慢した。
「そう。それにしてもずいぶん重い鞄をお持ちね。さぞかしお疲れなんじゃない?」
「そうなんですよ!」聞いてほしくて、つい身を乗り出す。「社会人一年目なんですけど、予備校に通ってるんです。仕事帰りに授業があるから、教科書でパンパンで」
「偉いわ。何のお勉強をなさってるの?」
「今さらですけど、公務員を目指そうと」
「公務員試験って難しいんですってね」
「数理処理は得意なんですよ。だけど文章理解と論文に参ってます。昔から苦手で、だから理系に進んだのに」
「あら、読むのも書くのも楽しいものよ」
「楽しくないですよ。磨理子も――あ、これから会う友達ですけど、全然わかってくれないんです。同期っていってもサークルが同じだけで学部は違うんです。磨理子は文学部の文学研究科、卒論は夏目漱石っていうくらい、筋金入りの文学少女で。僕が愚痴ると、やっぱり『どうして? 楽しいじゃない』って首を傾げるんです」
 勢いでワインを飲み干すと、ママが笑いながらお代わりを注いでくれた。
「そんなに苦痛なら公務員を目指さなくてもいいじゃない」
「確かにそうなんですけど、引っ越そうと思って。地方に。東京育ちなんで知らない土地に行くのもいいかなって。もちろん一般企業の転職先も探しましたよ。だけど引っ越しの候補先に、働きたいと思える会社が見つからなくて。で、調べたら公務員として僕の専門分野を生かせる職種があったから」
「候補先って、片思いしてる磨理子さんが帰るという地元?」
 驚いてワインを吹き出した。
「な、なんで……」
「サークルのお友達なのに他のメンバーは誘わずに二人きりでお別れのディナー、しかも銀座で。それに仕事と予備校帰りにしては、ずいぶん気合の入ったハイブランドのスーツね。絶対にネクタイを緩めようとしないのも、一番カッコいい状態で会いたいからでしょう。そもそも金曜日の夜、一週間の仕事で疲れ果てていて、さらに予備校でクタクタなのに会いたいのは、好きな人しかいないわ」
 ママがくすくす笑う。
「だからてっきりデートだと思ったけれど、あなたはやたら『友達』だと強調する。どうやらあなたの片思いってとこね。ここまでどうかしら?」
 僕には頷くことしかできなかった。
「そして彼女には公務員試験を受けることを話し、時には文章理解が苦手だとぼやいている。公務員試験を頑張っていることをアピールしつつ、ゆくゆくは合格して彼女の地元に行くことを遠回しに伝えているのね。じれったいくらいの純愛だわ」
 僕の顔は、多分、真っ赤に違いない。
「な、な、なんですか? エスパーですか? 占い師?」
「さあ、どうかしらね」ママは謎めいた微笑を浮かべた。「だけど、もしあたしが人よりも少しだけ色々なことに気がつけるとしたら、それは文学のお陰かも」
「まさか」
「あら本当よ。だって文学はあらゆる知識の宝庫だもの。歴史、哲学、数学、心理学、そして……恋愛だって」
「まあ確かに恋愛小説とかたくさんあるけど。でも読んだって恋愛の達人になれるわけじゃないでしょう」
「それは人それぞれね。だけどヒントはたくさんちりばめられていると思うわ。それを拾うか拾わないかは、読み手次第じゃないかしら」
「だから、文章理解の、そういうところが苦手なんですってば。試験問題もそうなんですよ。『要旨は選択肢のうちどれか』って。だったら最初から長文じゃなくて、要点だけを読ませてくれればいいじゃん」
 ママは大笑いした。艶やかな、大輪の花のような笑顔だ。
「もちろんそういう意見も尊重するわ。だけど直接的に伝えるんじゃなくて、あえて相手に感じ取ってもらう美学もあるんじゃない?」
「そうですかねえ」
「ええ。そちらのほうがロマンチックなこともあるもの」
 ママは少しの間、考えるようにおしゃべりをやめた。
「涙ぐましい努力をしているご褒美に、恋愛がうまくいくおまじないを教えてあげましょうか」
「おまじない?」
「そう、呪文。だけど天気の良い夜じゃないと効かないの。ちょうど今夜みたいに」
 いつもなら信じない。だけどほろ酔いで、不思議なママだから、つい興味が湧く。
「彼女にはてきめんだと思うわ」
 ママは悪戯っぽい微笑を浮かべると、カウンター越しに僕の耳元に囁いた。

 待ち合わせ場所へ行くと、磨理子が駆けてきた。
「お待たせ。ごめんね」
「全然オッケー。腹減っただろ。行こう」
「英明はいつも優しいね。私のこと絶対に怒らない」
「だって友達だろ?」
「……そうだね、うん、友達だもんね」
 二人並んで歩き始める。
 しばらく会えなくなるな。だけど僕も公務員試験を頑張るから。そして必ず磨理子の地元で就職する。これからも一緒にいたいって真剣に思ってるからさ――
 言葉を思い浮かべては飲み込む。恥ずかしすぎて言えない。
 ふと空を見上げると、空気が澄んで月がきれいに見えた。教えてもらった呪文。あれなら唱えられる気がする。
「『月がきれいですね』」
 まあ、効かなくてもともと。っていうか、効くわけないよな――
 磨理子が立ち止まった。見ると、目を見開き、顔を真っ赤にしている。予想外の反応に驚いているうちに、彼女の手がおずおずと伸びてきて、そっと僕のジャケットの袖をつまんだ。
「すごく嬉しい。わたしも英明のこと、ずっと好きだった」
 呪文が効いた。本当に効いてしまった。
「しばらく遠距離になるけど、なるべく早くそっちに行くから」
 そこからは、すらすらと言葉が出た。
「うん。待ってるね」
 あの不思議なママは天使だったのかもしれない。
心の中で感謝しながら、僕は彼女の手を握り、月の夜道を歩き始めた。

  <了>

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