深川扇橋 ~川の十字路行き最終バス、発車しまーす。ぷっぷー!~

文字数 3,228文字

犯行現場への道=「渋66」→「都06」→「都05‐2」→「錦13」。暗号ですか?

いよいよ最後の犯行現場(と、自分で勝手に設定した)深川扇橋へ。


いつものように我が家を出ると、都バス「渋66」系統で渋谷に出た。渋谷から深川、ってバスではなかなか行きづらいんだけど、事前に考えてたルートはあった。


まずはJR新橋駅前へ。渋谷から新橋、って「都01」「都06」「渋88」と3系統もルートがあって、それぞれ楽しいんだけど、今日はちょうど「都06」が目の前から発車するところだったので、慌てて飛び乗った。


明治通りに沿って走り広尾、麻布の高台をぐるりと回り込んで、麻布十番へ。そこから古川沿いに東に向かい国道15号線(通称「第一京浜」)へ。左折して北上し新橋、というコースです。


地図が細かくって分かりにくいでしょうが、「へぇずいぶんと、ぐるーっと回る路線なんだなぁ」と実感していただければ結構です。改めてこうして見てみると、ずーっと渋谷川(天現寺橋から下流は「古川」)沿いに走ってもいるんですね。

※掲載の地図は国土地理院のものを加工しています。出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)
ラーメン食べて乗り間違え。ゆるめのバス好きなんです。

さて「都06」系統は第一京浜沿いに降車場があるので、「新橋駅前」とは言いながら、ちょっと離れてる。でもいいんです。今日、食べようと思ってたラーメン店にはそっちの方が近かったから。


それで、ラーメン食べ終わったら駅前に戻るよりこっちが早いよなぁ、と晴海通りまで歩いた。


「築地」バス停で待っていたら「都05-2」系統がやって来たので、乗り込んだ。元々「業10」系統に乗って豊洲まで出ようと思ってたんだけど、これも確か豊洲駅前を通るんじゃなかったかな、と思って。


ところが乗り込んでから改めて調べたら、こっちは「新豊洲駅前」しか通らないんですね。まぁ、乗ってしまったものは仕方がない。「新豊洲」で下車して「豊洲駅前」まで一駅、てくてく歩きましたよ。ろくに確かめもせずに飛び乗る自分が悪いんですからね。誰も恨むことはできません。


さていよいよ「豊洲駅前」から「錦13」系統に乗り込んだ。これで今日の目的地、「扇橋」まで行くことができる。


ルートはこんな感じです。「扇橋一丁目」バス停で下車。降りるともう、目の前は「新扇橋」。

来てみるまでは、昔ここに旧「扇橋」が架かってて、新しく架け替えたから「新扇橋」なのかな、と思ってた。

ところが違いました。新扇橋が架かってるのは小名木川。ところが扇橋は大横川に架かってるんです。90度、方向が違いますね。こっちが扇橋。

ここで国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」を見てみましょう。

ちょっと文字がかすれて読みにくいけど、赤線を引いたところに「扇橋」の表示があるでしょう。


図に名は書かれてないけど、これが架かってる川が大横川。江戸城から見て横に流れてるので、この名があるそうです。


逆に左の方に、緑線で示した小名木川の表示があるでしょう。見てみると分かるように、今の位置に「新扇橋」は架かってない。この時代にはなかったんですね。まさに「新」

国会図書館コレクションの江戸切絵図「深川絵図」を一部加工しています。

2つの川、綺麗に直角に交わってますよねぇ。今も、このまんま


写真に撮ってみたけど、低いとこから見たらちょっと分かりづらいですね。辛うじて、交差していることくらいは分かりますか? ドローンで空撮でもできればよかったんですけどね。

川の十字路で八郎右衛門さんに感謝しつつ、往時の隆盛を思う。

さぁ見てみれば察しもいくように、自然の川がこうも綺麗に直角に交わるわけがない。この辺を流れてるのは、みんな運河なんです。と、言うより、この辺りはかつて海だったんですね。埋め立てで造成された土地なんです。


