【読書エッセイ】エピローグ

文字数 2,233文字




  「ひとが、買いものかごに入れるものとは」  朱野帰子 


 中堅作家になってから、新人作家さんたちから「話をしたい」と言われることが増えている。作家は孤独に仕事をすることが多いので、思いを吐き出せる相手がそうはいないのだ。
 では、社会に包摂されていれば、会社に所属していれば、学校に通っていれば、家庭を持っていれば、思いを吐き出せる相手が見つかるのかといえば、そうではないだろう。社会からお荷物扱いされている高齢者だからこそ「セルフレジが苦手で」とは言えない。能力を問われている会社員だからこそ「彼女に浮気された」とは言えない。コミュ力を求められる大学生だからこそ「精神的な問題を抱えてる」とは言えない。いっしょにいなければならない夫婦だからこそ「あなたに私の気持ちはわからない」などとは言えない。
 人間は社会性が高い生き物だ。誰かから必要とされたいという欲望と、必要とされなくなったらどうしようという恐怖を、自分が思うよりも強烈に抱えている。
 本書『かごいっぱいに詰めこんで』の四つめの物語の主人公である不妊治療をする主婦の咲希はこう言う。「役に立てないなら生きていちゃいけないんだよ」。友人に「生きる権利は平等にある」となだめられても、咲希は納得しない。「私が言ってるのはそんな高尚な話じゃなくて、何もできないと恥ずかしいって、そういう話をしてて」
 そう、私たちは人の役に立ちたいのだ。人から感謝されたいのだ。存在を認められたいのだ。それはとてもとても強い欲望だ。それがあるから人は成長し、懸命に働き、社会が発展していく。けして悪いものではないから、社会で生きていこうとする限り、みなそこをめざしつづける。だからこそ、自分が役に立たないものになってしまったとき、そのことを打ち明けることすら許されない気がする。
 では、それを許してくれる場所があったとしたら? どんなことが起きるだろうか? そんな役割を担うのが、この物語の冒頭に登場する「おしゃべりレジ」で、そこに立っているのが一つ目の物語の主人公、スーパーのパート社員の美奈子だ。
 美奈子と、他の物語の主人公たちは他愛ない話しかしない。買い物かごのなかの商品について話したり、時流について世間話をしたりするだけだ。アドバイスをすることもあるけれど、相手の悩みを深く知っているわけではないから、一般論にとどまっている。にもかかわらず、美奈子と話した後、主人公たちはとつぜん変わっていく。
 なぜ、変わるのか。
 「おしゃべりレジ」があったからだ。レジに立っている美奈子が専業主婦になってから、いやそのずっと前から役に立たない人材として扱われてきたからだ。だからか、美奈子は訪れた人たちにもオープンであろうとしている。
 でもそれだけだろうか? 話しやすい場所と、オープンな人がいて、それだけで人は変われるのだろうか? 変わるということはおそろしいことだ。今まで逃げてきたこととも対峙しなければならない。レジでおしゃべりしただけで、そうなれるだろうか?
 でもエピローグを読んで私は気づいた。
 五つの物語の主人公たちはレジにきたときには変わりはじめていたのではないか。変わるために必死にもがいていたのではないか。その変化はまず、だれも気づかないところに起きる。たとえば買い物かごのなかとかに。ひとが、買いものかごに入れるものとは、こうなりたいという願いでもあるのだ。だからこのタイトルだったんだ、とちょっと涙が出た。
 そして、主人公たちが買い物かごになにを入れたかを知るために、冒頭から読み返したくなった。
 ここで冒頭の新人作家さんたちの話に戻りたい。じつは本書の著者である真下みことさんも会いにきてくれたひとりだった。彼女の場合は私から誘ったのだが、パフェを食べながら「会社を辞めたくなかった」「わかる」という話をした。彼女の悩みを聞くというより、私の屈託ばかり聞いてもらっていたような気がするが、そのあととつぜんに彼女がこれほど人の本質をつく物語を書くとは思っていなかった。人の心を描くことに長けている作家ではあったけれど、今回の作品はさらに多くの読者の心にしみこんでいくだろう。新境地だと思う。でもとつぜんではないのだろう。さまざまな模索をしていたであろう真下さんの変化は、あのときにはじまっていたのだろう。
 彼女とおしゃべりした私にも変化がはじまってくれていないだろうか? そうだといいなという期待を抱いて、今日も自転車を漕いで、スーパーに卵を買いに行く。




朱野帰子(あけの・かえるこ)

2009(平成21)年『マタタビ潔子の猫魂』でデビュー。2013年『駅物語』がヒット。2018年刊行の『わたし、定時で帰ります。』が「働き方改革小説」として話題になり、翌年ドラマ化された。他の著書に『海に降る』『駅物語』『対岸の家事』『会社を綴る人』などがある。最新作は『わたし、定時で帰ります。3―仁義なき賃上げ闘争編―』。

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