『かごいっぱいに詰め込んで』試し読み
文字数 6,732文字
第一話 おしゃべりなレジ係
「よし、転職するぞ!」
「何見てるの」
食卓から昼ごはんの焼きそばの皿を運ぶ途中の夫に聞かれ、うーん、と返事になっているようでなっていない単語で返す。
「食器洗うの面倒だなー」
「食洗機でも買う?」
美奈子が思ったことをそのまま言うと、夫にそう聞かれた。
「名案かも!」
「ええ?」
夫は自分から言い出した割に戸惑うように笑うだけで、今日も食器を洗う気配はない。いっそ買ってもらおうか、ボーナス払いで食洗機。
「ボーナス払いで食洗機、ふふ」
「転職」
そう入力して検索し、最初にヒットした投稿には、美奈子の思っていることがそのまま書いてあるかのようだった。
【あきこ:主婦になって二十年くらい
投稿は「いいね」が二万件ついており、返信もたくさん来ているようだ。なぜこの投稿が話題なのかを知りたくなり、画面をタップする。
【
【肉まん:それって転職じゃなくて就職じゃないんですか】
【キャリ男:無職にあるスキルってなんなんですか? 職務経歴書って知ってる?】
【毒キノコ:主婦から転職って世間知らずにもほどがある。面接にすらたどり着けなさそう】
美奈子は、自分が読んでいるものの意味がわからなかった。主婦歴というのは職歴ではなく、無職歴になってしまうのだろうか。
水の入ったコップを片手に再びソファーに戻る。テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホを、もう一度開くのが怖い。あの投稿はみんなに応援されて広まったのではなく、世間知らずだと炎上していたのだ。
「どうしたの? 難しい顔して」
食器を運び終わり、食卓で新聞を広げていた夫が、そこまで深刻ではない様子で聞いてきたので、美奈子は明るく笑った。
「そろそろ働いてみようかと思って。ほら、
「おー」
夫は新聞に目を向けたままで、あまり美奈子の話を聞いていないように見える。その様子に少しだけ
「ねえ、主婦って無職?」
「何、誰かに言われたの?」
「これ」
SNSを開き、美奈子が特に気になった投稿を何個か選んで見せる。
「なんだこれ……。美奈子の投稿?」
「んなわけないじゃない」
すぐに否定すると、夫は安心したように
「そうか、よかった」
「けどさあ、働いてみようかと思ったのに、これが世間の本音なんだと思ったらね」
やってらんないわよ、と美奈子はまたしても明るく笑った。
「いや何、世間の本音? こんな書き込みが?」
夫は戸惑ったように笑っている。前から、彼はSNSを
「そうよ? 表で言えないからこういうところに書き込むんだから」
よく知らないけれど、美奈子は自信を持ってそう言った。
「見るのやめなよ。そんなの」
「そうね、やーめた!」
美奈子はそう言って、スマホを操る手を止めた。するとやることがなくなったため、結局皿を洗うことにした。
*
最後に企業で働いたのは、美奈子が短大を出てすぐに就職した、電子カルテなどを主に扱うシステム開発会社でのことだ。夫と出会ったのは、受付としての業務に慣れた三年目の頃だった。
「すみません、二時から企画部の
そう話しかけられ、美奈子はいつもどおり台帳を取り出し、来客カードを渡した。
「それでは、こちらのカードにご記入いただけますか」
「ありがとう」
彼はそう言ってスラスラと自分の名前と会社名を書き始めた。その間に、会議室の予約などの情報がまとめられている台帳の今日のページを確かめる。電話で社内の者を呼び出したとき、そのまま会議室へ案内するよう言われることも多いためだ。
「これ、お願いします」
そう言って、彼はカードを手渡してきた。美奈子は
二時から企画部の山内さんと北川さん……。二時からの会議予定を指でなぞって確認するが、そのような予定はどこにも入っていない。どうしよう。なんでだろう。急に決まったのだろうか。だとしたら朝こちらにも連絡が来るようになっているはずだけれど。
「あの、そのようなお約束は入っていないようですが」
