【読書エッセイ】第五話 不機嫌おじさん

文字数 2,421文字




  「不機嫌の先で、前向きに。」  村上貴史 


 仕事をしてきた男の話を読んだ。会社員として、配属された部署で求められる仕事をちゃんとやってきた。なのに……という短篇だ。
 男の名は佐野哲郎。三十年前に新卒で自動車部品会社に就職し、品質管理部門に配属された。若手の頃、誰も見つけられなかった不良品を発見して「佐野さんじゃないと見つけられなかった」と感謝されたこともあれば、同僚の残業を手伝って、次は自分が助けるよと言われたこともあった。その後、品質管理の機械化が進み、目視によるチェックから機械によるチェックへと変わった際も変化の波を乗り越え、機械のメンテナンスで能力を活かしてきた。十年ほど前には、課長に昇進もした。哲郎なりに、“仕事をした”という手応えを感じながら生きてきたのだ。
 真下みことの新作『かごいっぱいに詰め込んで』の第五話「不機嫌おじさん」では、そんな哲郎が、IT化の進展について行けなくなる姿が描かれている。電話からメールへ、あるいはチャットへ。会議は対面ではなくビデオで実施。日常業務の仕組みがそのように変化していくなか、哲郎は、パソコンこそなんとか使えたものの、それ以降の新技術にはまるで馴染めなかった。IT関連の用語も判らなければ、タブレットのタッチ画面の操作も行えない。PDFってなに? マクロって? そうなると、相当に苦しい。哲郎は、苦手なIT作業を部下に頼んでなんとか凌いできたのだが、結果としてそれは、ITを学ぶ機会を放棄しただけに過ぎなかった。
 やがて哲郎は役職定年を迎えて平社員扱いになる。それはすなわち、ITを任せる部下がいなくなることを意味する。そうなると、いよいよ哲郎は立ち行かなくなる。会社の一員として認められなくなるのだ。
 我が身を振り返ってみると、哲郎と同じ世代ではあるが、幸いなことにITを使えている。なので、こうして「文章を書く」という仕事のアウトプット(すなわちテキストファイル)を、依頼して下さった方にITを使って届けられる。メールに添付して送るか、あるいは容量が多い場合はオンラインストレージなどを使う。だが、IT化に対応できず、原稿用紙に手書きして郵送というスタイルでしか書けなかったらどうだろう。受け取った側からすると、誰かが手書きをタイプ入力する必要が生じるし、データのやりとりと比べて完成までの日数も増えることになる。それらはすべて追加コストであり、営利企業としては、そのコストに見合うリターンがあるかどうかで判断することになるだろう。一〇〇万部売れる大ヒット原稿ならばそうしたコストは適正なものと見做されるだろうが、リターンがないと判断されれば、原稿依頼はストップする。
 哲郎がまさにそうだった。従来であれば、機械のメンテナンスなどを適切に実施していれば評価されたが、現在では、それを完璧に実施したとしても、会社の血流たる情報の循環に参加できないが故に、会社は彼を放逐する方向で動き始めるのだ。IT化に対応した品質管理スタッフと、そうでないスタッフがいれば、会社は対応した人材を当然のように選ぶ。それだけのことだ。
 この短篇ではさらに、哲郎が日常生活でもIT化による“壁”に直面する姿も描かれている。タッチパネル型のセルフレジの類いだ。こうした装置は、哲郎に寄り添ってはくれない。哲郎が乗り遅れたIT化の波は、あらゆる局面で、彼に生きづらさをもたらすのである。不機嫌もやむなし、だ。
 実際のところ、同様の問題は既に、高齢者世代にも生じているだろう(自分にとっては親の世代だ)。セルフレジもそうだし、スマホを使える人とそうでない人の間でも、生活しやすさに差が出てしまう。その人たちがどんな仕事をして、どんな価値を社会にもたらしてきたかとは無関係に、機械を操作できるかどうかで暮らしの質に相違が出てしまうのだ。そういうかたちで、社会が変化してきたのである。便利に使える人はより便利に、そうでない人は、相対的に不便に。コスパ万歳。タイパ万歳。将来的には音声認識の精度向上などといったIT側からの歩み寄りもあるだろうが、当面は、老後も自分のIT知識を毎年アップデートし続けることになりそうだ。
 そんなことを考えさせるこの短篇だが、哲郎が困るだけの一篇ではない。会社人間として生きてきた哲朗は、会社を離れ、もう一つの大事な問題に直面する姿も描いている。哲郎自身は全く予想もしていなかった問題だ(鈍感だったともいえる)。だが、哲郎は、それを乗り越えることで今後の人生を前向きに歩んで行くことを決意するのだ。そして実際にその一歩を踏み出す。読み手をホッとさせてくれる終盤のひとことに、深い温もりの宿った短篇なのである。
 第一話から第五話まで、そしてエピローグを含め、各篇の主人公の悩みとその解決を、スーパーのレジという共通のモチーフを活かして綴った『かごいっぱいに詰め込んで』。哲郎のみならず、読み手を前向きにさせてくれる一冊だ。哲郎のようにITが苦手な親に、スマホの手ほどきをしに行こうか、と思うほどに。



村上貴史(むらかみ・たかし)

1964年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。単著に『ミステリアス・ジャム・セッション』、編著に『名探偵ベスト101』『葛藤する刑事たち』『刑事という生き方』、
共著に『ミステリ・ベスト201』『日本ミステリー事典』『ミステリー・スクール』等、その他、文庫解説多数。

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