江戸がまだ町造りを始めたばかりの頃、摂津国(現在の大阪府)から来た深川八郎右衛門が小名木川北側の干拓を行い、出来た土地を「深川村」と名づけた。「深川」って時代劇なんかを観ているとしょっちゅう出て来る地名だけど、そんな川が流れてたんじゃなくて人名だったんですね。


永井荷風は『日和下駄』の中、扇橋についてこう書いてます。


「凡て構渠運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は(中略)深川の扇橋の如く、長い堀割が互いに交叉して十字形をなす処である」


昔は物流の中心は、水運。ここを数多くの船が行き交っていたのであろうことは、想像に難くない。


実はさっきの新扇橋の袂で、「民間機械製粉業発祥の地」という碑も見つけていたんですよ。明治を代表する実業家、雨宮敬次郎が水運の便のいいこの地に蒸気機関による製粉所(それまでは水車で粉にしていた)を建てた。現在の株式会社ニップン(2020年までは日本製粉)です。どれくらい水運の中心だったか、を表すエピソードですよねぇ。


さて、写真で見ても分かる通り、現在では昔ほど行き交う船の姿も見当たらず、水の流れも穏やか。埋立地に造成された川だから水流もないのかと思ったら、そんなことはない。ちゃんと理由があるのでした。


それが、これーー

「扇橋閘門」です。

「閘門」とは水位の異なる河川や運河などで、水門を設けて間を堰き止め、水位を上下させて船を通す装置のこと。パナマ運河がこの仕組みを採用していることで有名ですね。

写真は西側(隅田川の方)の門ですが、間の水位を調整するのだから東側にももう一つ、あります。ただしそっちも撮ろうとしたけど工事中だったり、間に障害物があったりで上手く撮れなかった(汗)。


近くにあった説明板によると、門の西側は東京湾の干満の影響で2メートル近くも水位が上下するのに対して、東側は排水作業によって常に低水位に保たれている、とか。


2メートルも水位が揺れ動いたんじゃそりゃ流れが激しくなって、大変だ。閘門が必要なのも道理、なわけです。


この施設がなかった時代、潮の満ち引きで川の流れも変わり、交差点であるここには大量の水が流れ込んで大きく波打っていたことでしょう。とてもこんな静かな水面ではなかった。


おまけにそこを大量の荷物を積んだ船が行き交うわけだから、まさにてんやわんや。荷風先生の書いた通り「最も変化に富みかつ活気を帯び」ていたろうことは容易に想像がつきますね。

犯行現場(仮想)の検分、終了。また逢う日まで、ぷっぷー。

運河の形も元のままで、橋も昔の位置に架かってる。描写当時の様子も実感できたことで、有意義なロケハンとなりました。


さぁ、後は小説を書くだけ。ただし完成がいつのことになるか、はちょっとまだ分からない。まぁ長い目でお待ち下さい。


それと、『日和下駄』にまつわる小さなバスの旅も一旦これにて終了。また別のテーマを見つけてウロつきたいと思います。そっちも、長い目で待ってて下さい

書き手:西村健

1965年福岡県生まれ。東京大学工学部卒業。労働省(現・厚生労働省)に入省後、フリーライターになる。1996年に『ビンゴ』で作家デビュー。その後、ノンフィクションやエンタテインメント小説を次々と発表し、2021年で作家生活25周年を迎える。2005年『劫火』、2010年『残火』で日本冒険小説協会大賞を受賞。2011年、地元の炭鉱の町大牟田を舞台にした『地の底のヤマ』で(第30回)日本冒険小説協会大賞、(翌年、同作で第33回)吉川英治文学新人賞、(2014年)『ヤマの疾風』で(第16回)大藪春彦賞を受賞する。著書に『光陰の刃』、『バスを待つ男』、『目撃』、「博多探偵ゆげ福」シリーズなど。

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