「ええ?」
彼は困ったように
受付で隣に立っている、美奈子と同期でしっかり者の
とにかく山内さんに電話を
──受付はスピードが命。会社の顔として、お客様を待たせることがないように。
研修で先輩に言われた言葉を思い出して焦っていると、ちょうどロビーに山内さんが出てきた。
「あ、北川さん。いたいた。今日はどうもよろしくお願いします」
「山内さん、いつもお世話になっております」
二人が会話をしているのを見ながら、美奈子はあれ、と思った。
「やっぱり今日ですよね?」
北川さんが確認すると、山内さんが頷く。
「受付で何か?」
「いや、そのような約束はありませんって言われちゃって」
北川さんは怒っている様子はなく、むしろ困ったように笑っていた。その
「どうかした?」
「あの、予定が台帳と合わなくて」
「どれどれ……。ってもう、またじゃない」
そう言って由理子はページを一つ戻す。
「ページ間違い。あれほど気をつけてと言ったのに」
美奈子がこうやって台帳を見間違えるのは、これが初めてではなかった。またやっちゃった。そう思いながら、美奈子は大慌てで北川さんに頭を下げる。
「あのっ、北川様。大変
身振り手振りで謝っていると、北川さんが声をあげて笑った。
「そんなに慌てなくたって
北川さんはそう言って笑ってくれた。以前同じようなミスをしたときに
それから北川さんはうちの会社に来る際は受付で美奈子に声をかけ、「今日は間違えないでくださいね」などと言いながら楽しそうに笑っていた。
「ねえ、北川さんって、彼女とかいるのかな」
受付に誰もいない間、由理子に話しかける。
「いるんじゃない? 優しそうだし、頭も良さそうだし、お金もありそう。なんで? 気になるの?」
由理子は台帳を手際よく整理しながら答えた。
「今日、ごはんに誘われてて」
そう言うと、由理子の手が止まった。
「あらあらあら。そういうことなら早く言ってよ。そのまま行くの?」
「うん。着替えて」
「化粧直しはちゃんとしたほうがいいわよ。口紅は? パウダーは?」
まるでお母さんのように世話を焼いてくれる由理子に、美奈子はにっこり笑った。
「もちろん、用意してるわよ。ねえ、髪型ってこれでいいと思う?」
「ダメよ、そんなそっけない一つ結びじゃ」
「ええ? でも私髪結んだりするの得意じゃないし」
「美容室でやってもらえばいいじゃない。数千円なんだから」
「結婚式でもないのに?」
ぽかんとする美奈子を、由理子は甘いわね、と笑った。
「美奈子、北川さんは逃しちゃダメよ」
「そうなの?」
「そうよ。受付なんて同僚は女ばっかりなんだから、こんなこと
「そっかあ」
美奈子は
結局、その日の食事がきっかけで北川さんとお付き合いをすることになり、結婚するタイミングで仕事を辞めた。いわゆる寿退社である。ちなみに美奈子が辞めた半年後に由理子も営業部の人と結婚することになり、仕事を辞めていた。
美奈子は子どもにも恵まれ、充実した専業主婦生活を送っているつもりだった。当時は今のように共働きが当たり前ではなく、幼稚園や小学校による親への要請は共働きではとても不可能と思えるものだった。体操着入れは手作りでお願いしますとか、毎日国語の教科書の音読をチェックしてくださいとか、明日は着衣泳なので二リットルのペットボトルが必要だとか、急に言われても対応しないといけない。
ママ友を見ても、働いていたとしてもパートの人が多く、フルタイムの正社員として勤務を続けている人はほとんどいなかった。いたとしても女性で総合職になるような優秀な人たちで、美奈子とは別世界のことだった。
「家事なんて家政婦さんを呼べばなんとかなるわよ」
そんなことを言っていたママ友の名前を、美奈子はもう思い出せなかった。美奈子は言われたことを機嫌よくやることは向いていたが、仕事で大きなお金を動かすだとか、毎日残業してそれから飲みに行くだとか、そういう男の人向けと思える仕事はできないのだと思う。
美奈子は会社でミスが多かったし、自分が優秀になりたいと思ったこともなかった。家族が平和に暮らしていければ、みんなが笑っていてくれれば、それで何も困ることはなかった。
長男の拓実は公立小学校から私立の中高一貫校に進学した。
拓実が中学を卒業する頃にローンを組んで買ったのが、今住む一戸建てである。閑静な住宅街にあって治安も良く、拓実の通う学校にも近かった。夫はその頃単身赴任で九州に行くことになったが、ごはんを用意しなくて済むと思ったくらいで、家は自分が守るという強い意志が美奈子にはあった。
今、美奈子の仕事は平日の朝晩、休日は朝昼晩の食事を作ることと掃除と洗濯くらいなものである。拓実の世話もなくなったことだし、社会に出てみたいと感じるのは、そんなにおかしなことだろうか。
しかしネットの彼らに言わせれば、そんな世間知らずの人間を必要とする企業はないらしい。
*
無心で皿洗いをしていると、昔のことを思い出してしまう。最近変えたばかりの洗剤はシトラスの香りがきつく、
水につけておいたフライパンに、シトラスの泡をなすりつける。ソースの香りとシトラスの香りが混ざり合い、美奈子は思わず顔をしかめる。
「朝からそんな顔してどうしたの」
拓実に声をかけられ、いつの間にそこにいたのと聞き返す。階段を下りてくる音に気づかなかったらしい。起きたばかりのようでまだパジャマ姿だが、もう十二時半だ。拓実が水道水を汲むのを見守り、それから美奈子はため息をついた。
「さすがに遅いんじゃないの?」
小言を言ったが、拓実は気にする様子もない。
「ダイニングの大皿に焼きそばラップしてあるから、温めるかなんかして食べて」
水を飲む拓実にそう声をかける。
「朝から焼きそばかぁ」
「起きるのが遅いからでしょ」
「はいはい」
そういう態度に思わず笑ってしまい、すると拓実も笑みを浮かべた。
「はい、お皿」
洗ったばかりのお皿を
食卓ではスマホは禁止というルールを家族に課したため、美奈子もスマホを触るわけにはいかず、
「
拓実に声をかけると、
「ほいひい」
と口に入れたまま返事がくる。それは良かった、と一人呟いていると、先ほどのSNS投稿への返信が、頭の中でフラッシュバックした。
──主婦になって二十年って、要するに無職でしょ。
自分が頑張ってきたこの二十年はなんだったのか、美奈子は改めて考えてしまう。結婚して会社を辞めたことに後悔はない。いや、その頃はそれが当たり前で、会社からもそれが求められていたと思う。
──それって転職じゃなくて就職じゃないんですか。
主婦は職業ではないのだろうか。次の誕生日で五十になる美奈子にはもう、働く権利はないのだろうか。
「どうしたの? なんか元気ないけど」
拓実が
「そんなことないわよー。今日も元気なんだから」
そう言い返すが、SNSの投稿が頭から離れない。その様子を見ていたのか、夫が拓実にさっきの出来事を話して聞かせることになった。
「……ってわけ」
「母さん、働けるの?」
「おいおい」
夫が
「こんなにそそっかしいのに?」
と、わざわざ繫がったニンジンを取り出して見せてくる。
「それはラッキーなやつでしょ」
「ラッキーかな? この繫がったニンジン」
「もう」
拓実と話すと最近はいつもこうだ。心を開いてくれているのはいいが、どうしても小さなことでからかわれてしまう。からかう
「そういえばさ」
拓実は続けて言った。
「何?」
「皿洗いの洗剤、いつもと違う香りだよね」
「そうなんだ?」
夫は驚いたようにこちらを見たが、美奈子は何も言えずに黙っていた。夫は香りの違いになんて気づかなかったが、拓実は鋭い。
「で、本当に働けるわけ?」
「え?」
そう改まって聞かれると、なんだか無性に腹が立ってきた。
「私だって、働けるわよ!」
「何よ!」
「いやいや、ごめん。楽しみだなと思って」
「私だって、やるときはやってやるんだから!」
笑い声に包まれながら、美奈子はもう戻れないぞ、と自分に言い聞かせていた。外へ再び働きに出るときが、ついに美奈子にも来たのだ。
つづきは本編でお楽しみください!